羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

村上春樹氏 寄稿文

2012年09月29日 11時22分27秒 | Weblog
「魂の行き来きする道筋」尖閣諸島を巡る寄稿文が、実は昨日午後から、デジタル版で読めなくなっているようでした。
 今朝から、撫明亭ブログで読む事が出来ます。
 リンクしますので、ぜひ、クリックしてご一読を。
 一人一人が、それぞれ、自分で考えましょう。
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「みんな」の時代

2012年09月29日 04時57分00秒 | Weblog
 昨日、村上春樹氏の寄稿「魂の行き来する道筋ーそれは安酒の酔いに似ている。」は、多くの人々に共感を与え、たくさんの人々に読まれた様子が、TwitterやFacebookの書き込みから見えてきた。因みに、今年のノーベル文学賞はこの人に!といった悲願に近い思いが垣間みられたのは、私だけだろうか。
 
 一方、『政治を話そうー「みんな」の時代』オピニオンでは、やはり作家の橋本治氏が寄稿していた。
 こちらもなかなかに卓見で、今のわけがわからない政治情勢を、一つの方向から見せてもらえた。
 主張の一点はこうだ、
《「上から」のリーダーは終わり もっと頭を使っていかないと》
「国民」というより「みんな」のという意識の萌芽は今から40年前1970年代の全共闘を名乗る学生の集団が生まれた時代にあるという。
〈「国民」というより仲間 ワンテーマで横並び 結集したその先は》
 と問いかけるが、今の政治への何となくのフラストレーションの一つの答えであるかもしれない、と思いつつ寄稿文を読んだ。

 村上さんの影に隠れてしまった感があるけれど、こちらも読んでなるほど!と思えた。
『政界再編が起こるかどうかは分からないというのは、今や政党自体が個人名を冠した個人商店党的なものになっているからだ。たとえば小沢党とか橋下党とか、野田党になれない民主党は崩壊の危機を迎えているが、云々』
 
 二人とも右手で頬ヅエをついている写真を載せているが、村上さんがカメラ目線で堂々とこちらを向いているところに作家として生きる姿勢の違いがあらわれていて興味深かった。

 いずれにしても野口体操という個人名の体操をミッションする私としては、野口三千三が言うところの「あなたの名前になった時、はじめて体操が皮相なものではなくなり、本物として根付いたということです」
 その言葉が思い出された。
 申し訳ない、まだ羽鳥体操とは言い難いところに忸怩たる思いを抱いている。
 同じ、個人と言っても、微妙な差異がありますがね!
 
 ようやく読むべきものが出揃ってきた、という感がしています。
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「ライフログ」ご存知ですか?

2012年09月28日 08時25分39秒 | Weblog
 日経新聞の記事もご紹介。
「ネット人類 未来」『第一部 巨大データの光と影 3」ー『「記録したい」本能と葛藤 忘れられる権利』
《目標は完全なる人生の記録》ということで、アメリカのコンピューター産業を牽引してきた重鎮の方の話。
 自分にまつわるものを全てネットに取り込んで残そうとすることを「ライフログ」というそうだ。
 1999年から研究に取り組んで、著書や論文、走り書き、クレジットカードの明細、はては航空券の半券や写真等々をスキャンして記録に残しているそうだ。
 9億5千万人が使う(SNS) Facebookがライフログには最も簡単な道具であるらしい。
「現実の人同士のやりとりを再現して、個人の人格を丸ごとネットに載せる」
 永遠に残る言を希望する人っているのだろうか?

 とはいえ、野口三千三の資料をスキャンしてデジタル化している私の行為も、すでにその領域に踏み出しているのだ。
 今朝は、はたと手を止め、足を止めて読む二つの記事に出会った。
 それがこの記事と、一つ前のブログに紹介した村上春樹寄稿文だった。

 話を戻すと、ネット上で一回クリックも積み重なれば価値を生む、という価値観の恐ろしさである。
 個人がネット上で丸裸にされてしまう現実がある。
 記事は指摘する。「個人情報へのルールづくりが求められている」と。
 何気なくマウスを押す側も『情報は永遠に残る』そのことを認識すべきである。と

 何事にも裏と表があり、光と影がある。
「守られるべきもの・こと」と「秘すべきもの・こと」をどのように関わっていくのか、という新しい課題が市井に生きる個人にも問われる時代がすでに走りだしている。一気に地球規模なのだ。
『光圀伝』でも提示されていた。ある組織やある個人にとって不都合な出来事も記録として残していくことで、後の世が歴史を評価するために史書を書くことの意味だ。
 今、私たちはネットという媒体で、膨大な量の歴史を描いているのかもしれない。

 野口三千三の記録を残したい!という思いが、デジタル化とネットで実現している今こそ、この記事が示唆している『「記録したい」本能と葛藤』そして「忘れられる権利」という問題を、考えてみたいと思った。
“危うさという雲”に乗って、人は何処に行こうとしているのか。
 
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村上春樹さんの寄稿文

2012年09月28日 07時47分54秒 | Weblog
 今朝の朝日新聞朝刊の一面にハッとし、紙面を捲る手の動きがじれったいほどでした。
 全文は3面にあって、静かに読み終え「こうした主張を待っていた」というわけです。
 ぜひ、クリックして読んでください。
 村上春樹さんの「領土問題」への思いが綴られています。
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いよいよ

2012年09月27日 05時20分34秒 | Weblog
 先週は、母の介護保険のことや法事、そのほかの所用、10月初旬のパネルディスカッション準備に殆どの時間を割り当てた。
 
 今週は切りよく月曜日から後期授業が始まって、今日で全てのクラスが開くことになる。
 はじめて私と名字が同じ学生がいたり、御両親が演劇関係であることから意気込みをもって履修する学生がいたり、と大学で授業をするようになった10年間、これまでにない雰囲気がどのクラスにも生まれている。

 10月12日にちくま文庫の本が店頭に並ぶと、夏休みを返上した日々が、一気に一つのまとまりとして形になってくれる。
 何ともありがたいことです。
 野口三千三先生、没後15年の春には、落ちついていくつかの報告が出来そうだ。
 さて、いよいよ後期の本格的な幕開けとなるが、気持ちはグッと引き締まって秋を迎えている。
 
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『光圀伝』

2012年09月26日 19時38分27秒 | Weblog
 冲方丁著『天地明察』を読んだとき、凄い作家が誕生しているのだ、と思った。
 そしてこの『光圀伝』、はじめは最後までたどり着けるか、と思うくらいの本の厚さで途中挫折するかもしれないという不安がよぎった。
 ところが、いやはや、グイグイ引込まれて、最後の章に近づくにつれて心が急いた。「渾身の1500枚!」と帯にあったが、大河エンタテイメントという言葉に嘘はなかった。
 
「なぜ、あの男を殺めなかればならなかったか」という答えは書かずにおく。
 読み終えた時、からだの芯から興奮の渦が巻き起こって、震える手足をどうにもできなかった。
 力が抜けない。
 それでも階段を降りかけた。しかし、思わず足を止めた。
 しばらく呼吸が整うのを待って、手すりにつかまってゆっくり足を運んだ。

 実に、小説の醍醐味を味わわせてもらった。
「江戸期を知る」ということもあったが、人間の生き様を、すぐ目の前、手の届くところで映し出してもらった!
 実は、まだ、ここに感想を書ける状態ではない。が、とにかく読み終えたことだけは、記しておきたかった。

 素晴らしい!
 
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小耳に挟んだ話

2012年09月19日 09時15分05秒 | Weblog
 ある会社が銀行から融資を受けるために、二カ所の工場を抵当に入れることにした。
 いざ、話し合いになって、一つは小田原、もう一つは箱根にあることを告げると、そこでは融資はできないと断られたそうだ。
 理由は簡単。小田原は津波、箱根は富士山の爆発。つまり災害リスクが高い場所では抵当物件として価値が低いというわけだ。
 この話はありそうな作り話だ。しかし、こうした話が巷で交わされるところに、不安感は増長される。
 
 いったい、日本地図上にわかっている活断層を描き、さらに未知の活断層を想像し、あるいは豪雨による浸水や山崩れを予想したら、災害リスクゼロの場所を見つけ出すことなど出来ない相談だ。
 ならば、いっそ、外国の安全な地域に工場を移すしかない。
 さらに災害リスクが低いことに加えて、国情が安定しテロや暴動のリスクのない地域を探せということになる。
 力のある会社が、どんどん国内から出て行ったら、日本に生きる根底から崩れる。
 もっと言えば、日本人は、流浪の民となってしまうではないか!

 私たちはこれまで、この日本列島の上で、災害とともに生きてきた。日本の歴史、文化、文明を築いてきた。
 子どもの頃は「日本は地震国だから、高い建物はつくれない」が、常識だった。
 それが私が生まれ育った西新宿は、高層ビル街に生まれ変わって久しい。あのビル群が廃材となったら、どこに廃棄物処理を頼むのだろう。引き取り手はないに違いない。
 それどころか使用済み核廃棄物はもっと厄介な問題をはらんでいる。
 そうした状況のなかで、大学の休み時間に注意を促すアナウンスをしているにも関わらずカルトに嵌まっていく純粋な若者の気持ちもわからなくはない、ところに問題の根深さと困難がある。
 
 日本人が経験したことのない状況があって、過去の歴史から学べるものはないかもしれない。しかし、皆無ではないはず。ここは静かに端座して、人類の知恵を採掘し、将来を描くしかない。そして一つ一つ変えていくしかないだろう、と思う。

 こうして、私たちが造り上げた文明が、いかなるものであったのかが、白日の下に晒された。
 9・11と3・11は、文明の十字路(空間・時間)の分岐点となったメモリアルなのだ。
 畏れは大事だが、極端に怖れているばかりでは、現在と近い将来の暮らしは成り立たない。
 日本は少子化といえども今日も赤ちゃんは誕生している。その子どもが成人式を迎える時、残しておく社会の有り様のなかで、何がいちばん大切なのか。そのくらいのスパンで考えるくらいの時間感覚は与えられているし、運を天に任せて出来る事からはじめるしかない、と思う。

 まことしやかに囁かれた“小耳に挟んだ話”から、取り留めなく思いつくままに書いてみないことには落ち着かない今日この頃の私です。
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「多臓器円環」と「皮膚の話」

2012年09月18日 11時33分15秒 | Weblog
 8月5日の日経新聞記事「内臓同士が情報交換? 体の恒常性維持に一役」『ナゾ 謎 かがく」欄を土曜日のクラスで紹介した。
 野口先生の「まるごと全体」「つながり、つたわり、まわり、めぐり……」「円・波・渦・螺旋」の発想を現代の科学がどのように捉えているのか、といった興味からだった。
「多臓器円環」とは、研究者たちが考えた造語とか。昨年秋にひらかれたシンポジウムは「多臓器円環ダイナミクス」だそうだ。
《生命は全体(全身)が相互に影響を及ぼし合う複雑系。部分を詳しく調べていくこれまでの要素還元的な手法だけでは理解しきれない》
 今のところ、「臓器同士が情報回路でむすばれている」というイメージ理解をしておくことだ。

 さて、その話に関連して本を紹介された。
『皮膚という「脳」』山口創著 東京書籍である。今朝、ざっと目を通した。土曜日にはこのテーマで改めて「野口流マッサージ」を取り上げてみたい。
 地球上には脳がない生物は無数といるが皮膚がない生物はいない、という着目点から、話が展開される。
 重ねて言うと、皮膚が心あるいは脳の役目を果たしているという観点から、皮膚が持つ驚異の諸機能を解き明かしていく。
「手かざし」「気をおくる」等々、オカルト的な章もあって、浅い読み方をすると「とんでも本」に受けとられる危うさを秘めている。

 しかし、視覚(色)、聴覚(音)と皮膚との関係、皮膚に宿る知能について、思わず膝を打つことになる。
 野口三千三が1960年代に、生きものにとって「境界」の重要性を説き、「五感の大本は触覚(皮膚感覚)」であるという問題提起を、現代科学の知見から行ったひとつの証明でもある。
 つまり、「皮膚は外側に張り巡らされた脳」という考えから発想された野口の先駆性は、当時には少数にしか理解されなかったが、ようやく時代が理解の域内に入ってきいたと言えるかもしれない。
 
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今週前半の動き……予約開始……リポート……シェークスピア

2012年09月12日 12時09分49秒 | Weblog
 ちくま文庫に入る『野口体操 マッサージから始める』が、amazonで予約を始めたようです。
 ここまで来るとなんとなくホッとします。新しく「まえがき」を書き、坂本龍一さんとの電話会談を文章にまとめて、全体としてどのような文庫本に仕上がってくるのか、楽しみになってきました。
 
 昨日で、夏休み中のシェークスピア・プロジェクトの指導が終了しました。コメントを書くのが残っていますが、あとは11月の本番を見せてもらうことになります。夏の盛りに、晩夏の残暑にもめげず(ちょっとお疲れがたまっているかも)連日の稽古に若い命を燃焼させています。
 ブラボーの声を耳の奥に響かせるまでの余裕はまだまだですが。

 東京芸大の集中講義の際、学生に提出してもらったリポートが今朝方届けられました。
 まだ丁寧には読んでいませんが、パラパラ目を通したところでは、ちゃんと伝わっているような感じがしています。野口体操の歴史をしっかり話した事はよかったように思いました。
 後でゆっくり読み直しをします。

 先ほど、母の介護保険継続のために調査員の方が訪ねてくれました。
 一昨日には、かかりつけの医者の訪問も受けました。
 少しずつ衰えていくようです。その時々に適切な対応ができるといいとおもっていますが。不安感がないのが不思議であります。

 今年は例年になく、夏休み返上の暮らしでした。
 なんとか無事に乗り越えられそうです。
 あっちこっちに不義理をしました。
 ちょっと一息入れることが出来そうです。ホッ!
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長唄協会「声とからだの勉強会」で……

2012年09月11日 08時31分07秒 | Weblog
 9月9日、邦楽界を支える方々に、野口体操をガイダンスしました。
 NPO法人「芸術家のくすり箱」協力で、長唄協会福祉厚生委員会企画の催しでした。
 今年で二回目です。参加者50名ということでしたが、さすがに芸の道を究める姿勢が身に付いた方々、吸収し学び身につけようとする向かい方が、ひと味違う真剣さが伝わってきました。といってもどこか柔らかさがあるところが、芸の道!
 自宅に戻ってひとりでも稽古ができるように、という希望から厳選して体操を選び出しました。
 
 つくずく思います。
 東京芸大での集中講義でも実感しましたが、野口三千三が32年間芸大で、また大学の外で演劇界等々でも野口体操を実践し、晩年は生涯学習の場で、折々に試行錯誤を繰り返し、その場その場で工夫に工夫を重ねながら、結果として「人間にとっていちばん大切な基本の動きとその理論」は、どのような在り方なのかを人生をかけて探った方向の確かさです。
 そこから導きだされた身体観、自然観は、今の時代ゆえに理解される土壌が出来上がってきたことも同時に感じられたことです。

 今年の夏は、私にとって新たな“野口体操覚醒の年”となりました。

 継続こそ力!
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編集者のつぶやき

2012年09月09日 13時03分06秒 | Weblog
 2008年朝日新聞出版から上梓した『マッサージから始める野口体操』が、来る10月12日にちくま文庫に入ります。
 そのなかに、にわかに時の人となった作曲家の坂本龍一さんと羽鳥の電話会談があたらしく付きます。
 自分で言うのもおかしいですが、とても密度の濃い内容になっています。

 実は筑摩の編集者の方が、先ほどTwtterでつぶやいていることを知って、私も発表していいのだと思いブログに書き込みしました。早く言いたかったのを、我慢して今日になったようなつぶやきでした。
 皆様に読んでいただける日も近くなりました。
 いよいよ一ヶ月です。
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野口体操を育てた東京芸術大学での集中講義を終えて

2012年09月08日 07時04分47秒 | Weblog
今日は9月8日の土曜日!
 朝日カルチャー「野口体操講座」のレジュメを書こうとカレンダーを確かめて、一瞬、息をのんだ。
 ほぼ二週間ほどブログを書かなかったことになる。
 この編集画面にこれほどのご無沙汰したのは、2005年8月にはじめて以来、はじめてのことかも知れない。
 この間、何をしていたのだろう、と思わず黒革まがいの手帳を繰った。
 明大のシェークスピアプロジェクトの稽古で野口体操を指導したり、打ち合わせで芸大をたずねたり、集中講義の内容を詰めたりしたのが、前半の一週間だった。
 そして9月4日と6日は、東京芸術大学の集中講義で、朝から夕方まで上野で過ごしていた。
 美術学部が一日。音楽学部が一日。
 若き芸術家との触れ合いは、とても気持ちのよいことだった。

 上野の山は樹木も大きく育ち、ビル街や東京の一般的な町の気温に比べたら、2度は涼しいのではないかと感じられる。
 この地に残された自然の中に、寛永寺に代表される江戸の文化と、欧化政策のうち芸術文化を担う近代日本とが共存している場だ。もっと正確に言えば、古今東西の文化財の集積場であり、さまざまな伝統の中で、現代日本の芸術や新しい時代の世界へ羽ばたく芸術が生み出される場でもある。
 その教育の中心が東京芸大であることを実感させてもらった二日間は、野口三千三先生から贈られた貴重な空間であり時間であり、なにより人との出会いであった。

 午前は座学で、「感覚をひらく」をテーマに、野口体操のガイダンスを行った。
 午後からは体育館に移って、動きの説明と僅かな実体験授業を行った。
 冷房のない空間、蚊取り線香を炊いて、という条件で、「上体のぶらさげ」と「腕立てバウンド」、そして「マッサージ」を中心に時間を過ごした。
 上手く伝えられたこと、伝えられなかったこと、その他、思うこと多々ありで、後から反省しきりだが、野口体操の行く末を考える上で、覚悟を決めるターニングポイントとなったと思っている。
 先生方やとりわけきめ細かく面倒をみてくれた助手の女性には、感謝の一言である。

 なにより野口先生が「寛永寺に眠りたい」と思われた大本の心情が理屈をこえて、一言では言い表せないが、解することができたことはなによりの収穫であった。

 時は流れ、時代は移り、記憶から失われる多くのものやことがある。
 私のなかでも忘れかけていた様々な思いが、一気に吹き出た二日間とそれまでの準備に費やした時間をもらえたことに、今朝は祈りを捧げている。

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