羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

滑り込みセーフ……そして三本締

2015年12月31日 07時52分13秒 | Weblog
 12月30日、冷蔵庫が壊れた。
 実際はもう少し前から壊れていたのかもしれない。

 思い返せば、生姜に真っ白な毛羽立ったカビがはえていたのは、二日くらい前だったか。
 思い返せば、29日の夕飯用に烏賊の炒め物をする際に、白い肌にうっすらと茶色味がかっていたことに気がついていた。が、そのまま調理して食べてしまった。
 そして30日のこと、二日前と一日前に一番出汁として使った昆布と鰹節で、二番出汁をとったときのこと。なんと濁り過ぎていることにハッとした。
 もしや!冷蔵庫を開けてみた。
「そういえば二日くらい前から、なんとなく臭っていたわ。脱臭剤をかえたばかりなのに、ちょっと変……」
 その時点で、疑わなければならなかったのに、注意散漫であった。

 思い返せば、食べ物を口に入れる前に、なんとなく匂いを嗅いでいたっけ。

 さて、とりあえず昼食用の出汁を取り直して、卵あんかけうどんを食べ終わるか終わらないかのタイミングで、いてもたってもいられずに歩いて1分もかからない贔屓の電気屋に駆け込んだ。 
 街から電気屋さんが消えていくが、ここは何棟かのマンション資産もあって生き延びているのである。
 すべての電気製品は、ここで買うようにしている。それだけではなく、面倒見がよくて、高い脚立に乗らなければならない電球の交換までやってくれる。

 そうしたわけで壊れた冷蔵庫の製品記録も残っていて、ちゃんと納まるものを選んでくれた。
「田無の倉庫から左開きを取ってきます。倉庫も今日までで、明日は締めてしまうんです」
「ぎりぎりセーフでしたね」
 午前が終わる時刻だった。

 さて、それから運び入れやすいように部屋を片付けたり、予定していなかった掃除までもして、夕方5時半には約束通り冷蔵庫の交換が無事終了。
 運ぶ作業をしてくれた懇意の店員さんの顔が福の神さんに見えて、危うく手を合わせるところだった。
 二人を送り出して、ピッカピカの冷蔵庫がピッタリと納まっている姿を目にした瞬間、一気に疲れが吹っ飛んだ。いやはや家電製品なしには暮らせないことを実感。
「電気が止まったら、東京では暮らしが成り立たない」

 冷蔵庫を見ながら母が一言。
「お腹を壊さなくてよかったわね」
 恐いのは、食べ物が腐らないことだ。
 いつから匂いを嗅いで食べる習慣を、私たちは失ったのだろう。
 思い返してもいつの頃だったか、思い出せないくらい昔のことになってしまった。

 灯りが消えていない冷蔵庫を信用しきって暮らしていた自分の感覚の鈍さにショックである。
「『感覚こそ力』って誰の本だったけ。おそろしやー。昔の冷蔵庫は、壊れるときには真っ暗になっていたのよ!」
 と言っても後の祭り。

 さて、無事に夕食もすませ、午後8時少し前に、今年最後の夜まわりの集合場所に出かけた。
 今年の暮れは天気にも恵まれたし、昨年ほど寒くない街を二手に分かれて回る。
 遠くから別の地域を回っている仲間内の拍子木の音に続いて「ご用心のかけ声」が聞こえて来る。
 音と声とで空気の乾燥度が測れるというもの。
 とりわけ公園などの広場では、ほかとは違う天を突く乾いた拍子木の音がよく響いて気持ちがいい。

 家々に囲まれた狭い道、一通りの絶えない商店街などを「火の用心」と声を張り上げて歩くこと30分以上。
「庚申会」と書かれた一対の提灯が、会館の入り口を煌煌と照らしているその前に、再び全員が揃う。
 何事もなく無事に六日間の夜警が終わったことに、誰もがホッと胸をなで下ろす時。
「では、お手を拝借、三本締めといきましょう」
 シャンシャンシャン、シャンシャンシャン、シャンシャンシャン、ぱちぱちぱち……。
「よいお歳を!」
 晦りの挨拶を口々にかわして、三々五々、自宅に引き上げてゆくのであった。

 一夜明けて、平成二十七年 大晦り  
 今年も、お読みいただきありがとうございました。
 よい新年をお迎えくださいませ。
 
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詩の香り

2015年12月25日 09時08分31秒 | Weblog
 イブの夜。
 分厚い詩集が届けられた。

「オッ」
 一瞬、ひるんでしまった。
「エーッ、この重さは何」
 
 でも、でも、しっかり抱いてページをめくった。
「なんて硬質な詩だろう」

 どんどんページをめくった。
「詩のなかに哲学をしのびこませている」

 さらにページをめくる。
「音楽が鳴ってるわ」

 さらにさらにページをめくる。
「この香り、西脇順三郎だわ」

 そして「場所と記憶」635頁。
「なっとく!」

《 略 この短いエッセーを訳したが西脇順三郎だったからだ。翻訳というバイアスがかかっているだけに、逆に、この短いエッセーの翻訳には西脇順三郎自身の詩の風景への木戸口が開かれたままになっているようにも感じられる。西脇順三郎の詩を好きなったのは、昭和二十年代に筑摩書房から出た、(たぶん北園克衛装丁の)現代日本詩人選の、「あむばるわりあ」「旅人かえらず」の二冊合冊版で。軽装のその合冊版のつくりが好きで、光の匂い、野の匂いのするようなその詩集を、窓を開けて外を見るようによく開いた。》

 かれこれ半世紀前に引き戻された。
 現代国語の授業で紹介された西脇の詩に浸ったあのころ。
 すっかり遠ざかってしまったわたし。

 どうやら詩人は2015年5月に亡くなっているらしい。
 長田弘 全詩集 みすず書房 50年の詩の足跡は、あまりにも重い。そしてあまりにも美しい。

 さて、すっかり忘れかけていたわたしを取り戻すためにも、日めくりカレンダーのように、1頁、いや時に2頁、詩の香りを味わわせていただこう。

 送り主の近藤さんに Merry Christmas 2015 ありがとう。
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江戸の色・江戸の華

2015年12月24日 08時19分56秒 | Weblog
 昨日、12月23日から31日まで日本橋三越本店・5階で「福島保江戸独楽作家 展示即売+実演』が始まりました。
 毎年、押し迫った大晦日にお目にかかることが多かったのですが、今年は一気呵成で初日に出かけて行きました。
 さすがに初日! 独楽もいろいろ揃っていて、腹に力を入れて大枚をはたき、ビックな独楽をゲットしました。
 丁度、拙著『野口体操 感覚こそ力』のな中にある「神事としての独楽遊び」62頁を読んでくださった、という日曜クラスの加藤室香さんを福島さんに紹介かたがた出向いた、というわけです。

 どうしても独楽つくりを見たいとおねがいしたら、「芥子独楽」をつくってくださいました。
 一つはどうにかつむことが出来る程度の大きさ、さらにやっとつかめる大きさ。二つをさらりとつくりあげ、あまりに小ささくて、親木から離されポトリと落ち生まれる瞬間を見逃しそうだ、という言葉に三つ目には少し大き目の独楽をつくってくださった。すごいサービスでありました!
「渦巻はこうして色づけするんです」
 あっというまに、渦が描かれていく。

 祝日の午後とあって、様々な方が通りがかります。
 独楽回しに興ずる室香嬢が発する驚きの声に、足を止める見ず知らずの方々と、独楽談義も楽しく。
 特に目を輝かせる少年との交流は、やっぱりいいねー、ということで、あっという間の二時間が過ぎました。

 帰宅して、今までに持っていなかった仕掛けの「石川五右衛門独楽」を箱から取り出し、毎年集めている「干支独楽」来年の申年の独楽を並べて、一時、独楽回しに興じました。さすが「こま」とは「ひとり・たのしむ=独楽」なんですわ。
 上手く回ってくれたときの嬉しさは、格別。
 
 丁度、手にはいった『日本 地芝居 写真紀行』山口清文 『歌舞伎名作撰 伽羅先代萩』六世 中村歌右衛門のDVD が醸し出す日本の色と独楽の色合いと艶やかさに共通点を見いだし、ひとりニンマリするわたしでした!

 年末に、潤いのある、華やぎのある時を、楽しませてもらった昨日のこと。
 さて、本日から大つごもりにむかって、いよいよダッシュ!であります。
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2015年、見ていただきたい映像

2015年12月13日 10時04分53秒 | Weblog
 昨日の朝日カルチャー「野口体操講座」で紹介した番組です。
 お時間のあるときにご覧いただきたい番組二本です。
 同時に野口三千三先生のビデオ記録が残っていることの意味を考えました。佐治嘉隆さんに、ひとえに感謝です。

  NHKスペシャル10月15日に放送された貴重な番組『新・映像の世紀「第一集 百年の悲劇はここから始まった」』
 もうひとつは、『THE LAST WAR~完全版・カラーでみる太平洋戦争~』
「色彩が語る戦争の現実」とナレーションにありました。何カ所も色によって見えて来る驚きがあります。戦時中の体育教師が集まっているシーンには、野口三千三先生が何人もいるようでした。 

語り(語り手) : 松平定知

1941年12月8日から始まった「太平洋戦争」。日本にとって先の大戦(Last War)である「太平洋戦争」は、1894年の日清戦争から半世紀間続いた対外戦争の最後の戦争(Last War)でもある。2015年8月のNHKスペシャル「カラーでみる太平洋戦争」は、モノクロの記録映像を最新のデジタル技術でカラー化、戦争の時代を銃後と前線から描いた。今回はさらに秘蔵のカラー化映像を加えた完全版。

12月5日(土)19:00放送
(C)NHK
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群馬の旅……C’est la vie!

2015年12月08日 08時30分07秒 | Weblog
 急に群馬への親近感が増し、今度は渋川・赤城の農民歌舞伎を見に行きたくなった。
 というのも野口先生の祖父にあたる方が、江戸時代から続く農民歌舞伎の立役者で、近隣の村々を回って指導までなさっていたという。
 先生のお父さんが明治生まれとして、その上の方だから江戸か幕末か遅くも明治の初めか、といったころにご誕生か。

 野口先生が生まれた大正3年を過ぎると、海外の生糸相場が暴落して手痛い状況に追い込まれていったが、しかし、明治期の養蚕業は目を見張る発展をしていた。日本からの全輸出額の半分は生糸が担い、そのうちの三分一は群馬県産だったというから、養蚕農家にも相当な現金収入があった。当然、好事家としては農民歌舞伎にとことん入れ込んでも不思議はない。
 現在では数えるほどでしかないが、大人であったり子供であったりして村歌舞伎が行われていることは、何となく知ってはいたが、群馬に一歩足を踏み入れて、この地での上演を見たいという思いに駆られた私は、そそくさとWeb検索してみた。
 渋川・赤城では、年に一回ずつ上演されていることがわかった。
「さぁー、行ってみよう」
 はやる心を押えて、スクロールしながら日程を調べた。
 ガックリである。
「それもそうだろうなぁ~」
 11月の下旬に上演されることが判明した。
 秋の養蚕も終わって、農閑期に入るこの時期だわな。
「一年、お預け!」
 
 来年のことを言うと、きっと赤城の鬼が笑うだろう。
 ほぼ一年間待つのは、なんとも長いー。5月3日に行うところもあるようだが、それはそれ。
 やっぱ、群馬の農民歌舞伎を見に行きたい、というのが人情というもの。

 C’est la vie! でござんす。


 
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群馬の旅のこと

2015年12月07日 08時50分13秒 | Weblog
 5日、6日、土曜日と日曜日の朝日カルチャー「野口体操講座」では、野口先生のご実家を中心に歩いた群馬の旅の報告を行った。
 前回のブログには書けなかったことなども含めて話をするうちに、野口先生の身体哲学が、生まれ・育った養蚕農家での暮らしが深く関わっていたことがはっきりした輪郭を描きはじめている。
 とりわけ1996年に岩波同時代ライブラリーから再刊された『原初生命体としての人間』に付録としてつけられた「インタビュー 感覚こそ力ー今なぜ原初生命体か」に載っている最後の質問に答えた言葉が、当時とは全く違って読めるようになっていたことに、嬉しさと驚きを感じている。

『天地自然に直に習う「自然直伝」、すなわち「自然に貞(聞・聴・問)く」ということではないでしょうか』
 その言葉が導きだされる小見出し「自然に貞く」(305~306頁)およそ19行に記されている野口の言葉の重さの実体が見えたきたといいたいのだが。

 そこは北が上の地図を見ると右側に利根川、左斜め上に榛名山に囲まれた緩やかな傾斜地の町。榛名山麓の洪積台地にあって標高190・20メートルという土地が持つ風土や気候や養蚕文化といった自然と文化の狭間で、育まれた野口の感性や価値観に思いをはせると、なるほど「野口体操」として集約されて行く必然性が見えてくる。

 NHKスペシャル「新・映像の世紀 第一集 100年の悲劇はここから始まった」で描き出された第一次世界大戦の年に生まれた意味や、昭和2年日本、昭和4年のアメリカにおける大恐慌、そして第二次世界大戦と日本の敗戦。ここまでの野口の生きたおよそ31年間、幼年期・少年期・青年期の歩みが少しずつ私のなかで明確な輪郭を描いてくれるようになってきた。

 レッスンでは、前提となる話を省いてしまったり、伝えたいことが多すぎて話を上手くまとめられなかったが、これから勉強をし直して、文章に起こしていきたいと思っている。
 
 さて、先生の故郷へは、季節をかえて通い、空気を思い切り吸ってみたい。
 群馬県が身近になって、愛着がわいてきた実感を確かなものにできた初めての旅だった。
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101年目のしめくくりに群馬へ

2015年12月01日 09時02分39秒 | Weblog
 昨日、7時29分発JR中央線東京行きに乗り、新宿駅で乗り換え。湘南新宿ラインで大宮駅で、金沢行き新幹線に乗り換えて高崎駅へ向かい、そこで吾妻線・渋川行きに乗り換えて「群馬総社駅」下車。
 凡そ1時間半で到着。
 そこからぶらぶらと歩いて、野口三千三先生のご実家を探し、20分ほどで無事に到着。
 そこまでの道のりで写真を撮りながら、さらに散策した。
 庚申さまがあったり、小さな古墳の上に個人の墓が二基建っていたり、道祖神が思わぬところにあったり、と町は現代なのに片隅には時間を遡った遺物が残っている。
 ご実家の周辺の家々には、立派な蔵があった。
 引き返しながらの道で、犬と散歩をしている60代後半の男性にようやく出会った。とにかく車は通っていても人は歩いていない町だ。駅の周辺でも商店はないのだから当然かもしれない。
 やっと出会った男性に「絹の里」の地図を見せて、行き方を教えていただく。
「群馬総社駅に戻ってタクシーで15分くらいですよ」
 なるほど前橋まで行かずに西北に行った方がはやかった。
 そのあたりは少だけ畑らしきものも残っているが、ぼちぼち住宅が建ち始まっている。
 先生の実家より、少し榛名山に近い距離だろうか。
 
 こじんまりとした館内に足を踏み入れた。
 15、6名の団体の先客があった。その方々に紛れ込んで、養蚕の歴史について解説員の方の説明を聞きながら展示物を見て回った。
 一通り見終えると10時45分に、そろそろなろうかという時刻だった。
 受付の女性にバスの時間を確かめた。
「11時23分にありますから、もう一度、館内をご覧になったらいかがですか」
 すると先ほど説明をしていた解説員の男性が、違った角度から説明をしてくださった。
 
 それからバス停で時刻表を見て、びっくり!
「なるほど」
 なんと前橋駅行きバスは2時間に1本しかない。
 タクシーの運転手さんが呼び出し携帯番号を書いた名刺を渡してくれた意味に合点がいった。
 待つこと数分で、ほぼ時間通りに「前橋駅行き」がやってきた。
 30数分ほど揺られただろうか。群馬県庁で降車した。
 立派な現代建築物の傍に昭和館を残している。

「絹の里」周辺には食事するような店は一軒もなく、県庁に行けば食事ができるという算段は正解だった。
 昭和館の一階にあるレトロなレストランでランチをすませ、二階でやっている「NHK花燃ゆ展」を見た。
 その中に野口先生が通った「群馬師範学校」の建物写真を見つけて写真を撮りたかったが断念した。
「師範学校の写真に出会えただけでもよかった」

 展示を見終わって、出てくると「ご案内します」と書かれた看板を見つけた。
 その後ろに男性と女性が椅子に腰をかけて待機していた。
 迎賓館として建てられた「臨江閣」をボランティアの方が案内をしてくれる。ちょっと時間のことが気にかかったが、せっかくだからということでおねがいした。
 話し振りから60代かと思しき女性が、道々説明を加えながら、前橋城のことや公園にある碑文について話しながら、館内へと向かった。
「今日は風もなくって、よかったですね。11時過ぎから吹きはじめて、夜中もすごいですよ」
「空っ風も体験したかったんですが、穏やかですね」
 
 館内を一巡りして、前橋駅までの道順を教えてもらった。
 途中に「煥乎堂(かんこどう)」という屋号の店で「上毛カルタ」が買えることを教えてくれた。
 ここは文具・書籍・楽譜・楽器・ヤマハ音楽教室がある老舗のようだった。
 ここで「上毛カルタ」を購入し、前橋駅に向かった。
 2時56分発に乗って高崎へ。
 自宅に帰り着いたのは、4時30分だった。

 野口先生のご実家周辺のことは改めて書くとして、期待していった群馬の空っ風は吹かず、穏やかな日和のなか小さな旅を楽しんだ。
 今回は、「富岡製糸場」には多くの人が見学に出かけるそのコースとはまったく異なって、かつて“養蚕農家”があった場所を中心に人里離れたところまで足を伸ばし、野口先生の生きた時代に思いを馳せた。

 地元のタクシーの運転手さんとの会話。
「絹の里」での解説員の方の話。
「臨江閣」を紹介してくれたボランティアの地元の方の話。
 群馬の養蚕を中心とした歴史や、幕末、明治から現在の有り様など、第一段階としては短時間に収穫が大きい一日だった。
 これだけ迷わずにスムーズに回れたのは、きっと野口先生が見えない道を先導してくださっていたのに違いない。

 帰宅してすぐに、母に報告した。
「野口先生はそんな田舎で育って、一所懸命に勉強して、東京でも苦労されて、偉かったわね~。聞くも涙の話だわ!」
 90歳の母のことだ、いろいろな思いが浮かんでくるのだろう。ほぼ同じ時代を生きているわけだから、私よりも想像が具体的で、泣かせるような内容ではなかったのに、目を真っ赤にして聞いてくれた。
 確かに、先生の努力は生半のことではなかった、と母の涙で一層はっきりと見えてきた。
「野口体操」、ほんとにほんとにご苦労なことでした。

 おかげさまで101年目の締めくくりに、よき時間をいただいた。
 いよいよ師走、この一ヶ月を大事に過ごしたい。
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