羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

グローバル化と新型インフルエンザ

2009年04月30日 08時58分02秒 | Weblog
 地学が描き出す世界には、国家を中心として引かれる国境線はない。
 しかし、かつて地球上に存在したゴンドワナ大陸の残像を、化石や鉱物や砂といった自然のモノによって見つけることは出来る。
 そのときの国境線、いや、同質生物線・同質大陸線なるもので線を引くとすれば、現在ある国境線とは異なる線引きになる。

 例えば、民族とは別に、同じ宗教、文化、言語によって線を引こうとすることは難しい。あっちこっちに点在しているからだ。
 国境線の上に何枚もの文化・宗教・言語等々の共通線を、複雑に入り乱れた形で幾重にも重ねていくことになるだろう。

 さて、昨年秋に起こった金融危機は、アメリカンスタンダードが世界を席巻したグローバル化によってあっという間に世界を飲み込んだ。
 この場合無理やり経済国境線を引くどこの話ではない。
 全世界がアメリカ発の危機に見舞われてしまったのだから。

 今回も、追い討ちをかけるように蔓延しそうな新型インフルエンザをグローバル化した世界に拡大していくのをなんとか食い止めようとしている。
 
 そこで思う。
 かつて人の移動に時間がかかった時代があった。
 シルクロード、ぺーパーロード、ラピスロード、仏教ロード、……、陸上・海上で人々が交易することでさまざまなロードが存在した。
 植民地化によっても人もモノも病原菌も世界を巡った。
 しかし、今に比べればスピードは遅かった。
 
 たとえばスペインから運ばれた梅毒はインディオたちを容赦なく襲った。
 たとえばアメリカの兵隊がスペインに持ち込んだウィルスは‘スペイン風邪’と名付けられたが多くの人の命を奪った。
 この風邪の名称は、アメリカの面子にかかわるとして‘スペイン’にぬれぎぬを着せた命名だった、と日経新聞‘春秋’で読んだ。
 それほどに不名誉なことであるなら、スペインだのホンコンだのと国の名前を付けるのは止めたらどうだろう。
 21世紀の時代であっても、文化の違い、医療体制の違い、封じ込め作戦の迅速さや方法の違い等々、あって当然のことなのだから。

 ところで厳しい検疫を始めた成田空港でのインタビューニュースをみた。
 二日ほど前のニュースだったと思う。
 日本に旅行できていて帰国するメキシコ人家族の少女に、成田空港で記者がインタビューしていたものだ。
「今は、まだ、メキシコに帰りたくないの」
 少女は、そう素直に答えていた。
 そして、昨日のニュースだが、夫をメキシコに残してきた日本人の妻の表情も、帰りたくないと答えた少女の表情とそっくりだった。

 果たして、ウィルスの猛威はどこまでが自然の範疇に入り、どこからが人為的に増幅されていく猛威なのだろう。
 以前、朝日カルチャーセンター土曜日の野口体操クラスに参加されていた40代前半の男性が漏らした言葉が思い出される。
 彼は、会社で中間管理職として、グローバル化の波に最前線で戦わざるを得ない立場におかれていた。
「個人的には、もう、大変で、鎖国して欲しいんです。……実際には出来ませんがね……」
 彼の悲鳴を聞いてから、一年後には、金融危機が起こり、実体経済まで危機に瀕した現在の状況に陥ってしまった。
 今となっては、この言葉は、危機を予測したご神託のように思える。

 すでにフラット化する世界は、今までにないスピードで変革をもたらした。
 そのスピードについていけないのが、‘自然のからだ’で生きる人類ではないのかなぁ、と、オバサン的発想で危惧している。

 この上なく便利なところにある我が家には、二週間分の食料の備蓄も、50枚ものマスクも置いてないわね。
 さぁ、今日は、これから授業だ。
 手洗いの仕方くらいは、学生に教えなければいけないのかぁ~。
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至福の時間

2009年04月29日 13時06分56秒 | Weblog
 連休前の授業は、今週いっぱい。
 昨日は、朝日カルチャーセンターの授業の後に、大学の授業をするために移動をした。

 移動と言っても新宿から明大前まで、準急に乗ると5分。
 そこから大学まで2分とかからない。
 昼食を新宿で済ませ、早めに着いた校内のベンチに腰をかけた。
 目の前を元気な学生たちが、三々五々行き交っている。

 見上げるとすっかり緑の葉を茂らせた桜の木が、日差しを遮っている。
 少し空気は冷たい。といってもさわやかな春爛漫の只中に身を置いている。

 川井郁子のバイオリンの小品、チャイコフスキーのヴァイオリンコンチェルトの第一楽章を聞きながら、入れたばかりの『大辞林』をつかって、授業で話す予定の言葉の意味をもう一度確かめておく。

 …………それから

「羽鳥先生、すっかりiPhoneを使いこなしてらっしゃる」
 体育館の中にある教員室につくと、授業のない先生に話しかけられた。
「見られてしまった! とにかく便利ですよ」
「娘がね、使ってるんですけど。僕はまだそこまでこなせないな」

 こんな時って、二重に持っていてよかったって思う。(今なら〇円、ちょっと悔しいが、しかたないか)
 私って、本当はかなり、新物好き。これは、父親譲りなのだ。

 さて、さて、春風に吹かれて、耳と目と鼻の快感。
 授業前のひととき、至福の時間は、短くても貴重なのだ。
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野口体操

2009年04月28日 19時27分55秒 | Weblog
 4月もあと二日となった。
 今月は、‘逆腹式呼吸’の問題から、思いがけず野口体操を新たに読み直すことができた。

 呼吸法をきっかけに‘フラット化する内臓感覚’から‘原初生命体’の理解が深まった、と思っている。

 1972年、世に出た『原初生命体としての人間』は、時代がこの本の内容を求めていたからに違いない。
 野口体操の価値観・身体観は、思想として一人歩きしたときが危険で、実際に自分のからだで動きを体現するなかで吟味されることによって、必ずしも危険ではなくなる。
 その点が難しい。
 頭で観念的に理解することと‘からだでわかること’との間には時間的ズレが生じる。そのズレを埋めることができないまま、判断されることがいちばん辛い。
 からだでわかるまで結論を延ばして、じっくり体操による思考を繰り返したいものだ。

 野口体操は、その意味で革新なのである。
 さて、これからどうする?
 お知恵拝借!
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Quartier latin 

2009年04月27日 13時58分35秒 | Weblog
 この四月から、東京・お茶の水のカルチェラタンに週に一回通い始めた。
 パリのQuartier latinは、ソルボンヌ大学をはじめとする大学が集まっていることから学生街として有名だ。
 ラテン語を話す教養ある学生が闊歩する街だそうだが、今は如何に?
 とにかく西洋文化・学芸を学ぶには、ギリシャ語やラテン語なしには、一歩も進めない時代が長かった。
 そこから‘ラテン語地区’と名付けられたという意味を知ると、物知りになった気がするし、さもありなんと思える。

 さて、日本に目を転じてみると、さすがお茶の水界隈は学生が溢れている。
 そしてこの街の昼時の匂いは、何といっても‘カレー’だ。
 若者とは切っても切れない仲にある食文化といえる。

 ところで、本日は、風が非常に強かったが、晴天に恵まれて歩く足も心も軽かった。
 授業を終えた安堵感からJR御茶ノ水駅まで坂を登る道々、ギターをはじめとする弦楽器店を懐かしく眺めていた。
 新しいものから中古品まで、店の奥までところ狭しと展示されている様子は壮観だ。ギターに目がない御仁にはたまらないだろうな~と思いつつ、眺めているだけで楽しくなる。

 そしてもっと懐かしい店は‘オーディオユニオン’と‘ディスクユニオン’だ。
 この店には、かつて30年~40年くらい前によく通っていた。
 日本では手にはいりにくい輸入レコードや、格安のレコードを買ったついでに、オーディオ店にも立ち寄って、スピーカーやアンプ、蓄音機等々、時に店の上階にまで上がって、手が届かない高級な輸入ステレオの音を聞かせてもらったりしていた。

 そして今年、再びこの街を歩きながら、カルチェラタンならではの他の店を横目に、歩くだけでも身内から若やぐのを感じている。
 シアワセ~、なのであります!

 思い返せば、十数年前、病人の付き添えで通っていた。
 この春から再びこの街に通うことになって愛着が一層強くなりそうだ。

 まぁ、今の私には、本場のQartier latinは、‘遠くにありて思うもの’らしい。
 ちょっと、うらめしや~!
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「グーグルブック検索訴訟の和解について」の文書を受け取って

2009年04月26日 19時06分38秒 | Weblog
 昨日(4月25日)、日経新聞朝刊に掲載されていた『「グーグル図書館」に困惑』の記事を読んでいた。
 記事の内容は《ネット上で書籍の内容を閲覧・検索できるサービスが日本でも波紋を広げている。さらに『グーグル流 革新と摩擦』》署名解説がついていた。
 解説は、「ネットの便利さと副作用を冷静に見極めること」の大切さでしめくくられていた。

 そしてお昼前に届いた郵便のなかに、朝日新聞社および朝日新聞出版社長連名の封書があった。
 鋏で封を切って取り出してみると、A4の紙が5枚の文書だった。
 内容は、「グーグルブック検索訴訟の和解について」だった。
 5枚目は自分の書籍が入っているかどうかを、グーグルに直接検索をかける方法が書かれていた。

 昨年、出版した『マッサージから始める野口体操』の著作者として知らせがきたのだ、と理解するのに少し時間がかかった。
 以前、このブログにフェアユースのテーマで書いた。
 その問題の詳細が、分厚い知らせで、よくわかった。

 こうした文書が手元に届き、直接的な問題として読んでみると、この問題について安易に答えは出せなくなる。
 著述を生業とされている方々にとっては、認めるわけにはいかない。
 
 私のようにミッションとしての著作行為だから、グーグルがフェアユースの考えでやるのなら文句は言わないし、そうしてくれることで野口体操が広まり、野口の考えが伝わってくれる可能性が大きくなることは歓迎すべきことだ、と当初は思っていた。

 この新聞社および出版社からの文書を読むと、出版業界にとっては死活問題ではあることが理解できた。

 しかし、この問題にかぎらず、今後も‘公共の利益’と言う名目で、知らないうちに世界配信されてしまう‘何事か’には、異議を申し立てしたいことも出てくるだろう。
 それはすでにグーグルビューで経験している。

 一方で、この春、大学からは16ページに及ぶ『個人情報取り扱いの手引き』2009年度版冊子が届いている。
 社会における個人情報保護の動きは、かなり厳しく進められているにもかかわらず、一方で勝手に表札が写っているような写真やムービーや、建物全体がわかる航空写真など、ネット上でいとも簡単に検索できるのだから。

 今やこうした流れを止めることはできない。
 とすると個人情報や著作権の考え方そのものが揺らいでくる。

 さて、ネットの便利さにつられて、ついつい利用してしまう昨今、今一度、暮らしや仕事における‘ネット’とのかかわりを考えるだけでなく、‘ここからは超えてはいけない一線’を、しっかり見きわめられる力もつけなければならなくなった。
 いやはやネットを介して世界の人々が、丸裸のまま危険のなかで生きている。
 送られた文書から、知らないうちに何事かに巻き込まれる時代に生きている実感が伝わってきた。
 それは先週末のことだった。
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土曜日

2009年04月25日 11時55分42秒 | Weblog
 これから新宿・朝日カルチャーセンターに出かける。
 土曜日クラスは3時30分からなので、午前中からはやい午後にかけてたっぷり時間がある。
 その間、他の仕事を入れることは滅多にない。
 土曜日のクラスは、一日、一クラスで、という決まりがあるわけではないが、野口の時代からそうしている。

 野口が存命の頃、午前中は料理の時間だった。‘常備菜’をつくって持っていき、カルチャーで手渡すことができたからだった。それは亡くなる間際まで続いていたので、20年間に渡っていた。
 そして、野口が入院しているときなどは、医者のインフォームドコンセントを受けたり、そのほか入院生活で必要なことをこなしたりしていた。
 入院といえば、父の場合も同様だった。土曜日の午前中は、病院に出向き、その足でカルチャーセンターに向かっていた。

 二人が鬼籍に入ってからは、土曜日の午前中は、午後からのレッスンの最後の準備に時間を当てることができるようになった。
 
 さて、本日のテーマは‘フラット化する内臓感覚’。
『原初生命体としての人間』の一部を新しく読み直す試みだ。
 読み直すといっても、座学だけではなく実際にからだを動かすことによって今までも何度となくやって来た動きに違った角度から光を当てるようにしたい。

 右も左もなく、イデオロギーとは無縁のところにあっても、尚、野口体操が真に革新的であり、ある人々からは共感を持って‘危険思想’と言われる由縁が最近になって私のなかでわかり始めてきた。
 実は、野口体操は危険思想でもなんでもなく、グリーン革命と言われエコが叫ばれる時代に先立って、地球大で人間を捉える思想だった。
 時代をはるかに先取りした体操は、きっと他にはないのかもしれない。
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取材

2009年04月24日 18時40分36秒 | Weblog
 夕方、致知出版の編集者の方から電話をいただいた。
「昨日、昼過ぎですがメルマガに、4月号に掲載した野口体操の紹介記事の一部を配信しましたら、いままでになく大勢の読者が、当社のホームページにアクセスしてくれました。社内で野口体操効果だ、と評判になっております」

 月刊「致知」4月号に3ページ渡って、野口体操を紹介してくださった。
 先立って3月に受けた取材は丁寧だった。
 そしてよくまとまった記事に、可愛らしいイラストが添えられていて、‘野口マッサージ’をよりわかりやすく紹介してくださった印象があった。

 実は、野口没後になってからも、マスコミの取材はすべてお断りすることなく受け続けている。
 年年歳歳、理解度が深まった内容として取り上げていただいていることは、有難いことと感謝している。

 野口体操の社会化には、まず‘野口体操’という名前を知っていただくところから始めなければならない、と考えていた。
 今でも‘野口体操’と‘野口整体’の違いがわからない方もおられるが、しかし、一昔前に比べたら、間違われることが少なくなったことは、いくものメジャーのマスコミに取り上げられたことは大きいと思っている。

 話は飛びます。
 以前、‘アエラ’に野口体操を紹介してくださったジャーナリストの芦治さんが、5月初旬に新刊本を出版されるとうかがった。
 書名は『ネトゲ廃人』。
 インターネットゲームにはまり過ぎて、人格破壊が起こっている現状を取材した内容らしい。丁寧な取材のもとに書き上げた書き下ろし。
 この本が書店に並んだら、一日もはやく手に入れたいと思っている。
 間違いなく社会に問題を提起する一冊になるに違いない。

 取材を受けて思うことは、野口体操を真正面から取り上げてくださるジャーナリストは、社会に一石を投じる意欲をお持ちの方が多い。いい加減な取材はなさらないし、誠実な方々だ。
 芦さんもそのお一人である。
 
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逆腹式呼吸と管楽器演奏+声楽の場合

2009年04月22日 18時54分43秒 | Weblog
 数日間、‘逆腹式呼吸’を試している。
 仰向け姿勢で、立位で、……、と、姿勢も工夫してみている。

 今のところ、少しずつわかってきたこと。
 まず、腹をへこませて息を吸い込むときは、鳩尾を中心に肋骨の下6対辺りが横から後ろにかけて、拡がる感じがする。
 
 土曜日、日曜日、火曜日のクラスすべてでこのテーマを扱ってみた。
 管楽器の演奏や声楽の経験がある人からは、演奏中の呼吸はどうやら‘逆腹式呼吸’に非常に近い呼吸も行っているような気がする、と言われる。
 管楽器演奏中に悠長にブレスするわけにはいかない。
 そのとき逆腹式の方が、短い時間で一気に多くの空気を吸い込めるような気がするともおっしゃる方が何人かおられた。

 もうしばらくこのテーマを取り上げていきたい。
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動きの見直し……逆腹式呼吸

2009年04月19日 08時55分09秒 | Weblog
 昨日、土曜日の朝日カルチャーセンターのクラスでは、‘呼吸’について、一歩先に出る内容を伝えることが出来た。
 初めてする話だったので、ぎこちなさは否めなかった。
 が、聞いてくださる方々は、はじめのうちこそ戸惑っておられたものの、レッスンが終わる頃には「そういうこともあるのか」と、少しずつご自分の問題として、受け止めてくださっているように思えた。
 
 野口体操の動きのうちのいくつかは、初めての視点から捉えなおしが可能になった。新しい地平がひらかれつつある、という感じだった。

‘原初生命体’から、人として立つことによって得たこと失ったことが、より鮮明になってきた。

 なんでも原因は‘ストレス’といって、『』にくくってしまう安易さに、この‘逆腹式呼吸’を通してからだを見直すことは、新しい立体めがねを装着してみることになりうるかもしれない。

 中国医学が培ってきた‘逆腹式呼吸’から、人間存在を捉えなおすきっかけをいただけそうな予感がしている。
 まだ、漠然としたものではあるけれど……。
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小河ドラマなら……

2009年04月18日 09時36分04秒 | Weblog
「うふっ」
 今朝、朝日新聞b3「フロント・ランナー」を見て思わず笑ってしまった。
 登場人物は、宮藤官九郎 脚本家。
 そんな人知らな~い。(失礼しました)

「そうだよなぁ。‘篤姫’が終わってから、今年は、NHKの大河ドラマは見ないようにしている。朝ドラだって、3月に‘だんだん’が終わってから、見ないようにしている」

 なぜって、見始めると、一回も抜くことなく、見続けないと気がすまない性質なので。これって、自分の問題なんですけどね。

 で、なぜ‘うふっ’なのか。

ーNHkの大河ドラマのオファーがきたらどうします?
 記者の質問に宮藤さんが答える
 まあ、こないでしょう。でも……何者でもない人々に光を当てるような時代劇……毎回、落語みたいに落ちがあって、「今週はみなくてもいいか」と肩の力が抜けたドラマを。

 この人に限らず、脚本家の名前は、ほとんど知らない。
 ここに書かれているこの方の作品は、どれも見たことがないものばかり。
 どうやら数々の賞を受賞して、順風満帆の脚本家らしい、ということが次第にわかった。

 後に続く言葉がよかった。
 江戸時代の人たちの死生観に興味がおありとかで、命の軽さについて語っている。
「……命の軽さゆえの悲しみが伝わってくる。それは人が簡単に死ぬ時代だったから……現代とはまったく違う命の感覚が、逆にいろいろ考えさせられる……」そうだ。

 歴史上有名で且つ政治的に凄い働きをした登場人物の物語ではなく「今週はみなくてもいいか」なんていう宮藤自称「小河ドラマ」が、日曜日8時NHKで放送されたら、私はきっと見続けてしまう。
 番組が始まる1分前にはテレビの前にしっかり陣取って……、そうに違いない。
「うふっ、ふっ」
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新学期、平成生まれの学生と……

2009年04月17日 13時29分41秒 | Weblog
 新学期を迎えた4月が、一年の始まりに相応しく感じるようなっている。
 昨日で、2009年度すべてのクラスがひらいた。
 
 ところで、総務省が昨年10月1日現在、推計人口を分析した結果を発表した。
 それによると、終戦の年、1945年8月15日以降に生まれた人の数は、9645万6千人で、在日外国人を含めた総人口の75%である、と朝日新聞4月17日付け朝刊に見つけた。戦後生まれが四分の三を超した。

 そこで話を戻し大学に目を転じてみると、私が受け持つ今年度のクラスでは、昭和生まれの学生もいるが、平成生まれが大半を占めるようになった。
 そうした学生にとっての戦争は、少し前は‘湾岸戦争’だった。それが‘イラク戦争’になった。
 野口体操のガイダンスで‘野口の戦後’といっても、若い学生たちにとっての戦争は、私にとっての日清日露戦争ほどの距離感というか歴史時間のような印象を持っていることを感じる。
 戦後64年しか年月は重ねていない。
 しかし、この間の変化のスピードは、明治・大正とは比較にならない‘超スピード変化’だった。

 そういった学生に「つい最近、還暦になったばかりです」と言いながら‘やすらぎの動き’‘上体のぶらさげ’等々、次々に見せると溜め息が漏れるようになった。

 さて、さて、これから7月半ばまで、今まで出来なかった動きも含めて、学生と一緒に体操をすることになる。
 最初に軌道に乗せる一ヵ月がまず大変でもあり面白くもある。
 しかし、いちばん緊張するのは、第一日目の授業だ。
 それもクリアして、昨晩は久しぶりによく眠ることが出来た。
 さて、2回目の授業、果たして‘野口鞭’を見せたクラスが、凶と出るか吉と出るか週明けが楽しみである。
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認知症の介護……ご近所の場合

2009年04月16日 08時58分09秒 | Weblog
 今朝、テレビ朝日の番組で、長門裕之・南田洋子夫妻の闘病ドキュメンタリーの一部を紹介していた。
 途中から見始めたけれど、重い気持ちになってしまった。

 以前、このブログにも書いたことがあるけれど、筋向いのお宅でも認知症の奥さんがおられる。
 足がやっと前に出る頃まで、夫は妻を散歩に連れ出していた。
 しばらく前、妻の襟首を掴かみ、小突くようにして歩かせている夫の顔は、こわばっていて固かった。
 このころになると以前のように妻を怒鳴りつける声は聞かれなくなっていた。
 大声が聞こえてくるときには、近所のみんなが「何事もなければいい」と心配していた。

 今年に入ってからは、一時、車椅子で外につれだしていたようだが、奥さんの表情から昔の面影はすっかり消えて、やつれ方が尋常ではなかった。
 その後、玄関前の空間から、赤い自家用車を見かけなくなった。
 そのころから家の工事を行う人の出入りがにわかに激しくなっていった。
 
 しばらくして家の中の改装が一通りすんだのだろうか、今度は自家用車が置かれていたところに、知らない車が止まるようになった。
 あるときは入浴サービスの車が止まり、あるときは訪問介護の車が止まり、あるときは訪問看護の車が止まっている。
 自転車で訪ねてくる場合もあるようだ。

 ある日、家の前を通りすぎようとしたとき、笑い声が漏れてきた。
 それも若い女性の声に混じって、夫の野太い声も聞こえる。
 今まで怒鳴りあう声や、ものを投げつけ音や、何かをたたく音は聞こえてきたが、和やかな笑い声は初めてだった。

 つい先日も、干してあった布団を取り込もうとベランダに出たとき、目にした光景は若い女性が運転する車を誘導をしている姿だった。
 道幅が狭いのでバックで入れるのは一苦労なのだ。
「もっと切って、ひだり、ひだり」
 何とか角にぶつけることなく車庫入れがすんだ女性が車から降りてきた。
「助かりました。誘導、お上手ですね」
 夫は満面の笑みを浮かべて、彼女を玄関へと促していった。

 車のドアには‘訪問歯科診療○×○×」と記されていた。
 寝たきりになった妻に、いよいよ介護保険をつかって、本格介護が始まったことが、近所にもしっかりとわかるようになった。

「あのままでは餓死するんじゃないの」
 みんなの心配は頂点に達するところだった。

 とはいえ介護する人が来る以外の時間の方が長いはずだ。
 しかし、仕事として訪ねてくる人は、ある意味究極のサービス業だから愛想がいい。仕事とはいえ、大変だろう。しかし、笑顔はなによりの薬だ。
 親子などの血がつながっている者とは、明らかに違いがあるだろうことは誰にでも想像がつく。
 この家には、正に救いだ。
 介護保険が使えてもタダではないとしても、今まで一度も見たことのない夫の笑顔や活き活きした車庫入れ誘導の声を聞くと、他人であってもホッとする。

 当方、おかげさまで84歳になる実母は、外出こそあまりしなくなったものの、家の中では普通に暮らしていける。
 その上、物忘れはするけれど、今でも込み入った相談にも乗ってもらえる。
 それはとても有難いことだ、と、そのご夫婦の様子を垣間見て、思うことがしばしばだ。
 
 その奥さんは母とは丁度一回り下の‘丑年うまれ’だから今年72歳になる。
 こればっかりは暦年齢ではないのねぇ~。

「越路吹雪が好きなの」
 外にまで‘愛の賛歌’や‘ラストダンスは私と’等、聞こえてきていたこともあった。その音楽を聞く彼女の姿を想像して、気丈な女性がみせるある種の優しさや悲しさを感じていたのは、6、7年前ののことだった、と思い出す。

 言ってはいけないことだが、非難されることを恐れずに言わせていただく。
‘長生きは、ときに残酷だ‘と。

 我が家でも、ソファに腰掛けてうずくまっている母を見ると辛いときがある。
 しかし、話しかければちゃんとこちらを向いてくれる。
 今は、最後に許された元気な母との貴重な時間なのだ、と思いたい。
 
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ガイダンスで「野口鞭」

2009年04月14日 18時56分02秒 | Weblog
 大学の最初の授業は、一応ガイダンスになっている。
 今年は、初っ端から「野口鞭」を学生に披露した。
 袋から取り出して見せたときには、ほとんどの学生がと戸惑いを隠すために笑うのだ。
 説明をし、音を鳴らし、また説明をするうちに、真剣に向き合ってくれるようになる。それには時間はそれほどかからない。
 殊に、スポーツにおける「むち動作」について説明を加えると、すっかり笑いは消えて、「なるほど」という頷きに変化する。

 科学的視点、あるいはスポーツとの関連から話をすると、学生は信頼してくれる。現代人にとって‘科学信仰’の度合いは老若男女を問わず相当に強い。
 それでも‘野口鞭’は、科学を超える力がある。
 
 因みに『マッサージから始める野口体操』に載せた鞭の写真は、300枚以上撮影したなかの一枚だ。あのとき100回は鞭を鳴らした。
 朝日新聞社の地下にある天井も高く自動車の撮影も可能な広々したスタジオで鳴らした。大変気持ちがよかったことを思い出している。

 先生から空中で円を描く鳴らし方を最初に教えてもらったのは、かれこれ20数年はたっているのではないかと思うが、正確な時期は忘れてしまった。
 しかし、鞭の鳴らし方は忘れてはいない。
 からだにはリズム感と方向を換えるタイミングが刷り込まれている。
‘からだが覚える’とは、表の意識とは別の領域に組み込まれていくらしい。

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身体文化を社会に根づかせるには……

2009年04月13日 18時23分57秒 | Weblog
 文化はもともとガラパゴス的進化を遂げることで、真価を発揮することが出来る。
 そのことは遅かれ早かれ、「好きか嫌いか」あるいは「肌が合うか合わないか」といったひとり一人の好みの問題に帰着しそうだ。

 正直な感想を書かせていただけば、野口体操も野口の晩年には相当程度煮詰まって、濃厚なスープの味わいになっていたと思う。
 前の言い方を借りれば、ガラパゴス的進化状態にあった。

 もともと‘ガラパゴス的進化’とは、日本の携帯電話が微に入り細にいる工夫が過ぎて、グローバルな貿易相手が少なくなった、と新聞に書かれていて、そこで使われた表現だった。
 その記事を読んで以来、すごく気に入って、ときどき使わせてもらっている。
 島の文化にかぎらず、ある地域の中で芳醇な香りを醸すまで育て上げられた文化は、グローバル化やスタンダードとは対極にある。

 ところがこの対極にある出来事を、見事に同化させた音楽家がいる。
 二人だけ挙げれば、ショパンもリストも、苦労をしながら作品として残していく。
 ポーランドが生み育てた民族音楽、ハンガリーが生み育てた民俗音楽やジプシー音楽を、ヨーロッパの音楽技法によって如何に表現するのか、が彼らの生涯をかけた作曲創造の基点だった。
 ドイツ、ハプスブルグ、フランス、そしてロシアの脅威に晒されている国々の民族は、自国の言語・文化だけでは生き残れない。
 そこで、大国の文化を身につけ、たとえば作曲家は創造活動にいそしむ運命におかれた。

 西洋のクラシック音楽技法をたとえてみれば、EUの通貨‘ユーロ’のような働きを持っていると考えられる。
 ヨーロッパは分裂する方向と統一する方向と、二つの波を交互に繰り返して時代を潜り抜けてきた。

 音楽家に限るならば、彼らはEUにおけるスタンダード技法を纏って自国の文化をそこに反映させることで、音楽文化の豊かさを作り出していたといっても過言ではない。
 生き残るためにしたたかだったと言わざるを得ない。

 さて、野口体操に重ねてみる。
 ガラパゴス的進化を遂げた身体文化としての‘野口体操’を、如何に残していくのか。
 ここが思案のしどころである。

 最近になって何人かの方に語っているのだが「大学の体育教科のなかで野口体操を伝え、体育教員つまり先生方と接する場に自分がいるのは神様の采配だ、と思うようになった」と。
 従来の学校体育も真面目に受けることなく、26歳の時に野口体操に出会って以来、‘これしか知らない’と言って憚らない私だ。
 西洋的な体育・スポーツ、日本の武道、そのほか流行の身体技法やリハビリテーション等々、そうした指導者と接することは、日本を出て外国から自国の文化を見直す行為に似ている、と思えるからだ。

 野口が身をおいていた大学の体育世界での経験と同質のものを知ることができている私の立ち位置は、非常に貴重な体験であり経験であると思える。
 八年目の新学期を迎え、驚きのなかにいる。
 
 それに先立って4月4日に行った「身体サミット」で、友好的な‘他流試合’をしたことで、野口体操とはいかなるものかが、私のなかで鮮明になっただけでなく、参加してくださった方々にも明確に捉えるきっかけになりえたようだった。
 実際に、そのような感想が、メールや電話や相対で伝えられている。
 
 二十年以上も‘野口体操・命’だった私が、この八年の時間のなかで、いつの間にか野口体操を相対化して見ることが出来るようになったことの意味をしっかりおさえておきたい。
 繰り返すが、これが神の采配でなくて何だろう。

 そこから出発して、考えを拡げてみる。
 野口体操に限らず、身体文化が社会的に浸透しつつある流れを止めず、さらに深いものにするには、何が大切なのか、まだ答えは出ない。
 しかし、避けて通ってはいけない問題だと捉えている。

 まずは、興味を持つかたがたと一緒に探っていくことが出来たらいい、と思う新学期の始まりである。
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動作解析が証明する「むち動作」

2009年04月12日 09時32分34秒 | Weblog
 野口体操の理論のなかで「鞭の原理」は、戦後の早い時期に取り入れられた。
 もちろん野口は鞭を自らつくった。
 これはサーカスの鞭を改良したものだ。
 持ち歩いても支障がないように材料を吟味し組み合わされた材料の比率を工夫した特別な‘野口鞭’である。

 乾いた音。
 いい音が出たときの動きの美しさ。
 とりわけ空中で円を描きながら、いい音が出たときがもっとも美しい。
 力はいらない。
 むしろ馬鹿力は邪魔になる。
 鞭の先の通り道を、全身の感覚で捉えられたときの快感。
 亜音速をこえるスピードは、筋力とは関係ないところから生まれる。
 
 昨日の土曜日クラスでは、4日の「身体サミット」では伝えられなかった‘鞭の原理’について説明できた、と思っている。
 最近ではスポーツ界でも、「むち動作」として、動作解析が行われている。
 熟練者にあらわれる「むち動作」は、野口体操が半世紀を越えて培ってきた動きの理論・実践とまったく同質である。

 少ないエネルギーで、有効な力が出せる鞭ゆえの筋肉の働き方・活かし方があることも、野口体操では証明済みである。
 それだけではない、実際の動きが工夫され、継承されるだけでなく進化している、と自負が持てるようになった。

 ようやく世の中の身体の教養が、野口体操を理解できる閾にまで成熟しつつある。読みようによっては傲慢な物言いだが、そんな実感を得ている。
 
 野口没後、十一年目、春の新学期寸描。
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