羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

突発性難聴の話 4 二つの道

2006年08月31日 11時31分21秒 | Weblog
「二つの道を同時に歩くことはできない」
 これは、野口三千三先生の口癖だった。

 その通りで、これまでのブログに書いてきた治療を、受けなかったら今頃どのような状況になっているのかはわからない。
 果たしてここまで回復しているだろうか。
 いや、何もしなくても治っていたかもしれない。
 
 一応、翌年の1月には、よい方の耳の聞こえもよくなって、治癒していることになった。
 とはいえ、まだまだ耳鳴りや振動に悩まされていた。
 最近になって、耳のことをすっかり忘れているのだ。
 それでも未だにピアノを弾くときには、右耳に耳栓をしているような状況だ。
 一度壊れたものは完全には治らないということは確かだ。

 せっかくできる限りの治療をしたのだ。
 まったくなにもしなかったらここまでの回復は望めないと思いたいのが人情というもの。
 しかし、治療を止める判断は、自分で行った。
 耳鼻咽喉科の医師は、「突発性難聴」のことについては知識もあり、治療の経験もあった。しかし、「星状神経ブロック」を行うペインクリニックの治療に関しては、ほとんどしらない。「高気圧酸素療法」についても、詳しいことはほとんど知らない。
 医師は何をするのかというと、聴力検査の数値によって、判断するだけのことだった。
 「耳で聞く」という身体感覚的な問題は、患者がどこで折り合いをつけるのかということになる。とりわけ「耳鳴り現象」について言えば、個人的な感受性の問題なのだから。
 ピアノを弾くときに、耳栓をするなどという問題は、医師の領域を離れてしまう。
 
 不幸なことにこういった不快現象と付き合うことに折り合いがつかない方のなかには、鬱々とした毎日を送らざるを得ない方もおられるようだ。
 おかげさまで私の場合は、野口体操があった。
 帰っていく教室があってそこで待っていてくださった方々がおられた。
 自分の身体的不具合や気分の悪さや感覚的に折り合いをつけること等々は、具体的な体操という方法で少しずつ解決していったように思う。

 他にも書くことは沢山あるが、もうすこし違った表現媒体、たとえば単行本などで、折を見てまとめてみたいとおもっている。

 いずれにしても生きている間は、何が起こるかわからない。
 生きているからこそ、何事か、予想のつかないことが起こってくるのだ。
  
 今日、今、この時、この場にいる自分の感覚が何処まで信じられるのか。
 信じられることが少しでもあったら、幸せだという体験をさせてもらった。
 
 とにもかくにも病気の全体像を把握していたのは、私の「突発性難聴」に限って言わせていただけば、患者である私自身だったという、まれなる経験をした。
 この続きは、またの機会に。
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突発性難聴の話 3 気体の溶解度は……

2006年08月30日 08時35分16秒 | Weblog
 かめいどさんから「ヘンリーの法則」についてコメントいただいた。
 「気体の溶解度は圧力に比例する」。
 ありがとうございます。

 こういったことを実験で確かめ、「高気圧酸素療法」を行う器具まで作り出す行動の動機付けは、いったいどのような思考から生まれるのだろうか。
 
 実は、昨日のブログには書き忘れたことだが、このカプセルに入る前には必ず身体検査が行われる。
 マッチ・ライターその他、燃えやすいものを持っていなかどうかを調べるのである。
 隠し持つような不届きものはいないと思うが、うっかり見逃したら大変なことになる。爆発を起して命はない。火事になるのだ。紙一重とはよく言ったものだ。

 さて、昨晩、ブログを読んでくださった知人から電話をもらった。
「羽鳥さん、体操はどうしていたの」
「もちろん、十分すぎるほど、やってましたよ」
 詳しく彼女に報告をした。

 眠っているときと、体操をしているときは、耳の雑音が薄らいでくれるのだ。
 「突難」を患ってから、ずっと、意識が覚醒状態にあると、常に耳鳴りがしていた。僅かな振動にも耳が敏感に反応するというような身体的状況にあった。
 そんな状態のなかで、とりわけ気分がいい動きは「真の動き」だった。仰向けになって頭の上方に脚を持っていく、例の動きである。
 損傷を受けている「蝸牛殻」(内耳の一部。カタツムリの殻状に彎曲した器官。管内の聴覚細胞は鼓膜から音波の伝達を受けてこれを感受する。広辞苑)の形状と似ていると感覚的に思ってしまったこともあって、この動きをしているときは気持ちがいい。
 
 そしてもうひとつは「ヨガの逆立ち」だった。丸くなったところから腰を引き上げ、螺旋状に上がっていくイメージで行う野口体操の在り方が、なんともいい感じだった。
 思えば、両方ともに螺旋形・蝸牛形の暗示にかけていたような気がしてならない。

 治療の間に、脳のMRIの診断までうけて、異常がないということだったので、ステロイド・星状神経ブロック(ペインクリニックの治療)・高気圧酸素療法、そして野口体操を駆使した治療を行ったのだ。
 内耳の循環障害「感音難聴」は、補聴器では音を再生できないと最初に言われたから、真剣そのものだったかもしれない。
「できるところまで聴力を回復することが、耳鳴りの不快感を減らすたった一つの方法です」
 そう医師からは、治療に入る前の段階で言われていた。
 
 治療の効果が出始めるのにつれて、耳の中に組み込まれているスピーカーが、出すことのできる周波数が拡がっていたった感じ。聴力を回復した音域の音の再生が可能になるような状態だった。
 しかし、未だに1000ヘルツから上の音域は、完全には回復していないが、悪くなった耳に回復の兆しがはっきりしたときの状態について、「隅田川」を例に取るとこんな風に聞こえていた。

「春のうららの隅田川」という出だし、「す~ぅ↗ み~ぃ だー ↑がー ↓わー」のところは音域が広い。「み~ぃ だー」あたりから音程がズレはじめ、「が」のところでは上りきらない。ぶら下がった音程で歌っているように聞こえる。治療中でも、ステレオ耳で聴く場合は、ちゃんと聞こえたけれど、大きな音は辛かった。ピアニッシモで丁度いい音量だったが、未だにその傾向は続いている。
 
 当時、クラシックよりも邦楽を聴く方がは、耳に負担が少なかったことをはっきりと記憶している。
 感覚とは微妙な世界だ!

 ところで、最初の話に戻そうと思う。
「気体の溶解度は圧力に比例する」という法則を今回初めて知った。こんなことがからだのなかでおきることに神秘性を感じる。「神秘性」などという言葉を、普段まったく使わない自分なのだが。それほどすごい治療を受けたのだという驚き。
 今では、10代の若者が試合の間隙に、短時間で元気を取り戻すために「ベッカム・カプセル」と命名された簡便な方法で、疲れを取ったということが間違いない情報だとしたら、更なる驚きを禁じえない。

 確かに「高気圧酸素療法」の治療後、脳の快感はなんといったらいいのかなぁ~。
 意識はしっかり覚醒しているし、感覚はクリアだし。考えて見れば、身体的な疲れが取れるからかもしれない。
 いやいや、表現をもっと探ってみなければ、危険だ。
 今日は、ここまで。
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突発性難聴の話 2 蝉の声

2006年08月29日 16時30分59秒 | Weblog
 そこは、救急医療センターの片隅。
 服を脱いで、用意されている白衣に着替える。
 事前にDVDは渡してある。
「いいですね。血圧を測りましょう」
 血圧は始める前と終わったときの二回、測ることになっている。
「では、カブセルに入ってください」

 カプセルは天上と側面がガラス?のような透明なもので出来ている。
カプセルに入ると、理学療法士の男性は、マイクを使って話しかけてくれる。
「はい、では、気圧を上げていきます。耳抜きをしてくださいね」
 耳抜きが上手くいくと、徐々に気圧を上げる。それを何回か繰り返すのだ。

 エレベーターに乗って、急速に上昇するときに耳がツーンとする経験を思い出してほしい。そうした状態が気圧を上げる過程で何回かおきる。
そのたびに唾を呑み込んだり、大きくあくびをしたりして耳抜きをするのだ。
 はじめのうちはなれないので、気圧を上げるまでに時間がかかる。
 気圧が上がると後はそのままカプセルのなかで眠ってもいい。こちらが希望するジャンルの音楽を有線放送で聞かせてくれる。好きなDVDを渡しておくと、横に画面があってみることもできる。だいたい一時間ほどなので、渡してあった「海の上のピアニスト」を、何回か見ていた。

 治療は「高気圧酸素療法」と呼ばれている。
 この治療法は、300年の歴史があるとか。1662年イギリスの医師が治療目的で開発したらしい。現在では、一人用から数人が一緒に入れるかカプセルがある。私が入院した病院には一人用のカプセルが用意されていた。最初から最後まで理学療法士の方がそばにいてくださる。
 医療用は気圧2-3気圧まで上げていくもの。気圧が上がると、カプセル内に純酸素が送り込まれる。患者は主に、一酸化中毒・ガス中毒・脳梗塞・心筋梗塞・火傷・凍傷・皮膚移植・重症頭部外傷等々。ということで、救急医療センターに置かれていたのだった。

 実は、この高気圧酸素療法のカプセルは、「ベッカム・カプセル」のもとになったものだ。
 骨折が早く治るとか、疲労回復に効果がるとか言われている。今年、高校野球で優勝した「早実」ナインは、交替でカプセルに入ったということが書かれていた。
 なんでも問い合わせが殺到しているらしい。

 高気圧酸素療法もベッカム・カプセルも、同様の原理で治療効果が得られるらしい。
「気体は気圧の高さに比例する」というヘンリーの法則。(←今まで、知らなかった)
 通常の呼吸によって吸収される酸素(結合型酸素)だけでなく血漿などの体液にガス化して溶け込んだ酸素(溶解型酸素)を殖やすことによって、ずっと多くの酸素を取り込み抹消の細胞に供給することによって、前述の治療効果が得られるというもの。
 ベッカム・カプセルは医療用と異なって内部気圧は1・3倍ほどに抑えてあると書かれていた。酸素は純酸素を使用するのではなく、空気中の酸素を送り込むシステムになっているとか。
スポーツ界では1980年代から、その後、健康美容業界で使用されるようになったと聞いている。アンチエイジングのために、人は何でもするというこの凄さ!

 私は、突発性難聴治療に、この「高気圧酸素療法」を受けたというわけなのだ。
 カプセルから出て、2・3時間したときの「脳の快感」と「身体の軽さ」は、この世の天国だった。隅々まで血液が届くわけだから、気持ちがよくて不思議はない。
 ステロイドも効いてくるし、ペインクリニックで麻酔薬を喉に打つことで血流がよくなる。驚異的に聴力が回復していった。
 そして、最初に聞こえたのは「蝉の声」だった。
 実は、入院当初、難聴になった耳では受話器の話し声を聞くことが出来なかった。治療が進んで退院間際の聴力検査では、かなり回復した。しかし、まだまだ受話器の話し声を聞き取るには無理があった。これが回復するには、半年の時間が必要だった。そして3年過ぎた現在では、話を聞くことは出来るようになっている。
確かにドナルドダックの声から、人間の声になってはいるが、完全には回復していない。それでも驚異的な回復だとおもっている。

 言っておかなければならないことがある。
 高気圧酸素療法が受けるには条件がある。
 現実的な問題として、カプセルから出るときには、気圧を徐々に下げる時間が必要なので、途中で体調を崩すかもしれない危険のある人は受けられない。すぐに外に出すわけにはいかないからだ。また糖尿病その他、血液検査で問題になる数値が重なっている人は、高気圧のなかで純酸素を大量に吸うわけだから、病状を悪化させることにもなる。
 おかげさまで、私の場合、何の問題もなったので宇宙カプセルを思わせる中に入れてもらえた。

 ところで、特筆しておきたいことがある。
 このカプセルが置いてあるところは、救急医療センターだった。それも部屋のいちばん奥に設置してある。
 当然、重篤な患者さんのベッドの横を通って、カプセルのところまで行くわけだ。患者さんもさることながら、医療現場の方々が仕事に携わる姿を目にすることができた。
 この経験は、その後の価値観の大きな変化になったのではないだろうかとおもっている。ギリギリに生きる現場。それは患者も助ける側もギリギリの選択を迫られる場だった。
 そこで、私は、「命は思いのほか強靭であり、命は思ったより脆い」という二つが、ごくごく隣り合わせにあることを知った。

 さて、今年も蝉の声を聞いた。
 あの年から「蝉の声」は、私の人生のターニング・ポイントを象徴する音となった。
 鳴き声をじっと聞きながら、仕事の手を休めることがしばしばある。
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突発性難聴の話 1 一時間でも早い治療開始が……

2006年08月28日 16時30分48秒 | Weblog
 かれこれ3年前、7月26日土曜日のことだった。
 前日から耳の調子が悪くて、近くの耳鼻咽喉科を受診した。
 聴力検査を終えて、診察室に戻ると
「すぐに大学病院に行って、入院治療をした方がいいわ」
 女医先生の目が鋭く光っていた。
 白衣を身に纏い、口にはマスク、頭には三角頭巾。目だけが見えている。その光の奥に「緊急を要する」という文字が浮かんでいた。
「大学病院への紹介状を書いてあげます。午前の診療に、とにかく間に合わせなさい」

 その言葉を背に、そそくさと医院を出た。
 医院前の道路は、交通量が何時の時間帯も多い。
 はやる心抑えて、顔を上げると、信号機は赤だった。
 そこに滑り込むように一台のタクシーが走ってきた。
 とっさに「家には戻らない」と決めた。決めたという言葉を発するまでもない瞬間的な判断だった。
 
 迷わず手を挙げて、タクシーに乗り込んだ。
そして、そのまま病院へ。
 血液・尿検査からはじまって、聴力検査を受け、診察室に戻った。
「すぐ、入院されますね」
 診断結果は、右耳の突発性難聴だった。60デシベルから70デシベルの間の音が、低音から高音のすべてにわたって、聞こえないのだ。
 耳の中では強烈な耳鳴りがしている。ちょっとした振動も、耳にこたえる。
 
 診察室を出て入院手続きをとる前に、自宅と朝日カルチャーセンターに電話を入れた。
 土曜日の野口体操講座を急遽お休み、というわけでこのときは皆さんにご迷惑をかけてしまった。

 しかし、この突発性難聴は、一日・半日・一時間でも早い治療開始が回復に大きな影響を残すのだといわれた。それは全くその通りだったことを、今年になってはっきりと認識した。
 しかし、当初は、半信半疑のままでも、とにかく医者の言葉を信じるしかなかった。
 ところがその医者の言葉も
「原因はストレスですが、どうして起こるのかこれといった決め手はわかっていません」
「治るのでしょうか」
「やってみなければわかりません」の一言だった。
 その次に出た言葉は
「あらゆる治療を試みてみましょう」
 
 まさにその通り。
 その日から、2週間の入院治療がはじまった。実際には半年間、通院で治療に通う始まりの第一日目だった。
 
 治療方法をまず、書いておこう。
 まず安静にすること。治療のひとつは、ステロイドを30ミリからはじめて2週間でゼロに。二つ目は翌週の月曜日からはじめたペインクリニックで喉に注射を行う。これは首から耳にかけての血流をよくするための治療だ。翌々週からは、高気圧酸素療法。
 できることはすべてやっておく、という治療方針に乗ったわけだ。
 
 安静が第一という言葉にしたがって、入院中は、ラジオもテレビも時計も新聞もまったくそばに置かないことにした。この時くらい自分のからだと静かに向き合えたことは、ないと思っている。体操は、積極的にやってほしいといわれた。
「それなら任せて!」(嬉しかったのよ)

 入院したその晩のこと。
 ベッドの足から振動が伝わって揺れ続けていたのには驚いた。
 病院というところは、モーター音が一日中、絶えないということにからだが反応していた。この振動への過剰反応は、3日くらいではおさまらなかった。夜寝静またっときトイレに入ったとき、低音の振動が耳に響いてからだ全体が船酔いのような感じとらわれるのだった。
 
 入院の翌日、一旦帰宅を許されて、自宅に戻った。
 病院から新宿駅までバスで行ったのだが、町に降り立ったとたんに、耳を塞いだ。自動車の音・ビルから出る空調等々のモーター音・電車の走る音・人々の歩く音・話し声、溢れかえっている都会の騒音が、全身に纏わりつき、からだの内部に矢を打ち込まれたように刺さってくるのだ。
「こんなに、煩い所でよく人が生きていかれる」
 新宿から逃げるように自宅に戻った。
 
 必要なものをまとめた。
 パソコンを立ち上げて、メールを読み、返事を出そうとして驚いた。キーボードのカチャカチャ言う音が、これまた耳に刺さってくる。その瞬間、メールもしばらく止めてこうと意を決した。
 この状態が一生続くのだろうか。
 楽天的な私でも、いささか暗澹たる気持ちにさせられた。
「治療は血流をよくすることが大切です」
 女医先生の言葉が思い出された。

 お風呂に入り、髪を洗い、いきつけの床屋に行った。実は髪は床屋さんで切ってもらっている。そのときに顔のシェービングとマッサージを受けているのだった。このマッサージを受けるべく出かけて行ったのだった。首から顎・頬や鼻や目の周り、このマッサージを受けると血流がよくなってくる。

 三台の椅子の真ん中に座っていたのだが、このとき実に面白い経験をした。
 眼を閉じて周りの音を聞いていたのだが、左側から二組の人の話し声が聞こえてくる。
 この床屋さんは、夫婦と息子の三人で商売をしている。で、私のかかりは奥さんだ。
 左の方向から、男性四人の声が聞こえるではないか。
 眼を開けて確かめた。
 なんと、右側の二人の声が、左側の方から、手前と向こう側の順に聞こえてきていたのだ。私の耳は潰れてしまった右側の音を、左耳で聞き取っていた。ステレオのスピーカーが、ひとつ壊れた状態で聞いているのと似ていた。そして左側に、左右が生まれたのだ。

 このことは、道を歩くときの不自由さになっていた。たとえば近づいてくる車の音を逆に聞いてしまう。その危なさは、右側の聴力が回復してくるまで続いていた。
 いずれにしても、空間認識は視覚だけではなく、聴覚で行っていたことに、はじめて気付かされた。いかに家の中でも、町のなかでも、音を頼りに行動を取っていたことか。

 こうして私の突発性難聴、通称「突難(トツナン)」の治療がはじまった。
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最終回は序奏だった

2006年08月27日 20時17分10秒 | Weblog
 第一期「野口三千三を読む」最終回では、たくさんのボールを投げさせていただいた。
 一晩寝て起きたら、おぼろげながら自分が何をしたいのかが、見えてきた。
 指導者を養成するとか、組織を作るとかは、目的ではないということに気付いた。
 では、何をしたいのか。
 一言でまとめるのは難しい。
 無理やり絞り込んでみると、次のように言うことができるかもしれない。
 「環境と健康をキーワードにして、個々人の価値観の見直しのきっかけになる提案」をしていきたい、ということだと気づかされた。

 核になる主張は、野口三千三先生が1967年(昭和42年)に『現代の眼』に発表された「体操による人間変革」である。
 昭和40年、日本が大変革を遂げるターニングポイントの時代だった。
 新幹線が開業したのが、オリンピック開催の一ヶ月前のこと。1964年(昭和39年)のことである。
 その翌年、1965年(昭和40年)ごろから、日本の各地で、農林漁業から他の産業への転換がはじまった。
 この論文は、それから2年後に、発表されたことの意味は深い。
 歴史を紐解けば、旧満州で日本が行った実験が、そのまま戦後の復興と繁栄に生かされたといわれている。それが実現してくる時代なのだ。誰の眼にも明らかな象徴が新幹線だった。

 野口三千三先生が「体操による人間変革」で展開した主張は、1970年代にローマクラブが『成長の限界』という本で、21世紀になって人類が直面する数々の問題を予見するその流れと呼応するように、『原初生命体としての人間』へとつながっていく。
 三千三先生の主張するところが、ごく少数の人々を除いて、一般にはそうすんなりと受け入れられなくても、不思議はない時代の潮流だった。
 
 しかし、「体操による人間変革」は決して古い論文ではない。
 ここでおこなわれる主張は、「地球環境問題」と「心身の健康問題」が結びついた形で社会問題化した現代に、しっかりと通じるもの。
 おそらく野口体操から発信できることは、このなかにあると思っている。
 ただし、発信だけに終わらせてはいけないと昨日の講座を終えて感じている。

 野口体操―体操による人間変革―をミッションしていくと同時に、私とともに、研究・教育(互いに学びあう)をしてくださる方を、これから募っていきたい。

 昨日の最終回は「これからの野口体操」の序奏だった。
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「野口三千三を読む」を終えて

2006年08月26日 19時49分45秒 | Weblog
 11ヶ月続けた「野口三千三を読む」『原初生命体としての人間』第一期を終わった。9月は、第四週の土曜日が祭日なので、今日が最後だった。

 毎回、手探り状態で続けた11回だが、このような形で『原初生命体として人間』を読んでみると、はじめて気付く言葉に出会って、先生が伝えたかった意味の深さを新鮮な感覚で受け入れることができた。

 第二章「原初生命体の発想」まで読み進み、第一回目ではわかりにくかった「もの」の意味が、なぜ「ものなのか」というひとつの答えが、第二章の最後で得られたことは、収獲だった。

 で、今日は、「これまでの野口体操・これからの野口体操」をテーマに、カオス状態で私の正直な思いを次から次へと披露した。
 終わってから、皆さんから言葉が発せられて、本当は次のレッスンに行かないで、そのままディスカッションをすすめていたかったくらいだった。

 結果として得られた収穫は多い。
「これで終わってしまうの」
 何人もの方からそうした言葉が漏れて、ありがたかった。。
 いつか、また、いい在り方を創発していけることを願っている。

 ご参加くださったお一人おひとりに感謝です。

 
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ことば

2006年08月25日 13時55分39秒 | Weblog
 以前、野口三千三先生がNHKテレビに出演されたときのディレクターが、ラジオ放送を担当されたことがあった。
 ラジオ第一、朝の9時から12時半まで、一週間続ける番組だ。
 9時のニュースの後、10時まで、ひとりのゲストが一週間、担当して語る番組があった。

 あらゆる分野から、人選されていて、男女・年齢もまちまちだった。
 聞くうちに気付くことがあった。
 50代の語り手よりも、60代~70代と年齢が高くなるにしたがって、話が面白くなるのだ。ここに出演される方は、年齢や性別に関係なく、それぞれの分野で人の追随を許さない情熱を傾けているという共通項があった。仕事振りや生き方に、まったく甲乙はつけがたい方々ばかりだった。
 
 ラジオという声だけからしか情報が伝わらない媒体ゆえに、「話す」「語る」という能力は、50代ではまだまだ「洟垂れ小僧」の域から出られないというのが私がもった印象だった。
 
 あるとき、こうした感想をディレクター氏に伝えたことがあった。
 彼も、同感。
 一体なぜなのだろうか、と話し合ったが、これという決め手は得られなかった。
 ラジオで語れるという条件が、すでにハードルを高くしているとしても、60代も半ばから70代になるにしたがって、話の内容もさることながら、「話す力」が磨かれている人が多いということは事実なのだ。
 
 話すという行為も、身体表現そのものだ。テレビよりもラジオの方が、実は、話を聞くのによりすぐれた媒体かもしれない。それだけに話す人の力量が、はっきりと伝わってしまう怖さがある。
 
 それはすでに十数年前のこと。
 ディレクター氏が興味を持って招くゲストの話を、ラジオを通して聞いた経験は、今にして思うと貴重なことだったと感じている。記憶に残っている人を指折り数えてみると、二十人以上になるのではないだろうか。

 野口体操のレッスンや授業、そしてワークショップでは、話をする時間はかなりのパーセンテージを占めている。話すことも体操なのだとつくづく思う。

 「話芸」という言葉があるが、野口三千三先生のレッスンも、すばらしい話芸に支えられていた。体操を指導しながら話をする。話ながら体操を指導する、というアクロバットな授業形態を創り出したのは、野口三千三先生が最初とは思わないが、きっと数は少ないだろうと予想している。

『体操とは、今「もの」であるからだを、「こと」としてのからだに生まれ変えらせようとするいとなみである』と1972年に出版された『原初生命体としての人間』のなかで、三千三先生は定義しておられる。
「もの」から「こと」への導きは、「ことば」だったと改めてこのフレーズを読みなおしている。
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世界の超長期エネルギー需給展望…〔鳥の眼〕

2006年08月24日 20時13分37秒 | Weblog
 毎月送られてくる『原子力文化』の7月号で、「エネルギー 鳥の眼、虫の目」は最終回となる。24回の連載だった。

 ここでも持続可能(サステナブル)という言葉が使われている。
「世界の持続可能な発展に向けたエネルギー政策を」と題して、内山洋司筑波大学大学院システム情報工学研究科教授が書かれてきた。
 今回の連載記事から、数値だけを取り出してみよう。

 産業革命をきっかけに増え続けたエネルギー消費量は、20世紀に入ってから急増した。
◎特に、第二次世界大戦後のエネルギー消費量は、半世紀の間に五倍も増加。
◎先進国の人口(旧ソ連圏を含めて)は、世界人口65億人の四分の一で、エネルギー消費は全体の70%に達している。
◎発展途上国の一人当たりのエネルギー消費量は、先進国の八分の一。
◎世界の飢餓人口は、国連の調査で七億九千万人。
◎バイオマス(馬糞・牛糞・間伐材)をエネルギー源として生活している人が十億人。
◎電気を仕えない人が十八億人。

◎2030年のエネルギー需要は現在の65%増の予測(国際エネルギー機関)
 大半はアジア地域を中心とする発展途上国における増加が見込まれている。

地球上で採掘可能な化石燃料:
◎石油換算で石油系資源が五・九兆バレル。天然ガス系が六・三兆バレル。石炭などの固形資源が二四・五兆バレル。全体で三六・七バレルになると推定されている。
◎しかし、石油は2040年ごろピークに達し、その後は減産せざるを得ない。
◎天然ガスは2070年ごろ生産ピークに達する。
◎今世紀末には、石油や天然ガスに依存できなくなる。
◎その後石炭が使われるようになるが、石炭も2150年ごろにピークに達する。
来世紀の中葉には、化石燃料供給は限界に達すると試算されている。

 古生代・中生代に一億年かけて蓄えられた化石燃料は、四百~五百年程度で使い果たされることになる、と記されている。
 
          *********

「私が生きているうちは大丈夫」
 などと考えないで、「世界の超長期エネルギー需給展望…〔鳥の眼〕」が示す数値を、読んでみようではありませんか。
 しかし、現実問題としては、バイオマスな暮らし・循環型低エネルギー社会を築いていた江戸時代にはもう戻れない。
 以前このブログにも書いた日本人が25人の奴隷、アメリカ人が55人の奴隷にかしずかれて暮らしていることを忘れないようにしたいものです。

 そこで野口三千三先生の『原初生命体としての人間』の「はしがき」を、読み直してみたいですね。

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あらためて「サステナブル」

2006年08月23日 21時06分50秒 | Weblog
 野口体操が社会的に注目を集めた時期は、私が知る限りで3回ほどあった。
 一回目は、『原初生命体としての人間』が世に出た1970年代のことだった。
 当時は、戦後一回目の「身体論」が静かなブームとなっていた。
 身体を解き放つことで、人間の真実を見つめてみようという、哲学的な視点にリンクして「野口体操」が注目されたと認識している。

 次は、バブルがはじけて、社会全体がスローダウンしたときに、野口体操の「力を抜く感覚」が受け入れられ、それがそのまま地球温暖化問題がクローズアップされ「京都議定書」が浮上したころから再び野口体操へ関心が向けられるようになってくるのを感じていた。

 そして現在、「サステナブル」つまり「持続可能」という言葉が、人々の暮らしにおいてもキーワードとなって、三度、注目されている観がある。
 
 そうした実感を得たのは、実は、最近のことだ。
「羽鳥さんが思っている以上に、世の中に野口体操は浸透しているし、また、求めている人がいるんですよ」
 ジャーナリスティックな仕事をされている30代の男性に指摘された。

 確かに『原初生命体感覚』に象徴される野口体操の考え方は、自然を受けいれつつ「サステナブルな身体」の可能性を追求する要素が含まれていると思っている。それは野口三千三先生ご自身が「そのままのからだでは、体操の教師を続けることは難しい」といわれるほどの身体的ダメージをいかにして解決していくのかという問題意識をもたれたことが、「野口体操」の出発点だったことに追うところが大きい。悪いところをもったまま、体操の教師を続ける身体の価値観とその動き方の探求によって野口体操は誕生したのだから。
 
 どんなに社会的環境が変化しようと、教育の価値観が変わろうと、生きものとしての一貫性を保てる身体の可能性を持つことが、野口体操でいうところの「サステナブルな身体」だと今のところ私は解釈している。

 あらゆるところで「持続可能・サステナブル」という言葉を目にし、耳にする機会が増えてきた。
 今日もある国立大学の修士課程に在籍する学生さんにインタビューを受けた。
 修士論文のお手伝いなのだが、彼の論文テーマのなかにも「サステナブル」が、通奏低音として鳴っていた。
 2時間ほど、時間をともにして、大学に吹き込む風向きが変化してきたことを感じた。まだまだマイノリティーかもしれないが、社会にも吹く風があることに、気付かせてもらえた。
 
 そこで思い出すのは、野口三千三先生が亡くなる一年前に書かれた文章である。
「からだの実感に根ざす判断は、人間がつくったおしきせの価値観・道徳律ではなく、人間をつくった大自然の原理、すなわち「自然律」を感じとる道に通じます」岩波書店刊 岩波編集部編『教育をどうする』(1997年)。
 この点をおさえておかないと、「サステナブルな身体」が、迷妄の打破どころか、とんでもない道に迷い込んでしまう危うさを改めて感じたのは、今日の午後のことだった。
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龍村 修氏の「ナウリ呼吸法」

2006年08月22日 14時44分31秒 | Weblog
 7月から『原初生命体としての人間』第三章の呼吸について読みはじめ、今日でようやく3ページ「生き方と息方」を読み終えた。3ページ+何行かだが、丁寧に読み込むと、これほど時間がかかるということを知った。

 来週、8月の最後ということで、「呼吸」をまとめてみたいとおもっている。
 このくらい時間をかけられると、本を読みながらそして動きながら、「言葉」と「動き」をフィードバックさせながらの作業によって、野口体操の基本的な考え方が、伝えられるような手ごたえがある。
 その意味からしても『原初生命体としての人間』をはじめ、著書があるということは、意味深いものだと改めて思っている。

 1月期から始まった火曜日のクラスは、私自身のテキストとして拙著『野口体操 ことばに貞く 野口三千三語録』春秋社を使っていたこともあって、読書形式のレッスンには、入りやすかったようだ。

 今日は、ヨガの呼吸法について、貴重な資料として『体の中からキレイになる 龍村修のヨガ教室』日経BPムック 日経ヘルス編 のDVDのなから「特別編ヨガの呼吸法」をご覧にいれた。

 殊に、龍村修さんの「ナウリ呼吸法」をご覧にいれたかった。
 この呼吸法は、内臓をマッサージするといわれているが、ムック本には龍村さんのレントゲン写真まで載っている。
 腹直筋・腹斜筋を別々に動かす。腹直筋を盛り上げて、腹斜筋をへこませたり、波うつようにお腹を動かす呼吸法なのだが、これは言葉でいくら説明しても伝わりにくいことに違いない。
 このようにDVDでみせていただける。素直な感想として、ヨガの呼吸法を、ここまで極められているのかと驚嘆の一語に尽きる。

 野口三千三先生は『原初生命体としての人間』のなかで、「古代インドに生まれたヨガにおける呼吸法や日本の各種伝統芸能や武道などにおける複雑微妙は呼吸の捉え方」の重要性をかたり「東洋における呼吸についての智恵」の貴重さを語っておられるところを今日のテーマとした。

 その関連で、龍村修さんの「ナウリ呼吸法」をみていただくことにした。
 皆さんの驚きの反応は、素直に返ってきた。
 半端なことでは到達できない境地を、身体を通してはっきりと見せていただける。「言葉」を超えた世界だ。

 実は、昭和35・6年に、ヨガの教室通われた三千三先生だが、戦後すぐ門を叩いた江口モダンダンスといい、沖ヨガといい、ご自分の感覚を信じて、自分にとって大切なことをかぎ分ける直感力はすごいと思う。

『原初生命体としての人間』を読むに当たって、さまざまな資料を読んだり研究することは、野口体操理解の奥行きを深くしてくれるものだといつも思っている。

「教えることは、最高の学び」ということを、今日も教えられた一日だった。
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猫の子育て・人の犬育て

2006年08月21日 20時08分08秒 | Weblog
 犬の散歩コースは、飼い主の都合で何となくきまっているようだ。
 我が家の前の道も、お決まりコースらしい飼い主と犬が、ほとんど同じ時間に通りかかる。
 最近、こんなことが続けて二件、起こった。

 以前、このブログにも書いた母猫だが、このごろ太陽が昇ってからも二匹の子猫を連れて、道路の近くまでやってくるようになった。
 この母猫、猫かわいがりで、とてもよく子猫の面倒をみている。
 ほんのちょっと近寄っても、歯を向いて威嚇してくる。というのは、誰かが餌をやるようになったらしい。子猫は、無防備に人に近づくようになる。そのことを嫌って、母猫は、一段と警戒心を募らせているようだ。
 
 ある朝のこと。
「ギャッ」という鳴き声のあと、犬が「キャンキャンキャンキャン」と、けたたましく静けさを破った。
 あまりにすごい鳴き声だったので、植木に水遣りをやめて、道路に出てみた。
 するとおじさんが犬を抱き上げて、猫に足蹴りを食らわした瞬間だった。
 バツわるそうに
「この猫、何処の猫?」
「野良猫ですよ。今、子育て中でナーバスなの……」
「目を引っかかれると、失明しちゃうし、たいへんだから」
 そういい残して、犬を抱き上げたまま、つばをかけて、逃げるように去っていった。

 そんなことがあってから、数日した朝のこと。
 再び、猫と犬の鉢合わせが起こった。
 母猫は二度とも車の下に身を隠していたらしい。
 そこに犬が知らずに近寄ってしまうのだ。
 今度は犬が二匹いる。
 道路の真ん中に乳母車を置いて、40代の女性が引っかかれた犬の様子をみていた。
 もう一匹の犬は、「ワンワン」と全身のエネルギーを集めて吠え立てている。
 母猫も全身の力を振り絞って、毛を逆立て、背中を丸く押し上げて、尻尾をこれでもか! と言わんばかりに高く伸ばして犬を睨みつけている。

「もう、大丈夫でしょ。目を引っかかれたわけじゃないから、落ち着きなさい。出会い頭だったから、猫ちゃんも驚いたのよ」
 しゃがみこんで、穏やかな口調で、引っかかれた犬の目を見ながらなだめている。
 母猫は、そのままの姿で、威嚇し続けている。
 もう一匹の犬は、いつまでも吠えるのをやめない。
 するとその女性は、もう一匹の犬の頭をなでながら
「お兄ちゃんは、怪我はないから、大丈夫だから、もう、静かにしなさい」

 諭す声は威厳があった。しかし、優しかった。

 思わず乳母車のそばによって、女性に挨拶をした。
 乳母車の引き手には、ビーチパラソルにしては小さいが、日傘にしては大きい傘が括りつけられている。
 日陰になっているところに籠が見えた。覗き込むと、一匹の子犬がつぶらな瞳でこちらを見ていた。
「まぁ、もう一匹……、可愛い仔ちゃんがいたのね」
「ご心配かけました」

 私の表情を読み取った女性がニッコリと微笑んでこちらを見て、軽く会釈をし終わると、乳母車を押しながら、二匹の犬を引いて太陽の光に向かって歩いていった。
 弟犬の方は、虫が治まらないらしい。
 母猫を振り返りながら、「ワン・ワワン」と吠えて去っていく。

 母猫は、しばらく威嚇の表情を全身に表したまま銅像のように立ちすくんでいる。
 5メートルほど離れると、ようやく、からだから力を抜いて、子猫が逃げていった方へと走り去った。
 
 猫の後姿を見送りながら、前回のおじさんの足蹴りのシーンを再び思い出した。
「彼女にとって、子どもと同じ。家族なのね」
 その女性に子どもがいたとしたら、どんな風に育っているのか、無性に会ってみたくなった。

 人の犬育てから、透けて見える品性というものがあるなぁ~、と。
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からだとは不思議なものよ!

2006年08月20日 09時00分27秒 | Weblog
 休み明けの一回目のレッスンが、終わった。
 昨日、朝日カルチャーセンター土曜日のクラスである。
 佐治嘉隆さんが、一ヶ月ぶりに復帰されて、そろそろメンバーが揃ってきた様子。
 
 昨年の夏は、新宿駅から住友ビルに抜ける地下道の入り口周辺が、耐えられないほどの悪臭が漂っていた。ほとんど人が息を止めて足早に通り抜けるような有様だった。今年は、何処が改善されたのか、匂いがなくなっている。
 その地下道を抜けると、残暑が厳しかった。丁度2時30分過ぎのこと。

 教室内は空調がきいていて、動きにはいい環境である。
 やはり、広い部屋で、いつものメンバーとともに動くということは、ひとりで体操をするのとは違うもののようだ、という実感をあらたにする。
 これもからだの不思議さだ。
 ピアノのレッスンは個人教授しかありえないのだが、こと体操に関しては、個人教授というのは難しいところがある。何十人かが集まって、体操する事の方が自然なような気がしている。

 最近では、「何月何日までに、ポッコリお腹を引っ込ませたい」というような要望で、メニューを組んで、個人とトレーニングを行うジム等々も人気だそうだ。
「ここの筋肉をつけたい」
「腰痛予防に、このあたりの筋力アップをはかりたい」
 そういった注文にきめ細かに対応することも、それはそれだと思っている。
 現代人の意識ですべてを解決するひとつの在り方だろう。サプリメントの体操版というところだろうか。

 野口体操は、体操を名乗ってはいるものの、全く異なる価値観によっていることから、「野口体操」という名前を変えたほうがいいという、リポートに記してくる学生もいる。で、そのような意見を言う学生は、「野口体操は私にとって非常に合っていると思います」と肯定的なのだ。
 
 いろいろな在り方の身体とのかかわりがあっていいわけだが、東京はカオス状態かもしれない。
 体操のことではないが、ウィーンで音楽活動を行っている同級生がこんなことを言っている。
「東京にいると、あまりにもいろいろな情報が入ってきて迷ってしまうのよね。ウィーンくらいの町が丁度いいの」
 あらゆるジャンルの音楽が引きこす洪水状態に流されてしまうのだという。単純に選択肢が多いほうがいいともいえないのかも?

 そういえば去年のことだが、特別講座をおこなった桐朋学園大学演劇科の或る教授がいみじくも言っておられたことを思い出す。
「私たちが演劇を学んでいた時代とは全く状況が変わって、今の学生はあらゆる身体訓練を大学以外のスクールやセンターでやっているんですよね。昔よりはるかに動きの自由度は増したんですが、それが演技力・表現力につながるまでには問題がありますね」

 ごもっとも。
 いろいろなことを齧って、何ひとつとして身につかないことだってある。
 ひとつのことでもなかなか上手くいかない不器用な俳優志望の人間が、ものすごくいい役者になったことを、野口三千三先生からよく伺っていた。
 からだよく動く、ということといい役者になるということは、別のことなのかもしれない。
 
 じっくり、たっぷり、時間をかけて何かに取り組む時代ではなくなったのかもしれない。
 しかしである。

 上手い下手はともかく「楽に動ける」「気持ちがいいからだ」という方向で、こまめに動くことが少しでもできるようになったら、体操をした甲斐もあるというもの。
 
 で、久しぶりのレッスンで皆さんに質問を投げかけた。
「このお休みにも、体操を何かなさってました」
 たった一人、女性が手を挙げただけだった。

 しかし、動き始めてみると、案外いい動きがあちこちに見られた。
 2週間の休みが限度というところだろうか。 
 かく言う私も、大きく動く体操はほとんどやっていなかった。にもかかわらず動いてみると「いい感じ」だった。休息は案外大事で、休むことによって、内側で熟成することもある。しかし、まったく動かないわけではなかった。「座位によるほぐし」は、やらないと気持ちが悪いので、続けていたのだけれど、それにしてもである。

 プロの選手やバレリーナやダンサーや演奏家や……、そういった人々はその範疇には入らないかもしれない。ただし、一昔前とは違って、闇雲な練習をしても効果はないということは、常識になり始め、休息の大切さが言われている。

 からだとは不思議なものよ!
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新宿という町

2006年08月19日 12時50分43秒 | Weblog
 人の記憶というのは、いったい何時ごろから残るのだろうか。
 考えてみると、幼いころの記憶だと思っていることも、写真などの見ながら親や親類縁者が話してくれたことが、自分の記憶のように刷り込まれたことかもしれない。
 
 ところで私の町の記憶のなかでいちばん古い記憶を辿ってみると、新宿駅南口の橋の上から汽車を見たことかもしれない。
 書名を失念してしまったが、三島由紀夫が父親に連れて行かれた新宿の操車場。父親に抱かれて行き交う列車をみながら、喜ぶでもなし、顔色ひとつ変えない子どもだったと書かれている場所に近いところだ。

 不思議なことだが、父親というものは、動く乗り物を子どもに見せたいらしい。 私が最初に見た風景も、甲府行きの中央本線だ。当時の家は、南口を初台方向に降りて、甲州街道をひとつ内側に入ったところにあったので、駅から2分くらいの距離だった。

 夕暮れ、父が肩車をして、南口の橋を新宿御苑方向に登りきったところで、汽車を見せてくれた。その手前、改札口近くに、鉄道弘済会の売店があった。そこでいい匂いのするマショマロとハーシーのキッスチョコレートを買ってもらうことの方が楽しみだった。
 
 落とさないように握り締めて、汽車を見る。
 橋の上までモクモクと煙が立ち昇る。全身が煙に包まれる瞬間、目を閉じてしまう。なんともいえない匂い。
 汽車は、歌にあるように「シュシュ・ポッポッ」と音を響かせながら、発車するのである。そのスピードがだんだんに上がっていくと、いつの間にか遠くに走り去る。中央線は、左カーブになっていて、見えなくなるのも早かった。
 昭和27・8年ごろ。
 
 そばには御大典記念の大きな石碑が建っていたが、高島屋が南口に出てきた頃、前後して取り壊されてしまった。
 橋の上からは、東口方向が望められる。
 繁華街である。
 映画館やデパート、当時はダンスホールもあったそうだが、はっきりとした記憶はない。
 なんでも新宿・東口界隈から歌舞伎町周辺は、現代日本の悪風景として選ばれているが、すでにネオン街だった。
「絶対に歌舞伎町には行ってはいけません」
 そう言われ続けた。
 これらの繁華街を賑わせていたのは、山梨から新宿へ、新宿から山梨へといろいろな人や物資を運ぶ中央本線である。
 戦後の闇物資を商った成金といわれる大人たちが、汽車や電車やバスやタクシーに乗り降りする顔を覚えている。連れと話をしたり、笑ったりすると金歯がピカーッと光って、生意気な子どもだった私は、金歯がみえると軽蔑の眼を向けていた。はっきりとした理由はわからないが。

 ときに偽者もいたらしいが傷痍軍人さんが街角に立ち、戦争孤児はガード下で物乞いをし、靴磨きの老人や子どもの姿も記憶にある。
 
 そうした町から祐天寺まで、山手線と東横線を乗り継いで出かけていった。その行きかえりにさまざまな大人たちを観察していたようだ。
 日舞のお稽古は、外出の楽しさでもあった。
 楽しさを生み出したもうひとつの理由は、新宿の街が持つ猥雑なリアル空間から、戦災で焼け残った静かな町・祐天寺にあったお師匠さんの非日常空間に身を置くことから受ける段差を、子どもなりに感じとることだった。

「焼け出される」ということと「焼け残った」という言葉の実感が、たかだか30分もかからないうちに、はっきりと実感できるわけだから。

 思えば新宿駅は、当時から乗降客の多い駅だった。
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戦後という名の太陽の下に花開く文化

2006年08月18日 09時53分05秒 | Weblog
 昭和30年代に、日本舞踊を習うことがひとつのブームになっていたというコメントいただいた。
 戦後、7年間のアメリカによる占領がおわり、ようやく日本も落ち着き始めたころだった。
 当時は、戦争中に10代後半から20代だった人々は、おしゃれもできず、国防服とモンペに身を包み過した反動から、一気にお日様に向かって突進したような日本だった。
 まだまだ停電が頻繁におこった日本だった。
 しかし、美しい衣装をまとい、日本髪の鬘をつけ、日本伝統の舞台化粧を施し、地方さんの三味線や笛、鳴り物、長唄や清元にのって、舞台で踊ることによって一気に戦争中の「贅沢は敵だ」のスローガンから解放された人々がいた。
 そんななか、すでに結婚している女性は、子どもに夢を託した。そのひとりに私の母もいた。

 昭和27年、三歳だった私は藤陰流の日本舞踊を習い始めた。そして昭和31年(1956)11月3日、「藤蔭紘枝舞踊会」に出演させていただいた。
 藤陰流というのは、藤蔭静枝(初代)が、日本舞踊の創作舞踊を主に掲げて、活動をしていたといわれている。洋舞の江口隆哉、日本舞踊の藤蔭静枝。二人が日本の近代舞踊の双璧だった。
 この11月3日東横ホールで催された「藤蔭紘枝舞踊会」は、芸術祭参加作品を、上演もした。子どもながらも、「伝授山姥」という出し物で、藤蔭静枝家元が山姥に扮し、従者として紘枝・織枝先生が従って踊られた舞台の記憶が鮮明に残っている。当時としては立派な緞帳もあったように思う。

 そのとき7歳の私は「藤娘」を踊ったのだけれど、これが前座というか、会を開くため事情によって出してもらえたことなど知る由もない。前座のトリは、「道成寺」だった。踊り手は村上元三のお嬢さんらしいという噂でもちきりだった。
 当時の日本舞踊のお師匠さんが、そう簡単に舞踊の会を開けるはずもない。そういった事情を理解したのは、大人になってからのことだった。当時の私は無邪気そのもの。大舞台で踊る気持ちよさを存分に楽しませてもらった。
 今となっては複雑な感に打たれる思い出である。

 ところで、昭和30年代は、日本舞踊だけでなく、古今東西、あらゆる文化がいっせいに花開いた時代だった。
 たとえば、玉利齊氏が「ボディー・ビル協会」を誕生させて野口三千三先生がそこにかかわり、三島由紀夫がボディー・ビルをはじめたのも昭和30年のこと。
 女性向け雑誌は、ファッションや美容をとりあげ、女性たちの美しさへの欲求も勢いを増した時代である。
 茶道・華道はもちろんのこと、20年代からすでに始まっていた「文化服装学院に通って洋裁をならう」ことは、都会にすむ若い女性のステータスになっていった。既製服が簡単に手に入る時代ではない。地方からも上京して通う女性もいたくらいである。

 そこで思い出されるのは、五木寛之氏が作品のなかで、終戦になってスカートとそこから伸びる脚を見たドキドキ感を綴っていらしたことだ。

 若い女性の笑顔と服装の変化は、太陽の下に花が開いたかのような明るさは、敗戦後の復興エネルギー源であったに違いない。
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祐天寺

2006年08月17日 14時58分04秒 | Weblog
 祐天寺の駅で、知人と待ち合わせをした。
 この駅におりたつのは、何十年ぶりだろう。
 友人に連れられて、大庭の音楽事務所を訪ねる約束になっていた。
「待った。ごめんなさい」
友人は、待ち合わせの時間をすこし遅れてやってきた。
「懐かしいわ。日本舞踊のお稽古に通っていたから」
「そういえば、藤蔭紘枝先生が亡くなって、ご主人は後追い自殺をなさったのね」
「エッ」
 野口体操を本格的に学ぼうと心に決めて、しばらく身辺整理を行っていた。 
 その間、新聞もテレビもラジオもあまり見ることもなく過していた。

「訪ねてみましょうか。道順おぼえているの」
 知人のすすめで私は記憶を辿りながら、歩きはじめた。
「ご主人は、東京音楽学校でチェロを学ばれたかたなの」
 日本のアマチュア合唱団を育ての親と言われている。私財をなげうったらしい。
 紘枝先生は、藤蔭静枝家元のいちばん弟子の方だった。
 お宅の一階は日本舞踊の稽古場で三味線や長唄の声が響き、二階からはチェロの音が聞こえていた。
「オキフカシさんとおっしゃる方だったの」
「大学の先生もなさってらしたでしょ」

 そんな会話を交わしていると、懐かしいお宅の前に到着した。
 子どもさんがなかったので、住む人を失った家は、もうすでに取り壊されているのかと思った。
 誰か人がいる気配を感じた。
 ひとりではない心強さから、訪ねてみることにした。
 年配の女性が玄関を開けて招きいれてくださった。
 稽古場は昔のままだった。子どもの私には広かったが、思ったより狭い空間だった。
 沢山の舞台写真が飾られていた。
「沖がなくなる前に姉の写真を飾って……」
 京都から家をたたみにいらしたと言う紘枝先生の妹さんが話し始めた。
 子宮ガンで妻を亡くした夫は、寂しさを堪えきれず、二階の自室で首をつって自死されたという。大学関係のことや、仕事の整理をきれいにつけていたそうだ。
「操ちゃんっておっしゃったわね。覚えていますよ。藤娘を東横ホールで踊られたとき、ここでのお稽古で三味線を弾いていましたから」
「東横ホールでは、地方さんが大勢いらして、とても気持ちよく踊りました」
 しばし、懐かしい話を交わした。
「沖のこと、責められませんわ。ほんとうに姉を思っておりましたから。お家元が名を告がせるに当たって、姉のことをずいぶん心配なさったの。結局、姉よりも年の若いお弟子さんが、藤蔭静枝を戴いたわけで。姉としては自分の跡継ぎもなく、志半ばで病に倒れましたから」
 おさらい会や大きな舞台があるときには、家元の総見があって、藤蔭静枝さんの築地のお宅や、どこかの検番の二階が大広間になっていて、そこで家元に出し物の踊りをみていただいた。

 稽古場の舞台には、焼香台が設けられていた。両サイドに昭和天皇からのお花が飾られている。沖さんは宮内庁の音楽学部にも関係されておられたということは、以前から伺っていた。外国からの賓客を招いての行われるレセプションの選曲等々をなさっておられた。

「これからこの家をたたんで、私は京都の自宅に戻るところでした。いいときにいらっしゃいました」
 間に合ったのだった。
 紘枝先生が亡くなったことも知らず、ご主人の沖先生が後追い自殺をなさったことも知らず、偶然、祐天寺にくる機会に恵まれて、お線香を手向けることができたのだった。

 もし、私が、紘枝先生に乞われるまま、養女になって紘枝派を継いでいたら、今頃どんな暮らしをしていたのだろう。
 7歳のとき、東横ホールで「藤娘」を最後に、ピアノを習ったことが、今、野口体操をミッションする道につながったことを思うと、人生は不思議だと思う。

 その後、何年かして、祐天寺に出かけることがあった。
 再びお宅を訪ねてみた。懐かしいお宅は跡形もなかった。新しく建てられた建売住宅と思しき数件の家から、子どもの声が聞こえてきた。
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