羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

あれこれ

2008年11月30日 19時13分06秒 | Weblog
 昨日の朝日カルチャー‘野口体操講座’は、久々の盛り上がりだった。
 例の‘ソフト・ギムニク’と戯れること2時間弱。
 野口体操流、独特のふれあい時間が、あっという間に経過した。

 終わる頃には、ほとんどの方の頬の血色がよくなって、お風呂上りような表情になっていった。
 入ってきたときとは大違いであった。

 さて、本日は、来月に予定している父の七回忌の打ち合わせに寺まで出かけた。
 ばたばたしているうちに、時間ばかりが過ぎて、今日になってしまった。
 亡くなって6年という時間は、人の状況をいろいろに変化させる。
 最近になって亡くなった方、東京から離れて暮らすようになった方、生きていても外出が出来る状態ではなくなった方、さまざまに変化があった。
 それが時間が経つということなのだ。

 天気予報よりも日中は暖かかったので、身を縮ぢ込ませることなく、順調に外出できたことは嬉しかった。
 余談だが、私は、NHKの天気予報で朝の早い時間帯に担当している南利幸さんが好きだ。
 声がいい。そのほか、さらりとしたユーモアがあって、安定していて、前の生際の抜け具合もかなり深くてそれは彼の聡明さを表しているし、こせこせ感がなくていい。
 南さんの声が聞こえて画面にお顔が映ると、かならず手を休めて天気予報に聞きほれている。
 しかし、今日の天気はちょっと予報より暖かかったですね!

 明日から師走。
 さぁ、年内、もう一山・二山 越すべく、頑張らなくちゃー。
 以上。
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思い出の連鎖

2008年11月29日 08時10分30秒 | Weblog
 昨日のブログに書いた‘手首強化道具’は、「ジャイロ・エクササイザー」だ、とメールで知らされた。
 いわれてみて思い出した。
 さらにこの製品はヒット商品らしい。
 ネットで買える。

 その時のことを思い出してみると、野口先生は‘ジャイロ’という名称に、とりわけこだわっておられた。
 当時、地球に対する方向性に興味がおありの頃だった。
 
 それからもう一つの興味は、‘球体’‘卵型’、‘円を描く動き’から‘波の動き’、‘螺旋の動き’へつながる道筋。

 実は最近になって所在がわかったものがある。
 それは、昭和20年代後半に、サーカスの玉乗り名人に作ってもらった‘玉乗り用の玉’である。
 野口先生は、それに挑戦されたが、なかなか上手く乗れなかった、と生前語っておられた。

 とにかく重さで‘るくる回るもの’のもつ動きの滑らかさに執着されたようだ。
 「弾み」と「回転」は、野口体操の中で、活かされている

 「回転」で思い出したもう一つ。
『アーカイブス野口体操 野口三千三+養老孟司』の51ページに書いた「フープ」も、くるくる回る道具だ。
 戦時中はパイロットの訓練用であったが、野口先生はそれはそれとして、‘フープ’を使って体験できる身体感覚の楽しさを語ってくれたことがあった。

 かくして‘ソフト・ギムニク’から、くるくる回転して‘思い出の連鎖’がつながる一週間だった。
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ソフト・ギムニク

2008年11月28日 09時32分48秒 | Weblog
 ある時、野口三千三先生は手首を強くするコマのようなものを見せてくださったことがあった。
 それが何だったのか、よく思い出せない。
 何度もおぼろげな記憶を辿ってみると、やっぱりコマのようなもので回転するものだった。
 手首は、その回転に逆らう動きをする。
 たしか、私も試してみたが、まるっきし出来なかったことだけは覚えている。
「手が悲鳴を上げる」といっていいくらいの代物。
 で、結局、手首に負担がかかり過ぎて、やめてしまわれた。
 それはいつの間にか、先生の身辺からなくなったような気がする。
 もの凄くうる覚えの出来事。

 実は、このことを思い出したのは、‘ソフト・ギムニク’という商標のゴムボールが手にはいったからだ。
 最近は大きなゴムのボールでバランス感覚を養いながら、筋力アップをはかるエクササイズが流行っている。
 大学のスポーツ施設には、必ずといっていいくらい空気が入った状態の大きいボールが用意されている。
 そのエクササイズを広めているのが「日本Gボール協会」らしい。
 
 今度は最大26センチまで膨らませるソフト・ギムニクを使ったエクササイズが、大学でも授業にとりいれられてきた。

 体育教官室でそれを見つけて触ってみた。
 ソフトなのだ。
 そこで、先週、インターネットで手に入れた。
 パンパンに空気を入れず、柔らかめの弾力を持たせる。
 仰向け姿勢になって、腰(仙骨あたり)にボールをあてがって、ゆらゆらと揺すってみると、‘寝にょろ’に近い感覚が得られる。この場合、足は膝からたてておく。
 ボールだけに滑らかなゆれ具合が得られるのだ。
 臍の後ろ、つまり‘そへ’の辺りにあてがって、思い切り力を抜くと、これはちょっと気持ちがいいが、長く続けると危険というシグナルがからだから聞こえる。
 力を抜きすぎると、重さでズズズッと腰椎周辺に負担がかかってくるからだろう。

 からだのいろいろなところにあてがって確かめてみた。
 たとえば立ち姿勢の場合は、壁との間に入れてスクワットしてみると、思いがけない感覚に目覚める。
 この場合も、腰だったり背中だったり、あてがう位置を変えてみると、その都度感覚は異なる。
 
 このボールが使われる理由の一つに、ようやく体育の世界にも、動きのなかでのリクラリゼーションとバランス感覚(重さ感覚)が大切であると言う認識がもたれるようになってきた経緯がある。

 それはそれとして、そのボールを両手にもって、くるくる回転させてみると、手首が思いがけない方向に回転し、掌から手の甲に滑らかな動きが促されたり、左右の指を変えながら2本だったり1本だったり、微妙な指回しができる。
 ほとんど力を使わずに‘軽く’‘柔らかく’ボールを回転させながら、関節をほぐすことが出来るのだった。
 日頃、このような手首や手全体や指の動きはすることはない。

 ボールについてきた簡単な説明書の運動方法は、ほとんどやっていない。
 私の場合、‘座位によるほぐし’や‘寝た姿勢によるほぐし’のときに、このボールを試してみている。

 一つ難点は、匂いである。
 ゴムだから仕方が無いのだが。
 時間がたつと少しずつ匂いは消えていくとしても、完全になくなることはないだろう。それに耐えられない人には、向かないかもしれない。

 一昨日になって、ボールの空気の入れ具合、つまりボールの弾力の具合は、自分の筋肉の弾力に近いところまで緩めて使っていることに気づいた。
 
 因みに、以前、使ったことのある大きなボールは、小さな穴が開いて、使い物にならなくなった。あんなに早くダメになるなんて、ガッカリしたのだった。
 流行ってくると類似品が出回るそうだ。
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上野公園

2008年11月25日 07時40分39秒 | Weblog
 都の北東の鬼門を守るのは、比叡山延暦寺。
 そして江戸の北東鬼門を守るのが東叡山寛永寺円頓院。
 昨日の話の寺である。
 1868年上野戦争で主要伽藍を消失し、第二次世界大戦では空襲にあった。
 二度の災禍によって昔の姿はほとんど失われたのが現在の寺である。

 かつて上野の山全体が寺領地であったものが、見る影も無い。
 しかし、そこは、明治以降、近代日本の文化の山となっていった。

 たとえば野口先生が体育の授業に使われたレンガ造りの建物は、明治初期の建造物。東京図書館の書庫として使われていたものだった。
 
 江戸は、荒波のなかで変貌を遂げる運命を担っている。
 その運命を引継いだ東京は、未だに建てては壊し、壊しては建てられる都会の今を生きているのだ。

 さて、10年前、寛永寺本坊の一室で、野口先生のお骨と対峙しながら、野口体操の行く末を考えられるほどの余裕はなかった。
 ただ、香を焚き、供物を捧げ、手を合わせるのみ。
 しかし、短い時間であっても、その静寂と安らかさに、どれほど慰められたかしれない、と、往時を思い返している。

「藝大に通うために、三十数年通い続けた(国立)博物館の道の脇に眠りたいだけなの」
 野口先生の思いは、それからまもなくして叶えられた。

 私はお参りする寺への道すがら、呆然としたまま上野の山を眺めていたように思う。
 体育界のアウトサイダーとして生きた野口三千三と野口体操を、この先、いかにして残していくことが可能なのか、その時はまだ何も見えない状況だった。

 桜の春から青葉の初夏へと季節だけが移っていった、あの頃……。
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寛永寺

2008年11月24日 19時22分42秒 | Weblog
 日曜日の夜8時、『篤姫』を見続けてしまった。
 昔、むかし、大河ドラマを見ていたことはあったが、最近はまったく見ることはなかった。
 今年ほど欠かさずに見たのは、初めてかもしれない。

 さて、ドラマもいよいよクライマックスだ。
 昨日は、徳川慶喜が上野・寛永寺に謹慎の身となった。

 実は、野口三千三先生のお骨は、ご自宅が留守になるため、百か日の納骨の日まで、この寺に預けられていた。
 そうした関係から、古いお弟子さんは、我が家に見事な花や立派な果物等の供物とこころのこもった手紙を添えて贈ってくださった。
「先生のもとにお届けください」
 そのことばを無下にするわけにはいかない。
 思案した挙句、勇気を出して、失礼のない服装に着替えて寺を訪ねた。
 供物を届けるだけの心積もりで出かけたが、なんと仏間に通してくださったのだった。
 一回ではなかった。
 訪ねるたびに、お骨を前に焼香をさせてくださる。

 丁度、『篤姫』では、将軍を中心に皆が揃って、朝の祈りを捧げるシーンが何度も見られたが、あの部屋よりももっと広い二間続きの仏間に通されるのだ。
 須弥壇は中央にあって、仏様が安置されている。
 まわりには位牌も見られる。
 その前に先生のお骨が置かれ、さらに焼香台にある蝋燭に火が灯されて、香りのよい香が用意される。
 その間、控えの間で、待っている。
 
 静々と須弥壇の前に進み、焼香し手を合わせ、静かに弔う。
 かなり離れた部屋の入り口の近くでは、案内してくれた若い僧侶が正座してじっと見守っている。

 しばらくして、こちらの動きを察知し、声をかけてくださる。
「ご苦労様でございます。故人になられた方も、こうしてお参りに来てくださると、さぞお喜びのことと存じます」
 少し間をおいて
「ありがとうございます」
 私も居住まいをただし感謝の気持ちを伝え、お礼を言う。
 もう一度、お辞儀をして退出する。
 ひっそりとした庫裏の中を、内玄関へと戻り、見送りを受けて境内に出る。
 
 こうした時間をいただけたことは、もの凄くありがたかった。
 そしてその寺が、歴史の舞台になったところであったこと。
 最後の将軍が、同じ廊下を歩み、同じ部屋にもおわしたことがあると想像すると、感慨深いものがある。
 
『篤姫』のなかで祈るシーンを、私は、10年前の‘祈りの時間’と重ねて、見ていたのだと思う。
 ドラマは非常に脚色されたものであっても、かまわない。
 ドラマはドラマだ。
 しかし、まったくの嘘ではあるまい。

 時代は変わっても、同じ空間に身をおいたこの経験は、野口先生からいただいた形のない大いなる遺産だと思っている。
 
 30日はいよいよ‘無血開城’らしい。
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境界感覚

2008年11月22日 08時55分45秒 | Weblog
 昨日、夕方になってメールをひらいた。
 午後の部に入ってきた数十通の[meiwaku]メールの中から、So-netのお知らせをひらいて、思わず吹き出した。

   《新宿の母が占う! あなたの運勢》
   ~~2009年を占う特別豪華版~~

 さらにカレンダーも出ているらしい。
 先を読むと、「新宿の母は50年、相談者は300万人」とある。
 あの行列が意味するものが見えてくるものだった。
 さすがに年末だ。
 とりわけ行く先が案じられる不安な年末だ。
 
 その後、夕方のニュースでは、大学生の逮捕者を出した‘大麻汚染’について、大学の取り組みについて特集していた。
 朝日新聞22日付け朝刊でも、大学生だけではなく主婦層にも広がっている内容の記事が一面に載っていた。

 そうしたことから、思い出されることがある。
 子供のころ海水浴帰りに横浜中華街に立ち寄った。
 横浜は港湾都市だ。港町独特の色合いや匂いがあった記憶は鮮明だ。
 たとえば駅周辺のガード下で渋滞に巻き込まれ、父が運転する車中から、街の様子を眺めていると、そのあたりにたむろする男女の怪しげな姿を目にしていた。
 
 昭和20年代後半から30年代にかけて。
‘ヒロポン’という薬物の名前を知ったのは、ちょうどその頃だった。
 子どもが覚えていい単語ではない。
 しかし、そのくらい都会では身近なものだったのだ。
 敗戦のドサクサのなかで、生活苦や戦争のトラウマや将来の不安を抱えて、人々の心身が傷ついたまま戦後の復興が猛烈に始まった時代だった。
 暮れ方、そこで繰り広げられている情景は、子どもなりに‘見てはいけないものに違いない’という認識をおぼろげに持っていた。
 街角には‘占い’の文字が、うらぶれた風情を漂わせているのだった。
 しかし、当時は、住む世界が違う、という暗黙の了解があった。

 ところがこの数年のインターネットでは、玄人さんと素人さんの垣根が取っ払われたようだ。
 現実の街ならば「ここからは足を踏み入れてはいけないところ」と言う境界が歴然と見えていた。
 実際、‘怖いところ’という空気が、少し離れた距離からもからだに伝わってきて、身体感覚として「いけない境界感覚」が備わっていった。
 都会とは、そういうところなのだ。

 しかし、Web上では写真や文字というバーチャルな情報だけで、人を誘う。
 匂いも、肌を刺すような危うさも、空気の味も、三次元の視覚情報から受ける底知れない闇も感じ取れるわけが無い。
 
 安易に大麻を手に入れてしまえる状況だ。
 境界がわからなくなった人間ほど、危険な存在はない。
 境界は身体感覚で聞分けるものなのだ。

 迷うのはいい。
 しかし迷った挙句に、どの道を選ぶのか。
 前にすすむのか、引き返すのか、違った第三の道を選ぶのか。
 その判断に基準になる‘身体の痛み’‘身体の快感’を、インターネットは教えてくれない。

 ボーっとした灯りに照らされていた‘占い’の文字や、大麻汚染のニュースを読むと、敗戦後の時代の姿が彷彿する。しかし、当時は、直接、人を介していたことだった。
 いまや‘よるべなき身’にはWebが寄り添ってくる。

 話はズレるが、中国の高級マンションの売り出しで、頭金を‘お茶’で払うニュースを見た。
 高級茶葉を満杯に詰め込んだ大袋をトラックに積んで運び、マンションのロビーに積み上げているシーンは、圧巻だった。
 その業者は高級茶を扱っていて、マンションを売ることで、加工前の高級茶葉を割安で仕入れることができるそうだ。
 業者は一石二鳥を狙ったものだ、と解説していた。

 テレビ画面に現れた中国における桁外れの物々交換の様相に、「これだよ!」と、おっしゃる野口三千三先生の声を聞いた。
「境界」を感じとる身体感覚は、‘ものの重さ’と‘ものの怪’を、実感することから磨かれるのだ……。
 すくなくとも私の耳に聞こえた‘幻の声’は、そう仰せなのだ!
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路地

2008年11月21日 09時58分53秒 | Weblog
 先日、相談事があって日本橋に出かけた。
 約束の面会時間は夕方の6時だったので、その前に銀座のアップル・ストアに立ち寄ることにした。
 iPhne充電用コンセント接続部品に不具合があって、10月半ばから交換するというメールが入っていたからだ。
 店内のカウンターで、差し出された用紙に名前を書くと、店員さんが控えていったシリアルナンバーを書き加えてくれた。
 新しい部品にはグリーンの小さな丸い印が入っている。
 これでひとまず安心らしい。
 
 私は充電はパソコンを使うときにUSB接続でしている。
 コードはパソコンにつけっぱなし状態であるが、それでいいのかな?

 さて、その足で中央通りを日本橋に向かって歩き始めた。
 すでに銀座の街は、赤と緑のクリスマスカラーに金や銀や白が混ざり合ってすっかり飾りつけは終わっている。
 宝石店や靴店、衣料・雑貨店など、店内をのぞくとウィークデーのせいか客の姿がないところが大半だった。
 銀座四丁目から京橋にさしかかりそこを通過するあたりから人気がなくなっていく。

 冬至前の日没は早い。
 とっぷりと暮れたビル街を吹き抜ける風は、冬そのものだった。
 京橋を過ぎてしばらく行ったところ、左に曲がる路地をみると、大通りに向いて座っている人がいる。小さなテーブルをはさんで椅子が置かれていた。
「占い」と書かれた文字が薄明かりに照らされている。
 ここにも客はいない。 
‘新宿の母’のところは、たいていいつも行列が出来ている。 
 大半が女性だか、時に珍しく男性が順番を待っていることもあった。
‘銀座の母’もいると聞くが、今日はどこに陣取っているのだろうか。

 この時間帯、人通りも少ない。
‘占い’のところだけに、より寂しげな雰囲気が醸し出されている。
「何時かな」
 私は、母からもらった手巻きのオメガの文字盤を見る。
 5時半をまわったところだ。
「時間はあるわ。見てもらおうかな。。。。。。」
 少々の誘惑に駆られた。
 歩みを止めて界隈を見回す。
 こちら側に人はいない。
 反対側の人道を行く人が二人ほど見える程度。
 車は順調に流れている。

 瞬間の心の動きだった。
 再び歩き始め、しばらく行くと‘明治屋’があり、なんとなく灯りに誘われて店内に足を踏み入れてしまった。
 輸入食品が所狭しと並べられ、懐かしい匂いを感じた。
「ここが本店だったのか」
 そのまま店内を一巡して何も求めず、外に出た。

 次にあらわれたのは‘メルシャン’だった。
「お酒が飲めたらいいな~」
 微塵程度の残念さとワインを口に含んでみたい欲望を少しだけ感じる。

 そうこうするうちに、東京駅からまっすぐ伸びた中央通りの交差点に到着。
 信号機を渡ってすぐの路地を左に曲がって、お目あてのビルに。

 待ち合わせの御仁との第一声はこんなやりとり。
「アップルから来ましたの。丁度いい散歩でしたわ。いいところろですね……」
「えぇ、外側はビル街ですが、一歩、路地に入ると居酒屋がたくさんあるんですよ」
「ほーっ」
 上戸と下戸のやりとり、温度差が微妙で面白かった。
 さて、本題の相談事は小一時間。
 その法律事務所を出たのは、7時近くだった。
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海象社 『宇宙の渚』

2008年11月19日 08時57分48秒 | Weblog
 クリスマス前に、本が出版されるらしい。
 野口体操公式ホームページでも紹介している「月刊・省エネルギー」のインタビュー記事が、一冊にまとめられ出版されるそうだ。
 30数名の原稿が一つになる。

 一昨日、ゲラ校正を終えたところだ。
 出版社は‘海象社’。
 ここは環境に関する本を中心に出版している。
 書名は『宇宙の渚』で、省エネルギーセンター編ということらしい。
 私の掲載文は6ページで、‘黒板の前で語る野口三千三先生’と‘世界の砂の標本ビン’の写真2枚が入っている。
 もちろんこのたびも佐治さんにお世話になった。

「クリスマスプレゼントになるような美しい装丁です」
 編集者からのいちばん新しいメールにそう書かれていた。
 楽しみだわ!
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年の瀬にむけて

2008年11月17日 14時24分48秒 | Weblog
 先ほど行きつけの肉屋に買い物に行ったときのこと。
「あそこのスーパー、倒産したみたいですよ」
「エッ、ほんとー」
「今朝、店員さんたちが騒いでたみたいよ」
「突然なの」
「そう、土曜日までチラシが入ってたのに、トツゼンしまってるの。社長が見つからないんだって」
「へぇー、あたし、最近行かなくなったけどー、寄ってみるわ」

 店の入り口では、5,6人の人だかりがしていた。
 ガラスの扉には、A4の紙にパソコンで打ち出された「しばらく休業します」という張り紙がしてあった。

 電気が消えている店内を爪先立ちしながら覗くと、果物や野菜がそのまま放置されているのが見える。
 腐ってしまうだろうな~、もったいないなぁ~と思いつつ、その場を立ち去った。

 なんだか嫌な予感がする。
 金融危機に端を発する不況が、街角に波風を立て始めたのかしら。
 師走に向けて、資金繰りが悪化するところが出てくるのだろう。
 とんでもない年の瀬になりそうだ。
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どらくーWeb配信 Eマガジン

2008年11月15日 20時03分05秒 | Weblog
 EBと言うのは、Web上で取引を行う銀行のこと。
 EMはWeb上で読めるマガジン、と私は言うことにした。

「どらく DO楽ー朝日新聞社がビートルズ世代に贈る、こだわりエンターテイメント」の取材を受けた。
 Webでしか配信されていないが、無料サイトである。

 朝日カルチャーセンターの「野口体操講座」を紹介するものだが、今までと大きく違う点は、40代から50代の受講生のひとりが主役なのだ。
 今日、引き受けてくださった方は、もう‘隠れ野口体操’ではなくなった。
 世界配信である。

 来年、正月のトップに掲載されるらしい。
 鳴瀬さん、そして教室の皆さん、お疲れさまでした。
 すごーく、いい雰囲気だったと思います。
 
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明珍・火箸風鈴のこと

2008年11月14日 16時47分01秒 | Weblog
 建替前の家の玄関に「火箸風鈴」が吊るしてあった。
 仮住まいに際して、取り外しタオルにくるんでしまってあった。
 その時すでに錆付いていた。

 先日の話で思い出し、昨晩、ほぼ四年ぶりに開いてみたら、錆がより一層増していた。
 そこで3種類の紙やすりで錆落としを始めた。
 落とすうちに文字が浮かび上がった。

「五十一代」という文字が二本。
「明珍宗之」という文字が二本。

 角ばった火箸と丸みを帯びた火箸の二種類だ。
 そのうち角ばった方は書体も角ばっている「五十一代」と「宗之」。
 丸みを帯びている方は右上がりですこし崩している「五十一代」と「宗之」
 まったく異なった書体だ。
 火箸として使う場合は二本で一膳ということだから、文字も二本で一組でよいわけだ。

 ところで四十八代のあとには、同じ名前を襲名したのだろうか。
 そして五十二代目の現当主が‘宗理’を名乗ったのだろうか。

 そうするとこの火箸風鈴は、一代前の作品を五十二代目が‘風鈴’として使用したのか。
 もう一つの疑問は、そうだとするとこの火箸は‘玉鋼(たまはがね)’が使われてはいないことになりそうだ。

 なんとも不可思議な‘火箸風鈴’が出てきたものである。
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明珍火箸

2008年11月12日 19時32分24秒 | Weblog
 本日(11月12日)日経新聞朝刊にこんな記事があった。
 連載30回目「200年企業 明珍本舗、チタン応用に道」である。

 明珍の名を初めて知ったのは、「音遊びの会」の高野昌昭さんが、野口三千三先生に「明珍火箸」をプレゼントされたことがきっかけだった。
 
 単に透明な音ではない。
 複雑な倍音を含んだ厚みのある透明性。
 
 単に涼やかではない。
 歴史の重さをのせた涼やかさだ。
 
 単に美しいだけではない。
 ものづくりへのこだわりが結晶となった響きだ。
  
 単に癒されるだけではない。
 これはバッハの無伴奏チェロ組曲第一番の崇高さに似ている。

 甲冑を作る一族で、十二世紀半ば、近衛天皇に献上。
「音響朗々光明白にして玉のごとく、類稀なる珍器」と称賛され、明珍姓を授かったと言う曰くがある。

 時代は下って明治維新。
 武家の世が終わって、明珍家は民芸品に転じたのだと言う。
 四十八代目宗之氏が、鍛冶技術で火箸製造を始めた。しかしその需要は時代と共に過ぎ去っていった一九六五年五十二代目宗理氏が「火箸風鈴」を考えついたのだとある。

 さて、その一族の末裔が刀剣以外で玉鋼使用を許可されたのには、ひとりの女性の力があったらしい。
 「たたら製鉄」から生まれるのは玉鋼。この生産は日本美術刀剣保存協会(日刀保)のみ。
 現当主・宗理(むねみち)氏が、火箸から風鈴をつくることを思い立った。
 この玉鋼を用いることで、明珍の清明で澄み切った音をつくり上げることが可能。
 許可願いを久実子夫人が明珍家の歴史を綴って日刀保に提出。
 彼女は、なかなか許しが得られないなか、あきらめず繰り返し通い続けたことで、一九九五年から特例措置として刀剣以外に玉鋼使用許可が出たのだ、と記事には書かれていた。

 他にも宗理氏は、チタンにも注目し、ぐい呑み・お鈴、ステッキ、打楽器等々新しい製品開発に挑んだのだ。伝統工芸の技術を新日本製鉄がバックアップし、相互に刺激を受けつつ協力関係を築いている。

 今では後継者や技の伝承に心配は無いとある。
「柔軟に他者の力もかりる」そこには次世代で開花する可能性が秘められていると記事は結ばれている。
 この記事から、‘日本のものづくり’の奥深さと大胆さと生き残りかける執念を読ませてもらった。
 
 野口先生は、明珍火箸の音の余韻のなかに‘まるごとのからだ’の動きの揺れの持続を象徴させていた。
 レッスンを受ける者たちは、空間を伝う音の揺れに溶け込むエクスタシーを味わわせてもらった。
 音の裏側に、これほどの物語が潜んでいたなんて、思いもよらなかった。
‘明珍火箸・風鈴’に限らず、野口体操は多くの方々の力を得て、世界に類を見ない‘文化としての身体活動’を展開することができた、という思いを重ねながらこの記事を読んだ。

 しかし、あの音の響きは、到底ことばでは言いあらわせない。
 録音ではダメです。生の音に浸ってみなければ!
 漂って、浮遊して、風に揺られて、そして満たされて……夢見心地……なり。 
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iPhoneのあるシーン

2008年11月11日 09時37分35秒 | Weblog
 先週の土曜日のこと。
 新宿小田急フローリストで、花束を選んだ。
 思った以上に迷って、一つ決めかかった束をキャンセルして、新しい花を選んだ。

 対応してくれた女店員さんの胸元を見ると‘見習い中’とあった。
 しかし、誠意ある態度には好感がもてた。

 一応、花も決まって、包装も九分通り終わったとき
「リボンは何色になさいますか」
「お任せするわ」
 そこまできたら時間が気にかかった。
 腕時計を見ると、すでに約束の時間になっていた。

 遅刻をほとんどしない私としては、そこでアタフタ!
 思わずリュックの中から、iPhoneを取り出した。
「こんなときスイッチが入ってないのは……」
 声に出さず、長押しをして起動させる。
 待ち合わせ以外、いつだって電源が入っていないことばかりがこのときほど恨めしかったことはない。

 この機械は小さな携帯コンピュータだ。
 電源を入れて、ホーム画面が出る前に、‘かじられたアップル’マークが表示される。
 その間、時間節約で、代金を用意しようとお財布を取り出すために、カウンターの上に置いた。
「まぁ、iPhoneですね」
 目がきらっと光った女店員さんは、リボンをつける手をとめて見とれている。

 花屋のカウンターに置かれた姿は、なかなかいい雰囲気を醸し出している。
 黒の色といい、漆黒の画面に浮かぶ白いアップルといい、これってコマーシャルの一シーンだ!と思えた。

 その時から二人の関係が変わった。
 彼女の表情に「このオバサン、結構、おしゃれなんだ」って書いてある。
 私はと言えば、まだ珍しいものを持っている快感に、ちょっといい気分になったの。 
 新しもの好きらしきオジサンやオニイサンが、これ見よがしに車内で使っているのを見て‘イヤラシイ’と思っていたけど、この快感を知ってしまと、、、、アブナイ、アブナイ、であります。

 朝日カルチャーのある住友ビルまで、花束を抱えて一目散で走った。
 凡夫のわが身を今日になって振り返った次第。
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経済音痴のたわ言

2008年11月09日 12時31分37秒 | Weblog
 さっきまでテレビ朝日の「サンデープロジェクト」を見ていた。
 後半の「米国激震……金融パニックの一週間を緊急報告‘金融帝国’崩壊?!」は、ほぼ一ヵ月くらい前のアメリカリポート。
 金融市場を‘兆’を超えて‘京(兆の一万倍)’まで膨れ上がらせたのは、神の仕業ではなく人間が行ったことだ。
 人間、欲を失ったら生きていかれない。
 しかし、人間の欲望に歯止めをかけるのは、よほど強力な力が必要なのか。
 良心に基づく有効な‘歯止め’は、絶望的に思えた。
 
 それを見て思ったこと。

 仕掛けた側の人間には責任がある。
 そこに乗せられ加担してしまった人間にも責任がある。
 としてもアメリカ的自己責任の要求は、人の足を踏んでおいて足を出してるあんたが悪いって感じだ。
 そりゃそうなんだけど。取りきれない自己責任だってあるわさ!って言いたい。
 実は、世界中の人が足を出したわけだ。
 自分で投資して足を出している自覚がある人はいいけれど、全然知らないところで投資されて、年金や保険や預金にまで影響があるなんて、なんか釈然としない。
 
 インタビューを受けたアメリカのエコノミストや投資家は驚くほどの楽観主義者とお見受けした。
 それに比べて、日本は必要以上に悲観論者の集団なのか、はたまたマスコミが‘危機’を煽り過ぎるのか?!。

 リポートを聞きながら最後に思ったこと。
「日本はアメリカの51番目の州?・・・だとしても、こんなに日本の株価を乱高下させ、低水準にしておく必要はないのだ」と。
 今日のブログは、経済音痴のたわ言と、聞き流してくだされたし。
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合掌

2008年11月08日 10時11分48秒 | Weblog
 新聞が読まれなくなったという。
 また、月刊誌、隔月刊誌、週刊誌、紙媒体が休刊になったり廃刊になったりし始めて久しい。
 顔の見える編集長がいて、それぞれが個性を競って、言論をつくってきた媒体は、インターネット上にとめどなく溢れる情報とは、一線を画したものである。

 そこで鍛えられてテレビのある時間帯に、しっかりと存在を確立した20年は、これもまたインターネット上の情報版とは一線を画したものだ。

 昨日、夜9時のNHKニュース内のインタビューに答えていた立花隆さんは、語りながら声を詰まらせ涙をとめることが出来なかった。
 
 昭和の星がひとつ光を失った。
 筑紫哲也さんの訃報は悲しい。
 新聞、週刊誌、テレビ……さりげなくかっこよかった。

 そして思う。
 私たちはどこへ向かって行こうとしているのか?
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