羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

これはピアノ?

2013年10月28日 19時09分46秒 | Weblog
 新しい電子楽器を発見。
 SEABOADといいます。イギリス生まれ、ピアノの音も、打楽器も、何とも言えない音も、ビブラート奏法も、ベースのような音も出ます。

 本体は黒一色。
 波打つキーボードが何とも新鮮でかっこいい!!
 実演の動画があります。連弾になると相当に表現力が増します。
 動画を次々に入っていくとギターと歌とのコラボもあります。神秘的な雰囲気を醸し出しています。

 お暇なときに聞いてみてください。
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NHK「病の起源」を見た!

2013年10月22日 11時40分36秒 | Weblog
 10月20日(日)夜9時放送、「病の起源」ーうつ病ーは、なかなか興味深かった。
 この病の起源は古生代5億2千万年まえの魚類まで遡れる、という。
 当時、生存権をおおいに発揮していたのは、三葉虫に代表される無脊椎節足動物であった。後にカニやエビ、陸棲の昆虫やムカデでなっていく生きものである。
 無脊椎節足動物には神経はあったが脳がない。しかし、これらの生ものに追われて食われる運命にあった魚類は、一瞬でもはやく逃げおおせるために神経の束である脳を持つようになった。これがうつ病の発症につながる「扁桃体」の始まりである。この小さな脳は追われる恐怖を感じるのだという。

 およそ2億2千万年前、哺乳類は社会を形成して生きるようになる。この時にはつまはじきされる孤独によってうつ病を起こすことになる。
 さらに700万年前、人類が脳の進化を加速させる。
 たとえばメソポタミア文明に代表される古代農耕社会を作り上げる。ここでは過剰食料を得ることで、格差社会が生まれる。

 さて、この番組では驚くべき実験を見せてくれる。
 一つは魚を使った実験である。
 同じ種、同じ数の魚を二つの水槽に入れておく。一方の水槽には天敵となる魚を入れる。するとこちらの魚達は最初は活発に逃げ惑うのだが、しばらくすると水槽の下にじっと動かなくなってしまう。つまりうつ病状態になっていると説明していた。

 もう一つは猿である。感染症を患った猿を一匹だけ隔離して、数年にわたって別に育てたところ、孤独に苛まれてうつ状態を発症する姿が画面に映し出された。

 つまり恐怖を感じると、脳の「扁桃体」が暴れ出して、その周辺部の神経細胞を破壊し萎縮させてしまう病変を起こすことが、うつ病の発症原因だという。

 ヒトの脳は、扁桃体に接して記憶をつかさどる海馬が発達し、さらに言語脳が恐怖体験を他人に伝え、それを聞いた相手は自分の経験のように恐怖を共有するようになるメカニズムをつくりだしてしまった、というわけだ。
 ただ、アフリカにはうつ病にならない部族がいるという報告もあった。彼らは狩猟民で、捕った獲物を平等に分ける暮らしをしている。この「平等感」が、うつ病に対してブレーキをかける働きがあるそうだ。
 
 もともとは魚類の防衛本能とその恐怖感を感じる脳が生まれたことから始まった。
 うつ病は、扁桃体の暴走を引き起こし、周辺の部位の萎縮を起こすことが直接的な原因であると結論づけていた。

 階級社会、格差社会、将来に対する不安が増大する社会、ノルマに追われ、何処にもあらゆるハラスメントが起こる。複雑怪奇な現代社会では、うつ病になら方が不思議と思われる内容だった。
 進化した私たち人間の脳が負った宿命の病のようだ。
 
 ヒトは誰でもうつ病に罹患する可能性を持って生まれ育ち生きていく。
 自分自身をふりかえって、思うのだけれど、幸いにして野口体操に26歳で出会ったことで、うつ病にもならず64歳にして一応元気で暮らせる今があると思うこのごろである。からだの動きによって、バランスをとる暮らしが身についたのではないだろうか。
 とりわけ「座位によるほぐし」そしてそれらを一連の動きとして流れの中で次々動き続けることができるところまで達し得たことは非常に大きいと感じている昨今である。
 動きのつながりを大事にしながら、液体的に流れていく在り方を床の上で続けるうちに、上下・左右.前後・斜め、東西南北、全ての方向を失った状態で流れ続け、あるところで終えると思わぬところにいることに気づく。
 意識を使って意思の力でこうあらねばならぬ!といった動きではなく、流れに任せて動き続ける「にょろ転」と名付けられた野口体操の一連の動きは、私にとって果報だったのかもしれない、とこの番組を見終わって思えて来た。
 それだけではないが、大きな要因の一つであるかもしれない。
 NHKスペシャル「病の起源ーうつ病」です。
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ダンス ダンス ダンス タンゴ!! + 歓喜の歌

2013年10月20日 08時48分46秒 | Weblog
 FBで紹介したアルゼンチンタンゴの映像です。
 設定がとても素敵だし、ダンスで女性をエスコートする姿が、魅力的なのであります。
 女性は彼の誘導に従うようでありながら、本来の美しさを開花させていく過程が見えます。

 もう一曲、ベートーベン「第九」歓喜の歌。路上演奏。すばらし!!
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1970年代の野口体操とニュージーランド・オーストラリア人との邂逅

2013年10月20日 07時56分24秒 | Weblog
 昨日の朝日カルチャー「野口体操講座」には、先週に引き続き外国からの参加者を迎えた。
 前回は、スイスからで、今回はオーストラリアからだった。
 二人とも野口体操を海外で経験していた。
 昨日の方はニュージーランドから日本に来ていたビッキーという女性に習ったらしい。
 彼女はふくよかなからだつきで、野口先生はお気にいりで、唯一、ビザの保証人にまでなっていらした。
 そのビザは何回か更新されていた。NHKで放送された「訪問インタビュー」に彼女の動きを見ることができる。

 さて、13日の日曜日に観た「舞踏」のことや、風営法の問題にからめて「アルゼンチンタンゴ」の成り立ちからその後の発展、そして世界無形文化遺産登録までの流れの話等々もテーマとして、1970年代、私がはじめて野口体操に出会ったころの動きを紹介した。
 といっても現在取り上げている動きなのだけれど、当時の演劇や舞踏へとつながる野口体操解釈による動きを、皆さんにも体験していただいた。
 動き方は同じなのに、まったく同じに思えないほど、からだの中身の在り方やイメージや意識の置きどころは異質な世界である。
 若手舞踏家5名による「降海の夢」を観たことがキッカケとなって、ほぼ40年前に引き戻された私は、来た道を辿ることができた。最初は戸惑いを見せていた方々も、非日常の動きの質に引きずり込まれた。その一つに、オーストラリアから来日した男性参加者の動きに依るところが大きい。

 ヨガを本格的に学んでいるそうだが、ビッキーに習ったらしい「上体のぶらさげ対話」での話しかけと受け答えの素晴らしさが、誰の目に新鮮で驚きで感動であった。
「とても優しい。でもべたべたとしつこくない」
 最初に組んだ新井さんの印象である。

 握手から始まり、挨拶としてハグしたり頬にキスを軽くする、と言った行為を親密な特別な関係でなくても、身体的な接触を日常的に行う習慣がある文化に育った人の距離感かもしれない。そこにビッキーから伝わった「上体のぶらさげ対話」が加えられている。

 最後に再び、アレックスさんと新井さんに再演してもらい、思わず私も話かけを所望。その触れ方の微妙な優しさ、距離感、あっさり感、方向感、相手の動きを内面から察知して次の動きを促す感!
 久しぶり、というより新しい感覚の体験をさせてもらった。
 ものすごく気持ちがいい。ものすごくからだが軽くなった。ものすごく解き放たれる。
 質のいいからだの触れ合いというのは、最高に人を癒していくことを改めて実感させてもらった。
 この感覚は、いったい何だろう。

 新宿駅までの帰り道、同行したある女性は、こんな言葉をつぶやいた。
「首や肩が凝っているせいか、にょろ転をキッカケとして1970年代のイメージで動いてみたら、気持ちが悪くなったんですが……」
 当方、久しぶりによい気持ちで動いたし、アレックスとの「上体のぶらさげ対話」で得た新鮮な感覚に解きほぐされ、元気をもらったのとは裏腹な言葉に、今後の課題をもらうことができた、と思っている。

 さて、さて、今朝は久しぶりに熟睡観を得て目覚めた。
 課題は課題として、最初は「とんでもない空間」、ここに身を置いてもいいのだろうか、とまで思いながらも次第に嵌まっていった1970年代から80年代初めの野口体操の意味を改めて噛み締めていきたい。
 社会化のために少しずつ落として来たこと、少しずつ変質したこと、それはそれとしての意味はあるが、新しい感覚としてアレックスやビッキーが育てていった“触れ方の極意”は、大切にしていきたいと思った。
 13日の「舞踏公演」、そして昨日のアレックスとの出会いは、節目の時を自然が与えてくれたものとして暖めていきたい。
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「降海の夢」……座・高円寺で……悔恨ありやなしや

2013年10月14日 07時42分48秒 | Weblog
 それは三島由起夫が目指した肉体ではない。
 それはすべてのスポーツアスリートが目指した肉体ではない。
 それは格闘技家が目指した肉体ではない。
 それは武道家が目指した肉体ではない。
 それはバレーダンサーが目指した肉体でもない。
 それはコンテンポラリーダンサーが目指した肉体ではない。
 それはストリートダンサーが目指した肉体ではない。
 etc.

 何者でもない肉体が蠢く。
 あえて言うなら、三木成夫が胎児の世界に描き出した生命36億年の肉体である。
 鮫であり、イルカであり、クジラであり、シャチであり、草原を駆け回る哺乳類であり、これまでも存在し、これから存在するであろう原罪を一身に引き受けたヒトの肉体である。
 まだまだ極限には遠い。しかし、5人の舞踏家は、一人ひとりの肉体を、一人ひとりの価値観で鍛え上げている過程をみせる。
 どれほどの苦痛と甘美。どれほどの悔悟と陶酔。
 どれほどの闘いがあり、どれほどの安らかさが彼らを包んだことだろう。

 彼らは美しすぎた。完璧に近い隙のない肉体の、ほとばしりのなかで現代文明をむさぼり、現代文明に押しつぶされ、現代文明を肯定し破壊し、命を再構築していくエネルギーはあまりに静かだった。

 男という存在は、通過儀礼なしには男になれないのか?
 自分の男根を大きく天に掲げなければ、ヒトとしての限りある生を確認できないのだろうか?

 それに反して、…… 西脇順三郎ではないけれど、創造から終末まで女は永遠である、と思えてきた。
 この舞台、“永劫の人”はそこにはいなかった。
 では、物体としての生命が厳然とあったのだろうか。
 もう一度言う、あまりにも美しすぎる5人の肉体の躍動感は、やすやすと重力をこえて、存在そのものを次々に消滅させていった。

 だが、……、この風景、どこかで見覚えがある。
 このエスプレッション、このウネリ、この微動、このざわめき、その根源に、いつかどこかで出会っている。
 母親の胎内だろうか。
 いや、違う。
 もっと意識が覚醒していた。足を取られて身動きできない泥沼の中でだったに違いない。
 
 どこだ?
 いつのことだ?
 
 懐かしさの源泉は、いったいどこだろう。
 この舞台のすべてではない。しかし、はじめて足を踏み入れて、“とんでもない”と思いつつ、抜け出すことができなくなったあの空間と時間だ。
 おおかた40年近くも前になるだろうか。
 それは、野口三千三の火曜日のレッスン場だった。

 思えば、遠くに来てしまった。ずいぶん、遠くに来てしまった。
 それは、罪だろうか。
 とすれば……
《是余が非徳の致す所悔恨するとも喝ぞ及ばん》

 野口没後、十七回忌を前に、よきものを見せてもらった。

 工藤丈輝 若林淳 浅井信好 河原田隆徳 オグラ・コブラ
 若手舞踏家の今を見せてもらった。
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NHK「ひるブラ」で発見

2013年10月08日 12時47分47秒 | Weblog
 のどの渇きを覚えて、階下におりた。
 白湯を口に含みながら、ついているテレビ画面を見るとはなしに見ていた。
 異国情緒ただよう函館からのリポートのようだ。
 洋館の建物をいくつか紹介し、最後に明治の開国富豪「相馬邸」を案内する。
「ウランガラスじゃない!」
 和室ばかりの邸内に、外国人をもてなすための洋室があった。
 リポーターはガラス製のドアノブに注目するように促す。
 ブラックライトが用意されていて、それをつけるとドアノブは鮮やかな緑色に輝いた。
《特殊な材料を入れてつくられたガラス》
 お茶を濁した言い方だった。日本でも明治期にウランガラスがつくられていたことがわかった瞬間だ。
 多分「ウラン」という言葉をいいたくなかったんだろうなぁ~、NHKとしては、と思いつつ見ていた。

 明治の改革、明治維新はとてつもないことをやり遂げた。東アジアの奇蹟だ。
 ドアノブまでも、西洋を取り入れた日本人がいたわけだ。もしかして江戸期のガラス製造にも、着色剤として使われていたのかもしれない?

 因みに、相馬がどのくらい富豪だったのかを証明するために、当時の“所得番付”なるものを見せていた。
 横綱、大関、といった前方には、岩崎、三井、野村、松下、大林……といった名前が映っていた。その後の方に相馬があった。
 なるほど、その時代なのか!

 あぁ~、出かけなくちゃ。
 このつづきはまた後ほど。

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人はいつ一線を超えたのか

2013年10月02日 14時50分55秒 | Weblog
 今、ウランガラスのペーパーウエイトが宅配された。
 極微量のウランを着色剤として加えたガラスのことを「ウランガラス」と呼んでいる。
 同封されていた手書きのメモによると、《ブラックライトのように極端に光り方を強調しているライトでなくても、紫外線に反応するので、自然光でも充分に光ります》とあった。
 今日の東京地方は、台風の影響の雨と風はおさまったものの、曇り空のもとでははっきりと蛍光現象は見られない。
 そこで、紫外線照射器とブラックライトを用意して試してみた。
 比べてみると、より鮮明な緑の発色は、ブラックライトの方であった。
 なるほど、LED照明のもとでは、緑ががかった黄色のガラスである。

 さて、「ウランガラス」の歴史を調べてみた。
 なんでもガラスの着色にはじめてウランが使われたのは、紀元79年にイタリアのナポリという記録があるらしい。
 長ーい、話になるが、その後の物語をここに書き記してみたい。

 16世紀初頭、ザクセンとボヘミア(現在のドイツとチェコ)の境界の森に銀鉱山が発見された。ここに小さな町があった。国境付近の小さな町は、聖ヨアヒム盆地にあった。この鉱山の発見によって、この町には、「シルバーフラッシュ」が起こったという。当時、プラハの人口は5万人の時代に、この町の人口は、一気に2万人にふくれあがった。
 そこで採掘された銀をつかって「ヨアヒムスターラー」後に「ターレル銀貨」と呼ばれる硬貨が鋳造されるようになる。この銀貨はヨーロッパから海外の植民地にまで流通し、ターラー、ダーラ、ダラー、そして現在のドルの語源となった銀貨である。
 大量の銀貨が製造され、ついに銀鉱山は枯渇し、廃鉱となってしまった。
 ところがこのゴーストタウンとなった町に不気味なうわさ話が持ち上がる。
「鉱山労働者が原因不明の病気になるみたいだ!?」
 鉱山からは銀の他に、黒く光る鉱物が出る。彼らはドイツ語で、ペクブレンデ「不運な鉱物」、英語読みではピッチブレンドと呼んだ。
 
 1789年、ドイツの化学者であるマルティン・クラプロスは、その鉱物の中に半金属があることに気づき、天王星(ウラノス)に因んだ名前をつけた。それが「ウラン」である。
 それから1世紀の間にヨーロッパ各地でウランが次々と発見されるようになる。
 そしてウラン塩やウラン酸化物が放つ鮮やかな色は、ガラスや陶磁器の着色剤として使われるようになっていく。
 1830年代、ガラスに極微量なウランを混ぜて、黄緑色の透明なウランガラスが製造されはじめた。
 コップ・花瓶・ケーキ皿・果物皿・アクセサリー等々、各種のガラス器がヨーロッパで、そしてアメリカで製造された。
 しかし、1940年代になって、ウランが原子力に利用されるようになると、着色剤としての使用はピタッと止まるのである。

 さて、話を戻す。
 ウランがガラスや陶磁器に着色剤として使われていた当時は、美しい輝きの中に、目に見えない危険が潜んでいるとは誰も考えなかった。
 1896年、フランスのアンリ・ベクレルが、ウランから出る目に見えない放射線が写真乾板を発光させることに気づくのである。
 その数ヶ月後には、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンが、熱せられた金属から出る放射線が黒い紙を透かすのを発見。スクリーンに手をかざすと、手の骨の影が映し出された。X線の発見である。現在、私たちが医療現場で世話になっている「レントゲン」なのである。

 ここまで来ると、キュリー夫妻の研究の話に直接つながってくる。
 ベクレルが発見した目に見えない放射線について、本腰を入れて研究を始めていたキュリー夫妻は、ヨアヒムスタール鉱山で採れるピッチブレンド「不運な鉱物」・瀝青ウラン鉱に含まれるウランが、ボヘミアングラスの着色剤に使われていることを知った。夫妻は、廃鉱から大量のピッチブレンドを取り寄せ研究に没頭する。
 使われなくなった粗末な解剖室で、トン単位の鉱物を分析し、未発見の放射性物質が含まれる可能性に気づく。なんと8トンのピッチブレンドから1グラムのラジウムを取り出すことに成功する。
 きわめて強力なラジウムとポロニウムの発見によって、1903年ノーベル物理学賞がベクレルとキュリー夫妻に授与された。

 思いを巡らす。彼らの死因に。
 たとえばヨアヒムスタール鉱山労働者たちの原因不明の病は、放射性物質によるものだろうか。おそらくそうだったろう。
 で、ピエール・キュリーは馬車に轢かれて亡くなったのだが、すでに放射能に蝕まれていたことがわかっている。
 もちろんアンリ・ベクレルは放射線傷害で56歳でこの世を去った。
 マリー・キュリーは、66歳で白血病で鬼籍の人となった。
 ある化学の先生は、「人が一線を越えたのは、この時期だ」と、おっしゃった。
 その後、着色剤としての使命を終えた「ウランの道」は、誰もが知っている不幸を起こしていく。
 
 西欧の分析化学(科学)は、錬金術から始まって、電磁波の研究があって現代につながってくる。
 ニュートン以来の物理学が量子力学へと。それがエネルギー革命を起こした。

 さて、我が国の話で、今日のブログをしめたいと思う。
 日本でもウランガラスは、第二次世界大戦まで製造されていたらしい。
 その後、2003年に国内有数のウラン鉱床がある岡山県人形峠で産出するウランを使用したガラスが開発された。
 手元に届いたペーパーウエイトは、国産のウランガラスでつくられたもの。
 同封の説明書きによると、ウランの含有量は“0.1~1%”程度で、人体への危険性はまったくない、ということ。信じるしかない。

 黄緑色のペーパーウエイトを眺めながら、思いを巡らす。
 ウランに限らず、「人は、いつ、どこで、一線を超えるのか」
 そのために、まず、ウランガラスのペーパーウエイトを身近においてみたかった。
 これって、一線を越えている行為だろうか???????
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