羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

上野寛永寺〜科学博物館〜花のお江戸上野公園

2018年03月31日 07時13分17秒 | Weblog
 3月29日、この日しかない、とおもいたって、野口三千三先生のお墓参りに出かけた。
 昨年は、東京藝術大学・体育館で行った「野口体操の会」創立総会の前に、ご参加いただいた会員の方々とお参りをした。
 真冬のように寒い一日だった。
 小雨模様の中での移動となったが、迷子も出さず無事に全ての行事を滞りなく終えることが出来た。

 うって変わって、春に三日の晴れなし、という諺はどこへ。
 今年は桜の開花の日から連日のこと晴天に恵まれた。

 人気のない寛永寺第二霊園は、静寂そのもので荘厳と言ってもよい雰囲気に包まれていた。
 静かに手を合わせ、1年間のご報告をさせていただいたが、68年生きてきた私の時間の中でも、3本の指に入るくらいに大きな変化の年となった。
 反省することは色々あったものの、全体を振り返ってみると、なかなかいい一年であった、と思える。
 そして、この1年間ほど、多くの方々と新たに巡り会い、助けられて、これまでにない動きの兆しが見えた年はない、と思える。

 墓地を出て、10時に科学博物館で開催されている「人体ー神秘への挑戦ー」展示会場に入った。
「春休み」「満開」「パンダ」全てが揃ったこの日、上野科学博物館内は、子供からお年寄りまで人で埋め尽くされていた。
 展示されている標本・書籍・パネル等々、素晴らしい。
 こうした一級品を見せるためには、展示方法に工夫が欲しかった。たださえ人混み状態なのだから、迷路(人体の形の部屋のようだが)にしない配置にできなかったのだろうか、と素人ながらもひとこと言わせてもらいたくなった。
 
 野口先生存命の頃から「人体」に関連した特別展は何回か開催されてきた。
 その都度、欠かさず見てきたつもりだが、とりわけ「独立行政法人化」されてから、人集めに必死になっているような気がしてならない。
 言葉は悪いけれど、受けを狙った”これ見よがし傾向”が見受けられるようになった、と思うのは私の偏見によるものだろうか。

 実のところ入場制限はかけられないとしても、「立ち止まらないでください」と声かけアルバイトを立たせなければならない状況の中で見せるのは、如何なものか、と思えてならなかった。
 展示物の中には、現物の標本が混ざっている。かつて生きていた人や動物、つまり生きものの体の一部なのだから。
 精神を上に置き、肉体を貶める意識はないとは思う。ただし、精神の精華としての芸術作品を上に置き、科学研究の成果である標本を下に見ているとは思わないが、隣接する国立博物館の展示理念との違いを否応なしに比較していまうのは、これまた私の偏見だろうか。
 尊厳が失われた神秘は、神秘でもなんでもない。
 ひとえに惜しい。

 それでもみる価値はあります!
 どなたにでも手放しですすめられませんが、春休みをはずしてぜひ行ってみてください。
 今までにない標本や書物に出会えることは確実です。

 さて、博物館を出ると、春爛漫。
 上野公園の桜は見事に咲き乱れ、花見客が押し寄せ始めていた。
 思いきり胸を張って息をし、春の空気を吸い込んだ。
「野口先生、巣鴨であったり、新宿だったり、上野だったり、お花見によく出かけましたねー」
 小さく声に出して、語りかけた。
「亡くなった井上さんには、上野大仏の仏頭を教えてもらったんですよ」
 あの時も満開の桜だった。
 鬼籍に入った野口体操の一人一人を思い出しながら、桜並木には近寄らず遠巻きにそっと眺めて、ゆっくり上野駅に向かった。
 ちょうど正午。
 上野駅公園口周辺は、人人人で溢れていた。

   *******

 
 本日は、土曜クラスのレッスンに、特別展「人体」公式解説書を持って行きます。
 解剖の歴史から始まって、一番新しい「人体の見方」までが網羅されていて、読みごたえ・見応えがあります。
 
 では、3月最終日、よき一日となりますように。
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半世紀ぶりに母とお花見・・・許しの時間

2018年03月25日 18時32分40秒 | Weblog
 東京の桜は満開。
 なんでも満開というのは八分咲きをいうそうだ。

 日曜日、晴天に恵まれたので、午後1時施設に母を訪ねて、近くの公園に誘い出した。
 施設の場所は杉並区内だが、中野駅北口再開発地域に接している。
 大学が三校、野方警察、警察病院、キリン本社等々が公園を真ん中に取り囲むよう配置されている。

 四季の森公園から明治大学と帝京平成大学の間にある桜が満開だった。
 両校の間を抜けると、明治大学の中庭に出られる。
 ここは一般にも公開されていて、誰でもが自由に出入りすることができる空間である。

 以前、国際日本学部と数理学部の学生を、一階にある多目的ホールで、数年間授業をさせていただいた。
 もちろん、野口体操である。
 部屋の広さも床も、日差しも、外との関係も申し分ない気持ちのいい空間だった。

 この中庭に誘って、私は芝生に腰をおろし母の足をマッサージしていた。
 春の日差しが全身に降り注いで、次第に体が温められていった。

 周りでは子供連れのお父さんお母さんが、子供達を遊ばせている。
 お祖父さんやお祖母さんも孫の後をフーフー息を切らしながら追っかけている風景の中で過ごすことができた。
 幼子がやっと立ち上がって歩き出しては転ぶ。
 走り出せるようになった子供たちも、キャキャと声をあげて追っかけっこをしている。
 そんな姿を母は、嬉しそうに眺めていた。

 春うらら・・・・こんなに穏だやかな時間を、母と過ごすことができるとは、一年前には想像すらしていなかった。
 
 母93歳、娘69歳、ともに老いながらも人生の黄昏の中で、なんとも美しい時間をいただいたような気がしている。
 生きているうちに”許しとき”が得られて、「これでいい!」と思える幸せに包まれた。

 真っ白なコブシの花に満開の桜。
 春の風に運ばれる草の匂い。
 すべてが素敵だと思う。
 
 半世紀ぶりに母とのお花見🌸
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熟成、そして一歩前に・・・・・

2018年03月22日 07時12分27秒 | Weblog
 今週は、新たな読書を控えて、中野一雄著作物の熟成期間として過ごした。
 はじめて最初の1ページをめくったときの「抽象音声」に対する戸惑いは、全く払拭されたわけではないが、見通しが良くなってきた。
 
 そんなこともあって、次の一歩を踏み出す心構えがでっkた、と言えるかもしれない。
 3名の方に、インタビュー依頼の手紙をお出しした。
 どのようなお答えをいただくとしても、お任せしたいと思っている。
 一通の手紙を書くにしても、なかなか思い切りが求められる相手もあって、不器用な私としては、清水の舞台から飛び降りるつもりで、一筆したためた。

 なんとも、この一歩で弾みがついて、次なる行動を取ることに楽になった感じがしている。

 一歩ずつ、焦らず。しかし迅速に動かないと自分自身も含めて高齢化の波が押し寄せてくているのだから・・・・・・。

 おかげさまで「野口三千三伝」の昭和30年台まで、何本かの柱が立てられそうだ。
 原木を削り出すための読書とインタビューに、時間を振り向けたい。
 辛抱の時間は、結構、楽しみなのである。

 今週末は、取材も兼ねて、イベントに参加予定。
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建物疎開(破壊消防)

2018年03月21日 14時23分06秒 | Weblog
 今週の「わろてんか」は、昭和18年から19年、いよいよ戦争末期に突入した。

 先週までの映画作りの話では、検閲によって台本がズタズタにされる話だった。
 それを見ながら思い出した。
 昨年のこと、松竹映画の復刻版・国策映画のDVDを何本かを手元に取り寄せて鑑賞した。
 これだったのか、とドラマを見ながら思い出した。
 この時代が描かれていて、なかなか興味深かった。
 表現自由、言論の自由が失われて、作りたい映画も舞台もすべて御法度の時代。

 新宿に暮らしていた母は、空襲ギリギリまで、映画や芝居やレビューを見ていたらしい。
 昭和18年、客席はまばらだったが、藤原義江が一生懸命歌うのを聞いた記憶は鮮明に残っている。
 そう母が話してくれたこれたことを思い出した。
 
 そして、本日の「わろてんか」は、いよいよ19年の「建物疎開(破壊消防)」の話だった。
 この年には、東京體育専門学校に赴任していた野口三千三である。
 野口は、学生たちを引き連れて破壊消防の建物取り壊しの監督官をしていたそうだ。

 母の実家は、淀橋浄水場の脇、小学校に隣接していたこともあって、建物疎開にあったとも聞いた。
 東京體専は幡ヶ谷・西原町にあって、母の実家からは目と鼻の先の距離である。
 もしかすると野口と学生たちによって、建物は壊されたのかもしれない、と思うと胸がキュッと締め付けられる。
 ドラマから、母や野口から聞いていた話を思い出させてもらっている。

 朝ドラで、建物疎開をこうした角度から描くのは初めてのことではないだろうか。
 片付けをして、最後に芸人の名札を一枚ずつはずしながらいう台詞がたまらなかった。

「・・・・疎開しましたな」
「・・・・戦死しましたな」
「・・・・戦死しなければスター芸人になれたのに・・・・・」

 次々に人が去っていく、理不尽が描かれている。
 それが戦争だ。

 声高に戦争反対と言わなくても、ジーンと迫る内容だった。

 大正14年生まれの母は、小学校に入学したときから戦争が始まった、とよく言っていた。
 野口体操の誕生には、戦争が深く影を落としている。

「野口三千三伝」を書き始めて、資料がどんどん集っていくうちに、母が育った時代、野口が教師として過ごした時代が、少しずつ見えてくるようになった。
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「抽象音声」から気付かされたこと。。。。。

2018年03月21日 09時27分54秒 | Weblog
 中野一雄の三部作
『浮島物語ー抽象音声を駆使した物語風エッセイ』
『影太郎三態ー抽象音声を基調とした物語風エッセイ』
『みみなぐさー抽象音声を活用した物語風エッセイ』

 駆使・基調・活用、それぞれに微妙なニュアンスの違いを持たせて創作されたエッセイを読んだ。
 読み始めた時には、雲をつかむようで何が何やら理解できなかった。
 迷惑を顧みず、朝日カルチャーの土曜日と日曜のクラスで、10日、17日、18日つごう三回も、何はともあれ生煮え状態のまま話させていただいた。
 話を聞き、本を見せられて、何人かの方はAmazonから取り寄せられたことが17日に判明した。
 動いた人は羽鳥を入れて4名なのだけれど、中野一雄エッセイ三部作の値段が猛烈に高くなった。在庫切れになった本もある。
 もう一冊の『ロイ・モルガンと日本』などは、私が手に入れたときから、10倍の値段に跳ね上がったものしかなくなっている。
 これってビッグデータ!のなせる技かな?

 三部作の中で、シェイクスピアの例が理解を促進させてくれた。
 ハムレットは実在しなかった。
『ベニスの商人』の高利貸シャイロックを演じたヘンリー・アービングのエピソード。
 1、シャイロック登場の最初の第一声『三千ダカット』の3 「three」θ 子音の調音に独特の舌尖神技を示した云々。
 2、立ち居振る舞い

 1、と2、の1秒足らずの勝負にかけた名優の演技と声(音・調音)は、彼独特の工夫と訓練の成果だ、と著者は書く。
 短い瞬間にシャイロックの全てを集中的に表現しようという試みがあった。
 一回性の演劇の舞台を何度も繰り返し見たくなる。
 一回性の永遠性が隠されている、という。

 アービングの演技に魅了された観客の中に、実在しない人物・シャイロックが実在する人物となった瞬間である。

 著者は書く『抽象音声は一回性とともに多回性をも付与されている』と。

 ここを読んで、私は、思わず膝を打った。
 つまり、私が慣れ親しんだ西洋クラシック音楽の楽譜は抽象音声の極致であった、と理解できた瞬間だった。

 はじめてある作曲家の曲の練習に取り掛かると、これが全く音楽になってくれない。
 ところがある程度弾けるようになって、二曲めにうつると不思議なくらい理解が早くなる。
 さらに名演奏家の演奏をレコードを聞く。さらに名演奏家でなくても生の演奏を直に聞く機会を持つと、自分で曲を演奏する大いなる助けとなる。

 実にクラシック音楽の楽器、とりわけピアノは、真ん中のA(ラ)の音を、440サイクルに調音して、その音を基準にして12音平均調律する。
 調律師の腕で、古典の曲と弾く場合、ロマン派の曲を引く場合、近代フランスの曲を弾く場合で、多少オクターブの幅を揺らいで調律してくれる。
 ということがあっても、基本的には音の高さを振動サイクルに合わせることが習わしである。

 その点では、邦楽の調音とは考え方が全く異なる。
 これは「音」に対する感性の違いであり、脳の働きの違いである。
 40年以上になるだろうか、日本人の耳・西洋人の耳、右脳と左脳の問題を論じた角田論文が思い出された。
 波形が決まっている楽音以外の音は雑音に分類して聞く耳と、虫の音も楽音と同じ聞き方をする日本人の耳の違いは、そのまま楽器の違いであり音色の作りの違いであった。

 こうしてみると中野一雄が求めた理想とする発声は、西洋文化(音声言語)をいかに自分の文化として取り入れるのか、といった視点から聞くと多くの明治・大正・昭和前期の日本人の発声そのものが耳障りに聞こえたのではないだろうか、と推察できる。
 
 唯一絶対の神を祀る教会の聖歌隊の発声をよしとする価値観と比べれば、日本文化の楽器や発声はむしろ八百万の神々・多様性を重んじる価値観を潜めている世界ではないだろうか。

 野口三千三は中野一雄の講演を聞き、感動とともに相当なショックを受けたらしい。
 おそらく何冊かの中野著作を読んだ可能性もなきにしもあらず。
 ただし、そこには微妙な心理が働いていただろうと、私は勝手に想像の翼を広げて、当時の様相を俯瞰して見たくなる。
 次の野口語録は、野口自身の文化的な居心地の悪さを超越して、苦しみあがいたのちに到達した言葉ではないか、と今は読んでいる。

《 すべてのことにおいて絶対的な基準は存在しない。すべての基準は、関係によって相対的に・そのつど・今ここで・新しく自分の裏(なか)に生まれるのだ 》

 今まで、私は、この言葉をなんと浅く読んでいたことだろう。
 愕然として驚き、慌てふためいている(野口の言い回しをいただこう)。

 さらにつづく。

《 すべての「もの・こと」は循環する。循環しない「もの・こと」は存在しない。すべての存在は、循環過程の一つの姿である。これを「万物流転」といい「輪廻転生」という。 》

 本日は、これにて。。。。。。
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美声とは? 

2018年03月18日 09時14分00秒 | Weblog
 入院中の佐治さんからメールをもらった。
 昨日の朝日カルチャーセンター土曜クラスで、ご本人の許可を得て読ませてもらった。
 鹿児島の旅以来、中野一雄(実験音声学者)の「抽象音声」をテーマにしている。
 この概念が今ひとわからない中で、佐治さんからのメールで理解まではいかないが、何となくわかるような気がしていてきたからだった。
 病院には『瞑想室』があるようだ。そこで野口流ヨガ逆立ちをなさっている写真もブログにアップされている。

 1通目と2通目のメールの一部をここに貼り付けさせていただく。

《朝、「原初生命体としての人間」を開き、聖書に誓うように先生の書かれた甲骨文字のサインに手をのせます。
 最初からゆっくり読み始めていますが、からだを患っている身から読むと、また違った、新鮮な感動があります。

 セピア色にあせたページを捲りながら、未だにいろいろと語って下さる先生の言葉をかみしめています。
 何よりも幸せなことは、活字の裏から「実際の先生の声として」聞こえてくることです。
 いったい声の記憶ってどこに仕舞われているんでしょうね。》

 まさに、今、テーマにしている、というか探っている「抽象音声(一般抽象音声・具体抽象音声)」と「具体音声」の明確な答えだ。

 そこで私も野口の声をおもだしてみた。
 60代の声から70代、80代、そして病を得てなくなる頃の声。
 そのほか録音された声。NHKラジオで放送された音声、NHKGTVで放送された声、野口三千三授業記録の会に残っている家庭用ビデオカメラに別マイクを装着して録音した声。
 どれも違って聞こえる。と同時にどれも野口の声である。

 では、私の記憶の中の野口の声は、と思い出してみると、かなり曖昧になりつつある。
 曖昧になりつつありながら、はっきりと思い出すこともできる。

 さて、中野一雄著『浮島物語』213ページを読んいると、面白い話に出会った。
 終戦後の国際裁判で、アメリカ人検事の一人が
「日本人のいう渋い声とは具体的にどんな声か」
 中野一雄に問うたくだりである。

 そこで彼は、かつて吉原で美声をもって浮名を流した都々逸の達人にとっておきの見本を一曲示してもらったそうだ。
 するとアメリカ人検事は、次のように言った。
 そのままここに書き留めることにする。
『あの声を、あなたは「訓練された声(きたえた声)」と英訳しているが、私には適訳とは、どうしても思われない。発声訓練の目的は、美声の獲得と維持にあるのだから、訓練という言葉を使うなら、むしろ「訓練過剰の声(きたえすぎの声)」といった方がが正しかろう。声帯を乱用した結果として、終生、不規則な振動を伴った病的な声だよ。あの声で聖歌をうたったなら、教会は悪魔の殿堂に化してしまうかもしれないよ。』

 教会の聖歌隊と吉原の都々逸の声、その比較以前に単なる美意識の違いであると、簡単に言えない比較文化的な問題を呈する発言ではないだろうか。
 何をもって「美声」というのか。
 何をもって優れた文化といのか。
 そもそも「文化」とは何か?

 思い出したことがある。野口の自身の声に対する思いだ。
「戦時中、群馬の空っ風の中で、大勢の人間を動かすための号令をかけ続けたことがあるんだ。教師の中で僕ほど声量もあって美声だった者はいなかったからね。でも、号令かけを続けたために、すっかり喉を潰してしまったんだ」
 アメリカ人検事の言葉を借りれば、「声帯を乱用した結果、その後の人生を不規則な振動を伴った病的な声で過ごさなければならなかった野口であった」と言えそうだ。

 果たして、そうか?
 記憶を辿ってみると、私の耳の奥に残っている野口声は、決して病的な声の記憶はまったくない。
 美声とはなんだ?

 ベルカント唱法の極限を極めている3大テノールの歌声は、一つの美声である。
 しかし、もし、私がその時に吉原で浮名を流した御仁の都々逸を聞いたら、それもまた美声というのではなかろうか。
 しかし、音大の附属から過ごした10年間、クラシック音楽にとっぷり使って、そこを卒業した後に、奇妙な体験をした。
 能でも歌舞伎でも、邦楽の声と楽器の音が、耳障りだった。ざらつき加減に耳が拒否感を持ったのだった。
 しばらくすると、その拒否感はいつの間にか消えてなくなった。

 結論を求めてはいない。
 おそらく佐治さんが『原初生命体としての人間』を読みながら、聞こえてきた野口の声は、病的な声とは聞こえないはずだ、と想像している。

 実験音声学的な波形からは相当に逸脱しても美声はありうる、と素人の希望的観測である。
 魅了され何度も繰り返し聞きたくなる声と、不快で二度と聞きたくない声はある。

 蛇足を付け加えさせていただく。
 国会中継は、目を閉じて聞くことが多い。すると微妙な波形の乱れから嘘をついているのか、そうでないかははっきりと伝わってくるのであります。
 
 本日は、これまで。
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わくわくする読書

2018年03月17日 10時14分54秒 | Weblog
 世の中には、”知る人ぞ知る○○”と称される人がいる。
 世の中には、”知る人ぞ知る○○”と言われる事がある。

 勿論、野口体操も知る人ぞ知る体操である。
 そのことによって、少なくとも戦後60年間、知る人ぞ知る体操ゆえに支持してもらえた。
 世間一般の常識からみると、どこかズレがある。
 ズレがあるとしたら、野口三千三独自の自然観と人間観とからなる体操が、あまりにも「当たり前」を貫き通した結果生じることのように思う。
 当たり前ということは、案外、社会の中で通用しにくいところがある。
 当たり前に蓋をすることで、なんとかやり過ごし、やりくりして生きていることも多い。

 さて、たわ言は、それくらいにして、九州鹿児島のNさんから教えられた中野一雄の著書を久しぶりの感動を持って読んだことを記しておきたい。
 この実験音声学者は、1909(明治42)年。東京市下谷区根岸生まれ、2000(平成12)年京都没。日本の音声学・英語学の第一人者であった。
 91年の生涯を、生き抜いた学者である。

 Amazonから取り寄せた本を一気に読んだ。
 今週の水曜日に、そのうちの一冊は鹿児島から贈られた。
 一般向きするエッセーではないけれど、古今東西の文芸、英語学、言語学の造詣深さがにじみ出ている。
 それだけにとどまらず、市井の人々の暮らしぶりが、大正・昭和・平成を通して描かれている。

 三冊のエッセー

1988(昭和63)年03月『浮島物語』 ー抽象音声を駆使した物語風エッセー(79歳)
1989(昭和64)年01月『影太郎三態』ー抽象音声を基調とした物語風エッセー(80歳)
1989(昭和64)年11月『みみなぐさ』ー抽象音声を活用した物語風エッセー (80歳)

 この「抽象音声」の概念が、よくわからない。わかろうわかろうとして読んでいるうちに、物語の面白さに引き込まれて、「抽象音声」への探究心は失われていった。
 そのくらい柔らかな文章は魅力的だ。
 恐れ多くも明治の日本人の凄さに頭を垂れる。

 もう一冊は、英文と日本文で書かれている。
 終戦後の連合国軍占領期にGHQの顧問だった親日派米国弁護士の記録。

1971(昭和46)年6月『ロイ・モルガンと日本』
 中野一雄が見たロイの人柄を通して、敗戦後の日本がいかなる社会であったかが綴られている。
 青史でもなく、かといって裏面史でもない。この当時の日本に起こった事実と真実を知ることができる良書である。

 そんなわけで、今週は、先週に引き続き鹿児島土産の中野一雄著作を読むことを中心に、私の暮らしは回っていた。
 おかげで大正・昭和前期・昭和後期・平成前期の歴史イメージが、急に豊かさを増した。

 必ずしも野口三千三が生きた世界と共通しているとは言い難い。
 それでも日本の社会の重なりの層を一枚二枚三枚とめくっていく面白さにワクワクする読書時間だった。

 GHQ SCAP と渡り合った憲法の佐藤達夫・佐藤功、白洲次郎といった人々をはじめとして、敗戦直後から少なくとも7年間の占領期を支えた多くの明治生まれの日本人を改めて見直している。
「明治は遠くなりにけり」という言葉を随分前に聞いた記憶があるが、こうして歴史をたどってみると、私にとって「明治は近くなりにけり」と言いたくなってきた。

 こうした著書を読みながら、野口が生きた時代の深さを感じている。
 すると、なぜか理由はわからないが、野口三千三の遺言を思い出す。

『最近の西洋文化の流れの中で(流れそのものを尊ぶことは賛成)、「自然直伝」の価値観を重視して生きるように世の中を変えようと本気で思った時期もあった。が、一人ではムリだ。惨めに敗れた。どのように生まれ、どのように育ち、どのようにその価値観の中で、生きていくのかを、甘っちょろいことではなく、もっと厳しいことだと教えられた。価値観の変革は難しい。東洋・西洋と分けるのは嫌い。もうちょっとムリのない自然の価値観(つまり)同じ人間だから、同じ地球上の存在だから、自然の価値観で生きよう。自然という人間から、直接、「自然に貞いて生きるいちばんの中心原理」を教えてもらうべきだ』

 最期の時を迎える少し前に、平成10年3月12日12時35分、病室のベッドに正座し、力をふりしぼって語られた言葉を筆に留めたもの。
 口述筆記から一部を『野口体操 マッサージから始める』の「あとがき」に掲載させてもらった。

 さまざまに絡まって、思いは巡る。
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ようやく・・・・時間がほしい

2018年03月16日 19時35分54秒 | Weblog
「野口体操の会」会報『早蕨 SAWARABI』に、「野口三千三伝」を書き始めて2回分が終わった。
 まだまだ先は長い。
 ここにきてようやくインタビューを頼む方の名簿ができてきた。
 名前と住所と電話番号を書き込んで、ご存命だろうか、などと思いを巡らせる。

 群馬県に少なくとも2回は出かけることになりそうだ。
 町役場で確かめたいこと。
 野口が通ったり訓導した小学校巡り。
 上毛新聞社で調べさせてもらいたいこと。
 あとは川と飛び込みができる堰のような場所を探す。
 ・・・・・等々。

 その他にも、書籍や資料なども読みきれないほど集まってきた。
 そこで野口が生きた時代別に分類を始めている。
 
 そんなことをしていると、大正・昭和、戦前・戦中・終戦直後と昭和30年代の歴史が、以前に比べて身近に感じられるようになってきた。
 とにかく面白い。
 本や資料を読むことも、ゆかりの人に会うことも、地方を訪ね、東京を歩くことも、そこから見えてくることが自分にとって掛けがいのないものことになってきている。

 座敷を分類場にしているのだが、だんだんに野口部屋の様相を呈してきた。
 おそろしかー。
 もう、ここからしばらくは逃れられない。
 逃れたくないのが、正直な気持ちかもしれない。

 このような高齢期を生きるとは、少し前まで想像だにしなかった。
 人生はわからない。
 自分の意志? 
 それはない。
 いつの間にかここまで流れ着いてしまった。
 さぁー、この流れに身を任せて残された時間を大切に生きたい。

 いやはや、本日は寒くなったけれど、春はもうそこまできている。
 
 ふと思う。
 なぜだか知らないが、急に、口をついて出た歌がある。
 
 なにとなく 
 君に待たるるここちして 
 出でし花野の夕月夜かな 

 与謝野晶子だった。
 季節が進んで、春の夕暮れは空気の色が変わる。空気の匂いが変わる。空気の重さが変わる。

 なにとなく切ない。
 その切ない心の揺れを感じながら、見上げた空に細いお顔の月を見たのはごく最近のことだったような。。。。。

 あの日は、菜の花の酢味噌和えを食した。
 全身を覆う春の甘さに、舌だけに苦味がのって、ふと 我にかえった。
 もう、どこに行こうとしているのか、とは問わない。
 
 時間がほしい、とつくづく思うこの頃。
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とんでもないこと

2018年03月16日 16時49分46秒 | Weblog
 最近、Amazonから本を取り寄せる回数が増えていた。
 一昨日のことだけれど、携帯にAmazon.co.jpから「・・・・ご利用を頂き、誠にありがとうございます。ご注文いただきました商品につきましてただいま・・・・」と読んでいまったメールが入った。
 とっさにクリックというか指で触れてしまった。
 実は、それはAmazonの綴りではなく、Anazonだと気付いた時はすでに遅し。
 それから連日、「助成金出金通知専用」と「国政支援信用取引所」から「出金通知」「入金」のメールが、連日のこと膨大な量入ってくるようになってしまった。
 端から捨てているのだけれど、なんとも気分が悪い。
 やめさせる手立てはないのだろうか?
 困ったものです。

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「わろてんか」と復刻版『戦線文庫』

2018年03月08日 08時28分12秒 | Weblog
 朝ドラ「わろてんか」も残り1ヶ月を切った。
 戦線慰問団として「わろてんか隊」が上海に出かけ、いよいよ最後の舞台を迎えるところで今朝は終わった。

 思い出した本がある。
 戦後60年企画 発掘! 戦中の日本『戦線文庫』幻の海軍慰問雑誌 日本出版 復刻版である。
 保坂正康氏による帯には《この幻の軍用雑誌の復刻によって、戦前・戦時下の国民意識を探ることが可能になった。》

 雑誌の中には、戦線慰問讀物として「陣中講談・傑作浪曲・新作落語・明朗漫才」等々が挿絵つきで掲載されている。
 漫才の横山エンタツ 杉浦エノスケの似顔絵は、ドラマのキースとあさりそっくりである。
 というか、この雑誌を参考にしているのではないかと思える。

 この『戦線文庫」をはじめて手に取ってページをめくったときには、なぜ寄席の出し物が台本と挿絵で掲載されているのか、あまりピンとこなかった。
 同時に、ついつい比較してしまった本がある。
 それは『戦地の図書館 海を越えた一億四千万冊』だ。内容は、第二次世界大戦中にアメリカの図書館員・軍・出版業界が展開した、史上最大の図書作戦。
 中には除隊後の生活に役立つ職業訓練の紹介まであった。全くもって日本軍が戦地に送った雑誌内容との違いに、驚愕を覚えた。

 今週の「わろてんか」を見て、思わず膝を打った。
 実際に慰問団の上演を見る機会のない兵隊さんにとって、この雑誌はどれほどの慰みになったのか、と万感迫る思いに胸が締め付けられた。
 
 と同時に、またまた比較してしまった。
 アメリカは「生きる意欲を持ち続けるための本」を送り、日本は「死に向かう慰めのための本」を送ったことが、今更ながらドラマを見て再確認できたことだ。

 今週の内容は、戦後73年目にして、お茶の間の日常空間で見られたものだと思うと実に複雑だ。
 戦地と内地の描き方の違いでバランスをとっている苦労も伝わるが、見せてもらってよかった、と思う。
 
 今週は、脚本家も演出家も、全てのキャストもスタッフも、最後の見せ場。

 正直なところ、明治から大正、そして昭和の大衆芸能を真っ正面に取り上げたドラマに、始まった当初は戸惑いを感じていた。
 途中では我慢して見続けていた。
 ここまできて、大衆娯楽の歴史が抱えてきた複雑さを、改めて考えさせてもらえた。
 記録として残された文字で読んで、絵で見て、本を通して理解することと、時代は変わっても日常的なドラマとして見ることで、伝わることはたくさんある。
 新しい切り口で描かれていた日本近現代ドラマの意味が伝わった。

 昨年のお盆に、新宿末廣亭で昼席・夜席を通して見続けた自分の行動が、ここで繋がった!
 なるほど、支離滅裂と思しき我が行動にも、(『戦線文庫』が伏線になっていて)何か大きな力が働いているのかも。
 おー恐ッ。
 九州鹿児島空港から乗った飛行機の窓から暗闇の空を見ながら、正直言って一抹の不安を感じた。
「私はどこへ行こうとしているのか」と。
 誰かに止めて欲しいとも思った。

 しかし、まんざらでもなさそうだ。
 もうしばらく、思いのままにさせていただこう。
 
 今週の「わろてんか」より。
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鹿児島の旅報告・・・・まとまりなく・・・・・

2018年03月05日 13時05分35秒 | Weblog
 3月2日午後、無事に鹿児島空港からホテルに到着。
 軽い昼食を済ませて携帯を見ると、インタビューをお願いしているN氏から電話が入っている履歴が残っていた。
 折り返すと、予定を前倒にしたいということだった。
 待つこと1時間半、劇団の方とホテルのカフェにきてくださった。

 93歳、しっかりした話ぶりで6時まで、2時間半お話を伺った。
 とりわけ『原初生命体としての人間』第5章「ことばと動き」を理解する貴重な話を伺えたことは、鹿児島まで行った甲斐があった。
 直接目の前で話される言語以外の身体言語の豊かさを思う。

 また同行されたSさんは、下落合教室で2年間、野口の指導を受けた方だった。
 話すうちに、私が習い始めた時期と重なったいたことが判明した。

 お二人の話は、これからの「野口三千三伝」に生かしていたいと思っている。

 3月3日、思いがけず一日空いてしまった。
 ANAの「旅作」パック旅行だったので、帰りの航空機を変更することができなかった。
 そこで、雨の中でも見られる場所を教えてもらって、歩くことにした。

 シャトルバスを途中下車して「照国神社」から「鹿児島県立博物館」までは雨も小ぶりだった。
 多少、大ぶりの雨に変わっていたが西郷隆盛銅像まで歩き始めた。
 途中、ビルの一階に「西郷隆盛銅像展望ホール 敬天カフェ」の矢印を見つけそのまま階段を登った。
 小さな空間に、数名のお客人がいて、なんとなく手招きされるままに、室内に引き寄せられた。
 そこで、店主「若松宏」西郷隆盛妻イト弟(岩山家)曾孫、この方の話をとっぷり聞かせていただいた。
 めっぽう面白いでのである。
 鹿児島にやって来た甲斐があった、二人目の人との出会いだった。
 ここでの話もいずれ何かの形で書きたいと思っている。

 午後1時過ぎ、外に出ると雨は激しく降り、風も吹き始めていた。
 タクシーは一台も見当たらない。
 そのまま「黎明館」鹿児島県立歴史資料センターにたどり着いたときは履物はびしょびしょだった。
 江戸時代の鹿児島(鶴丸)城の本丸跡に作られた施設で、素晴らしい展示であったが、そそくさと見学を済ます。
 まさかの大雨でずぶ濡れ状態のスニーカーをなんとかせねば、と喫茶室でお茶を飲んだ時に話をした年配の女性に相談した。
 タクシーの呼びかた、靴が買える百貨店を教えてもらった。
 無事に10年ぶりの長靴を買う。
 こんなこともあるだろうか、と用意していた新しい靴下にも履き替えられて一安心であった。

 まだ、時間はある。
 そこから西郷隆盛生誕の地を横目に、「維新ふるさと館」を見学。
 館内で映画を見て過ごす。

 5時15分前に、鹿児島空港行きの高速バス乗り場地下の食堂街に入った。
 それからヒレカツ定食で早めの夕飯を済ませた。
 美味しかった!

 その後、高速バスに乗って、6時40分に空港着。
 出発の7時35分まで、手続きをとったり、売店を見たり、本を読んだりしながら時間を過ごす。
 羽田には9時15分、無事に到着。

 3月4日、朝日カルチャー日曜クラスのレッスンがあった。
 熱ーい湯気の出ている報告を、思い切り話させてもらった。
 野口が出した自筆手紙をいただいてあったのでそれをお見せしながら、野口体操が「体操には珍しく言葉を得た」その経緯について話す。
 肝心なことは、N氏に野口が語っていた苦悩の一端についてであった。
 さらには、直接は野口体操に関係はなかったが、若松宏が語る「西郷隆盛の真実」から得た羽鳥の感想を聞いてもらった。

 3月5日、今日になって思う。
 今回は、朝日カルチャーのレッスンまでの日を含めて、密度の濃い3日間の旅だった。
 人に出会って話を聞くことはものすごく大事なのだが、それに加えて場の空気をいっぱいに吸い込みながら言葉にならない「真実」を知ること。
 言外に溢れ出てくるメッセージをたくさんもらったことが、いちばんの宝ものであった、と。
 そして、持ち帰った私の思いを、兎にも角にも冷めないうちに聞いてもらえたことがとても貴重なこととなった。

 そのほかの方々への感謝!
 サービスでシングルからツインの広い部屋を用意してくれたホテル、さらに出来ないかもしれないと言いつつもANAに航空機変更電話を入れてくれた日本語も堪能な中国人従業員の女性、さらに百貨店を教えてくれた博物館喫茶室の方、長靴に履き替えるのを手伝ってくれた店員さん、羽田に到着する飛行機が高度を下げた時に私の耳が異常をきたし痛みに耐えていると飴玉を5つも持って来てくれた添乗員の方。
 みなさんの親切に支えられた旅でありました。

 ここまで読んでくださった方に、お礼を!
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