羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

落語『二番煎じ』

2014年12月29日 12時20分28秒 | Weblog
 パソコン周りの整理に、古今亭しん朝の「二番煎じ」を聴きながら作業をしていた。
 つい面白くて、手が止まる。
 美味しそうに風邪の煎じ薬、実は酒(ささ)を飲む仕草に見とれてしまう。

 いやいや、私が住むご町内でも25日のクリスマスの日から30日まで、「火の番」の見回りを行っている。
 連日ではないが参加して、拍子木に合わせて「火の用心、火の用心」と寒空の下、声を張り上げているうちにぽかぽかとからだが温かくなってくる。
 20数名が集まって、こちらはA班とB班に分かれて回りながら、たわいのない会話も楽しんでいる。

 初日は神田明神下の天野屋さんの「甘酒」といっしょに、町会長さんが今年の正月からほぼ一年の間細かく切って乾かしている鏡餅を揚げた「揚げ餅」が振る舞われる。これが美味なのである。

 そんな日々の体験を思い出しながらの落語は、とっても楽しい。
 謡風、長唄風?都々逸風かな、しゃれた節回しではなく、ただただ「火の用心」と言うだけだが、これを味わい深く声に挙げたいものよ!
 お祭り好きの旦那が、紫檀の拍子木を自慢げに鳴らす。これが冬の夜空をスカッと割る様なカラリとした音色で、出し声にも弾みがつく。

 いやはやよいものを聴かせてもらった。
 FBで新井英夫さんがシェア『二番煎じ』。際物をありがとう!
 それにしても古今亭しん朝の声は気持ちがいい。江戸っ子の発音に、江戸っ子の歯切れ。
 酔っぱらって高座で寝てしまったお父さんもよかったが、もし、今、しん朝が生きていたらどんなに洒脱な落語を聴かせてもらえるのだろう。
 こればかりは無理というもの。

 さぁ、片付けの続きにもどらないと、今日中に終わらない、終わらない。
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2014年最後のレッスンで……

2014年12月28日 09時53分14秒 | Weblog
 昨日、12月27日(土)朝日カルチャーセンター、年内最後のレッスンが終わりました。
 野口三千三生誕百年のメモリアルも、一昨年8月から始めて、一応の区切りがつきました。
 対談や講演会を行うにあたって、野口三千三の足跡を辿り、体操の教師として真っ当な道を歩かれたことがはっきりと見えてきました。
 ひとつに体育教育の戦前と戦後を通して欧米諸国から取り入れたスポーツが、日本独特のあり方をしてきたなかで、野口三千三は独自の道を模索してきたことがはっきりとしました。
 それは世界に類がない身体文化として野口体操は歩み続け、晩年にはひとつのことばに集約されていきます。
「自然に貞く からだに貞く 自然直伝
 この言葉は、1996年1月7日、岩波書店刊「同時代ライブラリー」『原初生命体としての人間』を再刊するにあたって付録として掲載するための「インタビュー」をおこなった時、野口の口から溢れ出た言葉でした。
 集められた鉱物・化石・隕石等々の石に囲まれた西巣鴨のご自宅で、その部屋からは多種多様な植物がイキイキと育っている庭がよく見えました。
 地球生命体としての人間の「からだ」を真っ正面に据えた体操を探り続けた83年の生涯でした。

 その思いを受けて、これからの野口体操を続けていけることを願ってやみません。
 年末にあたって昨日のレッスンではお伝えできなかった言葉をここに記しておきたいと思います。
 
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 野口三千三は地球環境空間の連続性と、生きものの進化という時間の連続性なかで、感覚と運動を一体化する独自の理論を展開し、独特のアプローチで動きの方法を探りました。
 殊に、重さ(重力)を中心におく動きの追求は、力を抜くことの重要性とその実践を具体化するものでありました。「丁度良く力が抜けたときが丁度良く力が入るとき」。
 力の抜き方にも、力の入れ方にも、それぞれに大きな幅があり、タイミングとリズム感が大切な要素となることを、野口体操を体験することによって実感として捉え直しが可能です。
 柔軟性を求める動きやマッサージにおいても、からだの重さが生きる“力が抜けた状態”をいかに自分のからだの内側につくりだせるかが、重要な鍵になります。
 柔らかな身体に柔らかな心が宿る可能性を信じて、滑らかな動きを求め続ける体操は、少子高齢化の時代に、さまざまな場で生かされて欲しいものと思っています。
 からだで感じ、からだでわかることが、これほど問われる時代は、かつてなかったかもしれません。

『からだの実感に根ざす判断は、人間がつくったおしきせの価値観・道徳律ではなく、人間をつくった大自然の原理、即ち「自然律」を感じ取る道に通じます。自然律に即した体育は、外側からの命令に服従するのではなく、それぞれが内側からの「促し」によって自立できる、真に創造性豊かな人間を育てる、と私は信じ実践し続けています。』(野口三千三)『教育をどうする』「からだの実感の復権」1997 岩波書店編集部編 岩波書店刊より
 
 これからも野口のこうした思いを受け継いで、「からだとの対話」をもとに、授業を、レッスンを、続けていきたいと考えています。
 一年間、熱心に御受講いただきました。
 野口三千三生誕百年の年に、皆様に出会えたこと嬉しい限りです。
 お一人おひとりに心から感謝いたします。ありがとうございます。

  2014年12月           野口体操の会  羽鳥 操
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『時層の断片』日々の歩行の途上で……佐治嘉隆 写真集

2014年12月18日 08時27分39秒 | Weblog
 それは日常の何気ない風景、何気ない情景、何気ない出来事、何気ない心情、何気ない行為、何気ない願望、何気ない欲望、何気ない逃走、何気ない飛翔、何気ない満足、何気ない期待、何気ない有縁、何気ない無情、何気ない呆然、何気ない非情、何気ななく撮られた驚愕、何気なく撮られた歓喜、……、どれもがいつかどこかで目にしているはずなのに、殆どの人が気付いても通り過ぎるか、あるいは当り前すぎて“無・視している”ことさえ気付かない。
 
 日常を、近距離で中距離で遠距離で、切り取りながら非日常の彼岸へと、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚……まだ経験したことのない未知の感覚へと誘ってくれる。

 はたと、気付きましたね。
「これって、分る人にしか分らない。分る人はとっても少ないわね」
 《p.11 2005.07.02 府中》
「何が府中なの?」
 多くの人はきっとそう思う。
 野口先生がご存命なら、そして昨年12月に旅立たれた井上さんも、心の中でつぶやくに違いない。
「そうそう、これこれ、アトミックスよ」
 他にも処どころに「これは何?」と立ち止まるシュールな断片が差し込まれて、不可思議の奥行きを添えている。
 
 それはそれとして、どの写真も美しく時を止めている。
 静かな色調の表紙の滑らかさは格別だ。
 そしてページをめくる度に鼻腔に届けられる紙に溶け込んだ印刷の匂い。
 全てが混ざり合って、懐かしい生命の記憶が呼び覚まされるようだ。
 全てが日常、これが日常に起こっている現象なのに、次第に非日常との幽けき境界が見えてくるような曖昧な気分に浸される。
 そう、本でなければダメよ、だめだめ、ダメなのよ!

『この六年間に二度、彼岸へと川を渡りかけましたが、幸いにも二度とも辺りの景色を眺める余裕もなく、短時間で此岸に戻ってくることができました』
 最初のページの言葉に胸がキュンと締まりかけました。
 
 よい本を出されましたね、佐治さん。
 ありがとう。
 では、明日、写真展でお目にかかりましょう。

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『時層の断片』佐治嘉隆 写真集 2014年12月1日 eyesight シリーズ 009 
 http://balian.p1.bindsite.jp  
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注!佐治嘉隆写真展のお知らせ

2014年12月10日 18時59分19秒 | Weblog
 12月15日(月)~20日(土) 『時層の断片』写真展がESPACE BIBLIOのブログで紹介されました。

 尚、19日(金)は、急遽17時頃までになるそうです。←佐治さんのブログで確かめてください。
 お気をつけて!
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本を読む意味

2014年12月09日 12時33分34秒 | Weblog
 先ほど『新・戦争論』ー僕らのインテリジェンスの磨き方 池上彰+佐藤優 文藝春秋 文春新書を読み終えた。
 知的にドキドキ、ハラハラ、(ワクワク)、読ませてもらった。
 最後に《佐藤 こらからの世界を生き抜くために、個人としては、嫌な時代を嫌な時代だと認識できる耐性を身につける必要がある。そのために、通時性においては歴史を知り、共時性においては、国際情勢を知ること。知識においては代理経験をして、嫌な時代に嫌なことがたくさんある、というのをよく知っておくことです》

 なるほど。
「そうか、そういうことなのか。歴史を学ぶこと、おろそかにいてはいけない」 
 二人の対話を読んでいると、随所に眼から鱗が落ちることに次々と出くわしたが、へぇ~、ホントだったらおそろしや!ホントなんだろうなぁ~という話の連続だった。
 ただ知りすぎるって大変だー、と思いつつ、最後まで読み通した。

 いずれにしても先週末から引きずっていた、私個人的な嫌なことは数のうちではないと思えたところが救いだったかも?
 読書の意味を改めて知ったわけです。
 推薦図書に……。
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野口三千三誕生月が終わって……つらつら思うこと

2014年12月01日 14時57分39秒 | Weblog
 11月の野口三千三誕生月は、ぴったり30日の日曜日、朝日カルチャー「野口体操講座」で終わった。
 一ヶ月間を通して、先生を偲ぶ月となった。
 五回目のテーマは「ボディビルディングと野口三千三」を選んだ。
 昭和29年から30年代はじめにかけて、日本の体育界や医学界が発した、ボディビル批判に対する野口の姿勢が実にさわやかだ、と私には思える。
 批判は次のようなことである。
 体育界からは「体が固くなる。神経系が鍛えられない。見せかけの体でスポーツに適用しない」
 医学界からは「両手で重い重量を挙げると腕や心臓を圧迫する作用があるのでよくない」

 さらに続いて「当時はよほど進歩的な医者でないかぎりボディビルディングに限らず、スポーツが健康によいという人はおりませんでした」「筋肉を鍛えても内臓は強化されない」ともいわれたそうだ。

 そうした批判に対して、野口三千三や盟友の松延博(東京教育大学教授)は次ような考えを示した。
「ボディビルディングはやり方によっては有効な運動だ。但し体育を綜合的な体づくりとしてとらえるならばボディビルディングは筋肉の発達と云う一面に集中しているかもしれない。しかしその様な見方をするならば全てのスポーツ競技はそのスポーツ特性に適した体の発達をしている」
 幅広い合理的な姿勢でボデイビルディングに対して適切なアドバイズをしたのが、指導理論と技術担当理事として当時の協会に積極的に参加した野口三千三その人だった。
『日本ボディビル連盟50年の歩み』体育とスポーツ出版社 平成17年(2005年)22~23㌻ 玉利齋氏の言葉として読むことができる。

 体育界や医学界やマスコミの批判に、野口らしく拳を挙げずに立ち向かった姿が目に見えるようだ。
 敗戦後に多くの日本人が持った肉体的劣等感の払拭に、僅かな期間とはいえ関わったことは、或る意味で素直な行動だった、と思える。

 ここ迄の半世紀、そしてこの本が出版されて9年。
 この間、一般人や高齢者の寝たきり予防のための筋肉トレーニングは大きく飛躍し、精度を増したことは間違いない。

 その一方で、野口体操の半世紀は、真逆のベクトルで人間のからだと動きを探求していったことに、驚異すら感じる。
 自分自身のからだに素直に向き合い、地球生命体としての生ものにとって、何が大切なのかを日々探る体操はオリンピック開催の蔭に隠れてしまいそうだが、そうなっては勿体ないと思っているのは私だけだろうか。
 
 ボディビルディングのとらえ方、そしてその世界から脱して、野口体操創発へと舵を切った野口の根底に流れているものは、人間が自然からもらった丸ごと全体の身体が潜める可能性の追求だったのではないだろうか。
 生命が持つ限りない価値を一つひとつ見いだし、磨きをかけ、愛おしむ感性を養って、戦時中に押し殺された個人としての人間を”人間として活かす復興”と同時に、矛盾のないあり方で人間を超えた自然への畏怖を実感してゆく道筋を見いだす行為、そのものが野口の体操に違いない。

 戦争の時代と真摯に向き合い、敗戦を自ら引き受け、8月15日を一年の始まりとした贖罪を背負った一人の体育教師としての生涯がたどり着いた地平は、生命体を超えて、生命を生んだ地球(宇宙)そのものへの憧憬へと通じていく体操の発見だった。
 
 生誕100年の野口を偲ぶまるまる一ヶ月を終えて、これまでぼんやりとしか見えなかったものが、すこしだけはっきりと立ち顕われ始めたような気がしている。
 つらつら思うこと多し。
 本日、師走の一日目。おーッ!
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