羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

薦骨で動きの道を選択する

2011年11月27日 12時41分04秒 | Weblog
 昨日の朝日カルチャー土曜クラスでは、9月から11月にかけてテーマにした動きを復習した。
 なかでも「おへそのまたたき」では、あえて二組に分かれて、後ろ側から腰の動きを見て確かめてもらった。
 主に腹筋に力を入れて骨盤を立てる。すこしでも床と角度がついたら、出来るだけはやく腰を中心に胸も頭も力を抜くと、上体は重さで流れていく。そして両足の上にそっと上体がしなだれかかる。

 問題は「薦(仙)骨」の動きにあることを見てもらった。
 腹筋に力が入ると短くなって腰全体は後ろ側に丸く湾曲する。次に、というよりそうなった瞬間に力を抜き、薦(仙)骨を立たせるために伸ばす意識を持つと、上体も伸ばされてむしろ軽く上方へ放り上げられる。そこで力が抜けると真下へ重さで落ちていくことになる。臍下丹田から動きがはじまって臍→鳩尾→胸の中心部→喉の付け根→頚が緩んで最後に頭が脚の上にしなだれる、という順序を辿る。

 野口三千三著『野口体操 おもさに貞く』参照いただきたい。196㌻から200㌻。『薦骨で動きの選択をする 「法」というコトバと動き』『「臀歩き」の薦め』
《背骨は頸椎←胸椎←腰椎←薦骨→尾骨(注:矢印の向き注意)とつながっている。薦骨は五個の骨とそれに付属する骨が癒合している脊柱の中で最大の骨で、骨盤の後壁ともなっている。薦骨は今では仙骨と書かれ、ここでも薦が棄てられている。「名は実体であり、名をつけることが認識である」と考える私は、先人がなぜ「薦骨」と命名したかを探検したくなる》197㌻より

 推薦の熟語が示すように「薦」は「すすめる」と訓まれている。
 野口の考えによれば「薦骨」は、動きの始まりを選び動きを導く根幹である。
《薦骨の部分が人間の動きの根源である》と書いている。
 薦骨が動きを撰び新鮮な感覚をもって好ましい動きを生みだす根源としての力を潜めたところである、と解釈している。「ぎっくり腰」などの原因は、腹筋や背筋が弱いためではないと考える。
 たとえばどのような姿勢であっても薦骨が立っている状態が保てる。逆に薦骨が立つことで姿勢が保たれると動きの質は断然良好になることは、ぎっくり腰を経験してみると、いやというほど実感できることからも分かる。
「臍下丹田に力が込められていること」と「腹筋に力が余分に入って結果として腹側が縮むこと」とはまったく薦骨の保たれる位置が異なる。当然、脊柱全体のあり方も異なってくる。さらに呼吸(腹式呼吸)や腰のなかの筋肉(たとえば腸腰筋等々)や腹横筋といったからだのコアにかかわる筋肉の活かし方にも深い関係が現れる。

 まとめると深層筋と表層筋の微妙な関係、不随意筋と随意筋の関係、さらに自律神経系への無意識の影響等々が複雑な絡みをともなって、生きる姿勢にまで影響が出る重要な鍵となる筈である。そこまで言い切っても当たらずとも遠からず、と思う。
「腰が引ける」に対して、「腰を入れる」とは「臍下丹田に力を込める」ことに違いない。

「おへそのまたたき」は、最初は腹筋に力を入れても、すぐに力を抜くと同時に薦骨を伸ばして立てることができたら、「臍下丹田」に重さを乗せてあとは流れに任せていくことになる。
 この感覚こそ「おへそのまたたきの原理」と野口が呼んだ中身ではないだろうか。
 
 読んでくださってありがとう。
 ふーッ、ここまで逃げずに書いてみました。言葉にするのは難しいでーす。
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「腕立て伏臥の腕屈伸(腕立て伏せ)」と「腕立て伏臥のはずみ上がり」と「腕立てバウンド」

2011年11月23日 09時04分42秒 | Weblog
 野口三千三先生が手本を示される「腕立て伏臥の腕屈伸」は、見事に姿勢が保たれて美しかった。
 何を隠そう。それは戦前、戦中にキリッとした体操を身につけ、生徒にも教えていた長年の意識と訓練の賜物である。
 敗戦になって、過去をきっぱりと捨てるというものの、身体と身体に刻まれた動きの記憶はパソコンの操作でリセットすることで一瞬にして消えてしまうようなわけにはいかない。

 むしろ「上体のぶらさげ」然り、「おへそのまたたき」然り、「腕立てバウンド」然りなのだ。
 代表的なこれらの動きは、「前屈運動」と「腹筋運動」と「腕立て伏臥の腕屈伸」という従来のやり方との比較によって、本質的な違いがはっきりする。
 私自身の問題として、言葉としてはわかっていた。いや、実は「つもり」に等しかったが、似ていて非なるものこそ、慎重な比較検討が必要になることを痛感したのが、この二週間の出来事だった。

 すでにこうした気づきにつながる予兆は、夏休みに資料整理をした中から9月になって取り上げた「腕立て伏臥の腕屈伸」のテーマから見えていた。
 さて、本題にはいりたい。
 私が野口体操を始めた1975年頃には、すでに「腕立てバウンド」という名前で呼ばれていた。ところが1968年頃の資料によると「腕立て伏臥のはずみ上がり」と記されていた。そのやり方は「伏臥姿勢」をとって、「腹筋を緩める」ことからはじめる動きだった。このとき女性の多くは、腹筋を緩める感覚を自覚することが難しかった。自覚できないということは、上手に腹筋を活かして使うことも慣れていないということの裏返しだった。何が起こるのか?緩めすぎた腹筋は、腹全体を床すれすれまで落としてしまう結果を招く。その状態からでは、はずみ上がりなど起こりうるはずもない。落ちっぱなしになってしまう。
 その点、男性諸君は落としても尚も力を使って腹全体を押し上げることが可能だった。そこから波を生み出すことも。
 で、女性にも腹筋を緩めすぎないという説明を行う。が、やはり分かりにくかった。そもそも腹筋の力が抜けた明確な自覚がない。(筋トレを行っている女性は別)
 次に
「落としすぎないことです」
 この言葉が有効に伝わる。もちろん野口先生もこういっておられた。
 伏臥姿勢をとってから僅かに緩めて落としすぎないなかで波を作る意識を持つ。すると女性でも柔らかな「腕立て伏臥のはずみ上がり」が、少しずつこなせることに気づいていった。

 そのうちに男性諸君も肩に余分な力が入って固まってくる、と舌に言葉を乗せて来る。
「左右の肩甲骨の真ん中を落とすことって、いいみたい」
 そこで男女入り乱れて試すと、女性も腹筋を上手くいかすことができるようになっていく。しかし、である。やはり男性ほど「腹筋を緊張させている」といった明確な自覚は持ちにくかったのが事実のようだ。

 男女の筋肉の質には、相当な違いがあり、そのことが自意識をつくりあげていく大元であることがわかってきた。
『筋肉は感覚器として働いたとき、はじめて筋肉としての役割を果たすことができる』とは、先生の考えだった。感覚器の働きの男女差は、上下ではなく良い悪いでもなく、"価値観を伴わない差異”として捉え直すことで、新しい筋肉の自覚を促すことになることに気づかされた。
 
 女性の側にとりわけ福音が齎されることだけでなく、男性諸君にとっても「思っている以上に力を抜いても大丈夫だ」むしろ「もっと力を抜く感覚こそ大切なのだ」。更に、そうすることで「"ここだ”という部分の筋肉を鍛えることにもなる」ということを伝えるきっかけになった。
 腹筋に恵まれ、力の入れ方を知ってしまった男性ほど、無意識に非意識の領域で余分な力を使っていることに気づいてほしい。それが昨日のキタムラさんのはなし「不随意筋の力を抜く」指摘につながるとブログを読ませてもらった。
 
 女性でも男性でも意識とかかわりないところで「力め!」と脳からの指令が、生育時からしっかり届けられている人ほど、「おへそのまたたき」の実験で感情表現につなげることが不得意だった。(言ってしまってごめんなさい)とりわけ日曜日クラスの男性諸君の信じられないほどの悪戦苦闘ぶりには、こちらが申しわけない気分にまでなってしまった。(実験の内容を知らない方には通じにくいのは承知の上で書かせていただいてます。悪しからず。続けます)。
《交感神経、つまり闘争と逃走の神経が常に「力め!」状態で維持され、慢性的に過剰になっていると、力んだ状態がずっと維持され気づかない。それが自分だと思っている》キタムラさんの文章から概略。
 そのことに気づけば、時間はかかるが多少の対処の仕方が見えて来るというもの。そして感情表現は演劇的な訓練だけではなく、或る条件のなかでは本気で「喜怒哀楽」に身を浸すことできる可能性を見たのも「おへそのまたたき」の実験から得られた収穫だった。

 ここで問いたい。
 心身一如の視点から、『「力がある」とは、如何なることぞ?』
 心身一如の視点から、『「知・情・意のバランスがよい」とは、如何なることぞ?』
 男女ともに、一考に値する。
 11月16日は野口先生の誕生日である。その日を挟んで、素晴らしい気づきをいただいた。
『力を抜けば抜くほど力が出る』とは名言であった、と改めて思う、時は晩秋へ。
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「おへそのまたたき」あるいは「力を抜くことから生まれる可能性と豊かさと」

2011年11月22日 08時22分20秒 | Weblog
「おへそのまたたき」、この奇妙な名前の運動は、野口体操の動きのなかで、基本の考えを典型的に示す動きだ。
 仰向け姿勢からできるだけ少ない力で上体を起こす腹筋運動である、と一般的には説明をしている。
『或る動きを行うとき、働き筋肉の数は少なく、働く時間は短く、働く度合いは低いほどよい』とは野口先生の言葉だ。床に伸ばしている腕を上方に放り上げる。すると胸の中身が浮き上がる。同時に腹筋に僅か力を入れると骨盤が床との関係を変えて90度までにはならないが角度がつく。その瞬間に足腰・上体の力を抜くと後は重さで上体が起こされて最終的には伸ばされている脚の上にしなだれかかる、という動きだ。

 さて、この2週間ほどレッスンや授業で、世間で普通に行われている「腹筋運動」と「おへそのまたたき」の比較を行っている。そこで気がついたことが思わぬ発展を見せた。つまり、「体の固さ、体の柔らかさ」、大胆に二つに分けてみると感情とコミュニケーションのあり方の関係が見えるということ。
 これだけでは何のことやらわからない、とおしかりを受けそうだが、実践をともなわないと今のところうまく伝わらない。
『力を抜けば抜くほど力が出る』という野口先生の言葉の実証でもある。
 力を抜く感覚を求めて、体の旅を続けるなかで広がる可能性のお話なのだ。
 それも孤独に探るのではなく、少なくとも「同行二人」、他者と連れ立って探る旅のなかで膨らむ感情の旅である。

 この問題を丁寧に時間をかけて探ってきた土曜日朝日カルチャー野口体操講座で、先週のレッスンでは一つのまとまりを見い出せたような気がして、Facebookに書き込みをした。
 するとそれをシェアし、ご自身のブログ「カラダの語り部、ときどきギタリスト」11月20日付け『体の力を抜くことの意味』と題して、筋肉(随意筋、不随意筋)、自律神経(交感神経、副交感神経)と感情の発露について、キタムラさんが理知的に“意味を解く文章”を載せてくださった。
 レッスンや授業で展開していることを外側から捉え直しをしてもらえると、暗闇でカンテラを差し出されたような嬉しさを感じる。
 今日は、その紹介です。リンクしたのでぜひ、読んでください。
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驚異のダンサー

2011年11月20日 07時56分04秒 | Weblog
 華麗なる舞をご紹介。
 先日の「白鳥」につづき、今回は「炎」。
 この世のものとも思われない風の動きの多様性を見る。
 虚実皮膜とはこのこと!!
 新井英夫さんのFacebookからの孫引きです。
 驚異のダンサーの舞をご堪能あれ。
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今週

2011年11月19日 10時34分36秒 | Weblog
 11月、大学の授業は佳境にはいる。そんななか時間を作って町内の「防犯パトロール」に参加した。
 夕方4時前に集合して班に分かれて、巡回すること30分。街の隅々を回っている。その間、歩きながら会話するのだが、ご一緒する人は皆60代から70代の高齢者である。そしてその親御さんは90代から100歳代ということを知った。高齢者が増え続ける日本であることを痛感した。
 86歳の母が一人留守番をすることがああって、町内の方々に何時お世話をかけることになるか分からない。そんな時のためにも、少しでも街に役立つことも日頃から行っておこう、という気持ちからだった。
 ご一緒した一番近くの奥さんから、庭の木で熟した柿をいただいた。これが大変美味!

 昨晩は第八回明治大学シェクスピアプロジェクト公演「冬物語」を観た。
 スタッッフを入れると100人を超える学生が参加しして、舞台を作り上げる。もちろんプロも関わってほぼ一年かけて秋に発表する。
 初日ということもあって、前半は緊張が解けなかった。後半から力量発揮で、よい物語を見せてもらえた。
 国力ということがあるが、上質な演劇を上演できる“大学力”が花開く夕べである。一昨年の「ハムレット」、昨年の「夏の夜の夢」に続いて三回つづけて見ている。これでシェクスピアの悲劇、喜劇、ロマンス劇の代表作をみたことになる。それぞれに若い学生の感性に支えられた舞台だ。私個人の事情だろうか。長台詞が聞き取りにくいところがあって、年を取ったためか。耳が遠くなったのだろうか、と自問することが多かった。
 今日も明日もマチネーと夜の公演予定だ。観客の前で演じることで、日に日に上達すること間違いない。時間が許せば毎日見たいもの。細部がみえるだろうな~。
 そのくらい魅力的な演出であった。
 今年もプロジェクトに役者とスタップ6名ほどの学生が関わっていた。会場でも知っている学生が増えた。その上朝日カルチャーセンターの方々にも出会った。まっ、そういうことです。
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カーネーション

2011年11月16日 13時12分37秒 | Weblog
 今回の朝ドラの主人公は、お行儀が悪いほどに闊達だ、と言われているとかいないとか。
 戦後66年かけて失ってしまった人情の機微がよく描かれていると思って見ている。
 母が踏んでいたミシンの音が、懐かしさとともによみがえってくる。子供の頃は手縫いの服や、手編みのセーターや手袋やマフラーを身につけて育った。裁縫や編み物をする時の母には、声がかけられなかった。真剣に一途に作り上げる気迫が背中からあふれていた。
 戦後、多くの女性たちは、文化服装学院に通って、洋裁をマスターすることが憧れだった。既製服などない時代だから、自分で作ることが現実問題としておしゃれの一歩なのだ。
 婦人雑誌は今とは異なって、服装や髪型やお化粧以外に、服を作る時の型紙の取り方も載っていた。
 生地屋に出かけるのが楽しみで、どんな服に仕立てようか、とアイデアを練る時間は、当時の女性たちにとって至福の時に違いない。

 ドラマは母の十代の時代を見せてくれている。その意味からも見るのが楽しい。
 和服の着せ方も美しく、当時の日本の服飾にも興味がわく。
 そしてなにより音楽である。龍馬伝の佐藤直紀さんが、ここでもいい味わいを出している。私にとってこのBGMを聞くのもドラマの楽しみなのだ。むしろ音楽を聞きたくて見ているのかもしれない。

 突発性難聴を煩って既に8年が過ぎた。最近ではすっかり忘れているが、右耳の高音部は治りきらずにいて、この音域は鬼門でもある。しかし、音楽というのは低音から高音まで幅広い音域を網羅している。クラシックに限らず西欧の音楽は、低音部がしっかり鳴っていて倍音に厚みとふくらみがある。
 たぶん高音部だけで心の細やかな震えを象徴する音楽の場合でも、短い時間で低音が鳴ってくれるので、耳に障ることは少ないことに気づかされた。
 なにより、甘すぎずどちらかといえばロマンティシズムに流れすぎない佐藤さんの曲が好きなのだと思う。それでも充分に大人の情緒を醸し出しているのだから。
 
 さて、さて、最近はやってくれるNHKだが、今週末の土曜日から始まる「蝶々さん」がどのようなドラマなのか、こちらも楽しみだ。
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白鳥

2011年11月15日 11時10分08秒 | Weblog
 Facebookで見つけた素晴らしいダンスです。
 新井英夫さんがシェアしていました。
 ダンスフェスティバルのYouTube。ダンサーは、Lil Buck。曲はサン・サーンスの「白鳥」ですが、ストリートダンスのクラシック版?いや、アメリカが表現する前衛クラシックダンスかもしれない。
 パロディーもここまで来ると、本物を食ってしまいそう。日本なら、新・伝統芸能とでも呼ぶかもしれません。
 これは凄い!
 ぜひ、ご覧ください。
 賛否はあるかも。
 精神性は?などと野暮な質問はしないでね。

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腹筋を鍛える

2011年11月14日 14時30分04秒 | Weblog
 このところブログ更新がお留守になっていた。
 たとえば「オリンパス粉飾事件」の記事を読むと、かつてのライブドアは何だったのか、と思わずにいられなかった。「駐車違反で死刑判決が下ったようだ」と表現したジャーナリストがいたが、ライブドアとは比較にならないオリンパスだ。他にも大なり小なり巧妙に隠し通しているところもありそうだ。品行方正、清廉潔白、すべてをオープンにしてやっている企業は、どのくらいあるのだろうか。外国人に告発された、というのも皮肉なことで、日本人同士は同じ穴の狢ということになってしまう。日本のことわざに「水清くして魚棲まず」というのもありましたっけね!
 
 さて、膝を正して、野口体操の収穫を報告。
 従来からの方法で行う「腹筋運動」は、他の人に足を押えてもらうことが多い。力が入っていると足が上がってしまうから、ということを避けることが出来る。実際には、足を押さえ込んでもらって、あるところで自分では足の力を抜くことをする。すると一瞬にして楽になり、回数を重ねることが可能になる。逆に押さえ込んでもらいながら、足の力を抜かずに行うと腹筋の力が必要となる。
 そこで野口体操の「おへそのまたたき」と比較してみる。仰向け姿勢で足を伸ばした状態で起きてくる場合、足の力が抜けないと起き上がることは出来ない。そこで一瞬間、腹筋に力を入れてもすぐに足と腰の力・胸と頚の力を抜くと、足腰の重さの方が重いことと、少し高い位置にある上体は重さで低い位置に流れ込むことで、結果として上体を起こすことができる。
 で、その原理を従来からの「腹筋運動」でも行ってみると、何のことはない楽に回数を重ねることができるのだ。
 
 今日のクラスは演劇専攻の学生が多い。そこで力ずくの腹筋運動、足を伸ばしたまま腹筋の力で上体を起こす途中で、或る表現をもとめてみた。まったく難しい。ところが「おへそのまたたき」で、上体を起こして来る腹筋運動では、途中で切り替えてさまざまな動きと感情表現が可能であることを、学生たちに実体験してもらった。
 つまり余分な力が抜けている方が、動きにも表現にも可能性が豊かであることの証明だ。

 野口体操の「おへそのまたたき」、従来からの二人組で行う「腹筋運動」、いずれも骨盤と床との角度が90度まで変化しなくとも、床から骨盤が浮き上がって角度がつけば、その瞬間に力が抜けると体育で行う腹筋運動も楽にできるということを実際に体験してもらった。
 本当に腹筋を鍛える場合には、それなりの動作認知が必要となる。

 回数を重ねることの意味が浮き彫りになった。そのことでつかめる質的な変化もある、ということだ。
 今週の土曜日には、或る表現を伴った「腹筋運動」と「おへそのまたたき」を試してみたい。これがとても楽しいのです!
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動きとイメージ

2011年11月08日 10時47分55秒 | Weblog
 このところテーマにしてきた「あくび」と「肩甲骨の動き」は、悩ましいほどに皆さんの身体に落とし込まれていったようだ。
 日常的に、本能の領域で、「あくび」は、誰もが体験している。
 しかし、この行為(?)には、場所や時間やその場の空気によっては、躊躇いが求められる。いつでもどこでもやっていいということではない。そのためにどちらかというと、“タブー”という禁止句が、だれの身体にも深く刻まれているようだ。
 レッスンで「膝のあくび」について、いろいろな角度から話をすると、そのタブーは一瞬にして切れる。見事におおきく口を開けて全員揃ってあくびができるようになる。
 そのイメージを身体全体に拡張していく。

 もうひとつの「肩甲骨」と「胸の籠(肋骨)」の動きにおける関係をみる試しは、今までに何回も取り上げてはいるが、今回ほど深く丁寧に多様性をもって試したことははじめてである。
 昨日もレッスンを受けた方からメールをいただいた。目から鱗どころか「はじめて自分の体と具体的に向き合った」とのこと。こちらはイメージを追うというより、触れる・触れられるという関係のなかで手や腕の実感として捉えることが出来、目で見て確かめ、そうしながらお互いに話し合うという行為を通して、動きの実体をつかむことができたようだった。

 解剖学、機能解剖学、双方を基にして、動きの実体を探ることと、実体験を積んでいる行為を突破口として、身体のあらゆるところにイメージを拡げていく。
 どちらも大事なあり方であると実感した。
 面白いことに、子供からご老人まで、性別にも関係なく、“人間の身体を持つ”という条件さえあれば、誰にでも共通の体験としていかせることのようだ。
 ところであくびは伝染すると言われている。真偽のほどは確かめていないが、犬の前であくびをすると、その犬にあくびが伝染するとか。つまり、人間との感情の交流・共感があることの現れという説もある。当方、犬を飼っていないし、試したくても知らない犬に突然あくびしたら、周りからどんなまなざしをうけるやら。試す機会を狙っているのだが。
 いずれにしても他者(他犬)の前での「あくび」には、まだまだ抵抗が大きいことは間違いない。
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「万緑叢中紅一点、紅い花もお忘れなく」11月6日『天声人語』

2011年11月06日 07時50分38秒 | Weblog
 ぐっすり眠ったはずなのに、昨日のレッスンの余韻がからだの隅に残った目覚めだった。
 珍しいことだが、野口先生の西巣鴨のご自宅の夢をみていたらしい。
 少しぼーっとした意識の中で着替えをすませ、階下に降り玄関の鍵を開けて、いつも通り郵便受けに新聞を取りにいった。
 昨晩から降り続いている雨が、小降りになっている早朝。
 朝日新聞一面。
『「警官を雇えぬ街」』カリフォルニア州バレホ市では税収入が落ち込んで、警察官を4割削減した。そのために街の治安が悪化し自警団が結成され市民自らが立ち上がった記事を読む。米国の自治体破産の現実を知る。
「ギリシャはもとより、イタリアも危なげ、アメリカもこうなると、たった10年で21世紀は大混迷の時代に突入したのか」と行く末が案じられた。不安な気分に落ち込みそうになる。
 気を取り直して2011・11・6付け『天声人語』を読む。
 ぐいぐいと惹かれ一気に読み終えた。
 最後に《〈国安く冬ぬくかれと願うのみ〉。》戦前に虚子の詠んだ句でしめられている。
 11月としてはあたたかな日々が続くが、これから訪れる冬は寒いかろう。とりわけ被災地に暮らすお年寄りやご病人には、過酷な季節となる。二ヶ月を切った今年、そして来るべき新しい年に「国安くあれ」「冬ぬくかれ」とは誰もが願う。

 日本人の歳時記好きは何時の頃からだろうか。むしろ日本人を日本人たらしめている伝統(心)といってもよい。
《「万緑叢中紅一点、紅い花もお忘れなく」》
 いちめんの緑に紅い花が一つ咲く情景をうたった漢詩「石榴の詩」の一節だそうだ。天声人語の筆者に届けられたというご年配からの達筆な手紙の一節が、私の心深くにとどまっている。
 このブログに貼付けたいと検索し、再度読み直した。
「あら!不思議。新聞紙面で読んだ感動が伝わらない」
 
 あのざらついた紙の手触り感、あの印刷の匂い、あの裏面の文字が透けてうす黒いというか灰色の紙に濃い黒の文字、あの空間にあの字配り。そのなかで読み慣れた『天声人語』なのだと悟った。
 しかし、それはそれ。リンクしたので読んでみてください。できれば新聞紙面上と比較してみていただきたい。
 
 今も、あたたかな雨が静かに風景を煙らせている。
 時候はすでに「冬隣」とも知った。
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大前研一「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」

2011年11月04日 13時16分50秒 | Weblog
 我が家では40年以上、同じ製造元から狭山茶を取り寄せいている。
 今年は、放射性セシウムが茶葉から検出されて出荷できないと連絡が入ったのは、先月のことだった。
「白湯にしときますか」
 紅茶やコーヒーを日常的に飲まないから、これから来年の5月までどうしたものかと考えあぐねている。たとえ来年は大丈夫だとおもっていても、これから花粉が飛ぶ時期がある。花粉が運ぶかもしれないし。
 狭山茶が手に入らないのならば、応急処置として、関西、あるいは九州のお茶でも試してみようか、とも思っているが、買い物に出かけるという行動につながらない。
 
 さて、そうした日常的なレベルで放射性物質問題に突き当たっているなかで、「撫明亭」の近藤さんが書かれているブログで知った『政府に提出された「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」』大前研一、柴田巌両氏による詳細説明の記録をシェアします。

 NHKのニュースキャスターが、春の或る日を境に疲労の色をにじませ、怒りを頬に表して画面に登場するようになっていった記憶がある。“自分たちは真実を伝えていないのではないか”という疑念が当たっていることが相当な精度で分かりかけてきた頃だろう。
 TwitterやTouTube等々を検索している人たちの間では、福島原発事故報道は「大本営発表」に違いない確信ははやい時期からあった。
 それを裏付ける調査報告で、ただし、再生可能エネルギーが社会に浸透するするまで、少なくともこれだけはやらなければならない、といった指針を示す貴重なリポート。
 ぜひ、ご覧ください。
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朝カル「オトナの文化祭」で歌う

2011年11月03日 19時12分15秒 | Weblog
 朝日カルチャーセンター新宿校、文化の日にはじめての試み。
 一昨日のTwitterで、「サーカス」のリーダー叶高さんが歌唱指導する「上を向いて歩こう」の講座があること知った。
 二十年近く歌っていないこのごろ、声が出なくなっていることをなんとかしたいと思って数年が経った。
 なかなか時間的な問題があって、習いにいくことができないままだった。朝の時間帯ということで、出かけていった。
 実は「上を向いて歩こう」と「見上げてごらん夜の星を」は、野口三千三先生が大好きな曲だった。
 東日本大震災の後、サントリーが自社のCMに出ている人たちに坂本九さんの曲をワンフレーズごとに歌い継いでいく、というステキな応援をテレビ放送で流していた。

 叶さんは年齢を超えてものすごく声が出る方だった。
 指導も上手で、なるほど!そう歌えば雰囲気が出ることを教えてもらった。
 そのまま4階ロビーでイベントが行われ、そこでも同じ歌を気持ちよく歌わせてもらえた。
 歌はいいなぁ~。野口先生が一緒だったらよかったのに、とおもいつつ……。
 
 他にも通販生活の品物展示も見たり、下戸の私は日本酒やワインの試飲会を横目にちょっと寂しい。
 ということで旗日に遊ばせてもらった。
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2011年秋 受講生Sさんの中国リポート

2011年11月01日 08時51分17秒 | Weblog
 朝日カルチャーセンター「野口体操講座」を受講しているSさんから、一通のメールが届きました。
 出張で欠席届が出されていて、先日、久しぶりに教室に復帰され、その翌日「2011年秋 中国リポート」を受け取りました。
「私、ひとりでは勿体ない。公開して皆さんにもぜひ読んで考えていただきたい」
 転載許可を快諾いただきました。
「身体の技の継承」について、具体的に書かれていること等々、経済発展との絡みの中で、失われること・失われないこと等々、興味深い内容です。
 象徴的な写真も貼付されていましたが、ここでは文章のみをご紹介いします。

 そして私的には、ご高齢の親御さんのこと短くが書かれています。ここは省かせていただく方が無難かと考え迷いましたが、そのまま掲載させていただきます。日本女性が、今、働く現状を想像することが出来るからです。そしてこうした問題を抱えながら、一人ひとりが地道に仕事をこなしながら、国は支えられていることを読みとることができることが大切だと思いましたので。
 
 野口体操を共に学ぶ仲間のリポートを、受け止めていただけると嬉しいです。
 Sさん、お疲れさまです。ありがとうございます。
 
 以下、いただいたメールからの転載です。

     ********

羽鳥先生

昨日は、久しぶりに出席できまして、
思った以上に体がほぐされたようで、とても気持ちがよかったです。
またお気にかけて下さり、ありがとうございました。

今回の出張では、中国の発展スピードがすさまじいことを改めて実感した次第です。
訪れた江蘇省の農場(上海から車で約6時間前後)までの道中について言えば、
人海戦術と突貫工事でドカドカと造られた片側3-4車線の高速道路が
大都市上海から地方へと、ひたすらほぼ直線状に伸び続けており、
その道路から各市へと続く新しい道路が次々に建設されています。
それは、まるで動脈から毛細血管に枝分かれしていくようで、
上海や沿海部の富が血管を通じて地方へと流れていっているのが、周辺の風景からも、
生々しく肌で感じられてしまうほどです。

勤め先の現地法人が江蘇省無錫市にあり、今回立ち寄った際、会社のドライバーに、
「前回来たのは、今年の3月だったけれど、なんだかずいぶん洗練されてきたというか、街の雰囲気が変わったね」と言うと、
「そりゃそうだよ。僕なんか毎日運転してるけど、昨日あった建物が今日はなかったり、昨日なかった道が今日突然できてたり、てな調子だよ。」
との返事。そこで暮らしている人々は毎日の変化に良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかに関係なく、流れに乗るしかない現実を生きています。

その一方で、今回の仕事である農場のプラント建設現場において、
施工上必要な足場を現地の業者にお願いしたところ、現場に来た職人さんたちは足場に必要な資材と必要最小限の工具以外に、ほとんど何も持ってきていないのです。
つまり予備の工具も、クレーンなどの重機も使わず、自分の身体だけで仕事をこなしてしまうのです。
図面もほとんど見ず、寸法も測らず、現場を見て、ほとんど目算でやってしまうのでした。
また、農場で働く人々も然りで、日本ではフォークリフトを使うか二人掛りでやるような、米袋の揚げ降ろし作業を、表情一つ変えずに一人でこなしており、
市井の人々も、普通ハサミを使うレベルの太さの紐を、刀を使わず手だけで切ったり、ビール瓶のふたを栓抜き無しで開けるなんてこともよく見られます。

帰国してから、会社の上司に以上のようなことを報告すると、
「そういえば自分が若い頃は、現場で働く年配の職人さんも、どうやるんだかわからないけど細めの紐なんかは素手で切ってたし、道具はあまり使ってなかったなあ。」

今社会で活躍する世代の中国人は、物のない時代に育っているためなのか、なんとも身体使い方がうまいなと思わせる場面をよく見かけますし、
そういった身体能力や、身体を通じての思考力や発想力は、非常に高いというか強さがあるように感じます。
中国もだんだん物が溢れる世の中になってくると、身体の使い方が変わってくると思われますが、
格差や他の理由で、身体能力は温存され続けるのか、今後も注目して行きたいところです。

以上、取り急ぎ勝手ながら中国レポートとさせていただきます。

最後になりますが、我が家も母がすでに約4年になる長期入院で、大正15年生まれの父も今のところマイペースで働いていますが、
最近、腰椎狭窄症と診断され、転びやすくなりました。
今後のことを思うと、綱渡りのような気持ちになりますが、淡々と日々をこなしていくしかないな、と思っているところです。

まもなく冬になろうとしていますが、皆様ご自愛をお祈り致します。

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 以上です。
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