野口体操は「イメージ体操だ」と称したのは、今は亡き藤岡喜愛氏だった。
代表的な著書は『イメージと人間』NHK出版である。
70年代後半か80年代初めに、野口先生のご自宅までお訪ねになって、野口体操のことを研究しておられた。
そのようなこともあって、何冊かの著書を読ませていただいた。
当時は、正直なところ「野口体操はイメージ体操」という言葉の真意がよく分からなかった。
しかし、私のなかでは三島由紀夫の告白的エッセー『太陽と鉄』が観念的だというのなら、野口三千三著の『原初生命体としての人間』も、同じくらいに観念的な内容ではないかと思う。では、イメージと観念はどのように違いがあるのか。この点については哲学や心理学を専門としておられる方に説明を乞いたい。
ひとつだけ理解できることは、これまでにない独自の体操を探り・深め・伝えるとき、実証だけに頼るわけにはいかないことははっきりしている。
実は、「寝にょろ」と名づけられた動きを説明するときに、野口先生はこの言葉を必ず言っておられた。
「皮膚という伸び縮み自由な生きている袋。その中に液体的なものがいっぱい。骨も筋肉も内臓も脳も浮かんでいる」
はじめてこのことばをレッスンで耳にしたとき、何を言っているのか分からなかった。
ただし、「寝にょろ」を先生にやっていただいたときに受けたからだの気持ちよさは、はっきりと覚えている。ほとんど眠くなった。意識が飛んでいくような感じだった。言葉は要らない!っていいたかった。
しかし、実際にはこの言葉を聞くことによって、床の上で行う「やすらぎの動き」「真の動き」といった一連の動き方の質が変わったと思う。
従来の体操観・従来のからだの動かし方とは、全く異なる野口体操の動きにとって、貴重なひとつのイメージであると思える。それがからだの実感になったとき、瞬時にして、実感が言葉を越えてしまったのだったのではないだろうか。
今年4月のことだが、「野口三千三を読む」という朝日カルチャーでの講座で、驚かされたフレーズがあった。
それは、今までにも読んでいたはずだった。しかし、気付かないまま読み流していた。
「皮膚という原初的な脳、今は外側の脳ともいうべき生きているひとつの袋。この袋の中に体液という生きものがいっぱい、その体液にとっぷりつかって生きているのが筋肉・骨・脳・内臓……、この多重構造の生きもの全体が自分なのである」
つづけて、「人間のからだは固体的でなく液体的である」。
第二章「原初生命体の発想」の核心部分の文章である。そこから「コロイド学」に話が及ぶ。
ここの発想は、野口体操の動きの中心核になるところで、ここが理解できないと動きは変わらない。ところがこの説が、野口体操の理解にとって「ネック」になっているところだ。
そして、私は、今年になってはじめた「野口三千三を読む」の講座の準備で、悪戦苦闘をしながら、ようやくこの第二章が読めるようになってきたと思っている。
30年という年月は、無駄ではなかった!
からだをやわらかくすること・やわらかな動きができるようになること・動きに軽さが出ること等々、すべてが第二章「原初生命体としての発想」が源になる。
そのイメージを実感に近づけるために、野口先生は亡くなるまでご心を砕かれた。
さて、この問題をどのような形で、普遍化できるのだろうか?
野口体操の逆立ちも・おへそのままたきも・腕立てバウンドも、ここから発想されたものだということが、はじめてつながってきたところだ。とはいえ言葉にするのはとても難しいのが現状だ。
代表的な著書は『イメージと人間』NHK出版である。
70年代後半か80年代初めに、野口先生のご自宅までお訪ねになって、野口体操のことを研究しておられた。
そのようなこともあって、何冊かの著書を読ませていただいた。
当時は、正直なところ「野口体操はイメージ体操」という言葉の真意がよく分からなかった。
しかし、私のなかでは三島由紀夫の告白的エッセー『太陽と鉄』が観念的だというのなら、野口三千三著の『原初生命体としての人間』も、同じくらいに観念的な内容ではないかと思う。では、イメージと観念はどのように違いがあるのか。この点については哲学や心理学を専門としておられる方に説明を乞いたい。
ひとつだけ理解できることは、これまでにない独自の体操を探り・深め・伝えるとき、実証だけに頼るわけにはいかないことははっきりしている。
実は、「寝にょろ」と名づけられた動きを説明するときに、野口先生はこの言葉を必ず言っておられた。
「皮膚という伸び縮み自由な生きている袋。その中に液体的なものがいっぱい。骨も筋肉も内臓も脳も浮かんでいる」
はじめてこのことばをレッスンで耳にしたとき、何を言っているのか分からなかった。
ただし、「寝にょろ」を先生にやっていただいたときに受けたからだの気持ちよさは、はっきりと覚えている。ほとんど眠くなった。意識が飛んでいくような感じだった。言葉は要らない!っていいたかった。
しかし、実際にはこの言葉を聞くことによって、床の上で行う「やすらぎの動き」「真の動き」といった一連の動き方の質が変わったと思う。
従来の体操観・従来のからだの動かし方とは、全く異なる野口体操の動きにとって、貴重なひとつのイメージであると思える。それがからだの実感になったとき、瞬時にして、実感が言葉を越えてしまったのだったのではないだろうか。
今年4月のことだが、「野口三千三を読む」という朝日カルチャーでの講座で、驚かされたフレーズがあった。
それは、今までにも読んでいたはずだった。しかし、気付かないまま読み流していた。
「皮膚という原初的な脳、今は外側の脳ともいうべき生きているひとつの袋。この袋の中に体液という生きものがいっぱい、その体液にとっぷりつかって生きているのが筋肉・骨・脳・内臓……、この多重構造の生きもの全体が自分なのである」
つづけて、「人間のからだは固体的でなく液体的である」。
第二章「原初生命体の発想」の核心部分の文章である。そこから「コロイド学」に話が及ぶ。
ここの発想は、野口体操の動きの中心核になるところで、ここが理解できないと動きは変わらない。ところがこの説が、野口体操の理解にとって「ネック」になっているところだ。
そして、私は、今年になってはじめた「野口三千三を読む」の講座の準備で、悪戦苦闘をしながら、ようやくこの第二章が読めるようになってきたと思っている。
30年という年月は、無駄ではなかった!
からだをやわらかくすること・やわらかな動きができるようになること・動きに軽さが出ること等々、すべてが第二章「原初生命体としての発想」が源になる。
そのイメージを実感に近づけるために、野口先生は亡くなるまでご心を砕かれた。
さて、この問題をどのような形で、普遍化できるのだろうか?
野口体操の逆立ちも・おへそのままたきも・腕立てバウンドも、ここから発想されたものだということが、はじめてつながってきたところだ。とはいえ言葉にするのはとても難しいのが現状だ。