羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

荒ぶる神のごとき調べ

2006年01月31日 14時22分01秒 | Weblog
 それは雨の日だった。
 梅雨前線の雨だったか、秋雨前線の雨だったか、はっきりしない。
 しかし、その日は雨だった。

 雲は低く垂れ込め、降りしきる雨に、グランドは水溜りがそこにもあそこにも、いたるところにできていた。
 教室の窓から、外を見ていた。気温は、それほど低くはなかった。
 ショパンの英雄ポロネーズが聞こえていた。

 小さなピアノだが、各教室に一台ずつ置かれ、黒板は五線譜だった。
音大附属の中学と高校が、二棟に分かれて建てられていた。全体はコの字型に建物 はたっている。コの字の縦線の部分に、一階の小部屋がレッスン室でピアノが一台すつ置かれ、そこで個人レッスンを受けるのだった。二階講堂にはベーゼンドルファーのセミコンサートグランドピアノがあって、その両脇に大きなスピーカーが用意されていた。

 英雄ポロネーズは、一つおいた隣の教室で、誰が弾いているのかもわかる演奏だった。
 ほとんどの生徒が帰宅したあと、居残って弾く人は、いつも決まっていたからだ。

 そのとき、レッスンが長引いて、教室に戻ってこない友人を待っていた。
 これといって何もすることがなかった私は、何気なく校庭を見やっていた。
 当時、私は国立音大の附属に通う中学生だった。

 ひとりの男子学生が、雨の中を傘もささずに駆けていた。
 ランニングのような駆け方ではなかった。
 ジグザグに駆けていた。しばらく駆け続けているうちに声を張り上げている。
 思わず窓を開けてその声に耳を傾ける。
「ウォー、アァー、ウォー」
 意味不明な声だった。

 そのうちに水溜りがあることも関係なく、地面にバタンと倒れ、大の字になって横になっていた。からだに雨が降りしきる。ぬぐおうともせず、しばらくの間横になっていた。
 映画の一シーンでもみるように、私は心を奪われていた。
「十代後半の男子には、どうにもならないデーモンが住んでいるのだろうか」
 ちょっと生意気盛り、文学少女だった私は、じっと、その姿を見続けていた。
 
 その人の名前を知るのは、それからしばらくしてからのことだった。
そしてその学生は、新宿のピット・インでピアノを弾いているということを風の便りで耳にした。
 それからジャズピアニストとして本格的に活動をはじめ何年もたたないうちに、彼の名は有名になっていった。
 
『聴く人の魂を揺さぶるピアニストだった。聴衆だけではない。ベース奏者・米木康志さんは「隣で聴いていて、泣いちゃうこともあるもん、おれ。大地のそこから宇宙に行くような音です」と話す』と朝日新聞にあった。
「荒ぶる神のごとき調べ」
 その記事には、そうした見出しが書かれている。
 享年60歳。今年、1月12日、心不全で生涯を閉じられた。
 その人の名は、ジャズピアニスト・本田竹広。

 大地に身を投げ出したままの姿が、目の奥に焼きついている。

 その記事を目の前に、今、ご冥福を祈っている。
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地下道をぬけると

2006年01月30日 14時33分52秒 | Weblog
「トンネルを抜けると、そこは雪国であった」
 ではなく
「地下道を抜けると、そこは高層ビル街であった」
 このシーンから、そのコマーシャルは始まった。
 真ん中に野口三千三先生、向かって右側に羽鳥、左側に朝日カルチャーの方。

「先生、007みたいに、カッコいい」
 コマーシャルをみて、そういったのは野口ファンの女性。
 それは、野口先生が歩まれる姿の形容だ。
 しかし、何を隠そう、先生のおみ足は「O脚」だった。
 その足を歩き方で、すっきりきれいに歩かれておられたのだ。まったくそんなことは感じさせない歩き方だ。

 1987年、先生は73歳だった。
 記念すべきコマーシャルは、「セゾン・3分CM・人物映像ドキュメンタリー 野口三千三編」。監督は、龍村仁さんだった。
 このCMは、たった一回放送された。
 浅丘るり子主演の2時間ドラマの中に、4人の出演者が登場し、野口先生は最後のご登場だった。
 朝日カルチャーセンターでの授業風景を中心に、野口体操が美しい映像で紹介されたものだが、たった3分に野口体操のエッセンスがすべて入っていた画期的な作品となった。
 龍村監督としては、ライアン・ワトソン編と共に賞をいただいた代表作になったことを後にうかがったときには、野口先生もとてもお喜びだった。

 このコマーシャルは龍村監督の制作会社の中心の仕事で、当然のことに収入の大半をこれに頼っていたらしい。ところが、この野口三千三編を作るときにすでに中止なることが決まっていた。
 途方にくれた監督を、やはりこのコマーシャルが救った。
 
 それからしばらくして「地球交響曲第一番」完成披露試写会のお知らせをいただくことになる。
 京橋にある小さな映画館で拝見した。それから2年おきくらいのペースで、次々に「地球交響曲」がつくられていく。

 先日、「地球交響曲・第六番」制作予定のお知らせをいただいた。
 人の運命というものは、わからないもの。あのコマーシャルが中止にならなければ、この一連のドキュメンタリー映画はこの世に生まれることはなかった。
 苦境を反転させて、新たにより価値の高い映画制作を実現させる龍村仁監督に、多くの人が勇気付けられる。
 
 あれから19年の歳月が流れた。
 
 ……あぁ、光陰矢のごとし……
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九十九髪

2006年01月29日 09時38分35秒 | Weblog
「ちょっと、大きいかしら」
 三角形のお菓子を、半分に切り分けて、食べ始めた。
「ムゥ ムゥ」
 一気に、ほほばってしまった。

 久しぶりに、おいしいお菓子をいただいた。
 絹のように滑らかな求肥は三角形に切られている。なんでも卵が使用されているらしい。そこに豆が入っている。牛皮と豆の食感の違いがいい。説明書を読むと、豆は虎豆。
「まぁ、贅沢な」
 全体に、黄な粉がまぶしてある。
 甘さは控えめで、あっさりしているが、一切れを食べ終わるころに、ちょうどよい甘さになる。
 その甘さに、お茶の味が引き立つ。
「冬はちょっと熱目がいいわね」

 このお菓子、かなり無造作に箱に詰め込まれている。三角形もアバウトな切り方で、多少の大きさの不ぞろいがあるが、気取ってなくていい。
 目白「志むら」の新味の和菓子・九十九餅である。九十九はつくもと読む。

 同窓の友人と共通の知人の書道展を見て、その足で野口先生のお墓参りをすませた帰りに戴いたお土産だった。
 帰宅し、夕飯の後、家人に今日一日の出来事を話しながら味わった。

 墓石を水で清め、花を手向け、線香を供え、三人揃って手を合わせた。
 晴天に恵まれ、風もおだやかだった。よく手入れされた墓所に来るのは、昨年の春以来だ。お盆も秋の彼岸もご無沙汰してしまった。
「いい時間を過したわ」
 そう話しながら、もう一口、九十九餅をいただく。
「書道展に墓参りなんて、ちょっと老人っぽい。あなたもそんなお年頃になったわけ」
 皮肉っぽい調子で、言葉が投げられた。
「何をおっしゃる。白髪がちょっと気になる年だから、和菓子の味もお茶の味も、わかるようになってきたのよ」
 やり返すが、ちょっと苦しい。
 
 それから気になって、広辞苑を引く。
 九十九髪という言葉があった。なんと白髪のことらしい。
 ツクモとはツグモモ(次百)の約で、百に満たず九十九の意と見、それを「百」の字に一画足りない「白」の字とし、白髪にたとえたという。また白髪が江浦草(つくも)に似ているからともいう。
 
 百年に一とせ足らぬ九十九髪 我を恋ふらしおもかげに見ゆ
       伊勢物語の歌だそうな……ふふふッ。

 冬の上野は、なかなかの風情あり
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冬、上野の午後

2006年01月28日 08時25分01秒 | Weblog
「水仙の 花のうしろの つぼみかな」
 知人が書にしたためた俳句である。
 畳・一畳くらいのかな書き。
 第54回 回瀾書展・特選に選ばれた作品である。

 悲しいかな、「漢字の部」も「かなの部」も、どれを見ても読めないのが実情。
 一文字・二文字、読めたところで、意味はない。
 短歌・俳句、なかには利休の茶の心得、反抗期の息子をもつ父の心情など、題材にとられているものは、さまざまであるという解説を聞いて、なるほどと思う。
漢字の草書は、それぞれが自分で崩していくらしい。本人以外は、読めないものも少なくないという解説に、ほっと胸をなでおろした。しかし、書の道も遠く長く困難な道のりであることがわかってくる。奥が深い。
 古典の教養に、現在の社会も映し出さなくてはならない。

 知人は、はじめてまだそれほど時間はたっていないという。確かに、定年で退官してからの楽しみだから。それにしてもこの域に達するのは、時間の長い短いは関係がないということは、素質が大きくかかわりそうだ。
「母方の祖母に書家の血が入っているらしいことが最近わかったの」
 
 書かれている文字は読めないが、墨の色の美しさ、書体の好き嫌いくらいで、見てまわるのも結構楽しい。(それだけで、おゆるしいただきたい)
 挙句、わかりもしない自分を棚に上げて
「この人は素直な性格」
「この書き手の性格の曲がり具合が、そのまま文字にでているようだわね。」
などと減らず口をたたきながら、独断と偏見で観て回った午後のひと時。

 書道はまだまだ盛んだ。
 東京都美術館では、いくつもの会派の書道展が同時開催されていて、盛況な様子に驚きつつ、次なる目的地に向かった。

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舞扇

2006年01月27日 09時30分21秒 | Weblog
土曜クラスに参加しておられる新井英夫さんが、「日舞体験」を語っておられる。
 彼なら女形だって夢ではない。お顔立ちや体つきは、道成寺でも踊らせたらいい雰囲気ですよ、というと褒め殺しかしら? いやいや、そうなのよ。

 それはともかくとして、最初はかなり四苦八苦されたようだ。
「野口体操の初心者の気持ちがよくわかる」といっておられる。

 懐かしいですね。
 日舞は、基本的には、一対一で稽古をつける。
 それがたとえ子供でも、一対一で厳しくしこまれる。その様子を何人かのお弟子さんが、見守りながら「見取り稽古」をしていく。

 3歳から7歳まで日舞を経験した私だが、踊りはすっかり忘れてしまっている。継続することが何より大事とは、このことだろう。
 踊りは忘れたが、もろもろのことはしっかり記憶に残っている。
 例えば、お師匠さんの藤蔭絃枝先生はものすごく恐かったこと。
 お師匠さんは、子供のうちにきちっと「型」にはめる使命感をお持ちだった。当時は、あまり抵抗もなく「真似び=まなび」していったと思うだが。あとから知ったことだが、そのお師匠さんは、創作舞踊の新たな道をお家元と共に、模索しておられた方だった。

 さて、そうした稽古を積みながら、振りを覚えて、最後まで続けて踊れるようになると、お師匠さんの弾き語り、つまり長唄を歌いながら三味線を弾き、踊りの稽古をつけてくださる。そのときの気持ちよさは、それまでの稽古が、小さく報われるときだ。

 そこで、もう一つの励みがある。
 子供ながらにあこがれたもの。そのために一生懸命稽古をした思い出。
 それは舞扇だった。名取さんや舞台で使用される舞扇の骨は黒の漆塗りで、描かれている文様がよく引き立つ。子供たちや、名取前の弟子は、竹や木の骨に、ニスをかけただけの舞扇で稽古する。それは稽古用の扇だ。
 子供の目にも、黒の骨の舞扇のほうが美しく、それを持って大舞台で踊ってみたかった。
 今思えば、たわいないことかもしれないが。

 ある日、お家元の藤蔭静枝先生の総見が行われた。舞台前の総稽古とでもいうところだろうか。赤い大きなお座布団に、かなりのご年配のお家元が座っておられた。
 その場は、なんともピリピリした雰囲気。
「いつもとは違うな!」
 意識が生まれた瞬間だった。
 舞台で、長唄・三味線・鼓・太皷などの地方さんをバックに踊る方が、よっぽど恐くないという体験をそのあとすることになるのだが、この恐ろしい体験があるからこそ、本番に強くなるわけだ。

 そうした総見のときも、普段のときも、お稽古をつけていただく前には、舞扇を正座した膝の前に置き手をついてお辞儀をする。終わったあとも、同じように正座をして膝の前に舞扇を置きお辞儀をする。その前後のお辞儀のきれいな人は、踊りも上手かったと感じた記憶もある。

「日本の芸能は、礼に始まり礼に終わるのか」
今、言葉にしてみると、そのとき、子供心に感じたことだった。それは意識にのぼる以前の感じ方だったといえるような気がする。

 因みに、昭和20年代後半から30年代にかけて、モダンダンスは江口隆哉、日本舞踊は藤蔭静枝といわれ、二人が戦後日本舞踊史に、「創作舞踊の双璧」として残る舞踊家だったことを知るのは、野口三千三先生を通してだった。
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夢の夢

2006年01月26日 09時20分32秒 | Weblog
「山城屋」
「ヨッ、成田屋」
「成駒屋」
 三階席から声がかかる。

 それをきっかけに、物語が奥へ奥へと進行する。
 場面は変わって、「北新地天満屋」の第二場。
 床下に隠れ怒りに打ち震え今にも飛び出しそうな思い人・徳兵衛を、思いとどまらせるお初。そのお初の素足が微妙にうごめき、その足を喉笛に当てながら、死を覚悟していることを徳兵衛が知らせる名場面。

 続いては第三場・道行。

「この世の名残り夜も名残り、死にに行く身を譬ふれば仇しが原の道の霜、一足づつに消えていく」
 ここまできて言葉につまって困っていた近松門左衛門に「“夢の夢こそはかなけれ”とでもやり給え」といったのは、俳人岩田涼菟(りょうと)だと「芝居片片」にある。

 解説を読むと、元禄十六年、初演当時、世評を騒がせていた心中事件を書き下ろしたものだという。当時の市井の人々を主人公にした世話浄瑠璃で、その成功がその後次々生まれる世話物の創作のきっかけになったとある。

 昨日、打ち合わせが早く終わったことをよいことに、ちょいと歌舞伎座。
 賑々しく「寿 初春大歌舞伎 中村鴈治郎改め 坂田藤十郎披露」と大看板が眼に入る。
 一幕見席があることを思い出して、列に並んでしまった。
「だって、明日でおわりだもの」
 そう思った人も多いらしい。列の末尾は、歌舞伎座の事務所入り口付近でターンしているほどだった。

 無事、券を手に入れて、急勾配の階段を四階まで上がり、遥か彼方の舞台を見るのも、なかなか乙なもの。
 見回せば、歌舞伎が好きという「通」の御仁、学割で入っているような若い男女たち、外国人も混じっている。
「こういう見方もあるのだなぁ」
 天上桟敷の人となって、芝居に現を抜かした午後。

 外に出ると、4時をすこし回ったところ。
 まだまだ明るい。
「有楽町まで歩いていこう」
 歩きながら、思うことあり。
「私って、根は遊び人かも……」
 耳の奥では、浄瑠璃と太棹が鳴っていた。
 
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一寸の価値

2006年01月25日 12時57分01秒 | Weblog
「一寸先は闇」。 
 確かに、前途はまったく予知できないのが、人が生きる現実だ。
「一寸とは、やく3.03センチ」
 などと具体的に数値をあげると、なんとも味気ない感じは否めないのだが。
 
 ところで、野口三千三先生は「おへそのまたたきの原理」を野口体操の基本に据えた。
「またたき」をするのに、歌舞伎のクライマックスでいかにも格好よく大見得を切る、というような派手派手しい表情や動作をする人はいない。ほんのちょっと、目にも留まらぬ速さで、パチパチッとやってしまうのが「またたき(まばたき)」というもの。
「おへそのまたたき」とは、お臍が瞬きをするくらい、短い時間・低い度合い・働く量は少ない筋肉の収縮緊張の在り方を言った言葉で、野口体操の代表的な動き、つまり、腹筋運動に近い運動のことだ。
 もっと言えば「おへそのまたたき」とは、僅かな時間・僅かな量の大切さとその実体を表現した「一寸の価値」ある世界観だといいたい。

 それにしても100%から99・9%を引いた残りに、人の命運はかかっているのだなぁ、と思わずにはいられない昨今の出来事の数々である。
 
 20代・30代のころの自分を振り返ってみると、まさか、今のような仕事をするようになるとは、まったく予想だにしなかった。
 人生は、何時・誰と出会い、その縁をどのように育んでいくのかによって、分かれ道に立ったときの判断が、左右されるものなのだという気がしてならない。
 その判断は、ほとんどの場合、「おへそのまたたき」ほどの短い時間に、直感的になされることが多い。そして一度ある道を歩き始めると、立ち止まることも、引き返すことも進路変更することもなかなか勇気がいるらしい。

 あの戦争に突入したのも、瞬間・瞬間の「もし、あのときに…」を何回も無視して、抜き差しならなくなってしまったからに相違ない。
 ほんのわずかな違い、ほんのわずかな違和感、ほんのわずかな気がかりをそのままにしておかない生き方をするのはとても難しい。

 世の中を見回して、「おへそのまたたき」という愛らしい名前が内側にもっている意味合いは、その人の人生を左右するような大事な「からだの感覚」に違いないと改めて確信している。
 
 そういえば日本の文化はもともと「一寸の価値」を認める肌理細やかな文化だったような気がするのだが……。
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室温2度

2006年01月24日 14時29分03秒 | Weblog
「暖房をしても2度しかあがらないの」
「エッ」といったきり、次の言葉がなかった。
 朝のゴミだしで、ご近所の方との会話。
 
 新潟出身でご実家が雪に閉ざされているとか。そこでは、今年の豪雪で、室内温度は暖房をしていても2度しかあがらない日があるという。

 それに引き換え、南関東地方の晴天はありがたい。
 昨日、湘南に出かけた。海だと思って引き受けた大学は、海から遠く野を越え・山を越えて谷間に建てられている話は、以前のブログに書いたと記憶している。
 その大学の建物群は、昨日、冬枯れの木立の中で、特別に瀟洒な佇まいを見せてくれた。東京とは空気が違う。バスから降り立つと、必ずや体いっぱいに空気を吸い込む。それが習慣になってしまった。
 昨日はとても美味しかった。
 この清浄な空気のなかに、建物も人も車も、畑も樹木も山々も、みな輪郭がはっきりと見えていた。
 そこここに固まった雪はのこっている。しかし、見事に晴れた空は青く澄み、風はなく穏やかな午後の日差しがあふれていた。
 
 つくづく「湘南」という地名が持つ一つのステータスは、むしろ冬の太陽にあると思った。そしてこのあたりは建ぺい率が低いので、家屋の周りに庭の空間がたっぷりある家が多い。そこに燦燦と日が当たっている風景は、穏やかそのものだった。

 太平洋側が晴れると、日本海側の地域では、雪となる。
 それにしても室温2度というのは、大変な寒さだ。
 それを知ると、ウォームビズとか言って、室温を20度設定などというのは、いかにも贅沢というもの。

 今年の寒さは半端じゃない。
 今朝は、駅のホームから遠く富士が眺められた。頂上付近は風が強いのか、雪が巻き上がっているのが見えた。そういえば朝方の強い風は、屋根に残っている凍りついた雪の表面から、少しずつ雪をはがしているようだった。晴れているのに、窓の外では雪が舞っていたのだから。その雪が日差しを浴びて、キラキラと輝く様は、まさに雲母がはがれているようだ。

 あと10日もすれば立春だが、今年の春は、まだまだ遠いようだ。
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ヒアリングテスト

2006年01月23日 08時32分41秒 | Weblog
 共通一試験のヒアリングのテストで、案の定不具合がおきた。
 問題になった器械に当たってしまった受験生には、まったくお気の毒なことだ。

 このニュースを聞いて、思い出したことがある。
 芸大や音大の受験には、聴音とソルフェージュという試験を必ず受けなければならなかった。ならなかったというのは、最近ではそれをやらない学校もあるらしい。
 
 普段の授業でも、この二つは年間を通して行われている。
 附属の高校や中学では、長い人で6年、短い人で3年は、必修科目で、大学の2年間も必修である。
 聴音は、担当の先生がピアノを弾いて、学生はその音を五線譜に書き取っていく。和声の聴音とメロディーの聴音がある。一回、全体を弾いてから、4小節くらいを目安に切って繰り返してくれる。
 以前、ベストセラーになった『絶対音感』を持った人は、ほとんど一回で聞き取っていく。ところが、絶対音感をもっていない人は、何回か聴かなければならない。それでも転調したり、複雑な音程の動きがあると、もうお手上げである。和音もメロディーも予想がつかなくなってしまう。

 ところが音楽理論を習って、楽曲のアナリーゼを数多く手がけると、耳で聴きとれなくても音楽のつくりを思い浮かべながら、変な言い方だが「知的」に聴き取って答えが出せるようになる。和声聴音もメロディー聴音も同様だ。
 言葉に置き換えれば「文脈」を読み取っていることになる。勘所というものがあって、ここから転調するには、ここで「この音」にならないと、という「その音」を抑えれば、次に上手くつながって文脈を予想することができるようになるというわけだ。

 そうした意味からいうと西洋音楽は、文学に近い要素がある。
 たとえば、ある作曲家の曲をはじめて手がけるときに、どうしても理解できなかった音の動きが、すんなりと弾けるようになったとき「音の意味がわかった」という言い方を子供も大人もすることが多い。一見ではなく一聴して、音楽には意味はないと思われるかもしれないが、西洋クラシック音楽には、文章を組み立て、文学作品に仕上げていくのと同様の作業がなされている。そこには、音の意味、つまり音の繋がり方がある。文脈がある。楽曲のフォルムがある。構造と機能があるといってもいい。

 文法を習ってから、文学書や哲学書を読むにあたって、作家が異なるとはじめのうちは、その作家の思考についていくのが難しい。ある程度なれると、不思議と読めてくるという体験をされた方もおられると思うが、音楽作品もそれによく似たことが起こる。
 モーツアルトにはモーツアルトの、ベートーベンにはベートーベンの語(楽)法のようなものがある。そして、その作曲家が作曲経験を重ね、人間的にも成長し、思想的にも感性的にも成熟していくと、この語(楽)法にも変化が現れる。
 それを読み取りながら、その作曲家の初期から作曲を終えるまでの一生を、その作曲家の残した楽曲を通して知っていくこと・愛する(憎む)ことが、音楽を演奏する一つの醍醐味だといえる。

 話が英語のリスニングテストから離れてしまった。話を戻そう。
 リスニングテストをおこなうのなら、ほんとうは会話テストもしなければならないと思う。聴音に対してソルフェージュがあるように。このソルフェージュは、試験場ではじめて見せられる楽譜をその場で見て、伴奏なしに「ドレミ」で歌うものだ。
 聞く・話す、読む・書く。これらは言葉を学ぶ過程で、なくてはならないものだが、すべてが得意という人は、限られてくる。
 (因みに、音楽では、聴く・五線譜に書き取る・歌う、楽曲をアナリーゼして演奏する・作曲をする、という授業があるのだが。)
 聞く・話す、読む・書く、これらのうちのどれかに不得意があるものだと思う。評価は、トータルに見てすることが、ほんとうは求められることだと思ってはいる。
 
 しかし、現実には、大人数のテストにおいては、物理的に不可能であることは明白。

 もう一つだけ内輪話。
 東京には、芸大・国立・桐朋・東邦・東京といくつもの大学・附属高校がある。
 それぞれに試験官がいて、聴音やソルフェージュの課題曲を作曲して、入学試験に臨む。すると、その先生がフランス系の作曲を習った人と、ドイツ系の作曲を習った人では、同じ程度の課題でも、微妙に違いが生まれてくる。すると受験生は、その学生が習った先生と傾向が似ていた場合には、回答が出しやすいが、そうでないときにはなかなか難しいことが起きる。
 その上、その学校の傾向があって、必ずしも滑り止めに受けた学校が、やさしい課題とはいえないことがある。
 ものすごく耳がよくて、なんでも応じられる人ならば、「何でもこい」だが、たいていはそうは行かない。

 いずれにしてもペーパーテストは、テストの方法としては問題が多々あっても、いちばんやりやすい方法であることは間違いない。
 『アーカイブス 野口体操』で、養老孟司先生が東大入試について語っておられるとき、話を聞く野口先生の「あたふた」とされた表情が思い出される。
 お持ちの方は、最後の方にあるこのシーンをご覧あれ。
 
 いずれにしてもヒアリングテストの物理的な方法だけでなく、受験生のもって生まれた性向や得意・不得意においても、難しさが残るだろうな、と今更ながら、痛感された朝だった。
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一色に心の色を染めあげるということ

2006年01月22日 14時01分45秒 | Weblog
 「野口三千三を読む」という講座をはじめた。
 昨年、10月から、月一回のペースで、3回が終わったところだ。
 テキストは『原初生命体としての人間』。
 なんと、「原初生命体以前」と題して3回続けた。
 昭和20年(1945年)から、出版された昭和47年(1972年)までの、年表をもとに、話を進めていった。正直言って、戸惑いの連続だった。

 その戸惑いの一つの理由は、参加者が20代から60代半ばまでの方だったこと。
 そこで「歴史を共有することの難しさ」という問題を、第一回目に戴いた。
 一つ例をあげれば、私にとっての戦争は「第二次世界大戦」だ。
 これを「太平洋戦争」という方、「大東亜戦争」という方。そこで戦後生まれかそうでないのかが別れる。
 さらに、若い方々にとっての戦争は「湾岸戦争」なのである。
 余談だが、今年から平成うまれの人が、大学に入学してくる。その人たちにとっては、湾岸戦争も昔の話になっている。
 すると「第二次世界大戦」は、私が思う「日清戦争」「日露戦争」くらいの感覚になるに違いない。

 昭和は遠くなりにけり。それも戦前の昭和ではなく、前後の昭和が60年・還暦なのだから、しかたがないといえばそういえなくもない。

 話を戻すと、『原初生命体としての人間』以前を共有するには、昭和30年代半ばから40年代にかけての時代を話さなければならなかった。
 不器用な私には、そこを飛ばして、若い人にも分かりやすいところをかいつまんで話すことができなかったことが、戸惑いの一つの大きな源泉だったように思う。
 さらに、この昭和30年代から40年代については、戦前を知らなければならないという、深みにはまってしまうのだから。
 いずれにしても時間・空間を共有する・歴史を共有するという意味を深く実感させられたことだけは確かだった。

 野口体操が単に身体を動かす方法だけを求めるものならば、歴史認識はいらないだろう。しかし、これほどの「言葉」をもって伝えてこられた野口体操をすこしでも理解しようとするならば、野口三千三が生きた時代を知るということは、不可欠のことではないかと、私は思っている。野口先生自身の下意識・無意識・非意識の層に畳み込まれた「その時代」を知ることが、野口体操がこうした体操になっていく過程を知ることになると思うのだが。

 10月の第一回目は15点だ、と自分で採点した。講義としては落第点である。しかし、それしかできなかった。2回目以降も、迷いながら話をしている。なかなか及第点までたどり着けない。それでも1月期に継続して申し込んでくださったかたがいらっしゃることを知って、今、続けられるように、自分の気持ちを整理している。

 そして、野口体操を始めた当初・26歳ころの自分を思い出している。
 とにかく不器用だ。ごまかしがきかない。よくはわからないが、もつれて固まっている糸を少しずつほぐしながら、ほぐしては全体を振り返り、ほぐれたところからすこしだけ見える糸の先を追いながら、遅々としてすすまなくても、ほぐし続けるという在り方なのだけれど。

 一つだけ見えてきたことをあげれば、野口先生にとって、皆が揃って一色に心の色を染めあげることへの警戒心を、ご自身の戦争体験が明確な「NO」をからだに突きつけたこと。それが野口体操の隅々にまで浸透しているということだ。
 個人においても、一途になることは悪いことではないけれど、一途になることの危険性も忘れてはいけない。

 1月期は、その視点から入ってみようかと今日は思っているのだが。
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2006年01月21日 09時41分04秒 | Weblog
 佐治さんのブログ「芭璃庵」に、山手教会と建設中のNHKの写真が掲載された。 
 芭璃庵:http://blog.so-net.ne.jp/spoonful/ ブックマークをクリックしてください。
 これがブログの醍醐味で、それぞれのイメージがふくらみ、思い出が甦るってわけ。

 山手教会の隣に広場が写っている建物の脇にルノーが一台。
 今ではすっかり姿を消した車だが、ルノーはあの街に合っていたし、あの教会にもぴったりだった。
 ベレー帽にルノーは、芸術家や知識人を連想させた懐かしいアイテムだったかもしれない。
 ある時期から、山手教会の隣の駐車場のような空間では、日曜日毎に、露天が出て大道芸が見られるようになっていった。
 坂をもう少しのぼっっていったか下っていったか失念してしまったが、「ジロー」という名の喫茶店があった。イベットジローの「ジロー」だったかな。そこではシャンソンがながれ、時にコンサートや詩の朗読会などもあったと思う。

「建設中の写真は、NHKの敷地が広いことをしっかり伝えてますね。佐治さん」
 巨大な放送局として、大きな憧れをみんなに与えてくれたのだけれど、いまやここも地に落ちて、行く末を考える議論がなんともかしましい状況だ。

 写真で思い出すことがある。
「このときに朝カルがはじまったのよ」
 朝日カルチャーセンターの二階さんが、額に入った写真を持って控え室に入ってこられた。
 写真は、西新宿の高層ビル街の中で、ただ一棟「住友三角ビル」が立ち上がって、周囲はまだまだ空間が残っている情景を写し出している。三井ビルが建設中で、クレーン車が写っているのが印象的だ。もちろん都庁の空間はガランとしていて、上方をみると空が広っている。

「懐かしいと思えるのは、私たちくらい?」
 しばしの沈黙。
 互いに次の言葉は発しなくても、なんとなく通じる思いがあった。

 見続けるうちに、もう一枚の写真がダブって見えてきた。
 西新宿の高層ビル街は、かつて淀橋浄水場だった。浄水場の向うには初台のガスタンクと富士山が眺められた。ヘビもいた。虫もいた。熱い夏でも、浄水場の土手はひんやりして、蛍は青白い光を放って真夏の夜を楽しませてくれた。
 
 いやはや、時は流れ、街は変わる。それにつれて人の心も移ろい、価値観も変化していく。
 ふと思い出す言葉がある。
「今は、価値観がもてない時代になってしまった。お金以外のね。はてさて、ほんとうに大切な価値を、どうやって学生につたえることができるのだろう」
 先日、お目にかかったクリスチャンの老教授が、ささやくように漏らした言葉だった。
 世の中、囂しい。
 久しぶりについて出た言葉だが、「囂」かまびすしいとは、口が四つ+頁(頭)だそうだ。

 さぁ、これから雪の降る町・西新宿にお出かけ。
 先週に引き続き、逆立ちの稽古。逆さまになって、世の中を見てみようではありませんか。
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記憶は残る・記録は消える

2006年01月20日 09時12分56秒 | Weblog
 敗戦後、日本は六等国になった、と言われたそうだ。
 二十代半ばで終戦を迎えた御歳八十六の方の言葉だ。

 しばらく前に、がむしゃらに一等国にならなくても、三等国くらいだっていいじゃないと思っていたが、昨年から今週にかけての国内を騒がせているいくつかのニュースをみると「なんてこった!」嘆かわしいことこの上ない。
 これでは、敗戦後の日本と一緒で六等国といわれてもしかたがない。
 いやいや国のかたちは崩れている、と思えてならないくらいだ。
 日本の首都、東京の証券取引所が、ストップするなどもってのほか、といわれてもしかたがない。
 巷では、昨日まで神輿上に載せていた人間が、落ちることがはっきりすると、とたんに手のひらを返してしまう。つばをかける言動も、品性としていただけない。

 さて、佐治さんからコメントをいただいた。
 野口体操に吸い寄せられるという感性は、似たような体験を共有していると思った次第。
 渋谷の街は、NHKの移転と西武の進出で、文化の街としてのいい匂いが漂っていた時代があった。
 同時期に、山手教会も前衛芸術を担っていた。
「ジァンジァン」会場だけでなく、教会でも演奏会が開かれていた。ストラビンスキーの「兵士の歌」なども初演され、教会の固い椅子に腰掛けて聴いた記憶がある。
 
「ジァンジァン」では、アキコカンダのモダンダンス「フォーシーズン」を見たことがきっかけで、この会場をピアノの会に使いたいと思った。会は、ここで10年くらい続けていただろうか。

 日生劇場のアンチ文化の場として、この小屋は時代をリードしていた。そのくらいの気概をもって、小屋にかける演目をプロデュースしていた。
 渋谷は、1970年代に差しかかるころから、80年代にかけて文化に活気を与える底力のあるエネルギーに満ちていたのだ。
 
 例えば、当時、津軽三味線が一般化するなどと、誰が予想しただろうか。
 高橋竹山の津軽三味線と映画は衝撃を与えた。いちばん驚いたのは、津軽出身者だ。昔からのこの世界を知っている人々の間では、「なんでこんなものが、東京でもてはやされるの?」という言葉までささやかれていた。
 
 時代は変わって、渋谷にあの当時の面影はない。
 昔はよかったなどというつもりは毛頭ない。しかし、バカがつく現在の渋谷の喧騒は、日本の姿の象徴かもしれない。

 竹筒を通り抜ける風の音がひゅーひゅーとなる。竹筒が触れあって揺れあってカタカタとなる。そんな音空間は、騒音にかき消されていく。しかし、音は人の記憶の中で生き続ける。
 寒風に不自由なからだを晒して、三味線を稽古するその姿も遠い昔話。

 さて、今の日本の姿は、いったいどんな昔話として記憶に残されていくのだろう。
 五木寛之氏は「記憶は残る、記録は消える」と著書に書かれておられる。
「なるほどなぁ~、名言」
 兎にも角にも、消したい記録をたくさんもっている人は、大変だ~!
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ブンガワン・ソロ

2006年01月19日 13時58分23秒 | Weblog
 20数年前に、野口体操の教室で知り合いなったお嬢さんが、今は結婚してアメリカに住んでいる。当時は、慶応大学の学生さんだった。子供のころインドネシアで暮らしたことがおありだった。
 其の縁で、インドネシアの民謡「ブンガワン・ソロ」を、アンクルンという竹の楽器+ピアノ+歌で、ピアノの会を盛り上げてくださった。もちろん歌詞は原語だった。

 会場は、今はもうなくなった渋谷の山手教会地下「ジァン・ジァン」。
 当時は、ここでピアノの会をするのはナウい! ということで、毎年、いろいろな企画をたてて、出演者希望者が多く、時間のやりくりが大変だった。
 
 そんな楽しい会に、竹の楽器・アンクルンが登場した。
 この楽器の音色は、「ブンガワン・ソロ」の歌がもつ哀愁にぴったり調和している。曲が進むにつれて、歌う方も聴く方も心地よい境地に導かれていく。
 曲が終わる前から、客席ではホロリと頬を伝う水滴をハンカチや指先で拭う光景が、あちこちで見られたのだ。
 ゆったりと流れる川に思いをかけた歌詞とメロディーは、日本人のこころをとりこにした。或る年齢から上の方々には、なおさらなことだった。

 その彼女から「ブログを読んでいます」というメールを戴いて、往時を懐かしく思い出した。
 佐治嘉隆さんのバリの写真を次々バックに映し出しながら、体操教室の皆さんとアンクルンを奏で、「ブンガワン・ソロ」を歌ってみたいと思うくらいだ。
 この演奏には、すくなくとも11人の演奏者がいったと思う。
 記憶は相当に曖昧になっている。
 クリスマスのカリヨンって言いましたっけ、音階になっている鐘をひとりずつ鳴らしながら、メロディーを奏でる。それを思い出していただきたい。
 インドネシアという気候風土、アジアという風土から生まれたアンクルンは、鉄製ではなく、竹を筒のまま枠にはめる。それを揺すりながら、音を鳴らす楽器。一本のアンクルンには、3本の竹がついている。そのため「唸り現象」が起こって、柔らかな音色をうむことになる。

 アンクルンの音は、次々に弾き継がれて、一曲を演奏するうちには、音の波が風や川や雲や海や段々畑の畝や、社に捧げものを運ぶ人々の列の動き等々のイメージを髣髴とさせてくれる。

 因みに、インドネシアには竹で作られたパイプオルガンがあるらしい。
 バタビアと呼ばれた時代、宣教師の指導の下に、現地の人々が作ったらしい。
 アジアには宗主国が残した遺物が残っている。
 ぬぐいきれない歴史は、どの国にもあるのだなぁ、と、しばし、ため息。

 懐かしい歌をハミングしながら、今日のブログを書いている。
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埋められた青銅器・銅鐸

2006年01月18日 10時51分08秒 | Weblog
 1月16日付けの日経新聞文化欄に「銅鐸は呪器だった」という見出しで埋められた青銅器に対する白川静氏の解釈が記事として報道されていた。
 
「古代中国では神霊の力が絶対視されていた」
 白川氏の説によれば、青銅器は鋳込まれた文字そのものに呪の意味が込められ、呪器としての性質があったことを指摘している。

 30年前、野口三千三先生に導かれて、甲骨文字・金文の世界を垣間見て、古代社会のおどろおどろしさに最初は、抵抗感があった。
 とくに子供たちに漢字の字源を教えるときなど、古代社会のありようをそのまま伝えることが果たしてどのような意味があるのかと、当時は考えていた。
 しかし、文字にしても言葉にしても、その裏側にべったりと張り付いている「もの・こと・おもい」を無視して、曲げて読み込むことは、人間をほんとうに知ることにはならないという思いも深かった。

 漢字はその文字の成り立ちを当時の社会や政治、哲学や宗教、風俗や習慣、つまり文字の内側に内在する「出来事」「事実」「心情」エトセトラ、を知ることによって、難しいと思い込んでいる文字ですら、身近になってくれる。殊に、画数の多い文字は字源をしることは不可欠だと言いたい。調べてみれば「なるほど、納得」なのだから。

 言葉は、事の端・言の葉である。
 しかし、漢字は、「端」とか「葉」というには、あまりにも「実体」をリアルにそっくり写し取る力が与えられている世界に類を見ない「文字世界」を具現していると思える。

 そのことを下敷きに、世界で、日本で、今、おこっている出来事に目を転じてみると、古代中国の漢字世界が、決して特殊ではなく、21世紀の現代社会との共通項を感じるのは、私だけだろうか。
 
 血祭りにあげる、生贄にする、見せしめにする行為は、なくなっていない。
 自分の領地を守る、既得権を守る。
 あるいは欲に任せて、理不尽にも他に攻め込む。攻め込まれた方は、たまったものではない。等々。
 
 昨日から今朝にかけて、ものものしい報道が、いくつもされている。
 確かに問題行動はあったとしても、なぜ、この時期に? とか、なぜ、あの人だけが? といいたくなるようなニュースもあって、巷を騒然とさせている。
 人間は、現代といえども、古代とそう変わりない俗界を生きているものなのだと思う。

 それにしても甲骨文字・金文を生みだした古代人の洞察と表現力には、脱帽するしかない。
 その文字研究を90歳過ぎても、精力的に行っておられる白川静氏の前世は、いったい何者だったのか。そんな思いすらもちたくなる「古代漢字世界」の面白さだ。

 はたして、私たち大人は、これからの時代を担う子供たちに何を教えられるのだろう。いや、何を教えたらいいのだろう。
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始発駅は終着駅

2006年01月17日 17時03分59秒 | Weblog
 東京駅がよほど好きらしい。
 行き帰り東京駅を通りながら、そのわけを考えてしまった。

 長距離列車の始発駅であり終着駅である東京駅。
 行きかう人々の表情が好きだというのも、大きな理由らしいと気付いた。
 仕事で出かける人も、旅行に出かける人も、この駅にいる人々は、東京都内を1分1秒を争って動き回っている人にはない、すこしだけ間延びした顔が見られるからだろうか。
 
 今から、遠方に出かける。
 今、遠方から帰ってきた。
 そうした人々の思いが、表情を思いなしか変えているように見受けられる。

 駅弁の種類の多さ。和食に中華にイタリアン、もちろんカレーショップに焼きたてパンの店、コーヒーショップやサンドイッチなどなど。飲食店の賑わいは、匂いとともにエキナカにあふれている。ここを通ると「人は食べるために生きている」などと思ってしまう。

 冠婚葬祭に最低限必要なもの。女性が買い物したくなるような靴下やピンや化粧品などの雑貨。ネクタイやマフラー。袋物。東京土産の数々。本屋だって知る限り二軒はある。
 商店の豊かさに加えて、ギャラリーだってある。地方のイベントも開催され、音楽会まであるのだから。
 はっきり言って、ここに降り立つと、どんなに眠くてもパッチリと目が覚める空間だ。

 行き交う人々は、やっぱり他の駅とは違う雰囲気が漂っている。
 これから行くところへの期待と不安。これから出会う人への気遣い。これからまとめる仕事への責任や重圧。
 その逆もある。無事に帰ってきたことへの安堵感。先での出来事を背負って、からだもこころも重い人。楽しい思い出に心が軽くなっている人。家路に着くことが見えてほっとしている人。

 旅立ち・帰省。出会い・別れ。
 見知らぬ人々の人生の交差点は、始発駅でもあり終着駅でもある。

 さて、私はと言えば、いよいよ年度末である。
 あと一回、実技テストのために、この東京駅から東海道・在来線に乗って、そしてこの駅に戻ってくる。

「来週、なんとか雪は降らないでほしい」
 祈りながら、いつも乗っている東京発・大月行きに揺られながら家路についた。
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