テレビ放送は、1950年にNHKと日本テレビで試験放送が始まった。
その3年後・1953年には、大々的な展開をみる。
当初の受像機は数も少なく、個人が買えるようなものではなく高価な電化製品であるった。
そんな中、戦後の消費経済の牽引役として、テレビ受像機を市民に根付かせる方策として、日本テレビ正力松太郎が一計を案じた。
街頭テレビジョンである。
小さな受像器ではあったが、主に当時の国鉄駅周辺や公園に、次々と設置していった。
「街頭の皆さん、押さないでくださーい」
そう呼びかけるのは、プロレス中継を担当したアナウンサー。
今から思えば、ごくごく小さな画面に、1万人近い御仁たちの目が釘付けなった。
特に、プロレス中継はものすごい勢いで、ファンを増やしていく。
1日も早く家庭にテレビを!その思いに火をつけたのである。
しばらくして、誰それのうちにテレビが入った、という噂は一気に広がり、放送時間には近所中の人が集まった。その熱気たるや、ものすごいエネルギーを発散させていた。
戦争に負けた男たちの悔しさを背負って、相撲から転身した力道山が外国人プロレスラーをやっつけてくれる爽快感に人々は酔った。
添付の写真は、1955年8月3日号 『アサヒグラフ』街頭テレビに群がる群集。場所は新橋駅ではないだろうか。
プロレスに全く関心がなかった私でも、「力道山」と「空手チョップ」という言葉だけは、子供の頃を記憶としてはっきりと残っている。
時が過ぎ、野口体操の教室で、野口三千三がプロレスの技から得たパフィーマンスを見せてもらった。
1、“ヨガの逆立ち”の姿勢で、身体を真っ直ぐに保ったまま背中の方に倒れる。
2、長机に腹這いになって、そのままずるずると滑り出して、頭から床に落ちる。
これら2つの技は、落ちた時のバターンという音とともに忘れられない出来事だ。
今、「私家版 野口三千三伝」戦後編を書き進めているが、昭和30年代の野口の経験としてプロレスについて書き始めようとしている。群集の一人として、プロレスの技を研究した野口がいた。それをどう表現しようか。
村松友視著『私、プロレスの味方です」を再読している。
過激にプロレスについて微に入り細に入り語る村松の文章に、心ときめかせながら読み終わったところだ。
一度めは泣けた。
解説の山下洋輔の『歓喜しながら読み進む内に自然にぼくはこれを「ジャズ論」として理解していた』と書かれていたところで、思わず膝を打った。涙の意味が腑に落ちたからだ。
この言葉をそっくりいただく。「野口体操論」として、『私、プロレス味方です』を読んでいたのだ、と気付かされた。
実は、近日中に、新井英夫さんがZoomを使って、YouTubeから過去の名勝負を抜粋して「プロレス観賞会」をしてくれることになっている。付録に、最近ユーチューバーになった往年のプロレスラーの「暴露話」もあるらしい。それが滅法面白いだけでなく、奥深いそうだ。
コロナ禍故に実現していない「生真面目に生プロレスを見る!」
いつになったら実現するかなー。
その日を楽しみに、まずは新井先生のお説を拝聴させていただこう。