養老孟司先生の近刊『身体巡礼』新潮社を読了した。
[ドイツ・オーストリア・チェコ編]とあるからフランスやスペインあたりも続編としてあるのかな、と予想しながら読んでいたら、“あとがき”らしきところに、すでに南欧のイタリア・ポルトガル、フランスを飛び回っているらしいことが判明。
いやいやお元気だ。禁煙せず、夜中までゲームにはまり、人様があまり見向きもしないような虫を愛でる暮らしぶりがよろしいのかもしれない。
《いくら合理性を追求したって、いずれはお墓だよ。お墓で終わる人生に、どういう合理性、経済性があるのか。喜寿になったら、いくらなんでもそういうことは考える》
喜寿になられたのですね。
はじめてお目にかかったのは、50代の養老先生だった。東大の五月祭で、たしか物理学専攻の学生が企画したセッションでのことだった。野口三千三先生のお供で、ご尊顔を拝する機会を得た。お二人の公開講座後に拝見した「標本室」は、圧巻だった。
それから1991年に、朝日カルチャーセンターの公開講座に、今度は養老先生をお招きして『野口体操を解剖する』を企画させてもらった。
そのとき朝カルのある方にいわれた。
「畏れもなく、よくぞ(お二人に)鈴をつけにいって……」と。
その記録のほぼ三分の二を『DVDブック アーカイブス野口体操』春秋社に納めさせてもらった。
2004年になってからだから、野口先生はすでに上野寛永寺の墓の中。
「エッ、養老先生の髪が黒い!」
マスコミや出版関係の方々の第一声はこの言葉だった、編集者から聞いた。
本を読みながら、当時のことを思い出し、DVDブックに納めなかった養老先生独演30分を、久しぶりに再生してみた。おもしろい!
「一人称の死、二人称の死、三人称の死」、「脳死は死か」「生と死の境界線には絶対的な基準はなく、時代と社会と個人の考えによって異なるのが当たり前」「不可逆的に死に向かう身体」等々について語られている。
一般に出せないのが勿体ないことだが。
さて、解剖学者が見た“東欧の墓巡り紀行”を読むうちに、頭蓋骨がかわいらしいものに見えてきたから不思議だ。ハプスブル家の話は圧巻だが、もうひとつ驚かされる写真が掲載されている。「セドレツ納骨堂」である。日本人の思い描く納骨堂は、火葬された骨が納められた骨壺が並ぶのだが、こちらの納骨堂は、天井・シャンデリア・聖杯・十字架・家紋……ありとあらゆる室内装飾が人骨、注を読むと「生と死は表裏一体であることを表現している」そうだ。近隣諸国のものや、ペスト流行時のもの、フス戦争によるものなど諸説あるという。
フスと言えば、まだ読み切っていない『宗教改革の物語』がらみか?と思う。
目を凝らしてその正体に驚くが、この発想は「死の舞踏」つながりなのだろうか。いや、違う様な気もする。
東大の博物館で、たくさんの頭蓋骨を見たことがあるが、一人一人、時代によって、出土する場によっても、頭蓋骨の形というのはこれほど違うものかと感心したことがあった。生前、この中におさまっている脳の働きは、さらに違う。命あってのもの種、とはよくいったもので、骸骨になってしまえば秀才も鈍才も聖人も俗人も関係ない。美人とて同様だ。乾いた気候の墓文化と、日本のようなウエットな気候の墓文化では、はじめから立ち位置が違っていることが、読めば読むほどに伝わって来る。
養老先生にして「きちんと調べないと誤解が生じる」と言わしめている記述に「治療ニヒリズム」についてがあった。現在でいう「自然食品志向のような、自然志向の考え方だった」と。そこまでに医療文化論が展開されて、その後にも「自然志向の向かう先き」と小見出しをつけて、都市の自然志向に養老流警鐘が見え隠れする文章に出会う。ここだけでも一読の意味が深い。『第5章 ウィーンと治療ニヒリズム』を読むうちに、生の講義を伺ってみたいもの。追っかけでもしますか?という心境にさせられた。
更にすすむと、おっしゃるとおり、《お墓が中心 生命の消えた身体をどう扱うのかーそこに現れる表象こそ、その文化社会のもつ「身体性」だと、考えてみる》第8章の扉の言葉は、墓碑に刻まれるアルティメットな永遠の問いに違いない。
はたと膝を打つ。つまり、第1章から第8章まで、各扉は墓碑であった!そこに刻まれた言葉に一つ一つ深い謎と謎解きが込められているのだと気づいた。急く気持ちを抑えて、目次ページを見直す。洒落た配置は、墓巡りの醍醐味を暗示していた、のだ。見開きページに隠された文字は「メメント・モリ」。
この墓にまつわる話には、知的な刺激が満載されて楽しく読めるが、読んた後の本の重さはずしりと重い。
「シャニダールの花」、つまり“人間の心の発生時”に、遡ってみようか。数十年前に、養老先生のご著書で知ったことだった。
なぜ、人は装身具を身につけるのか。
なぜ、人は装飾を行うのか。
なぜ、人は埋葬儀礼を行うのか。
野口先生が、石の世界から装身具の世界にのめり込んだ、その謎解きがこれからはじまる気配を感じつつ、本を閉じた。
野口体操で”身体を考える”とは、こうした作業の積み重ねかしら。
[ドイツ・オーストリア・チェコ編]とあるからフランスやスペインあたりも続編としてあるのかな、と予想しながら読んでいたら、“あとがき”らしきところに、すでに南欧のイタリア・ポルトガル、フランスを飛び回っているらしいことが判明。
いやいやお元気だ。禁煙せず、夜中までゲームにはまり、人様があまり見向きもしないような虫を愛でる暮らしぶりがよろしいのかもしれない。
《いくら合理性を追求したって、いずれはお墓だよ。お墓で終わる人生に、どういう合理性、経済性があるのか。喜寿になったら、いくらなんでもそういうことは考える》
喜寿になられたのですね。
はじめてお目にかかったのは、50代の養老先生だった。東大の五月祭で、たしか物理学専攻の学生が企画したセッションでのことだった。野口三千三先生のお供で、ご尊顔を拝する機会を得た。お二人の公開講座後に拝見した「標本室」は、圧巻だった。
それから1991年に、朝日カルチャーセンターの公開講座に、今度は養老先生をお招きして『野口体操を解剖する』を企画させてもらった。
そのとき朝カルのある方にいわれた。
「畏れもなく、よくぞ(お二人に)鈴をつけにいって……」と。
その記録のほぼ三分の二を『DVDブック アーカイブス野口体操』春秋社に納めさせてもらった。
2004年になってからだから、野口先生はすでに上野寛永寺の墓の中。
「エッ、養老先生の髪が黒い!」
マスコミや出版関係の方々の第一声はこの言葉だった、編集者から聞いた。
本を読みながら、当時のことを思い出し、DVDブックに納めなかった養老先生独演30分を、久しぶりに再生してみた。おもしろい!
「一人称の死、二人称の死、三人称の死」、「脳死は死か」「生と死の境界線には絶対的な基準はなく、時代と社会と個人の考えによって異なるのが当たり前」「不可逆的に死に向かう身体」等々について語られている。
一般に出せないのが勿体ないことだが。
さて、解剖学者が見た“東欧の墓巡り紀行”を読むうちに、頭蓋骨がかわいらしいものに見えてきたから不思議だ。ハプスブル家の話は圧巻だが、もうひとつ驚かされる写真が掲載されている。「セドレツ納骨堂」である。日本人の思い描く納骨堂は、火葬された骨が納められた骨壺が並ぶのだが、こちらの納骨堂は、天井・シャンデリア・聖杯・十字架・家紋……ありとあらゆる室内装飾が人骨、注を読むと「生と死は表裏一体であることを表現している」そうだ。近隣諸国のものや、ペスト流行時のもの、フス戦争によるものなど諸説あるという。
フスと言えば、まだ読み切っていない『宗教改革の物語』がらみか?と思う。
目を凝らしてその正体に驚くが、この発想は「死の舞踏」つながりなのだろうか。いや、違う様な気もする。
東大の博物館で、たくさんの頭蓋骨を見たことがあるが、一人一人、時代によって、出土する場によっても、頭蓋骨の形というのはこれほど違うものかと感心したことがあった。生前、この中におさまっている脳の働きは、さらに違う。命あってのもの種、とはよくいったもので、骸骨になってしまえば秀才も鈍才も聖人も俗人も関係ない。美人とて同様だ。乾いた気候の墓文化と、日本のようなウエットな気候の墓文化では、はじめから立ち位置が違っていることが、読めば読むほどに伝わって来る。
養老先生にして「きちんと調べないと誤解が生じる」と言わしめている記述に「治療ニヒリズム」についてがあった。現在でいう「自然食品志向のような、自然志向の考え方だった」と。そこまでに医療文化論が展開されて、その後にも「自然志向の向かう先き」と小見出しをつけて、都市の自然志向に養老流警鐘が見え隠れする文章に出会う。ここだけでも一読の意味が深い。『第5章 ウィーンと治療ニヒリズム』を読むうちに、生の講義を伺ってみたいもの。追っかけでもしますか?という心境にさせられた。
更にすすむと、おっしゃるとおり、《お墓が中心 生命の消えた身体をどう扱うのかーそこに現れる表象こそ、その文化社会のもつ「身体性」だと、考えてみる》第8章の扉の言葉は、墓碑に刻まれるアルティメットな永遠の問いに違いない。
はたと膝を打つ。つまり、第1章から第8章まで、各扉は墓碑であった!そこに刻まれた言葉に一つ一つ深い謎と謎解きが込められているのだと気づいた。急く気持ちを抑えて、目次ページを見直す。洒落た配置は、墓巡りの醍醐味を暗示していた、のだ。見開きページに隠された文字は「メメント・モリ」。
この墓にまつわる話には、知的な刺激が満載されて楽しく読めるが、読んた後の本の重さはずしりと重い。
「シャニダールの花」、つまり“人間の心の発生時”に、遡ってみようか。数十年前に、養老先生のご著書で知ったことだった。
なぜ、人は装身具を身につけるのか。
なぜ、人は装飾を行うのか。
なぜ、人は埋葬儀礼を行うのか。
野口先生が、石の世界から装身具の世界にのめり込んだ、その謎解きがこれからはじまる気配を感じつつ、本を閉じた。
野口体操で”身体を考える”とは、こうした作業の積み重ねかしら。