羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

少子高齢化とインフラ問題

2011年02月26日 09時33分25秒 | Weblog
 先日、少子高齢化が引き起こす具体的な問題をNHKで見た。
 ひとつは「水道事業」である。
 人口が減る事と省エネがすすむ事で、水道料金からの収入が減る、という。そこまでは「それがどうしたの?」感覚で見ていた。次である。東京を例にとると、すでに水道管が老朽化して新しいものに交換できているところとそうでないところがある。それでも世界の水道事情から見ると、東京の漏水率は低いそうだ。大雑把にみて3%程度であるらしい。それに比べてロンドンは50%から60%だ、という。
 で、新しい水道管に交換するためには、コストがかかる。人口が減って水道料金が入らなければ、交換が難しくなる、というのだ。東京でもゆくゆく高齢化が進めば、インフラ整備が難しくなるという話だった。
 まして今回の国際調査でもわかるように、地方の高齢化の進み具合は相当に激しいとなれば、地方が先にこの問題を抱える事になる。

 そうしてもうひとつ。私鉄沿線住民の高齢化がすすんで、乗客が目に見えて減ってきている、というデータが示された。
 そこで、東京の京王電鉄では、住民サービスを始めている。
 私もかなり前から、車内広告でそのことを知っていた。しかしそれがこのような背景によるものとは気づかなかった。単に、「よいサービス」くらいにしか受け止めていなかった。
 たとえば家事代行等のサービスなどである。いずれ使わせてもらいたいという気持ちから読み続けていると、『京王線沿線住民に限る』とあったので、私はその範囲にないので少々がっかりした記憶がある。
 その広告を見て思った事は、京王電鉄がサービス本体を担っているという事で、大きな安心感を与える点だった。
 ちょうど昨晩のNHK7時半からの番組で、京王電鉄の取り組みを紹介していた。買い物サービスや網戸の張り替えや簡単なリフォームなどが、多くの住民に利用されて重宝がられているらしい。
 また少子化対策では、駅に保育園を作る計画がすすめられている。
 つまり「少子高齢化」で私鉄電鉄の生き残りをかける事業を展開しているという報告だった。
 しかし、ここにも事業としての採算と将来における生き残り、そして社会貢献のコストとの折り合いを付けるのが実際には難しいことがある。
 もうひとつの例としては相模鉄道をあげていた。鉄道会社がすすめる町づくりとともに、ローカル線として不便を解消するために、JRのターミナル駅に接続する乗り入れを行う。しかし、そのことによって、ローカル線特有の個性が失われてしまう問題もある、という。確かに便利なるがゆえに失われることもあるのだ。

 さて、こうして、まだ複雑な問題がある。
 莫大な費用がかかる私鉄鉄道事業や企業が担う社会インフラが、少子高齢化現象ですでにいくつもの問題を抱えている事に加えて、省エネ問題が絡まってくる。「もったいない」感覚は大切だが、度が過ぎるとこれまた新たな問題が派生する、というわけだ。
 いったい国力って何だ、と考えざるを得ない。
 差し迫った事としては、都知事選の候補者は、早く名乗りをあげてほしい!ただ投票すればいいってものではない。
 私たちの暮らしの今と将来がかかっているのだから。
 せめてもの情報として、NHK・GTV夜7時半、月曜日から金曜日の番組は良質で、私としてはできるだけ見逃さないようにしているこのごろである。
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大豆と手羽先の絶妙コラボ

2011年02月25日 18時39分15秒 | Weblog
 野口先生がお好きだった煮物がある。
 先日、数年ぶりに作った。
 圧力鍋をつかったり、大豆の水煮缶詰を利用すれば、時間はかからない。わかっていても、それをしないのは意地かもしれないなぁ~。いや、絶対にこの方法がおいしいと信じている。

 以下、作り方。
 前日の夜に大豆を水に浸す。翌朝、ガスにかけ沸騰してきたら、灰汁ををとる。灰汁をとるのは一回ではない。さし水をして灰汁をとることを数回。それから火を弱めて茹でる。時々、水分の量を見ながら足し水を行う。
 
 その間、掃除をしたり、今回は母の髪染めを手伝ったりしながら、手羽先を30分以上を茹でる。その時にショウガとネギの青いところを臭み取りに加えておく。最初のうちの灰汁取りは肝心。茹でる時間を節約すると、うまくないのだ。
 
 4時間を十分に経過したら、大豆を茹でている鍋の底を、箸で丁寧にかき混ぜる。そのとき大豆がコロコロと音を立てるようではまだはやい。音が鳴らなくなったら、試しに一粒の大豆を取り上げて、親指と小指ではさみつぶす。ふにゅ~、とつぶれるようであれば、多めの水分を捨てて、茹で上がった手羽先を合流させる。水分はひたひたより少し多めにしておく。
 そこに砂糖と醤油を入れて、それから約40分ほど煮る。
 完全に汁がなくならない程度で火を止める。
 温かいうちに食べてもいいし、汁が煮こごりになった状態で食してもいい。
 大豆は味噌になるのではないか、と思えるほど柔らかく煮込まれているのがよい。手羽先も箸で楽に骨から肉がはがれる。
 これが美味なのだ。
 少し多めに作り置きし、三日は十分に楽しめる。
 全体を通して調理は5時間ほど。ほとんど約半日かけてつくる煮物である。
 
 今回は、春という事もあり、山ウドと帆立のサラダにマヨネーズに味噌+少々の砂糖に酢を加えたドレッシングをかけたもの。長ネギをいれたかき玉汁。白菜の塩漬けといったメニューで食した。

 さて、かつてこの大豆と鶏の手羽先煮物を、野口先生のお宅にお届けすると、ご機嫌でいらっしゃった。お好きだったのだ。
 懐かしい!
 
 先生とは、一年に二回ほど、池袋西武の乾物売り場へ買い出しにいった。
 様々な豆類、ひじき、くるま麩、ごま、干瓢、等々、リュックにいっぱいになるほど選ばれる。
 思い出すなぁ~。
 乾物とはいえ池袋から自宅まで、ずしりと重い運搬だった。しかし、そんなことも苦にならず、食べてくれる人々の笑顔が嬉しかったのだ。
 
 さて、いよいよ三月、野口先生の祥月命日がやってくる。
 早蕨忌の月である。
 あぁ~、十三年の歳月が流れたのか~!
 感慨深い煮物の味だった。
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十年越しの懸案

2011年02月22日 08時06分30秒 | Weblog
野口体操関連の資料をどのように整理をするのか、十年越しの懸案の目鼻がついた。
本の自炊用に用意したスキャナーと手動断裁機が、よい仕事をしてくれる。
あとはコンピューターにとりこむ、分類の仕方を詰めればよい。
何事も時期というものがある。先日のレッスンでは、わたしの十年の体験や、思いを話をした。
急にMac党になったかのような印象を与えたようだが、この選択はずっとあたためてきた結果「今だ!」というわけだ。
二百頁ほどの本の自炊にかかる時間は、ばらし作業から同期まで十五分というところだ。
十年越しの懸案のひとつ。あとはボチボチやっていけばよい。何となくホッとしている
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新しいレッスンの可能性

2011年02月21日 12時24分17秒 | Weblog
 野口三千三先生が亡くなって、3月で満13年を迎える。
 十年一昔とはよくいったものだ。最近では十年どころではなく、半分の五年でも、一昔の感がある。

 さて、2月19日土曜日の朝日カルチャーでは、ひとつの実験を試みた。
 アーカブスと今をsynchronize、つまり同期させる試みだ。
 去る1月26日に「人生読本 私の身体論 野口三千三」1975年NHKラジオ放送の三回分を通しで聞いてもらった。
 そこで今回は、第二回目の「構えのない構え」を再び聞きながら、1978年、放送後およそ三年後に撮影された写真をスライドショーで見ていただいた。時期が近いので、当時の授業風景や教室の雰囲気や先生を含めた皆さんの動き等々が、動画ではなくても伝わるものがあった。

 そして引き続き、「人物映像ドキュメンタリー セゾン3分CM 野口三千三編 お手本は自然界」1986年を見ていただいた。十年後の変化が見られてインパクトがあったようだ。単独でこのCMを見るのとでは、印象が大きく異なる。
 iPadの画面だが、BOSEスピーカーの音に支えられて、何度も見ている方にも満足していただいたようだ。

 そして「人生読本」二回目で話された「立つこと」(骨に重さを任せ、筋肉はできる休ませる)をテーマに取り上げた。「上体のぶらさげ」「バランプレー」の実技に、自炊して同期してあった拙著『マッサージから始める野口体操』から、「図版 霊長類中における人類の形態的特徴」をピックアップし拡大して、初めての方々に示した。アーカブスと没後の収穫を絡めたレッスンを展開することができた。

 なんとiPadとBOSEのコンピューター用携帯可能なスピーカーを持っていくだけで、聴覚と視覚からの情報を得て、すぐさま体操につなげられる新しい可能性を見つけた。
 パワーポイントや大きな画面に映し出す方法もなくはない。しかし、座学とは異なる体操のレッスンでは、むしろこの簡便さが好ましいように私には思える。
 音声情報、文字情報、写真・動画映像情報が、ひとつの端末に同期できる。同期された情報を、同じ場、同じ時を分かち合う人々の身体と身体の動きに落とし込むことができる時代の到来を密かに喜んでいる私だ。

 つまり、両手の中におさまる大きさであることでパーソナルな感覚が芽生えた。しかしその場で共に学び合うことから得られる相乗効果(同期効果)は、なかなか貴重な体験だったといえるかもしれない。
「もの ことば うごき」に、過去と現在を繋ぐ道具(電子端末)が加わった。この感覚は、その場にいた方でないとわかり得ないだろう。言葉では伝えられない、熱気が伝わってきた。はじめての試みだけに、体験の新鮮さは抜群だった。
 アーカイブを生かすには、この方法はかなり優れもののように思う。一言でいえば、人とものを繋ぐ同期の多重構造こそが、学びには必要なのかもしれない。
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2月18日(金)朝から夜までの間、気にかかったこと。

2011年02月19日 08時25分57秒 | Weblog
 最近、朝5時45分から、テレビ東京のニュースを見ている。
 まずひとつ目は、オバマ大統領が、Appleのジョブズ氏、グーグルのシュミット氏、フェースブックのザッカーバード氏を招いて食事会を催すらしい、というニュース。それに関連してか、入院中のジョブズ氏とおぼしき人物の後ろ姿の写真。見るとかなりお痩せになっている。
 二つ目は、アメリカ第二位の書店が倒産。電子書籍対応が遅れた事が要因のひとつとか。
 やはり、心配なのは、中東の反政府デモの拡大から、さらに北アフリカの国々までも巻き込みそうな様相である。

 さて、午後になって外出先で目にしたこと。
 地下鉄銀座線の銀座駅改札を出たところに、iPadを手にした駅員さんが立っていた。ちょっと離れたところからだったが、銀座周辺のグーグル地図を開いていたようだった。一月末から、二週間に一回の割で、銀座に出かけているが、どの店に入っても中国の旅行者がいないところはない。
 それ以外の理由でも、駅員さんの手に地図があってもおかしくないあなぁ~、フムフム! さすがAppleのお膝元、銀座駅である。

 帰宅してから復習を試みる。自分では触れないで話だけを聞いた作曲法。
 気づいたことがある。それは、iMac に入っている「Garage Band」で曲を作るということは、スコアを書くことと同じ発想だった。着メロ程度の短いテストものを、サジさんと知人のMさんに添付ファイルで送信した。ただ、曲の終わりの印が見つからないままだったので、エンドレスである。申し訳ない。どこに隠れているのかな?みつからない。

 そこで思ったこと。
 iTunesは、音楽を仕入れるところから、自炊本や映像や写真や自作の曲まで、他の端末に同期するプラットホームだという実感を得た。このことは実は地域(個人)文化にとってすごい事なのだ。ちょっとオーバーだけど、野口体操ライブラリーの創設の可能性が見えた。

 さて、最後は夜のニュースから。
 ひとつは、混乱の民主党は都知事選に独自候補者をたてられない気配。そこで渡辺美樹さんに秋波をおくりそうだ、とか。まことしやかに伝えられて、何ともはや、体たらくなことといったらない。あきれる。
 二つ目は、インドのタタグループ総帥が来日した。パーティー会場でずらーっと並び、握手を求める経済界・実業界の人々の姿を映し出していたのが、印象的だ。
 
 ひしひしと変化の大波を感じる一日だった。

 
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Garage Band11

2011年02月18日 18時54分33秒 | Weblog
 今日は、Apple Ginzaで、ワークショップ形式による音楽ソフトの使い方を習ってきた。
 いやはやコンピューターを使って作曲するのもここまで来たか、という念の入れようだ。楽器演奏ができなくても大丈夫だ。いや、何かひとつでも演奏できる方がいい。それから多少の音楽理論というか、素養がある方がよい。
 
 約1時間で、すっきり8小節の着メロを作るのを展開してくれた。
 微に入り細に入り、微妙な調節ができる。作られている音素材を組み合わせるのだが、さらにソフトを購入すれば、無限の組み合わせができる、のだ!

 話は作られていく音を聞きながらよくわかった。
 ただしコンピューター上で自分で作るとなると、操作わからなくなるだろうなぁ~、と思える。しかし、やる気さえあれば、歯が立たない世界ではなさそうだ。こうなると新しい感覚の開発である事に間違いない。
 ただし、それを創作活動といえるかどうかは、別の話であろう。
 
 いろんな可能性が一台の機器の中に埋め込まれている、ということは、日ごとに理解が深まる。
 ソフトを作る人たちのクリエイティブな発想が、空っぽの箱の中身を豊かにし、それを文化に作り上げるの?かな。
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はじめての本の自炊

2011年02月16日 14時42分23秒 | Weblog
 とうとう、やってしもうた。
 本や雑誌を裁断することに、ものすごく抵抗があった。が、本日、その気になって、腹をくくって、まず、『岩波 図書』2003年6月号 齋藤孝さんと私の対談「身体とのコミュニケーション」から試してみた。
 どきどきハラハラしながら、手動断裁機で雑誌をカットした。それをスキャンしたものをパソコンに取り込み、MobileMeでiPadに送信したものを、iBooksの本棚におさめた。

 それから一息入れて、次は『マッサージから始める野口体操』を自炊した。
 ある方に差し上げようとした時に、名前を間違えて書き損じた本があった。それを断裁機にかけた。バラバラになったものをスキャンし、今度はiMacのなかでiTunesに転送し、そこからiPadへ同期した。
 
 全体を20頁平均で、11本に分けた。
 難しかったのは、ばらばらに入った本棚の並べ替え方法がわからなくてテクニカルサポートに電話をした。
 ところが担当者の説明が悪く、なかなか作業がうまくいかなかった。悪戦苦闘の末に、移動したい本のマークを長押しすればよいということに気づいて、軽々と移動ができるのでありました! (あ~ぁ、ため息!)

 そして、付箋をつけた頁をすぐに開ける方法にも気づいて、とにもかくにも使えるようになった。
 何時間かかったのだろう。
 今しがたやったことを、次回に迷わないようにメモをしたところだ。目の前に貼ろうと思っている。
 
 かくして「野口体操バイブル」づくりは、始まったばかりである。
 本+写真+映像+音声のみの記録、等々、なんでもござれの文明の利器。
 ハードはMacintoshだが、おさめられている内容は、独自である。
「野口ワールド」の文化が入っている一枚のPadを持ち歩くことができるのは、今のところ新鮮な驚きであり、感動である!
 知る人ぞ知る野口体操資料、日本土着の身体文化資料が、自分の手の中におさめられる感動である。
 
 今日はいろいろと手こずって、ちょっとした失敗もあったが、これで覚えるのであると思いきや、すぐやり方を忘れてしまうのが、ちょっと悲しいのよね~!
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『龍馬デザイン』柘植伊佐夫 幻冬舎から喚起されたこと

2011年02月14日 18時53分09秒 | Weblog
 まだ、文章にはならない。
 ただ、この本から衝撃的なつながりをもらった事だけを記しておきたい。

「同期 synchronization」「Mirror neuron」そして、野口先生の「原初」「実感」、野口体操独特の方法で「皆と共に教室で体操を行うこと」の意味が明瞭(あきらか)になってきた。
 
 それぞれがバラバラのようでありながら、直接的な太い線で結べる事ではないが、広く意味を解釈すれば、底流で類似した概念があることに気づかされた。
 先日来、二回ほど朝日カルチャーセンター野口体操講座土曜日クラスに参加されたカナダの演劇・映画大学の教授であるクレアさんに、この日のテーマとした「synchronization」の発音と意味を、英語で説明していただいたことで、この言葉の意味と実感がより鮮明になっていきた。

 次回、土曜日のレッスンでは、ギリシャ語源に遡って「同期」について考えを皆さんとすすめていきたい。
 本日は、終日、この言葉を調べ、考えていた。
 言葉が本当の言葉として機能するには、非常に長い時間と多くの体験の裏付けが必要であることを知ったばかりだった。
 教室で聞いていただいたNHKラジオ放送『人生読本 私の身体論 野口三千三』で先生自身が発しておられた「上体のぶらさげ」の実感である「たるんで」という言葉が、「弛ませ曲線」という明確な言葉に集約されていくのに、少なくとも二十年ほどの歳月を要した事実に気づかされたばかりだったこともあって、今回のつながりの発見に結びついたのだ、と思う。
 教室に参加されていない方には、このブログをお読みいただいても「何のことやら?」大きな疑問符を持たれることかと思いますが。

 いずれにしても『龍馬デザイン』と『切りとれ、あの祈る手を』佐々木中著の二冊は、私にとって記念すべき本となるに違いない予感がしている。
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旅とスマートフォン

2011年02月12日 08時35分49秒 | Weblog
 昨日は、大阪に出かけた。
 関西で演劇活動をしている方々に、呼ばれた。
 大阪、兵庫、和歌山、島根、等々、近県から集まった皆さん。
 5時間の講習会は、和やかに、和気あいあいと進んだ。
 その事の詳しい話は書かないが、これほど疲れのない旅ははじめてだったことは書いておきたい。

 ひとつは、母を一日見守ってくれる人がいた事だった。
 前日は、食事の準備や、掃除に明け暮れた。さすがに他人が入ると、いつもは気にならないところが目立ってくる。
 かれこれ半世紀の付き合いがある知人は、昔話を母と交わしてくれたらしい。そして私が帰宅するまでいてくれた。うれしかったのは、昼食と夕食の後片付けがすんでいた事だった。思えば家事って大変だ。

 で、私はといえば、日頃なかなかできない古典に親しむ時間を車中でもつことができた。
 iPhoneを駆使して。
 読書は夏目漱石の「三四郎」、音楽はチャイコフスキーのシンフォニー・ピアノコンチェルト・ヴァイオリンコンチェルト、そしてもちろん井上陽水も。
 永井荷風の「日より下駄」の朗読。こうしたプログラムを往復で堪能した。
 雪の影響もそれほどなく、しかし、雪に向かって大阪へ、雪に向かって東京に帰ってきた、という一日だった。

 本日は、これといった疲れもなく、起床した。
 つくづく日常から離れることも貴重だ、と思えた。しかし、日常を大切に生きていないと、その意味も薄れるなどとお説教じみたお話ではない。
 もしかすると私は本来旅好きなのだ、と実感したわけ。
 そのひとつに、旅の友に小さなスマートフォンが加わってくれたことは大きい!
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読書の一日……龍馬デザイン+ダンス・バイブル

2011年02月08日 21時09分29秒 | Weblog
オフの一日、読書で過ごす。
龍馬伝をつくりあげる情熱に脱帽。もう一度、見直したい思いでいっぱいになる。

ダンス・バイブルは、歴史的にどの様な流れの中で、コンテンポラリーダンスが、生まれてきたのかが、明快な言葉でつづられていた。
日本のダンスの可能性が見えるのだが、ダンスで暮らすのはむずかしい。
著者はいう。ダンスへの熱い思いが、切々と訴えられている。
「ダンサーを消費財としない社会、ダンサーが結婚し子供を育てながら(つまり普通の人びと同じ人生を送りながら)作品を作り続けることが出来る社会の実現を、オレは心の底から祈っている」
同感である。

ダンスに限らない問題だ。
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『龍馬デザイン。』で、再び「龍馬伝」を見る

2011年02月07日 19時52分12秒 | Weblog
 先週の土曜日にサジさんが持っていた本『龍馬デザイン。』柘植伊佐夫著 幻冬社刊を近所の書店で、さっき見つけた。
 そそくさと自宅に戻って、本を開く。
「アッ、やられた!」
 からだのなかに電撃がはしって、声をあげたくなるほど。この戦慄はどこからくるのか。それは口絵ページを開いた瞬間におこった。
 しばらく、じっと、4ページをめ繰り返しながら、写真に見入る。

 読み終わってから、ブログに書き込みをしようとおもったが、待てない。
 日記として綴られた文章に、去年一年間を通して、二回ずつ見てきた映像と音と音楽が重なってくる。
 NHK大河ドラマ初の「人物デザイン監修」を引き受けた仕事人のドラマだ。 制作に懸ける思いの深さ、魂の覚醒、情熱、衝突、葛藤、苦悩、歓喜、生々しい現場の緊迫感、スタッフとの様々な交流、等々、読みながら血湧き踊る揺さぶりに全身が逆巻く。現場がありありと伝わってくる文章力。仕事を通して関わった人々が日々成長してく姿がつぶさに見える記録。
 人物デザインとは、ドラマに出演するすべての人間を生きることだ。エネルギーの固まりにならなければできない大仕事だ。一人ひとりを見つめ、時代を読み、作者の意図を解し、全体の演出プランを理解し、その上で映像として説得力を持たせるデフォルメが求められる。そこまでいったら破綻するところまで、すぐそばまで近づき、そして冷静に折り返す感覚。

 龍馬伝では、泣くことはなかった。泣かされなかった。しかし、溺れそうになる深みに引き込まれていながらも、「自分の力で上がっておいで!」と、囁かれることがしばしばあった。その姿勢が涙を呼ばなかったことに気づかされた。その謎がこの本によって解かれていく、実にスリリングな記録だ。

「二〇〇九年十一月二三日 東京」この記述にリアリティーについて語っている。
 柘植氏が使う「リアリティー」とは、「リアリズム=写実主義」とは違う、とある。彼にとっての「リアリティー」とは、「実在感=本物である感覚」であり、「実在感」だ、という。「すぐ隣にいる!」。
 この日記を読みながら、熱くなって、共感と感動こそがドラマの命なんだ!と新鮮な感覚で捉えなおしている。
 さぁ、続きを読む、としよう。
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これだけは言いたくなかったが……我慢の限界……

2011年02月06日 20時43分32秒 | Weblog
人それぞれに好ききらいはある。
それを承知で、申し上げることお許しを。
今、終わった「江」は、私好みではない。今のところ、と断っておきたいが。
学芸会のようなつくり、空々しいフィクションにいささか辟易している。
ドラマには、嘘があってよい。だが、無理だわね。
「篤姫」の二匹目のドジョウを狙ってはいけませんわ!
「江」は「江」として、新しい感性でつくってもらいたい。
せっかく「龍馬伝」で今までにない領域にはいったのだから、先祖返りではもったいない。
これからの健闘を祈りたい。
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Apple Ginza そして 通夜へ

2011年02月05日 07時57分20秒 | Weblog
 昨日、午後3時から「ONE TO ONE」の二回目のレッスンを受けた。今度は、iPadの使い方について、いくつかの質問を用意していった。
 さて、今回も思ったことがある。銀座はすでに国際化して久しいということを。
 Appleストアに入ったときから、中国人家族旅行者たちと一緒だった。春節休暇を海外で過ごす中国人が増えた、というニュースを見ていたが、ここにもそうした人々が集っていた。
 で、レッスンの担当者は、多分アフリカ系(?)アメリカ人で肩書きはクリエイティブとある男性だった。米語まじり、米語なまりの日本語でのやり取りである。いくつかの質問に的確に答えてくれたが、ノートをしっかりとることを忘れていた。こちらの日本語も乱れてきて、ときどきカタカナ英語単語を発しているのだったのには、自分で驚いた。
 あの場がそうした雰囲気なのだ。割合こそ日本人が多いが、アジア系を含めて白人系も混じり合っている店内だが、国際的に変貌を遂げた街に身を置く高揚感は特別にない。最初は違った。が、しばらく前から、すでに慣れてしまっている自分なのだ。

 それから4時半には自宅に戻った。
 喪服に着替えて、再びJR中央線で東京駅から東海道線に乗って、川崎へ。そこからバスで15分ほどいったところの斎場へと向かった。
 知人の奥さんが急死された、という連絡を息子さんからメールでいただいたのが、一昨日のことだった。
「これからも父をよろしくお願いします」という最後の一行に、知人の悲しみが伝わってきた。なにがなんでも駆けつけたかった。
 そして、通夜の斎場で焼香の順番が回ってきた。
 四人が同時に焼香するのだが、喪主にいちばん近いところに、私がたつことになった。
 すでに私の存在に気づいてくれていた知人はすぐさま「よく来てくださった」と手をとった。
 思わず発した言葉が「大丈夫……」だった。こんなときはお悔やみを言うべきなのに、こともあろうに「大丈夫」はないだろう、と思う気持ちも起こらなかった。
 その言葉をうけて、私の手をしっかりと力強く握ったまま離そうとしない彼の目には涙があふれそうになる。グッとこらえている様子に、迫るものがあった。目頭が熱くなる。
 遺影は若い。末娘は成人式を今年迎えたばかりらしいことが、亡くなった方の知り合いらしき女性たちの会話から察せられた。五十代半ばの急逝であった。
 
 予想通り、多くの弔問客で会場はいっぱいだった。
 家族葬が一般化した昨今に、500名はくだらないのではないか、と思う葬儀は珍しい。家業を継ぐ子供には、これだけの人々との関係をつなげていくのは、大変だ。
 しかし、背負わなければなるまい。地域社会のために。
 知人が握りしめた手の力強さに、希望を託そう。
 
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ようやく一ヶ月

2011年02月02日 09時29分07秒 | Weblog
 昨日、Apple銀座で、九時から個人レッスンを受けた。
 ほぼ一時間、iMacの手ほどきを受けたわけだ。
 世界中で同じ内容の説明をするのだそうだ。
 メモをとって家に帰ってすぐに復習をするように、といわれた。たしかにそれをしないと自分のものにはならない。
「こうしたい」という意思がともなわない行為は覚えられない。とくにその場でメモをとるように促されても、実際に指を動かさないと、具体的な手順を書きとることも難しい体験をした。

 ONE TO ONEサービスの内容、「ことえり」辞書の使いかた、ユニバーサルの使い方(たとえばカーソルサイズを大きくする手順)、マジック・トラック・パッドの使い方(これは感動!)等々、復習してみるとそれほどたくさんを習ったわけではなかった。しかし、しっかり身に付いていたのには驚いた。

 一台のパソコンを理解するには、相当な時間がかかる。
 製品にはその会社の哲学が盛り込まれている、ということも今回おぼろげながらわかりはじめたところだ。

 今朝は、本の自炊道具のうち、そばにおくことに躊躇いを感じていた手動断裁機も運び込んだ。
 これでiMacを中心にキャノンのプリンター、FUJITSUのスキャナー、BOSEのスピーカーが、一列に並んだ。iPadは階下にある。iPhoneはバッグに忍び込ませてある。
 あぁ~あ、しっかりApple戦略の網に、かかるべくしてかかってしまったが、準備万端整ってきた。あとはカメラだ。
 再びの「野口三千三授業記録の会」は、思わぬ展開を見せてくれそうだ。

 早くも、一つの成果が1月最後の土曜日のレッスンで出たように思う。「そうだったのか」。いくつかの大切な気づきが得られた。
 同じものを聞いても、見ても、読んでも、自分のなかに何かが準備されていないと気づけないものだ。
 何をどのようにしたいのかを探りながら、ある方法を得て、実際に行動してみることで、はじめて開ける地平がある。しかし、社会的な環境整備も含めで、機が熟すことがなければ、難しい。きっと私にとっては今が、ちょうど旬、ということらしい。待った甲斐があったというもの。
 これが人生最後のミッションの準備、ということか?
 
 
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