羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

革 …… あらためひらく

2009年01月31日 09時18分18秒 | Weblog
 冬、乾燥する日々が続き、もうそろそろお湿りが欲しい、と思う頃。
 新宿駅のホームにあがると、鼻の奥に湿り気を感じたことがあった。
 その日から、雨の予報は、鼻腔の粘膜が100%に近く当ててくれるようになった。
 降り始める半日くらい前から、鼻から吸い込む空気のなかに微量の湿気が捉えられる。
 決してよい空気とは言えない東京の町なかで、そのときばかりは緊張が解ける。
 
 そのことをはっきりと感じ取るようになったのは、正月気分もすっかり抜けたこの冬の出来事だった。
 それまでは空気の中の重さの質の違いなど感じ取ることは出来なかったように思う。

 早朝、雨音は激しかった。
 冬にしては気温が高い。
 ぬくぬくとした布団のなかで、目覚めるような、まだ眠りのなかにいるような、中途半端な意識模様に、ゆらゆら現れた文字があった。

「革」

‘ひらく’と読みたい。いや、‘あらためる’の方が素直かな。
 やっぱり「ひらく」にしておきたい。
 半分、夢のなかで思案している。
 
   道元を見た。
   CHEを見た。
   利休を読んでいる。
 
 そうか。
 一見、バラバラのようだ。しかし、三人を結ぶ文字は「革」である。
 あらため、ひらく……そうなのだ。
 ひとり合点がいったところで、覚醒した。


『利休にたずねよ』 ひょうげもの也の章

《 あの男の茶は、しょせん、商人の茶だ。どうにもせせこましく、いじましゅうていかん 》
 
 利休に代わって命乞いをする織部に秀吉は云う。
 なるほど、どっかの宰相が言ったとか言わなかったとか、「いじましい」はこういうときに使われてこそ本来の意味となる、と思ったのは、一昨日のことだった。

 利休切腹の二十四日前ー天正十九年(一五九一)二月四日 夜 京 古田織部屋敷 燕庵 の章のなかの言葉である。

 再度、このページを開いた。
 気づくと雨の音が静かになっていた。
 晴耕雨読とはよく言ったものだ。
 
 もうしばらく今日のところ「うたかた」の章を読ませてもらおう。
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利休にたずねよ…… 千利休の鮮烈なる恋、そして死。 ……

2009年01月30日 16時23分40秒 | Weblog
 先日、新宿紀伊國屋書店の入り口で一冊の本を買ってきた。
『利休にたずねよ』山本兼一著PHP研究所、第一四〇回直木賞受賞作である。

 昨夜から読み始めた。
 なかなかに憎いつくりである。

…… ‘死を賜る’利休 天正十九年(一五九一)二月二十八日 京 聚楽第 利休屋敷 一畳半 ……
 から始まり、時計の針を逆に回して十九歳まで遡り、最後に利休切腹の日に戻ってくるらしい。
 
 利休を巡るゆかりの人物を一章ずつに配し、利休の美について茶について謎解きをするように読者を異界に引きずりこむ手法。
「その手に乗るものか」と心の中で呟きながら読みすすむ。
 ダメだ。
 作者の意図にまんまと引っかかってしまう。
「ゆっくり、ゆっくり、丁寧によむのだ!」
 自分に言い聞かせながら、テンポをアレグロからアンダンテへ、そしてラルゴへと落としていく。
 次第に‘静寂なる狂気’に浸されていく読書は、久しぶりのことに思える。
 まだ途中にもかかわらず我慢できずにブログの編集画面を開いてしまった。
 
 ずるずると耽美なる空間に引きずりこまれ、甘美なる時間を生きさせてもらっている。
 
「茶は狂だ」
「狂ゆえに文化足りえる稀有な楽しみである」
 そう思えてきた。

 さらさらと流れる筆に読み手はたゆとう。
 しかし、底に流れているのは妥協を許さない頑固な利休の生き様のようだ。
 今のところ‘ようだ’という語尾が私の中では付いてしまっているのだが。

 新宿の雑踏で目に入ってきた表紙に、つい、手がでてしまった。
 両手で取り上げて左手で裏に返す。
 帯に記された文字に心が決まった。

《 あの日、女に茶を飲ませた。あれからだ、利休の茶の道が、寂とした異界に通じてしまったのは。(本文より) 》
 
 さて、続きを読むとしよう。
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週刊文春2月5日号に「野口体操」掲載

2009年01月29日 12時27分12秒 | Weblog
 12月に取材を受けた記事が、本日発売の「週刊文春2月5日号」に掲載されています。45~46ページです。
 消化器内科の専門で内視鏡専門家でも神保勝一さん、ヨガの龍村修さんの間に挟まれるようにして「野口体操」が紹介されています。
 
《……くたびれた胃腸は弾力を失った古いホースのよう……》
 
 ↑小見出しにありました。
 
 画期的なメソッドの提案だそうです。
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レディースデーに‘CHE’ を見た!

2009年01月28日 18時58分09秒 | Weblog
 水曜日の映画館は‘レディースデー’のサービスで、1000円で映画鑑賞ができる。
 で、今日は「CHE 28歳の革命」を、朝一で見てきた。

 この映画は、斬新なつくりの大人の映画である。
 革命戦士・ゲリラ戦を描いていながら、静かなのだ。
 それはゲバラが1964年にニューヨークを訪問したときのドキュメンタリー映像が断片的に配置されているからに違いない。
 国連での演説の素晴らしさには感動を覚える。
 スペイン語のもつ音韻の力強さは、革命の熱を見事に支えることができる言語だと感じさせてくれる。
 人を動かすのは‘言葉’だ。演説の上手さ、などという言葉ではない。
 信念を語り、正義を語る。久々に本物の言葉を聞いた。
 半端でない新しい伝記映画が、21世紀の時を得て誕生した。
 
     **********

 さて、もう一つ書いておきたいことがある。
 新宿ピカデリーに入った瞬間、9時30分だというのに、すでにチケット売り場には大勢の人の列ができていた。
 さすが水曜日。
 20代から60代くらいまで多くの女性たち。
そのなかに男性客も見受けられる。
 ここでは全部で9のスクリーンがあって、9本の映画の開始時間には僅かな差が付けられているが、ほぼ同時に上映されている。
‘真っ白なシアター’というコンセプトだ、とパンフレットに書かれている。
 明るくきれいな映画館だった。

 で、驚いたのは第1スクリーンに、プラチナロビーとプラチナシートとプラチナルーム(2客)×2室があるらしい。
 エントランスから専用のエレベーターで入っていける。駐車場から直接エレベーターに乗り込むことが出来るらしい。
 それってパリオペラ座の桟敷席がヒントだろうか。
 夫が妻にプレゼントするの?
 恋人同士が二人だけで空間と時間を占有するの?
 なんでも世界で初めてのプライベートルーム型バルコニー席だそうだ。
 このプラチナルームで映画に酔ってみたい、と、一瞬ですが女心がくすぐられましたね。

 それはそれとして、不況になると映画は強いといわれるが、今日、この場所で出会った人々の表情が明るくイキイキしていることにも驚かされた。
 来る人も帰る人も元気なのだ。

《世界の映画界へ発信する国内最大級のプレミアムシアター》
 そんなこととはつゆ知らずはいってびっくり玉手箱。
 因みに、「おくりびと」も上映していました。
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1991年収録 『野口体操を解剖するー生と死のコラージュ』

2009年01月27日 18時04分09秒 | Weblog
 本日の朝日カルチャー‘火曜日講座’で、1991年に行われた公開講座の記録『野口体操を解剖するー生と死のコラージュー養老孟司氏を迎えて』の中から、養老先生が一人で語られた30分をお見せした。

 このビデオは春秋社から『DNDブック アーカイブス野口体操』として出版した元のテープで、養老先生が一人語られたパートは抜いて、野口三千三先生が野口体操を語った1時間分とお二人の対談部分の1時間分を収録編集した。
 
 最近、思うところあって見直した。
 その内容は、東大医学部解剖学教室で長年に渡って過ごされた解剖学者としての重みのある話が納められている、と改めて読み取ることが出来た。
(内心、この記録が残っていて非常によかった、と思う)

 ところがこの記録は、音声が悪く言葉を聞き取るのが難しい。
 しかし、本日の教室にはプラズマテレビが備えられ、外部スピーカーに接続されているので、これまで以上に聞き取れる範囲が広かった。
 実は、収録当時、我が家のテレビでHi8撮影されたものからVHSにダビングされた‘子’を再生したときより、格段に音声がよく、しっかり聞き取ることができた。
 今回は、DVDに変換されデジタル方式で再生した。するとこれほど映りよく聞こえることに驚かされた。
 
『バカの壁』以降の目覚しいご活躍以前の貴重な記録だ。
 解剖学教室から直行されたような話し振り。
 内容は無防備と申しあげたくらいだ。だから貴重なのだと受講してくださる皆さんに私から言葉を添えた。こちらが意図したこと、そこまで考えが及ばなかったことまでご理解いただけたことが嬉しかった。
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片付けの楽しみ

2009年01月26日 09時39分50秒 | Weblog
 先週の半ばから、朝の1時間を片付けに当てて、今のところ三日坊主で終わっていない。
 まとめてやろうとするといつまでたっても始まらないので、兎にも角にも短い時間でも毎日‘捨てる’をモットーに実行に移した。

 まずはテレビを3台を引き取ってもらった。
 3軒ほど問い合わせて、古道具屋に低価で引き受けてもらえた。
 条件は、六本木のビル建設に伴う電波障害を想定して建て主の三井不動産からもらった、いちばん単純な地デジチューナーを2台付ける約束だった。
 
 それが弾みとなって、週末は衣類の整理に取り掛かっている。
 その気で探してみると見つかるもの!
 捨てるに惜しい物は、目と鼻の先で買い取ってくれる店を見つけてしまった。
 ここがいちばん手っ取り早いと思い立ち、買い取り条件が書かれた紙をもらって読んでみた。
 その条件を満たすものは、かなり限定される。
 それでも条件に合うものは、自分で汚れを落とし、ブラシをかけ、アイロンをあてたりして、決められた土曜日に向けて準備をはじめた。
 すると「如何せん、派手だけど、着られそう」なのだ。
 ウウウッ、気持ちを切り替えて、やはり手放そう。
 空間は、限られているのだから。

 さて、具体的にものを大切にし、いらなくなったものをリサイクルしていくことを身をもって体験してみようと思っている。
 やってみなければ、実感としてつかめない。
 
 まだまだ、始まったばかりの片付け。
 仕舞い込まれた奥から、積み上がった底から、何が出てくるのか楽しみである。

 それにしても物を捨てるのもリサイクルするのも、ともにエネルギーが要る。
 いちばん大変なのは、老いてもしっかりしている母への説得。
 出来る限りリサイクルするってことで、彼女の気持ちとの折り合いを付けようとしている。
 しかし、戦中を生き抜いた母の染み抜き技術は、相当な年季が入っていた!
 丹精して再生して物をいかす具体的な方法を知っているだけでなく、技術も磨いていたのだ。
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第57回 回瀾書展 墨の色

2009年01月25日 18時43分38秒 | Weblog
 今年も知人が作品を発表した。
 全紙一枚半(大)には佐々木信綱の短歌を、全紙一枚(中)には齋藤フミの短歌・三首。そのほか小品の葉書に俳句を。

 年々、腕を上げるにしたがって、詠まれる内容が生の深みにしっかりと根を張ったものになっていくような気がする。
 それにつれて書体が紙になじみ、言葉に寄り添い、全体のリズムが平板でなくなる。
 全体のなかでアクセントが明確に、短歌の思いを伝えているようだ。

 毎年、大寒の時期に回瀾書展は開かれる。
 いつも寒い。
 しかし、今日の上野は日差しにも恵まれ、風は冷たかったがそれほどの寒さを感じることなく公園内の散策もできた。
 
 ところで知人は、74歳になったいう。
 勤めを定年で退いて、10年以上が過ぎた。
 今では‘書道’を中心とする毎日らしい。
 古典から現代まで、数々の短歌・俳句・詩を読み、内容の理解を深め、書としての表現を練り、一つの作品に仕上げていく楽しみに、生き生きとしておられる様子。
 今のところ年齢を重ねることがマイナスに働いてはいないようだ。
 書の象(かたち)がより鮮やかに見るものに伝わってくる。
 
 彼女の所に限らず、墨の色は濃淡のうちに、精神を沈静に導いてくれるようだ。
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映画の醍醐味

2009年01月23日 09時34分51秒 | Weblog
 音楽会もいい。美術展もいい。演劇もいい。(ちょっと質が違うが、社寺めぐりもいい。)常識的な美しさだけでなく、個性的な美を求めた芸術に触れるのもいい。
 しかし、映画を観るという行為は、私にとって‘私自身でいられる時間’なのだ。
 
 好きだからといって、片っ端から上映されたものを見るわけではない。
 町を歩いていて、時間があったりすると、ふらりと映画館へ入ってしまう。
 あるいは、見たいと思うものは、朝一で出かけて見てしまう。
 そういった気ままさや我儘さが許されるところも好きな一因かも知れない。
 
 そしてひとりで見るのがいい。 
 没入ってわけだ。
 知らない人のなかで、思い切り泣き笑い動揺し感動し、あるときはつまらないのを我慢しながら、最後まで見続ける。

 実は、はじまる前に延々流される予告編も嫌いじゃない。
 館内に入った時にはからだにベッタリついていた日常が、予告編の時間で、次第にそぎ落とされていくのがまたたまらない快感だ。
 それは映画を受け容れる仕度が整ってくる時間だから貴重なのかもしれない。
 
 昔は、いっしょにニュースも流れていた。
 そのニュースはテレビで見るのとは違っていたように思う。
 日常茶飯事化した感覚で見てしまうテレビニュースとは一線を画していた。
 事件が、戦争が、政治が、喜ばしいことが、重く熱く人間の尊厳のうちに伝えられたような印象があった。

 そして映画の導入は、こちら側から向こう側へ誘ってくれる独特の手法があるような気がする。導入こそ監督の腕なのだから。
 何かが始まる予感に、心の重心が下がってからだ全身がスクリーンに溶け込み、全編を見終わって映画館を出たときには、再び日常に引き戻されるまで、一連の時の流れのリズムが面白さを決定している。
 
 さて、「おくりびと」が、第81回アカデミー賞 最優秀外国語映画賞候補となったと報じられた。
 賞をいただけたら嬉しいね~。
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2009年01月21日 18時22分18秒 | Weblog
 映画「禅 ZEN 」を観た。

 ……春は花 夏ほととぎす
    秋は月
    冬雪さえてすずしかりけり……

 我が還暦の春は近い。
 日本の灌仏会は、自然からの贈り物豊かな‘花の季節’である。
 そうして無理を承知で‘錦繍の華やぎ’のときに死にたきものを。
 
「鬼に仏を語れっていってるようなものですから」
 脚本も手がけた高橋伴明監督の言葉。
 この言葉、プロフィールを読んで合点がいった。
《 早稲田大学第二文学部入学、早大闘争で除籍。72年にピンク映画『 婦女暴行脱走犯 』でデビュー、82年に『 TATTO (刺青) 』でヨコハマ映画監督賞を受賞》」とプログラムには紹介がある。

 それはそれとして、私は映画が好きだ、と今日も思った。
 
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クラウド・コンピューティングとは?

2009年01月19日 20時11分22秒 | Weblog
 コンピュータの世界はほとんど理解できないまま、それなくしては生きられない状況に陥っている。

 なんでも‘クラウド・コンピューティング’の利用が、‘知の体系を大きく変える’のだそうだ。
 個人は無料で利用できる。したがって中小企業や個人に関しては、コンピューターに関連した費用は極端にかからなくなるらしい。
 大企業に関しては有料だそうだが、それでも安価で利用が可能らしい。
 
 理解が間違っていなければ、自分のコンピューターのなかに文書やアイデアメモや映像資料等々を貯め込むのではなく、たとえばグーグルのサーバーに預けることで、いつでもどこでも自分の作成した文書を取り出し編集し、また送りたい相手に送ることが出来るらしい。
 
 いやはやブログに文章や写真を送って、そちらで保存してくれると、いつでも取り出して読んだり編集しなおしたりできるのは、非常に便利な経験をすでにしている。そのうちにGメールとやらにも利用したいとおもうのだ。これは[MEIWKU]メール撃退にもいい、と、聞いたことがあるのだが……?!
 
 で、ときどき持ち歩いているiPhoneで、自分のブログを読むことがある。
 ID等を打ち込むことも出来るから、きっと編集も出来ると思う。試していないのでわからないが。
 これってすごく便利だ。
 クラウドというのは、このような感覚だろうか?

 私のようにバックアップを取ることが面倒な人種には、クラウド・コンピューティングとやらは、いいかもしれない。
 果たして、こんな理解でいいのでしょうか。
 教えてください。
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魂のバランスは?

2009年01月16日 18時34分10秒 | Weblog
 昨日の大学の構内は平穏だった。
 他大学とはいえ、信じがたい事件が起きた翌日だけに、気を引き締めて出かけた。
 この大学は、休み時間でも構内には、人が多く行き来している。
 守衛さんや事務方、学生と教職員のほかにも、何かと人の出入りがあるようだ。

 しかし、大勢の警察官が大学構内に踏み込むということは、よっぽどでなければありえない。
 大学は特別に自治が認められている空気によって、自由な学問や自由な教育や自由な研究が守られているのだ。
 確かに女子大に限っては門をくぐるときに証明書の提示が求められる。しかし、多くの大学の門は、開かれている。

 しかし、薬物汚染あり、暴力沙汰があり、セクハラがあり、パワハラがあり、さらには金融危機のあおりで多額の損失を出しているし、教授の殺人という許しがたい事件まで起きてしまった。
 なんともはやどうなっているのか。
 
 ところで、昨日、後期授業が無事に終わった。
 実技テストとリポート提出は、先週のうちに終えてあった。
 休む学生は少なく、番外編で環境と省エネと経済活動の折り合いの付け方について話をした。
 とりわけブータンのことなど交えた話に、目を輝かせて聞いてくれた。
 ブータンの切手をデザインした杉浦康平さんの話をしながら、2007年に制作された‘マンダラ発光’の2枚のポスターを見せた。すべての学生がとりこになった。
 日本の印刷技術に驚嘆し、杉浦芸術に目覚めてくれた。
「このポスターは今では手に入らないのでしょうね」
 女子学生がたずねた。
 これほど人の目を釘付けにするとは思いもよらなかった。
 このポスターを見せてからの授業の雰囲気は、一気に変化し、終わってからも教室から去りがたい気持ちが学生のなかに起こっていることが伝わってきた。
 学生は、文化について、国の豊かさについて、近代化について、グローバル経済社会について、……、感性から受け止めそれぞれに考え始めたようだった。

 暗雲漂う2009年の幕開けだからこそ、選んだポスターだった。
 言葉はいらない。
 五彩煌めき、光輝燦燦、豊満なヴィーナス、西蔵曼荼羅に西洋美術の融合が意味するところを、若い感性はしっかり目に焼き付けた。

 美しいものには、人を救う力が潜在しているようだ。
 魂のバランスは、宗教や芸術から得られる法悦によっても、保たれるやもしれず。
 いずれにしても、後期の授業が終わると、2008年度の授業すべてが終わったことになる。
 混迷の時代にあって、変わらないこと・変わること、変えてはいけないこと、変えなければならないこと、その狭間で迷いつつも自分の足下を見届ける大事さを話したつもりだ。
 やはり番外編だからこそ許される自由だと思っている。
 ブログ上で‘マンダラ発光’のポスターをお見せできないのが残念!
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本日発売には、載っていないようで

2009年01月15日 10時01分27秒 | Weblog
 昨日、予告した‘週刊文春’には、野口体操の記事が載っていないようです。
 まだ、記者からは連絡が入りませんが、他の記事におされたのかもしれません。
 
 今日発売の週刊文春をお求めの方には、申し訳ございません。
 取り急ぎ、お詫びまで。
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明日発売の週刊文春

2009年01月14日 15時47分59秒 | Weblog
 昨年12月に取材を受けた‘週刊文春’は、明日15日発売の記事に掲載される、と記者の方から年賀状をいただいています。
 1月22日号だそうです。
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人生最良の砥石

2009年01月12日 18時38分07秒 | Weblog
「女房を質に入れてもいい砥石を買え」とは、職人の世界の物言い。
 本日(12日)日経新聞朝刊の「春秋」にあったことばだ。
 職人は道具を大切にする。
 板前や大工なら当然のこと常に‘刃物’を砥ぐ。
 とにもかくにも刃物がなまくらになるのを嫌う。

 野口三千三先生は、農家がどれほど農作業につかう道具を大切に扱ったかを、子供のころの養蚕農家に育った思い出として話してくださった。
 仕事が終わると、明日のために道具の手入れを行う。
 汚れを落とし、磨き、修理し、長く使う。
 これは大原則だった、とおっしゃる。

「春秋」では、成人になった若者に、「これから砥石を探し求め、研いで、の長い日々が続く」とメッセージを贈っている。

 岩波書店の編集部がまとめた『これからどうする』に寄稿された野口先生の短文にも「鉄棒」を磨くはなしがエピソードとして入っている。
 ‘磨く’という行為は、一回磨けばすむというものではない。使われ、その都度磨かれる。その行為が繰り返されて、‘もの’も‘ひと’も滑らかに柔らかに、そうしてしたたか(下+確か)に、何事かを全うするしぶとさや強さが身についていくのだ。

 同じく「春秋」の最後に、七十歳になる保阪正康さんのことばが記されていた。
「つまるところ人生とは、一冊の本、一人の女性、一人の親友、一本の酒、一つのことば(詩)を求める旅だったな」

 自分に引き寄せて言えば「二十代半ばから、‘野口体操’という最良の砥石で自分の人生を磨いてきたし、これからも磨き続けるだろうな(キザッ!)」
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覚醒

2009年01月10日 19時58分56秒 | Weblog
 昨年の秋以降の急速な変化(悪化)に、平常心でありたいと思う人が増えてきたのだろうか。
 いや、先の予想が立たない時代に、少なくとも健康だけでも何とかしたい、心身のバランスを調整したい、と無意識に行動する人々がいてもおかしくない。

 自分はいったいどこに立っているのか。
 信じてたものが崩れかけて、今にも崩壊するかもしれない不安を抱き始めた人が増えてきたのかもしれない。
 
 2009年、新しい年があけてから、街を歩いていて、電車に乗っていて、神社や寺に初詣にいって、そして野口体操のレッスンを行って、そんな空気が流れ始めていることに次第に気づかされる。

 そんな時、2月で84歳になる母までもが、いままでにない緊張感を持ち始めているようだ。
「とにかく健康でいなきゃ」
 今までにも増して、きちんと朝起き、三度の食事をきちんととって、夜はいつまでもテレビを見ていないで早めに就寝。
 年寄りの意識まで覚醒させたこの危機は、正に未曾有の出来事だ、とより一層実感を深めている。

 母の毎日の様子に、日常の暮らしのリズムを崩さないことがまず大事なのだ、と、戦争を経験した人の一つの知恵を身近に見せてもらっている気がする。
 そこから導かれる解は、ひとつにコツコツと与えられた仕事を丁寧にする。
 二つにいつどうなるかわからないのだから、今日を、今を、只管に大事にする。
 つまり、今日の命を只管に生きる、ただそれだけ。
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