羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

人生最後の買い物

2016年09月25日 08時49分08秒 | Weblog
 長い期間にわたって使うことになる“もの”を買い替える時、最近ではしばし足踏みするようになった。
 今回は、iPadである。
 私が一台目を手にしたのは、いつのことだったろう?
 いつだったのか、思い出せないくらい前のことだった。
 銀座Appleストアで、最初に手にしたのは。。。。。。この製品が売り出された初期のころだった。

 パソコンにはパソコンのよさがあり、iPadはiPadの便利さがあって、とりわけkeynoteは重宝に使わせてもらった。
 そのうちに、Mac Book Air にとってかわられて、初代iPadはいつの間にかお蔵入りとなってしまった。

 そしてこれが2代目。
 今年の9月5日に手に入れた。
 とにかくその進化に、目を見張った。

 さて、昨日のこと、朝日カルチャーセンター土曜日クラスに持参てみた。
 実は、10月から教室の場所がかわる。
 その前に、ひとつの区切りとして、次につながる新たな試みをしたかった。
 そこで「野口流ヨガ逆立ち」の時、何人かの方が練習する様子をiPadのビデオや写真におさめて、逆立ちをしている方と包助している方にみていただいた。
「映像がキレイだわー」
「ヒジが浮いてるわー」
「ウデに力が入りすぎてるわー」
「ソケイブが伸びてないわー」
「O先生、逆さになると、とってもスタイルがいいのねー」「逆立ちにならないと、ダメですか」「いやいやそんなことはないですよ」
「客観的に自分の姿を見るのは、嫌だったんですがネ、こうしてみるとー」
 etc
 それぞれが、明るい声で話し、微笑みながら、ご自分の映像に見入っておられる。

「わかってたんですよね。でも、思っている以上だわ、問題は……」
 大方の感想だった。
 集団レッスンのなかに、個人レッスン的要素を少しだけ組み込みたかった。
「いろんな方向から映してもらわないとねー」
 私もそう思いました!

 レッスンの最後に全員揃って、一通り撮影したビデオと写真を見ていただいた。
 それそれが想いのままに自由な発言をしてくれて、とても参考になった。
 それがひとつひとつ確かな手応えとして残った。
 これも一つのレッスンの方法だが、あくまでも一つの方法にすぎない。

「このiPadは、私の人生最後のiPadです」
「えー!?そんなことある分けないじゃないですか」(爆笑)
「でも、この年ですですからー」
「そんなわけないよねー」

 2016年9月24日土曜日、この教室での最後のレッスンは終わった。
 ホッ!
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誰が訳したの? コメントに添付されていた貴重な記録

2016年09月19日 18時15分41秒 | Weblog
「日本国憲法改正草案」を、アメリカ側と議論するにあたって、佐藤達夫氏の通訳を主につとめたのがミス・シロタであった。
 彼女が1996年、母校のアメリカンスクールを訪ねて講演をした模様を、佐治嘉隆さんが写真におさめておられた。
 土曜日のブログのコメントに添付してくださった。
『the only Woman in the room』と題された記事には、1946年当時の貴重な写真が何枚も掲載されている。
 
 これはアメリカンスクールの記録なので、誰でもが簡単に見つけられるものではなさそうだ。
 ぜひ、みていただきたい。

『日本国j憲法成立史』のなかで、この日の彼女の印象を、著者はこのように描いている。

《私の通訳は、大体ミス・シロタという司令部側の若い女性がやってくれた。たまには、私も下手な英語で直接に議論をしたが、法律用語にさえ気を付けておれば、このシロタ嬢で十分であった。この人は日本に長くいた音楽家のレオ・シロタ氏の娘と聞いていただけに、日本語もよくわかるし、頭も鋭敏で私の意のあるところは、そのまま伝えてくれたと思っている。なお、白洲氏にもときどき発言をたのんだ》

 アメリカンスクール資料の写真のなかには、ホイットニー准将か、ケーティス大佐か、あるいはハッシー中佐ではないかと思われる人物の写真も掲載されている。
 当然のことだけれど、(まだ、精確には読んでいないが)『日本国憲法成立史』の裏付けになる内容が、しっかり書かれているようだ。

 佐治さんは1996年のシロタ女史の最初と最後の写真を撮られたそうだ。
 穏やかな表情と醸し出される雰囲気が素敵だが、そこには戦時中から戦後を生き抜いた強さもにじみ出ている素晴らしい写真だ。
 撮影当時のお話を、もう少し詳しくお聞きしたい、と思っている。

 1946年3月4日、アメリカと日本の「憲法論議」に、女性が一人同席し、通訳をするだけでなく、女性問題に関しては彼女の考えが反映されていると読んだことがある。
 
 私のなかで、終戦後のこの時代が急に近づいてくれたような、気がしている。
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誰が訳したの?

2016年09月17日 09時40分07秒 | Weblog
 かれこれ5ヶ月が過ぎようとしている。
「誰が訳したのでしょう」
 その日は朝日カルチャーの教室で、『現代語でよむ日本国憲法』柴田元幸翻訳 木村草太監修 アルク出版 を紹介したときだった。
 ホワイトボードの下で、この本を手に取ってページをめくっていた方のつぶやきが耳に入った。
「エッ?」(私)
 耳の奥にその言葉がしっかりと刻まれた瞬間だった。
「誰が訳したのでしょう」
「はじめに」に書かれていた1946年11月3日、「英文官報号外」に、日本側が作成した英文の日本国憲法が発表された、という記述を読んでのつぶやきだった。

 そのつぶやきに促されて、まず最初に『日本国憲法成立史』佐藤達夫著 有斐閣 第四巻を手に入れた。
 開いてみると「帝国議会の審議ー衆議院」憲法議会の開幕 第九〇回 から始まっている。
「やはり一巻から読み進まないといけないわ」

 Amazonの古書を検索して、全巻が揃うには、多少の時間がかかった。
 とくに二巻が手に入るのがいちばん遅かった。これだけは目の玉が飛び出るほどの値段だったし。
 
 全巻揃ったところで、一巻からノートにとって、頭を整理しながら読みはじめた。
 その間、戦時中の本等々も次々手に入れて、そちらも並行しながら読んでいった。

 はや9月も半ばにさしかかった今週になって、「誰が訳したのでしょう」の答えが書かれているページに到達した。
 時系列を遡ってみる。
 昭和21(1946)年2月8日に日本側がGHQに「憲法改正草案(松本案)」を提出した。
 2月13日、草案が拒否され、GHQ草案が提示された。
 2月26日、それに基づいた日本案の起草を決定。
 そしていよいよ、
 3月4日午前一〇時に草案は民政局に届けられた。このときには、英文翻訳もままならない状態であった。
 松本国務大臣に、翻訳の手伝いに同行を求められたのが、この著者である佐藤達夫(法制局第一部長)だった。
 著者が日比谷の第一相互ビル(現・第一生命ビル)六階 六〇二号室に入ってみると、白洲次郎(終戦連絡中央事務局次長)と外務省嘱託の長谷川元吉及び小畑薫良の三名がすでに到着していた。この外務省の嘱託両氏は、翻訳のベテランだと佐藤には紹介された、という。
 司令部側の将校二、三名、婦人一名、二世の青年一名とで、英訳がはじめられた。婦人一名の婦人は、音楽家のレオ・シロタ氏の娘で優秀なミス・シロタ。
 
 この瞬間から、3月6日に日本政府とGHQとの協議に基づいた「憲法改正草案要綱」が発表されるまでの攻防が記されている第二章は、読みながらも先へ先へとページを繰りたくなる緊迫感が伝わってくる。私は焦るきもちを抑えて、ゆっくり読み進んだ。世に伝えられているマッカーサー・ノートに基づいてつくられていくのだが、このノートの存在は国民には極秘とされた。こんな注がある。
《この草案を日本の法文として自然な形に仕上げたい》そのやりとりのなかで、とりわけ日本側が留意したことは、先方からの注文に《「そういう表現をすると、いかにも法文が異国調になって、国民は、外部から押し付けられたのではないか・という疑問を抱くであろう」ということで抗弁をした》とある。
 こうした思惑をもってつくりあげられ3月6日に発表された草案は新聞紙上でも掲載され、それを読んだ日本人の中には、文体や用語が日本式とは思えない、あるいは独立宣言やルーズベルトの演説からの引用等々《新聞は常に草案が内閣のものではなく最高司令部の作品であることを陰に陽にいうた。(土屋正三 〈レファレンス〉四八号》と注に補足してある。

 ところでこのマッカーサー草案立案に関係した民政局員はホイットニー准将をのぞいて25名という報告を、後から佐藤は受けたらしい。
 さらにもう一人、部外の関係者としてノースウエスターン大学のコールグローブ教授の名前があがっている。
 3月4日から5日の徹夜の攻防戦に、影の人物としてこの教授の存在が鍵を握っていることが記されている。
 この人物は、アメリカにおける日本政治・日本憲法の数少ない専門研究者として知られていた。その教授が1946年3月初旬に「GHQ憲法問題担当政治顧問」という肩書きで来日していたことが、日本側関係者にも伝えられていた、という。
 佐藤は推測する。
《総司令部の作業に関与していたのではないかとも推測されていた。》
 アメリカ側の関係者は軍人が、軍人である前に法律家でもある。
 そこにもう一人、大学の研究者であり政治学の教授が加わっていたのが実情のようだ、と読める。

 極東委員会に対するアメリカの思惑、アメリカ本国とGHQの微妙な関係といった切羽詰まった状況。
 とりわけ急かれる時間のなかで、GHQ側の周到な誘導のもとに、おもに天皇制の問題、戦争放棄の問題、基本的人権の問題を三本柱に、(その他も検討されているのだが)日本の戦後が形づくられていく。
 3月5日午後4時ごろ、司令部での作業が全部終了した。
《そのときには、それまで一度も顔を見せなかったホイットニー准将も出てきて、大いに安心した表情で、われわれの労をねぎらい、深い謝意を表明したのであったが、その喜びようは、私たちから見ると不自然に感じられるくらいであった》
 それに対して著者は複雑な気持ちであった。
《そのときの足取りの重さはいつまでも忘れない》
 そう吐露している。
 いずれにしても、3月4日、5日、そして6日の発表までの記録を読みながら、ひたすら息をのむ。

 佐藤は書いている。
 作業の間、机の上にはミルクと砂糖がふんだんにおかれ、コーヒーは飲み放題。食べ物に救われ、火急の大仕事にまったく疲労を感じなかった、と。

 その後、4月にも修正が加えられ、4月10日新選挙法による第22回衆議院議員選挙が行われ、4月17日には日本政府が口語体の「憲法改正草案」を発表する。

 1946(昭和21)年、巷ではインフレが猛烈な嵐を呼び起こしていた。
 庶民生活は困窮。
「憲法よりもコメよこせ!」の声が大きかった当時である。
 ようやく外地からの復員、帰国も軌道に乗りはじめたときである。
 そうした状況のなかで、どのくらいの日本人が、憲法改正に関心をもつことができただろう。
 この選挙は、新憲法への信任投票といってもよさそうな国民投票的な性格をもっていたようだが、どれほどの考えをもって投票にでかけたのだろうか。ましてや口語体による「憲法改正案」は、選挙後に発表されている。

 いずれにしても、そのことはおいても、新聞紙上で発表された憲法草案を読むことができる人々は存在していたのだ。
 日本人の識字率の高さは世界に冠たるものがあるとはいえ、漢字とカタカナで綴られた文章をある程度読む力があってこそ戦後の復興が可能だった、と成立史を読みながら、感慨を覚えた。(私自身この本が遅々として読み進めないのは、慣れないとはいえ、漢字とカタカナの文章を読むのに時間がかかっている)

 このように英文と日本文を双方から翻訳する力こそ、日本文化の底力にちがいない。
「誰が訳したのでしょう」
 この疑問こそが、すべての始まりである。
 万葉仮名がつくられる以前から、私たちは外国の言葉を翻訳し、咀嚼し、新たに構築し、自分たちの文化を血の通うものにしてきた。法文までも、というかすべては法文(律令・法律・法令のホウブン、経・論・釈など仏法を解き明かすホウモン)から始まっていたのだ。なにはともあれ記紀・万葉を持つ日出ずる国である。

 おっと、話が飛んでしまいそうだ。
 話を戻そう。
 この発表された改正案に対して毎日新聞が行った輿論調査が載っているが、「天皇制、戦争放棄、国民の権利・自由・義務、国会、草案審議方法」主な5項目に対する肯定的な答えは、平均で70%〜80%に及ぶ結果が出ている。細かな数字をみていると”なるほどそうか”と頷ける。
 戦後民主主義で教育され、戦後民主主義のなかにとっぷりつかって生きてきた世代の私としては、バランスのとれた良識を感じさせる数値だと思った。
 アンケート対象者は、個人企業者、財界人、医師、官公吏、農業者、宗教家、会社員、法曹人、教育者、文筆家、学生、労働運動家といった職業別内訳だから、もっともな数値といえるだろう。
 ただ一抹の不安を感じるのは、女性がはじめて参政権を得た選挙だったが、はたしてどれだけの女性が自分の意思で投票したのだろうか、といった点である。選挙権がある、と言われて「はい、そうですか」と手放しで喜んだ後にくるだろう「誰に入れたらよいのかな?」
 とまどいを多くの女性が持ってもふしぎではないだろう。
 しかし、彼女たちには、戦時中の暮らしの窮屈さ、失われた命への思い、戦後の想像以上の困窮の実感がある。あるにはあるが、その実感が投票に生かされたかどうか、である。
 91歳の母に、21歳当時のことを聞いてみた。
「なにしろ生きるのが大変で、選挙の記憶ははっきりしないわ」
 ちょっと残念だったが、正直な答えがかえってきた。

 さて別の本の年表をみると、11月3日憲法が公布されたあと、憲法普及会が冊子をつくって啓蒙活動をすすめた、とある。
 当然、教育界にも戦後民主主義の波が本格的に押し寄せてきた。
 野口三千三が終戦を迎えた東京体育専門学校を中心にして、GHQのなかにあるCIE(民間情報教育局)の指導のもと、戦後の体育指導要綱作成が相当なスピードをもって開始される。
 校長・大谷武一のもとで、三十代前半の野口は腹の皮が背中の皮にくっつきそうな状態をひたすら我慢しながら、おもにモダン・ダンス(創作舞踊)とフォークダンスの研究に没頭する。
 そして自らの身体に負った二つの傷を抱えて、新しい時代を必死に生きはじめたのである。
 野口に限らず、日本人のすべてが、ゼロからの出発である。

「誰が訳したのでしょう」
 小耳に挟んだ新井英夫さんのつぶやきから始まった私の読書。
 備忘録−2−である。
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ロホクッション

2016年09月07日 10時03分01秒 | Weblog
 一月に一回のペースで、母を皮膚科につれていく。
 巻き爪と爪水虫の治療のためである。
 
 ところで最近になって気づいたことがある。
 就寝前に赤ちゃんの沐浴剤を入れた湯で湿らせたタオルを使って、母のからだを拭いている。その際に、お尻に傷が出来て出血していた。
 こうなる前までは、変色している部位を濡らしたガーゼで拭き、乾いたガーゼで水気を拭き取っていたけれど、痛がってそれができなくなっていた。
「これって床ずれかもしれない」
 密かに思っていたが、母には言わなかった。

 昨日、足の治療の際にそのことを伝えると、患部を見た先生の見立ても同様であった。
 2種類の治療薬を出し、車椅子用の床ずれ防止クッシュン「ロホクッション」を教えてくれた。
 介護保険でも借りられるそうだ。
 といわれてもピンとこなかった。

 帰宅して、Web検索してみた。
 迂闊でしたね。
 床ずれというのは、寝たきりの人がなるものと思い込んでいた。
 しかし、母の一日の暮らし方を思い返してみると、柔らかな二人〜三人掛けのソファに座って過ごしている時間が殆どである。
 長時間同じ状態を続けていれば、寝たきりでなくても”座りきり床ずれ”は出来る可能性があるというわけだ。
 最近は以前に比べて転ばなくなった。気をつけているのだなぁ、くらいにしか考えていなかった。
 実態は、家のなかでも歩くことがとみに少なくなった証拠なのだ。
 寝たきりでないから、という安易で間違った認識しかもっていなかった。
 母も、自分はまだ寝たきりではない、と思い込んでいた。
 
 そんな母に、今朝、話しかけた。
「あのね、座りっきりで、床ずれが出来てしまったみたい。夏だから汗もかくし、年中、押し付けられて空気がかよわないから、なるんだと思うの。まぁ、生活習慣病と思えばいいんじゃない。車椅子の生活を強いられている人も床ずれが出来るんですって」
「エッ、そうなの?」
「だからね、先ずは、用事がなくても玄関の方にいったり、二階に上がったり、家の中をウロウロしてみたらいいんじゃない」

 母は、体操をしましょう、歩きましょう、などというと嫌がる。
 そこで家のなかをウロウロすることと、以前やっていた食後の食器洗いを再開することなどもすすめてみた。
「わかったわ!」
 と宣うのだが……。

 はじめて、車椅子用の床ずれ防止クッション「ロホクッション」なるものがあることを知って、高齢者問題がぐっと近づいてきた。というか、自分の問題にもなってきた。
 本日から朝日新聞で始まったシリーズ『教えて! 2025年問題 都心の「介護難民」深刻に』
 他人事じゃない、と記事を切り抜いたが、先送りている場合じゃないー。

 すぐ私に出来ることは何だろう。
 野口体操だ、とばかりに二階へ。
 たっぷり1時間、久しぶりに、真剣に体操をした。

「生きるということは、誰のものでもない、自分の命を生かしているのだ」
 体操するということは、気持ちがいいとか、健康にいいとか、老化防止とか、それも十分大事なことであるけれど、もっとダイレクトに「自分の命」とどう関わるのか、ということだった。
 野口体操で教えられたこと、求めたことはそういうことだったはずだ。
 月並みな言い方だが、自分に言い聞かせましょうぞ。
「初心忘るべからず!」
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片付け事始め記念日

2016年09月04日 09時13分18秒 | Weblog
 ファックスというものを使わなくなって久しい。
 思い返してみると、使う回数は、一年に一回あるかないか状態である。
 実は、両親が使っていた電話を、ファックス用として名刺に電話番号を刷り込んである。
 そのためになかなかこの電話を解約することができなかった。

 ある日、91歳の母が聞いてきた。
「電話に出なくなったし、みんな知り合いは死んでしまって、かからなくなったから、この電話、いらないんじゃない。ただじゃないんだし、勿体ないしー。」
 たしかに、外出先から母に電話をしても、出てくれない。
「二階のガスストーブ、消してきたかしら。見にいってくれない」
 などという、電話もかけることはなくなった。
 この母の言葉を聞いて“わかってるんだ!”と、残された母の脳機能に、僅かながら安堵した。

 とはいえ、まだ母が生きていると、何かの連絡が来るかもしれない。
 それにかかりつけの医者や、母の役所関係の電話番号は、この番号だったような気もする。
 しかし、母が経済を考えて、一軒に1本の電話でいいと思う気持ちを大切にしよう。

 とはいえ、解約手続きをとる積極的な気持ちがおこらなかった。
 何ヶ月も過ぎてしまった。

 ところが、結構高い料金をし払っている携帯電話を変えよう、と思いはじめていたこともあって、その前に、まずはNTTのHPから解約手続きを探し、読んでみた。
 今朝のことである。
 気がついたら、Web上で「手続き完了」まで終えていた。

 たしかに家の中を見回すと、片付けなければならないところは随所にある。
 見えるところはまだいい。見えないところほど厄介なものはない。
 おそらく、あそこには○○が入っているはず。思い浮かべることだってできる。
 あれも捨てたい、これも捨てたい、限りなく浮かんで来る。
 なのに、なぜ捨てられないのか。
 捨てたいもの、捨てた方がよいもののうち、三分の一は3年かけて、捨てている。
 
 結局、電話を解約したのは、後の残りに取りかかるはずみが欲しかった、と気づいた。
 本日、9月4日は、「片付け事始め」記念日となって欲しいー、のだが。
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