羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

映画『シャニダールの花』

2013年07月29日 12時45分51秒 | Weblog
 この映画は、はっきり言って、”勧善懲悪“ ”起承転結“ ”明確なストーリー”、といったことを求める人には向かない。見方はいく通りもあるし、好き勝手に、それぞれがイマジネーションを膨らませて、映像の中で遊ぶことができる自由人には、或る種の刺激を確実にもたらすだろう。

 一晩、寝て起きて、昼になって言えることは、「魂の発生に、心の発生に、謎に満ちた迫り方をしていたのか」という問いかけだ。
 女の愛の多彩さと微妙さが、命を感じさせない無機的な身体によって重ねて表現されている。つまり、生ものの身体が発する“熱”というものが欠如している。それが監督の狙いだったのかもしれない。
 嫉妬も献身も嫌悪も純愛も、どれに触れても火傷しない、感動もない、”冷光”の発光現象のように描かれていく。
 淡白な色の中で、花だけが色とりどりの色彩をもっている。しかしその花々も化石化して、命は失われている。
 花も実もない世界なのだ!
 村上春樹の新作をもじって「色彩を持たない◎男と◎子と、彼と彼女の巡礼の年」って感じかな?

 テーマにもなっている“シャニダールの花の化石”は、人の死に花を手向けることで、あの世の畏れを癒し、この世にそれ以上の悪さをし、仇なすことがないように、祈り封じ込めるものの遺物のかけらだったのかしら。
 敵の死にはその復讐を恐れ、味方の死には悲嘆を、だから人は人を食べる行為を行う。腹を満たすためだけでなく、儀礼としてその行為を行ったに違いない。その中で、いちばん神聖なものは「脳」だった。そのことを古代人は、すでに知っていたのだ。脳は現実を把握することもある。しかし、脳が生み出す幻覚、幻聴、幻像、夢幻、……、おそらくそうしたことから喚起されるイマジネーションは、死の恐怖という観念で彼らを襲ってきたに違いない。 野生でも感じる身体が生み出す恐怖から、新たに「人の脳が生み出す恐怖」を知ってしまった。だから埋葬という儀礼が、古代において求められるようになった。当然、花と歌が捧げられただろう。花は残り、歌は消えていったが……。

「ひとはいつからひとになったのか」
「ひとはしのかんねんをもったときからひとになった」
 養老せんせいは、おっしゃる。

 さて、映画に戻ろう。
 最後におんなは命を育むのだ。それがふたたび「悪」を生むものであろうとなかろうと、自らの身体に宿った生命をこの世に生み出そうとする、のが「おんなの性」であることを知らしめる。
 良いものを残し、悪いものを事前に消し去ることは、生命の論理にはあわない。善も悪も表裏だからだ。
 生と死の境界は危うい表裏なのだ、と教えてくれる。
 何時の時代にもおんなは命をかけて新しい生命を生み出すものだ、ということも教えてくれる。
 私たちは生をもとめて果てしない巡礼にでかけるのだ。それが生きものの性なのだ。
 人をあの世におくる時、生殖器でからだを包み、再生を願って、旅路の無事を祈るのだろう、きっと。
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アマテラス

2013年07月25日 11時40分13秒 | Weblog
 さまざまな音色の太鼓の連打、それは人の意識を自在に操る。
 いや、操る意図は毛頭ない。結果として聞く人の思考を停止させ、異空間へと引きずり込むのだ。
 
 その快感!
 その驚愕!
 その魔力!

 雷鳴轟く荒れ狂う海に劣らぬ制御不能な情念が肉体を鍛え上げ、鍛え上げられることで神空間へと一人ひとりの演者を引き上げることを可能にする。
 そこには、湿度も粘度も高い和太鼓を育てた風土があった。
 平胴太鼓、長胴太鼓、桶胴太鼓、締獅子太鼓、締太鼓、団扇太鼓、それぞれに長さ・太さ・厚みが異なる太鼓は、打ち方の技で無限の音を響かせる。
 人間界のありとあらゆる情緒、情念、情性、情味、情愛、情弊、情懐、挙げたらきりがない「情」であらわす感情が “これでもかッ、これでもかカカカッ ガガガガッ ドドドドッ” と、打ち続けられ、地鳴りのごとく鳴り響く。
 カオスの実体を「太鼓というオノマトペ」、つまり擬情語をもって語り、そのまま神と対峙する世界が、舞台上で展開する。

 シルクロード、敦煌の楽器も加勢する。
 琴、胡弓、笛、佛鉦、ジャンガラ、木魚、ささら系、ネパール仏教寺院の命を繋ぐ托鉢の鉢、さらにインドネシアのボナンや竹のアンクルン、それそれ育つ環境が異なった楽器群が、浄められた水面に揺れる蓮の花の安らかさを加味する。
 するとどうだろう。
 赤坂サカスがそのまま聖地として変身をとげていった。
 からだの芯を揺らす・叩く振動に、見るもの聞くものたちまでもが、シャーマンと化していく。
 一生懸命、自分を保とうとする。しかし、それは無駄なことと早々に降参して、どうにでもなれ!とばかりに陶酔境に身を委ねることが、ここでは賢明な策なのだ。

 ……これらを操る、いや、これらに操られる「鼓童」たちに、言葉による賛美は似合わない。人の言葉には、あまりにも手垢がつきすぎていて、選語に戸惑う。
 “この言葉も違う あの言葉も違う”と、じりじりした思いに、今、私は身を焦がして書いているのだが。……
 
 だから、地上に遣わした言葉は、“太鼓の言葉”なのだ!
 それだけで十分だった筈。
 しかし、彼らは満足しなかった。舞台の質が高まれば高まるほどに、危険であることを何時しか知ったに違いなない。
 魔境に迷い込んだ聞く人、一人ひとりを覚醒させる新たな装置を、懸命に模索し、そして得たのだ。
 それは極上の天から舞い降りた「アマテラス」だった。

 ……そうだ、かつて大和路の佛たちと出会ったことを思い出す。とりわけ百済観音の御姿には、ギリシャの神々を超えたアンバランスな長身に、僅かな疑念さえ抱いたことがあった。ロマネスクとも違う。一体全体、何なのか。大きな疑問符は、私のからだのなかに、半世紀近く仕舞われたままだった。
 その姿が、玉三郎という生身のからだに宿って現前した瞬間に、私は立ち会った。
 思わず、得心した。
 これだったのだ「天と地を貫く柱」、これだったのだ「天の逆鉾」へと連なるイメージとは。
 確信するのに時間はかからなかった。……

 殴り合い、殺しあい、強姦し、人を食い、盗み、「悪」と名のつく限りを尽くす象徴的な現世の地獄模様に、厳然と筋目を通していく統一の力。
 ある学者は言う。
「古事記」は、幾重にも重なった民族と文化をまとめあげていく物語である、と。
 
 第一は、隼人・海人に象徴される「縄文的な層」。
 第二は、田を耕しムラやクニを成り立たせた「弥生的な層」は、出雲に見られるようなヤマト政権に対立した層。
 第三に、中国に習って「律令的国家としての統一の層」。ここに自然神としてのアマテラスをおくことで「日出ずる国」が誕生した。
 
 神話は語る。
 太陽神、アマテラスの死と再生は、古い太陽から新しい太陽へと生まれ変わることで、調和へと人々を導く、とね。まさしく自然信仰に基づく、普遍宗教の誕生なのだろう。
 そして“天岩戸”は、冬至という自然現象を暗示する。太陽が地球から遠ざかり、地上に夜の暗闇の長い時間をもたらす。暗く長い冬は、徐々に、ほんとうに徐々に、春の生命の息吹と豊穣をもたらすのだが、それにはエロスの象徴となるアメノウズメが、炎のもとで踊ることによって受胎する「性の歓喜」がなくてはならない、と説く。
 アマテラスは、その時、両性具神に変身する、と今回の舞台は悟らせてくれる。独断かもしれない。偏見かもしれない。しかし、そう見えてくるのだった。

……私はひとりの観客として、目の前の舞台で繰り広げられた出来事に遭遇し、芸能という底知れぬ渦に巻き込まれてしまった。
 この舞台に先の三層を重ねる深読みをお許しいたきたい。
 佐渡の鼓童、宝塚の端麗な男役の愛音羽麗、歌舞伎の洗練の極にある玉三郎、異質な三層が「古事記」という神話の世界を描き上げるその現場の中心にいさせてもらった、と気づかされた。前から六列目の座席に深々と腰をかけて……
「生命の再生と循環」を、あえて言葉抜きの音楽と舞いという身体表現のみので、「生命への讃歌・謳歌」にまとめあげ、祈りに昇華させた演出はさすがに見事だった。オリエンタル、そして混沌のアジアを織り込んだ玉三郎の胆力を知らされた。描き出された世界は、一つの“普遍”であり、関わった全ての人々の思いの深さとそれを表現する力による“コスモス”空間だ。
 その時、観客は、単なる観客ではなくなる。
 観客自らも「太陽の死と再生」の申し子である慶びを宿して、うしろ髪ひかれる思いで、劇場をあとにする。
 海原の青と太陽の紅炎を模する布が、舞台全体を波状に包む美しさを目に焼き付けて、それそれの街に帰っていく顔は、晴れやかだった。
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劇団四季メソッド

2013年07月24日 08時45分57秒 | Weblog
『劇団四季メソッド「美しい日本語の話し方」』浅利慶太著 文藝春秋社刊 を読んだ。
 114ペページに、平幹二朗と市原悦子が演じたラシーヌ『アンドロマック』の舞台写真が掲載されていた。
 上演は、完成して間もない日生劇場が会場だった。素晴らしく綺麗で、まだ色も匂いもついていない真新しい空間で演じられたシーンが、次々と、ありありと思い出された。

 後に「家政婦は見た」で、茶の間でのイメージが定着した市原さんだ。当時とて、王女役には風貌に違和感があったのだが、それを数分のうちにかき消した彼女の演技力に“凄さ”を感じた、ことも思い出した。
 この本を読んで判った。それを可能にしたのは、彼女の「言葉の力」だった。この本によれば「フレージング法」ということになる。これは音楽の演奏法の学びと同じことを行っていたことを知った。

 さて、いちばん興味を持てたのは、第五章「劇団四季の歴史ー言葉に対する探求の積み重ね」の章だった。
 そこで感じたことは、劇団がたどり着いたところは、「現代版グローバル歌舞伎」ではないのか、という思いだ。
 もし、これから100年とは言わないが50年継続できたら、エンターテーメント劇団として海外に売り出せる可能性を秘めている。(すでに韓国では韓国語、中国では中国語で行われているらしいが)こうした「クールジャパン」があってもいいじゃないかって、勝手なことを想像している。
 
 しかし、“(演劇で)食べられる”とはこうした道だけなのだろうか? と問いかけたくなる。
 演劇とは何か、という問いなのかもしれない。(私の範疇は超えています)
 とはいえ、グローバリゼーションとローカリゼーションの融合というテーマが、劇団四季がここまでやってきた証明があった上で、この問題が俎上にのったと言えるのかもしれない。

 はてさて、結局、最初にこの本を書店で手に取った思いはどこかへいってしまった。
 8月8日の鴻上対談が頭にあったのだけれど……。今までこうした方向に関心が向かなかったが、ちょっと世界が広がってきたかな。
 
 ところで、御歳80歳になられた浅利さんまでこうした本を出版されるということは、グローバル化の時代に、日本人のプレゼンテーション能力が、仕事人にも一般人にも、より求められるようになった証拠だろう。
 思えば、(たしかに)、演劇を専攻する学生たちが潜在させている表現力は、他学部の学生にはなかなか見られないものがある、と常々感じている。
 いちばんは「表現」ということがビジネス界にとって、無視できないことになってきて、「売れる本をつくろう」という出版社の生き残り作戦もあって、この手の本が書店の目立つところに並べられるようになって久しいことを痛感した。
「身体表現」「文字表現」「PC表現」「映像表現」「動画表現」……、基本として問われるのは、「言葉の編集力」ではないだろうか。それは読書と五感+第六感を磨く身体に寄り添うことによって身につくことに違いない。
 
 たぶん、この本は、手に取った読者にとって、単に「表現法」を知るだけでなく、新しい企業を起こす心得のようなことも読み取れるようなつくりになっているところが、「劇団四季メソッド」なのだと思った。
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いよいよ夏バージョン

2013年07月23日 07時32分46秒 | Weblog
 本日の午後のコマで、前期授業が終わる。
 文科省が厳しくなって、一期14回~15回、通年で28回~30回の授業回数を確保しなければならい。
 私が担当しているスタディーは、授業の最終日に「より一層の理解を深めるために」、個人実技テストとリポート提出を学生に課している。
 殆ど1コマを使ってテストを行う。人数がおおい組は、ぎりぎり時間内におさまるように配分に心をくだくことになる。
 これまでに提出されたリポートは、個性的なものが増えた。最近の学生は表現力が豊かになったように思う。
 というのもリポート(論文)形式もよいが、工夫を凝らして、月刊誌(一般・男性・女性向き)、週刊誌、日記、CD、何でもありの表現方法をしてよいことになっている。その時の自分の感性にいちばんフィットする方法を見つけ出し、それを表現につなげてもらうため。
 たとえば、ギターの弾き語りで歌詞をつくり作曲した作品を提出した学生もいる。ちゃんとブックレットもついていてCDアルバムになっている。歌詞の内容は、一曲ずつ野口体操とその動きがテーマになっている。
 実に、パソコンは学生の表現力のいい助けになっていることは確かだ。録音もなかなかだし、映像も取り込みやすいようだ。それでも手書きで手のこんだものも多くある。パソコンだけではない。とりわけこのところの数年間の変化はめざましい。さまざまな表現が可能な時代に育つ若者たちだけに、次なる課題を考えたいと思うこのごろである。

 さて、本日の組はどんなことになっているのか、これから楽しみである。
 これが終わるといよいよ夏の催しものの一つ8月8日に予定されている『からだとの対話』演出家の鴻上尚史さんとのセッションの準備に入ることになる。
 あッ、その前に明日は、坂東玉三郎と鼓童の「アマテラス」の舞台を見に行く予定があった!
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「あまちゃん」細部へのこだわり

2013年07月21日 10時59分06秒 | Weblog
 昨日、放送分だったが、思わず笑ってしまったシーンがある。
 太巻さんが喫茶店に入って来る。そのとき携帯電話でなにやら忙しそうに話をしている。
 もう、それだけで太巻さんが出世したことがわかる。
 さて、ここからが笑いのシーン。
 田舎に帰るという春子ちゃんを引き止める。一生懸命引き止める。
 しかし、頑として譲らない。あげく声を荒げて太巻さんを切って捨てる。
 その数秒前のことだが、当時の携帯電話はセパレートになっていて、電話機も大きかったが、それ以上に受信発信する本体が男性用の中セカンドバックくらいの大きさがあって、重さも相当だった。
「この携帯がもっと小さくならないと……」
 太巻さんは、言う。
「売り出すのは無理だ」と。
 
 携帯電話の初期は、「携帯」とは名ばかりで、持ち歩きは非常に不便だった。
 その上、ビルの中や地下道では送受信ができず、使えるところの条件が沢山あった。
 近くに大きな建物がないこと。木造の建物だとしても、窓際や出入り口のみの使用。
 更に機器の値段も通話料金も相当に高かった。
 
 実は、当時、野口先生は、朝・昼・夜(時に夕方のプラス)と一日に最低3回ほど、用事があってもなくても我が家に電話を入れていた。つまり定期便なのだ。
 で、外出した際は、外からも電話をかけて来る。そんなとき公衆電話を使うのが面倒なので、始まったばかりの携帯電話をほしがったのである。
「金に糸目はつけません。あったら便利そうだしね」

 そこで池袋駅前にあったNTT、今はdocomoになっているのかな? 調べる役目を私が仰せつかった。
 聞いた結果は、先にかいたような状態で、結局は持っても無駄だ、ということでこの話はボツになった。
「もっと、小さくて、軽くて、つながりが自由だったらいいのに」

 朝ドラを見ながら、二昔以上も前に引き戻された。
 なんとも懐かしかった。携帯の進化はものすごいね!社会の有り様を根底から変えちゃったわ。

 今、野口先生がご存命だったら、真っ先に飛びつかれたにちがいない。私も先生からの電話定期便時に、自宅に待機している必要はなかった!のだ、と苦笑しつつも、過ぎてしまえば懐かしい、の一言。
 
 そういえば、ある超著名な先生は、電話で受けるだけの私設秘書を雇っていらした。当時はそういう仕事があった。用事がある時は、そこに連絡する。しばらくすると折り返しの電話がご本人から入る。
 そういう時代だった。

 おばさん、おじさんが「あまちゃん」をついつい見てしまうわけは、こんな細部の緻密な描写にあるんだなぁ~。時間的な厚み、空間的な厚み、生活や習慣、流行を再現してくれることで、朝の一時、昔を思い出して時間が引き戻される。
 若い人には言葉の説明が必要だが、中高年者は身体感覚として記憶が刻まれているので説明は必要ない。それどころか、ちょっとしたシーンから派生して、豊かな、でもちょっとほろ苦い経験までもが呼び覚まされる。
「そうそう、あーだったのよ。そういえばそんなこともあったわねぇ~」
 そして、現代の若者と一緒になれる感覚が、たまらないのかも?!
 ごちそうさまです。
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映画『グラントリノ』そして米国デトロイト市破産

2013年07月20日 05時07分09秒 | Weblog
 11年前に亡くなった父は、先の大戦中、青島に上陸し、その後軍用トラック輸送部隊に配属されて、満州で終戦を迎えた。
 復員してから昭和22年~23年頃には、大型自動車免許を取得した。鮫洲で受験し、その時の車はシボレーだったと聞いた。シボレーは、あえて言うまでもなく大型アメ車である。
 当時アメ車は、豊かさの象徴であり、自由の象徴でもあり、さましくアメリカンドリームの象徴だった。戦後復興の目指すべき車で、キラキラした輝きはどこまでもまぶしかった。負けた日本は追いつけるのだろうか、と半信半疑でありながらも、アメリカ手本にまっしぐらに突き進んだ昭和があった。

 しかし、本当の車への尊敬は“ロールスロイス”であり、車への愛着は“ルノー”や“フォルクスワーゲン”の丸い可愛らしい姿に抱いていた。つまり、欧州車に対する思いは、アメ車に対するのとは別格なものだったのだ。

 さて、昨日から今朝にかけて、デトロイト市の破産申し立てのニュースが入ってきた。
 殊に、今朝の朝日新聞は、一面トップに『自動車の街 無一文』と大見出しを掲げている。負債額は180億ドル、日本円にして約一兆8千億円を超えるという。
 GMのビルが放つ青い光だけが夜空に向かい、目を下に転じると真っ暗闇に包まれたデトロイトの街の映像が昨晩のニュースでは映し出されていた。
映画、グラントリノを見たのは何時だったかしら」
 イーストウッド監督・主演のこの映画は、日本では数年以上前に公開された。
 アメリカが誇る自動産業で働らく中産階級の人々が住まなくなり、スラム化し荒廃していく街。そこで起こる事件に立ち向かい命を落としたひとりの男の物語を通して、「人生における老い」と一つの誇りである自動車産業の衰退を重ねて描いた秀作だった。衰退のなかで失われていく人間の尊厳と誇りを描いていた作品だ。
 人件費は高く、潤沢な年金を受けて暮らす退職者たちを支える大会社の財務はきゅうきゅうとしていた。
 あの映画が描いた出来事の先に今回の市の破綻があった。主人公の息子は、皮肉にも日本のトヨタ自動車のセールスマンとして働き、それなりの安定を得ている姿が描かれていた。
「アメリカ人にしてみれば、悔しいのなんの、忌ま忌ましいと言ったらない!と言った心境だろう」と、トヨタの席巻ぶりには、日本人だってそう感じて久しかった。

 街から工場は移転していく。当然、働く人々は出て行く。一度去った製造拠点は戻らなかった、と朝日の記事にはある。
《連邦政府から独立して運営される地方自治体の場合、財政破綻するケースは珍しくない》と13面【国際】
 10自治体が破産予備軍だそうだ。

 いやはや、そのトヨタも日本国内の生産を減らさない、といって頑張っていたものの現地生産に切り替えた部門もあるニュースの記憶は新しい。
 ものつくり産業の衰退はどの分野も深刻だ。
 
 先日来、話題にしている本『人口減少という希望』の49㌻に「表 主な国の輸出依存率(GDPに対する輸出額の割合[%])(出所)『世界統計白書』 2012年版」を見て、驚いた。
 日本の場合GDPに占める輸出入の割合は10%強で、アメリカの8%につぐ低さだ。いろいろな見方はあるが、と著者は断って、『日本は国際比較で見ると「内需」によってささえられている割合が大きい国であり、高度成長期を中心に”貿易立国”、つまり日本は貿易や輸出によって成り立っている国という面が過度に強調されてきた面があるのだ(ちなみに日本の輸出依存率は1960年で8・8%、70年で9・2%、80年で11・9%であり、高度成長期に特に高かったわけでもない)。』とある。
 すると内需を支える国力こそ大事なのだ。それには1%の富裕層に99%の貧困層の国の形は非常に危うい。中間層をしっかり再生させることが必須。
 そして社会保障を破綻させない方策を考えることが大切なのだが、参院選の争点にはあまりならなかったかなと足下に注意が向く。
 そうだ、日本では、最近になって、急に女性の子宮年齢がかまびすしく言われはじめた。35歳以上で子どもを生んでいない女性の肩身が狭くなるのだけは哀しいよね~。そんなに早急に人口を増やしたかったら、移民を受け入れるしかないでしょ、と言う人もいない。その気持ちも判るけれど、むしろ日本では移民はタブーだからか。
 原発、TPP、憲法、いろいろあるのに、投票率は低くなりそうだ、という予想が早々と出てしまった。
 いやいや、何となく冷めてはいけないのに、冷めている今回の参院選だ。
 
 さて、いよいよ明日は投票日。
 とても難しい選択を日本人一人一人が迫られていることは皆が承知している。それでも行動が伴わないのは、この人に入れたい、この党に入れたい、というやむにやまれぬ思いがなかなか湧いてこない。
 それでも最善の道、と思われる判断はしなければならない、というわけだ。

 今朝は朝刊を読みながら「豊かさとは、何か。よーく考えよ!」と自分に言い聞かせた。
 そして映画『グラントリノ』が描いた街と人の荒廃を肝に銘じた。
 デトロイト市の破綻は、他国の火事では決してない。
 しかし、産業を見直し、少子高齢化社会の有り様を直視し、全体のプログラムデザインを見直すターニングポイントに立っているのが21世紀の今なのだ。
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映画公開の紹介

2013年07月19日 12時35分33秒 | Weblog
 明日、7月20日公開予定の映画『シャニダールの花』、石井岳龍監督 綾野剛、黒木華出演、テアトル東京の紹介です。
 日経新聞「文化往来」で知りました。
 因みに「シャニダール」とは、イラクのネアンデルタール人遺跡で人骨と共に発見された花の化石を指し、「人間の心の発生」を意味するのだそうです。
 まさに『人口減少社会という希望』のなかで、人類史20万年「三つのサイクル」のうち第一段階「狩猟採集社会」5万年前「心のビッグバン・文化のビッグバン」シンボリックなコミュニティの成立、と定義したその時代のことで、ネアンデルタール人が埋葬に花を手向けた証拠を示す化石の発見は、“花とは何か”を探る大きなヒントでもあります。

 シャニダール遺跡は、非常に大きな規模で、幅は53メートル・深さは40メートルにもわたるそうです。
 岩の多い層が厚く、発掘は難航したものの、花のサンプルはかなりの量が得られたところから、鳥やゲッシ目が運ぶことは考えられず、人間が運んだに違いない結論にいたりました。
 遺体の下に植物が敷かれていたことが想像できるといいます。
 たとえば、シャニダール洞窟の「ネアンデルタール人号遺体」は、50,000年以上もそこに眠り続けていて、埋葬の時期は5月の終わりから7月初めにかけてであったことが、花の化石や花粉分析から想像されるという研究報告があります。

 ネアンデルタール人という命名は、1856年(日本では安政3年幕末)ドイツのデュッセルドルフ・ネアンデルタールから最初に発見されたことに由来します。
 原人から進化した人類で、脳容積は平均1300㏄。中には現代人より上回った1600㏄のものまでも発見されているらしく、約20万年前~3万5000年前まで続いたと推定されています。
 この時代の文化を「ムステリアン文化」と名付けました。

 さて、映画の話に戻しましょう。
 内容は、SF仕立てで、花から新薬を開発する2人の研究員の愛の物語だそうです。
 封切りすぐに見に行けないのが残念で、ブログに紹介だけを先に書かせてもらいました。
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『象』を見た!

2013年07月18日 07時10分10秒 | Weblog
 舞台を見るのは、何年ぶりだろうか。
 いや、十年くらいは見ていないかもしれない。このところ自分の中で、こうした芝居を見たいという欲求は生まれてこなかったが、ひょんな縁からチケットが手に入った。
 かつて1960年代末から70年代、まだ学生だった頃、パリ・ユシェット座の公演を見たことがある。
“不条理劇”というジャンルが、演劇の中で特別な位置をしめていた。
 その後は渋谷・山手教会の地下ジァンジァンで、イヨネスコの作品など上演されていたっけ。
 何も判らず、面白いとも思わず、ただ何となくその筋の友だちと見に行った。
「若かったよなぁ~」
「でも、今日の客は、むむむッ。プロか? 芝居をとことん見続けている好き者か? いや、若者もいるじゃないか。選ばれた人たちに違いない」
 自分だけが場違いな人間じゃないのか、と席に座って身を縮めた。

 波の音が聞こえる。目を閉じて、耳を澄ますうちに、舞台が始まる。
 目を開ける。すると、異様な空間。散乱する古着のなかに病院のベッドが一つと、斜めに倒されたベッドがもう一つ、目に入る。さっきから見えていたのに、見ていなかった。
 きっと、何かの象徴だろう。
 
 時間が経過するにしたがって、それらが暗黒の闇に累々と重なる死体に見える。
 その累々と重なる屍の中から、ふわぁ~っと亡霊が立ちあらわれては、“パタン”という軽い音すらもなく倒れて消える。
 かつて生きた人は、立ちのぼっては消え、消えてはまた立ちのぼる。
 一枚、一枚の古着は、一人一人の過去を語る。それも沈黙という言葉で……。
 その中にあって実在感を発するのは、たったひとりの男。背中にケロイドを背負ったひとりの男だ。
 実在することが苦しく、忘却の川に投げ入れられるのはもっと怖くてもっと悔しくて、再び実在することを皆に知らしめることで、今、自分の生存を自分のからだで確認したがっている。
「俺を、忘れるな。俺のケロイドを忘れるな」

 唯一、彼の性を暗示する女房が、かつて男との間で交わした機微を懐かしみ、生存の歓びを失いつつある今を疎ましく思う心が殺意を遠景に描き出す。別役実という戯作者の腕が冴える。

 暗示に次ぐ暗示。
 ふと思った。“これは現代の能狂言に違いない”と。
 被爆者の甥は、実はワキの僧侶なのだ、と思ってみると何となく判るような気がしてくる。
 狂気と驚喜、この世とあの世の狭間で、肉体の極限までからだの言葉を発する、それも饒舌に発する男はシテ方に相違ない。諭されても、賺されても、実存を確かめたがる。

 ~中間に差し挟まれる狂言1。女房との「おにぎりの食べ方」を巡るやりとりが、この男が現実に地球上に、日本に、被爆地に生きたことを証明する。~

 ~すると突然、そう突然に「この人、“暇か?” っていって入って来る課長さん? 私って、相棒の見過ぎ!トホホホッ」
 この配役で、助けられたね。唯一、素直に笑えた! からね。狂言2。~
 
 かくして最期にむけて、何処までも肉体の尊厳を守り抜こうと動きがさらに饒舌になっていく男。
 久しぶりにいい芝居を魅せてもらった。そして昭和の日本語は美しかった、と失われた言葉を無償に慈しみたくなる。
 
 もう64歳になったというのに、ようやく大人になった気分で、新国立劇場を出て、初台の駅に向かう私。
 ステキな役者に出会ったなぁ~。
「病人」の役は、大杉蓮。胸を借りて精一杯やった甥役の木村了。それぞれに皆よかった。

 洒落た装丁のプログラムを小脇にかかえて、電車に飛び乗る。
 もう一度つぶやく。
「役者の名は、大杉蓮」
 私の声は、電車の走行音にかき消されていく。
 
 現実、7月21日まで、新国立劇場小劇場にて。
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結局、魅せられてまーす!

2013年07月16日 08時18分53秒 | Weblog
 NHK朝の連続テレビ小説「あまちゃん」、やっぱり魅せられてます。
 小泉今日子さんがいい味出してて、カメラさんもヒロインのあまちゃん以上(?)に、お母さんの横顔を美しく撮っていて最高!ですが、それだけじゃない。脇の役者さん、それぞれが役どころをしっかりおさえていいです。
 そして琥珀磨きのシーンを見るたびに、野口先生の顔が重なります。琥珀の原石を使い古しのタオルで磨くときの満足げな表情が、懐かしくて……うるうるる~~であります。
 東京国際ミネラルフェアに、久慈の琥珀がやってきたとき、日本にも「琥珀があったんだ!」とはじめて知って感動したのを思い出します。先生のコレクションが、一気に増えたのでした。
 
 話を戻して、脚本の展開もよく台詞がイキイキして小気味よくて、じぇじぇじぇ。
 さて、これからどんな展開になるのか。
 やっぱり見続けるんでしょうね、こうなったら最後まで。

 

 
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レジュメ

2013年07月14日 09時10分41秒 | Weblog
 昨日、朝日カルチャーセンター 土曜日「野口体操講座」で、最後まで板書しきれなかったので、レジュメをここに貼付けます。今までブログに書いたことと重複するところがあります。

2013年7月13日(土)朝日カルチャー 『人口減少社会という希望』

※ 『人口減少社会という希望―コミュニティ経済の生成と地球倫理』広井良典著 朝日新聞出版 朝日選書899
* 「定常社会論」 人類史20万年のなかで「三つのサイクル」を著者は見いだした。
* 第一は、「狩猟採集社会」5万年前「心のビッグバン・文化のビッグバン=装飾品、絵画、彫刻など」広義の芸術や象徴的思考、シンボリックなコミュニティの成立。(注:20日、テアトル東京で封切りになる日本映画の題名でもある「シャニダールの花について補足。これはイラク・ネアンデルタール人遺跡で人骨とともに発見された花の化石を指す。「人間の心の発生」を意味する)
* 第二は、「農耕社会」約2500万年前。ヤスパーズ「枢軸時代」(何らかの普遍的原理を志向する思想が地球上の各地で同時多発的に生成するという現象がおこった。仏教、ユダヤ・キリスト教、儒教や老荘思想、ギリシャ哲学。「幸福」の意味を説いた。「普遍的な価値原理」の生成。欲望の内的抑制←農耕文明の境界的限界。
* それぞれ前半が「物質文明の拡大期」で人口増加の時代であり、後半は「内的・文化的な発展期」であると同時に人口減少の時代である。
* その後半期に「定常社会」を迎える。
* 現在は「三度目の定常期」と捉えていて、「工業社会(産業社会)」。「地球倫理」の時代と位置づける。個々の普遍宗教を超えた地球的スピリチュアリティ。ローカルとグローバルの循環的融合。外的拡大に代わる内的価値の時代。多様化。
* 過渡期においては「情報の時代」がいつも生じる。現在のデジタル革命の先には「『生命/生活(life)』というコンセプトに象徴されるようなローカルな基盤に根ざした現在充足的生への志向が比重を増していくだろう」(広井)。例えば「農耕社会」の場合は、流通、情報の新しい流れが生まれる。
* 「情報」の定義=カール・セーガン。DNAに象徴される遺伝情報→生物が複雑になると情報の容量や容器がDNAでは間に合わなくなることから生物は「脳」という情報貯蔵メディアをつくりだした→人間の場合は「言語(情報)」「文字情報」という外部メモリーを持つようになる。→更にデジタル情報の蓄積や伝達が展開したのが20世紀後半である。
* 「遺伝情報→脳情報(→文字情報)→デジタル情報」という形で、情報とコミュニケーションの何重もの「外部化」を行ってきた。
* 地球倫理の意味としての「グローバル」は、通常の「グローバル(マクドナルド化、アメリカ化)「グローバリゼーション(世界が一つの方向に向けて均質化し、地球上の各地域の風土的な)多様性や文化的個性が背景に退き失われる方向を指している」ではない。
* 「ローカル」(=地域的、個別的)に対立するのは 「ユニバーサル(普遍)」個別の文化や民族等を超えた共通の何かを志向するものだった。
* 「グローバル=地球的」は、本来それとは違う。地球上の様々な地域を一歩外から見ながら、しかしそれらの「ローカル」の固有の特徴や価値をポジティブに認め、またその風土的あるいは文化的な多様性を積極的にとらえていくような考えとして把握されるべき。
* 枢軸時代に生まれた普遍宗教ないし普遍思想が、そうした発想を十分にもたなかったことへの対比においてである、という。
* グローバル化の先にローカルを見る。「鎮守の森・自然エネルギーコミュニティ構想」を著者は提唱する。
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少しずつ見えてきたこと……まとまりなく……

2013年07月13日 07時08分56秒 | Weblog
 毎日、連日、猛暑日で、なかなかに厳しい。と言っているうちに土曜日の朝を迎えた。
 今週は、授業ものこり2回になって、そのうちの一回はテストとリポート提出ということで、ようやくここまできた、と安堵したいところだが、まだまだ気は抜けない。

 昨日は、お盆の準備をし、今夜の迎え火に備えた。あとは花と供物を用意しなければならない。
 料理も手の込んだものは、明日の日曜日にまわして、今日は簡略ですまそうと、早朝5時台にすでにつくり終えた。

 さて、今週は『人口減少社会という希望』広井良典著を読了した。昨日から付箋を入れたところ中心に、メモを取っているが、再読のようでなかなか進まない。本日の朝日カルチャーのレッスンに間に合わせようと思っているのだが、ちょっと無理かもしれない予感がしている。
 何故って、野口体操の、とりわけ晩年に明確・鮮明になった方向が、この本によってよく理解できるからだ。誤解をおそれず言ってしまえば、野口三千三は予言者のようであった。
 この著書に書かれている『有限な地球のなかでのローカルとグローバルの融合』というテーマは、すでに1970年代『原初生命体としての人間』のなかに、その萌芽を読み取ることができる。
 枢軸時代(農耕社会が成熟して、拡大期から定常期に入って世界各地で宗教が生まれた時代。ユダヤ・キリスト教、仏教、儒教)
《仏教などを含め、枢軸時代の諸思想が「ユニバーサル(普遍的=宇宙的)』な何かを志向したとすれば、これからの時代に求められる価値原理は、「ユニバーサル」とは異なる意味での「グローバル=地球的」に関わるものではないか。すなわち「地球倫理」とも呼ぶべきものを掘り下げていくことが今の時代の大きなテーマだろう。》
 ここがいちばんの肝心要のところだ、と思う。(私事だが、なぜ野口体操にのめり込んだ26歳の自分がいたのか。そのひとつの答えがあるような気がしている)

 枢軸時代においては“地球の限界”といった認識はなかった。その時代の諸思想が問題にしたのは基本的に“「宇宙」における人間の位置”であったと著者は指摘する。
 著者が言う「グローバル」とは、マクドナルド化、つまりアメリカ化という意味ではない。

 野口先生の言うところの
一、『私は地球物質であり、地球のすべての生きものや無生物はみんな血縁関係にある。自分の「いのち・からだ・こころ」と呼んでいるものも、大自然の神から「一時預け」されたものなのである』
二、『からだは地球物質のまとまり方の一つで、こころはその働きの一つである』
 
 この二つの野口語録と照らしながら、この本に書かれている科学の在り方や方向の見直し、ケアとコミュニティの関わりの見直し、等々、を読み込んでみると腑に落ちることが多々ある。
 枢軸時代が農耕社会の成熟期に生じた思想である、とするならば、野口体操の身体観や自然観は、(デジタル)情報社会の定常期を予見した発想に依るものと思われる。
 もう少し砕くと、『遺伝情報(DNA)、脳情報(文字情報)、デジタル情報というように、生物は「脳」という情報の貯蔵メディアをつくりだし「脳情報」を通して情報の蓄積や伝達を行うようにした。中略。親が子に様々なことを教えるのが原初形態である。知識の伝達だけではなく様々な「ケア」やその情緒的側面も含まれる』と言う。
 
 人間が生み出した「言語(情報)」つまり「文字情報」とその蓄積手段として書物、図書館などは、脳にとっての“外部メモリー”のようなものであり、コンピューターの出現でデジタル情報は膨大な量を蓄積するようになった。「遺伝情報→脳情報(→文字情報)→デジタル情報」、情報とコミュニケーションの何重もの“外部化”によって人間の能力を超えて”負荷”が、ある種の臨界点を超えつつあると、著者は考えている。
『ネット文明は、ある種の飽和状況(既に超える状況)に至りつつあるのではないか』。

 野口先生は『原初生命体としての人間』に次のように記している。
『私は、情報が物質・エネルギーの属性としてあるのではなく、むしろ、物質もエネルギーも、そのまま情報ではないかと思っている。そして情報というものが自分の外側にあって、それが自分に働きかけてくるのではなく、自分がそれを情報と感ずる自分の内側の働きによって、はじめて情報になるのだとと実感するのである』
 何を選ぶのか、選択の能力こそ、デジタル時代には問われることになる。
 デジタル時代到来の以前に、先生は「体操」に「情報」の概念を持ち込んだはじめての人ではないか、と私は思う。それゆえに多くの誤解と無理解を生んだことは否めない。

『「地球倫理」について、それが地球を一つの方向に均質化していくものではなく、むしろ地球上の各地域の風土的多様性を積極的に評価していくものであるという議論を行ったが、これは枢軸時代に生まれた様々な普遍宗教ないし普遍思想が、そうした発想を十分に持たなかったこととの対比においてである』という記述がこの本の終盤に書かれている。
 もっと言えば、枢軸時代に生まれた思想群が、自らの思想が「普遍的」であることを志向したにもかかわらず、そのことが同じく「普遍性」を名乗る別の思想と出会った時に「共存」は可能なのか、という問いに続いていく。
「複数の普遍性」「多様な普遍性」は可能か、とも言い換えてみると、言葉の齟齬にぶち当たる。
 
 細かなところを飛ばして、乱暴に言えば、野口先生がいわゆる「普遍」を嫌った意味が呑み込めたし、なぜ「主観」を体操の中心に据えたのかの意味が納得できる。(まだすっきりした言葉表現には至っていませんが)

 誤解、錯覚、偏見、曲解、で読み続けた一冊の本。
 これからゆっくりこのテーマを考えていきたい、と思っている。それは野口体操を考えることだから。
 備忘録として、絡まった糸をほぐし、整理するために、途上で書かせていただきました。
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暑中お見舞い

2013年07月07日 07時21分29秒 | Weblog
 二番目に忙しい時を過ぎたものの、先週半ばからは、交渉ごとがはじまったり、本の企画がほぼ固まったり、いくつかの面倒な所用をこなしたりしているうちに、昨日、朝日カルチャー「野口体操講座」の日になってしまった。とうとう電池切れのままレッスンに臨んだ。
 木曜日に湿度が高いなか、学生もからだにむち打って体操をしているような授業を二コマ終えた時には、私自身もぐたーっと疲れが出ていた。湿度が運動にはいちばんこたえる、と思ったが、高温多湿の日本の夏は、思考力も奪っていくようだ。
 昨年より19日もはやい梅雨明け宣言がなされた。梅雨末期の豪雨もなく、ほとんど空梅雨のような今年だ。本日は七夕、と気づいて驚く始末。
「今度の土曜日は、お盆の入り?」
 溜息まじりにつぶやきつつ、前掛けをきりっと締め直して、朝食の準備をした。

 食後は、昨日、遊んでもらった「さまざまな鈴」「チャイム」等々を、包み直して蔵にしまったところである。
 さて、これから午後、朝日カルチャー日曜クラスの7月期が始まる。
 新規の方が多いようだ。
「それならば、基本をお伝えしよう」
 予定を変更して、レジュメを書き直そうと思っている。

 皆様、暑中お見舞い申し上げます。(早過ぎ!)
 
 
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2013年下半期スタート

2013年07月03日 13時05分32秒 | Weblog
 先週半ばから昨日まで、一年で二番目の忙しさだった。
 上半期が二日遅れで終わって、本日から下半期がスタートします。
 
 授業も残すところ3~4回でその最後はテストとリポート提出になります。
 どのクラスも野口体操ゼロからのスタートでしたが、学生の表情から疑問符が消えていきました。
 十代後半の男子学生は、動きたい盛り。「腕立てバウンド系」の動きは、なかなか目覚ましい進歩が見られます。運動によってはギャラリーをしている女性学生から、自然発生的に拍手が彼らに贈られています。
 また、今年も明大シェクスピアプロジェクトで野口体操を指導することも先ほど引き受けました。
 野口三千三生誕100年記念「からだとの対話」も8月から始まり、来年にむけていよいよ歩き出すことになります。

 60代半ばにこれほど充実した日々が訪れるとは、予想だにしていませんでした。
 母との折り合いを上手くつけながら、という難しい課題を抱えてはいますが。
 
 あの方に、この方に、……、時に助け舟をお願いすることもあるやもしれず。
 その節はよろしくお願いします。
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呼吸に関して

2013年07月01日 07時52分04秒 | Weblog
 Face bookのお友達・菅谷宏一さんのリンクでしりました。
 説明、写真、動画を通して非常によく理解できます。
 バジル・クリッツァーのブログ「管楽器奏者のためのアレクサンダーテクニーク」
 ぜひ、ご覧あれ!
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