羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

インターネットなしの暮らしは……そして

2013年03月30日 09時35分12秒 | Weblog
 昨晩のこと、インターネット接続が出来なくなっていた。
 むかし、昭和20年代末から30年代にかけて、頻繁に停電が起こった。
 ついたり消えたりしているうちに、完全に停電状態に陥って、しばらく回復することはなかった。
 今回のインターネット接続も、完全にダウンするまえに、多少の不具合があって、とうとう接続不可状態に。

 朝、9時にSo-netサポートに電話をいれた。運良くすぐに通じた。
 何のことはない、NTTのルーターとAirMacEXの電源アダプターをコンセントから抜いて、10秒くらい間をあけて、ルーターから差し込み直しランプが3つついた時点で、AMEXの電源を入れこのランプがオレンジから青に変わるの待つ。
 ただそれだけで、回復できた。

 今や、インターネット接続が途切れると、非常に不便だ。回復した時に安心感は何ともいえない。
 電話が不通よりももっと不便だ、ということを体験した。
 今やインターネットなしの暮らしは考えられない。 
 そんなときiPhoneでメールをチェックしたり、Safariを立ち上げたりして、手元から離さなかった。(苦笑)

 何が怖いって、子どもの頃に体験した停電だ。とんでもないことになる。
 3・11のあと計画停電があったが、この地域は免れていた。
 今更、言うまでもないが、電力供給の安定は、何も増して重要問題になってしまった。
 あのとき電源なしで使えるふるいガスストーブをいまだに重宝していること、同じく電源なしで使える黒い色をしたダイヤル式電話機が蔵にしまってあることに、どれほどの安心感を覚えただろう。

 
 
 

 
 
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『イルカと、海に還る日』

2013年03月28日 15時00分26秒 | Weblog
 ジャック・マイヨールのDVDと本が、昨日、アマゾンから届いた。
 まず、テレコムスタッフDVD『The Days with Jacquesジャック・イヨールの海と夢ーを見た。美しい潜水、美しい泳ぎだ。
 イルカとクジラと、共に生きる姿は、感動そのものだった。
 人間に育てられ浅瀬しか知らないイルカ二頭に、潜水を教えるマイヨールの根気強さと優しさは、人間というよりイルカの母であり父だった。
 そして今、『イルカと、海に還る日』講談社文庫を半分ほど読み進んでいる。
 久しぶりに純粋に読書を楽しんでいる。

 このつづきは読み終わってから。
 
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宗教 音楽 幻覚

2013年03月25日 12時57分41秒 | Weblog
『知の逆転』NHK出版新書は、随所で腑に落ちるところに出会った。
 その中で、思わず笑って、そのあとドキッとしたところがある。
 それは第三章「柔らかな脳」だ。オリバー・サックスへのインタビューである。
 1933年英国ロンドン生まれの脳神経科医として診療を行うかたわら、精力的に作家活動も展開している、とプロフィールにある。『レナードの朝』「音楽嗜好症』ベストセラーの著者。

「宗教をお持ちですか」
 インタビュアー・吉成真由美さんは単刀直入に問う。
「私はキリスト教の実践者ではあるが、信仰者ではない」とフリーマン・ダイソンが書いている例を挙げて、それに似ているかもしれない、とサックス氏はこたえる。
 小見出しは「宗教と幻覚の関係」ーー神聖な音楽なんてものはない、あるのはただの音楽だけだーー

 読み進む。
 99歳で亡くなった名指揮者が年の暮れにヘンデルのメサイアを振っていた。その指揮者によると、メサイアはイタリアの卑俗なラブソングから来ているという。
 で、「そもそも神聖な音楽や、宗教的な音楽、軍隊の音楽などというものはない。あるのはただ音楽だけで、それがいろいろな状況でさまざまな目的に使われているだけのこと」だと考えていたらしい。
 ブラームスやベルリオーズ、ヴェルディのレクイエムを特に好んで演奏していた彼曰く
「これらの作曲家はみな無宗教者であった。宗教の高い感性や想像力を表現するのに、宗教的な信仰は必要ない」と聴衆に説明していた、という。

 さらに話は続く。
 ジョナサン・ミラーは、人々が感極まって涙にくれてしまうほど見事なバッハのマタイ受難曲を毎年演奏する。あるとき演奏がおわったあと、歓喜に震えて涙している聴衆を尻目に
「無宗教のユダヤ老人が指揮したにしちゃあ、悪くない出来だっただろう」と。

 たしか永井荷風だったか、こんなことを言っている。
「キリスト教が理解できないから、西洋音楽はわからない」というような趣旨だ。
 その言葉が伝わったかどうかはさだかではないが、バッハを演奏するには、最低限の教養としてキリスト教と当時の各国にあったバロックダンスを知ることが必須だ、と言われたことがある。
 さきの言葉に照らしてみると、キリスト教を知識として知ることは必要だが、信仰者になることはない、ということか。
 それ以前に、日本人が演奏する難しさはあった。
 それはもっと別の“身体的なリズム感”であったり、“文化土壌の違い”であったりする。
 そんなとき普通の日本人が持ち出してくるのが、教会オルガニストとして子だくさんだったバッハは、家族を養うためにいかに努力したか、という俗っぽいエピソードである。わかったような気になって、バッハを弾いてみたりするが、ダメなんですよ、それじゃ。
 そもそも音楽は理解するもんじゃないわけ。

 話を戻そう。
 常識的には、信仰があって実践が生まれる、と考えている人は多いと思う。
『仏つくって魂入れず』
 仏像を作っても、魂を入れる『入魂』の儀式をしないと、「仏像」にはならない。つまり、作る人間と信仰の対象として拝む人間は別ってこと。演奏する人間と、自らの信仰を昇華させるひとつの行為として演奏を聞く人間の精神の有り様はまったくステージが違うということなのだ。
 さっきの話では、「精神(信仰)」と「肉体(行為)」は別みたいだなぁ~。
 作る人は“実体”と挌闘する。実体(肉体)ほど一筋縄ではいかないものはない?

 私事、11歳ころ、初めてレコードでイタリアオペラを聞いた。イタリア語の意味はわからなかった。しかし、涙があふれて感動に震えていた。それ以来、オペラは好きだ。筋書きはかなりバカバカしいものがある。それなのに音楽として、官能をゆたかに刺激してもらえる。これぞ音楽、醍醐味が味わえる。
 元気になりたい時には、iPhoneに入っている3大テノールを聞く。これに限る。
 実は、音楽に言葉はいらないのかもしれない。ロジックはいらないのかもしれない。
 ただ、無心で、音に浸る。リズムに委ねる。波に乗る。脳幹の深いところに刺激が通じて、命が目覚める感じがする。それって幻覚であって幻覚ではない。
 そのことと、演奏家になることは別のステージももたなければならない。
 
 芥川龍之介は、文学創造でこの問題と向き合っていたな!(今、そう思った)

 このインタビューは「失われた感覚器官が、幻覚を生む」につながっていく。
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多様なものが 多様なままに 

2013年03月24日 07時57分43秒 | Weblog
 昨日の朝日カルチャーのレッスンでは、久しぶりに龍村仁監督の「ガイアシンフォニー」第二番から「海」BREATH  JAQUES MAYOL(海洋冒険家)を見ていただいた。最初の15分くらいを予定していたが、身を乗り出して画面に注がれる目と音楽に乗って語られるメッセージを聞いている耳の集中度の素晴らしさを感じて、結局30分全部を流させてもらった。見終わってからの体操は、驚くほどの変わりようであった。
 何人かの方が帰りがけに「見せていただいて、ありがとうございます。気持ちよかったです」と言葉を残して行く。
 全体を通して、私自身も改めての感動をいただいた。
 話は前後するが、「ガイア」を見ていただく前に、次のレジュメの板書を読み上げながら前置きを聞いていただいた。 

2013年3月23日(土)朝日カルチャー 「グラン・ブルーの世界」「呼吸」「逆立ち」

※「体液主体説」野口三千三『視覚を捨てて内臓感覚を磨く』
 * 胸腔内気圧・腹腔内液圧と横隔膜
 * フリーダイビングにおける身体。水圧によって肺が胸壁から剥離し、非可逆的な損傷をうける。
ジャック・マイヨールは、危険がない潜水30メーター程度までと言われる限界を超えて、100メートル超えの記録を達成した。閉息大深度潜水時に、水圧により腹部内臓が横隔膜ごと肺の方向に押し上げられ(おそらく液体的な振る舞いによって)、肺のスクイズを防ぎ、肺ならびに周辺組織の不可逆的損傷を防いでいることを明らかにした。
 その他にも驚くべき身体の変化を実証していった。
 
※『LIVE26』デジタル・ブック フリー・マガジンより。
(注*昨日のブログで紹介したことから箇条書き。詳しくはリンクを読んでください)
「魚のようなしなやかな動きの秘密」フリーダイバー篠宮龍三 
 *インタビュー「フリーダイビング」とは、海中を自由気ままにおよぐのではなくはなく、真っ直ぐに海底へと降りて行く。
 *申告した地点の水深まで到達したら、ロープのタグをとって来る競技。
  息を止めて行うので、酸欠状態になる。酸素も消費し二酸化炭素も出す。
  無呼吸で無駄な動きをすると抵抗が強すぎ、体内の酸素を使いすぎると二酸化炭素も多くつくりだしてしまう危険がある。
  体に安定した軸を効率よく作る能力が大事である。
  筋肉を増やすと増えたぶんだけ運動時に酸素を必要とする。
  脚力を使うとかえって体が安定しない。
  強い水圧の中で体の軸がブレないで下降し、力を要さずに浮上することが大切。
  筋肉をできるだけ使わず、背骨と骨盤の動きに手足が連動してしなやかに
  動き、エネルギーを消費しないような状態が美しく見えるフォーム。
 * 瞬間的に怖いと思うと全身の筋肉も肺や心臓といった内臓も固まる感じがある。酸欠につながる。
  「体の軸がブレないと、心も安定して潜れる」
※『地球交響曲 ガイアシンフォニー』龍村仁監督 第二番「海」
  ジャック・マイヨール
※ヨガの逆立ちにおける「軸」と「呼吸」のイメージ。『「胸腔内気圧」と「腹腔内液圧」感覚』のイメージと具体的なからだの在り方を探る。

   *******

 人生観、自然観、龍村監督が伝えたかったメッセージが、ストンとからだに落ちていく気持ちよさを実感していていただけたようだった。
第二番『多様なものが、多様なままに 共に生きる。それは生命の摂理であり 宇宙の摂理である。』(GAIA SYMPHONY 1 to 5 synopsis より)
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デジタルブック

2013年03月23日 09時53分45秒 | Weblog
 本日の朝日カルチャーレッスンでテーマの関連で、思いがけず出会った「デジタル フリーマガジン」フリーダイバーの篠宮龍三さんのインタビュー記事です。「魚のようなしなやかな動きの秘密」
 それはそれとして、このマガジンの使い勝手のよさは、何てことだ!印刷OK、付箋OK、Twitter Facebookスムーズな動きとスピード感。驚きである。
 野口体操にもこの手があった。
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女性サイエンスライターの実力

2013年03月22日 09時07分02秒 | Weblog
知の逆転 (NHK出版新書 395)

 読み応えある良書。

 文明の崩壊 …………………   ジャレド・ダイアモンド
 帝国主義の終わり …………   ノーム・チョムスキー
 柔らかな脳 …………………   オリバー・サックス
 なぜ福島にロボットを送れなかったか …マービン・ミンスキー
 サイバー戦線異状あり ……   トム・レイトン
 人間はロジックより感情に支配される …ジェームス・ワトソン

 2010年4月から11年6までに収録したインタビューをまとめたもの。
 抜粋は『中央公論』誌「世界展望」シリーズに掲載された、と“あとがき”にある。
 写真・ビデオ撮影がされているらしいので、動画を見ることが出来たらいいのだが。

 内容は、大御所たちの語り口が解りやすく、それぞれの著書を読破するのはなかなか難しい。こうして口語体で一冊にまとめられたことはありがたい、と感じた。
 インタビューアー・編者の吉成真由美さん(元NHKディレクター)の実力が光っている。
 現代の知を俯瞰しながら、どんどん深掘りし、ばらばらなものを一堂に集約していく。そういった際立つ編集力で一冊を堪能させてもらった。

 左右脳の連携が素晴らしい女性ならではの仕事力を感じた。
 詳しくはアマゾンで。
 
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液圧感覚

2013年03月18日 09時18分04秒 | Weblog
 今月の朝日カルチャーの講座では、『原初生命体としての人間』第三章『息と「生き」』から、いくつかのフレーズを板書しながらすすめている。
 先週末土曜日と昨日の日曜日は、同じテーマでおこなってみた。
 とくに「胸部の気圧」と「腹部の液圧」を分ける感覚をとりだしてみた。
 レッスンが終わったとき、近づいてこんな話をしてくれた。
「素潜りのジャック・マイヨールさんについて研究した論文だったと思うのですが、潜って行くと次第に腹部の内臓が胸部の方へ液体的に流れ込んでくる感じがするとか。それを科学的に研究した論文を読んだことがあったような気がするんですが」
 野口先生の“腹部液圧”という言葉の表現は、これは凄い!ということで、その時の話は終わった。

 で、今朝、インターネットで検索してみた。
『フリーダイビングの生理学』に次のような記述を発見した。ここに張りつけさせてもらいます。
《一般的に息を止めて深くまで潜ると肺が締め付けられ、スクイズ(スクイーズ)と呼ばれる障害が発生する。肺にスクイズが発生した場合、胸壁から肺が剥離し、非可逆的な損傷を受ける。このため過去には、人間が息をこらえて潜る理論的な限界水深は 30数メートル程度と言われていた。
しかし実際には、2007年6月現在のノー・リミッツでの最高記録はHerbert Nitsch ハーバート・ニッチ(オーストリア)の-214mである。
現在では、閉息大深度潜水時には、水圧により腹部の内臓が横隔膜ごと肺の方向に押し上げられ、肺のスクイズを防ぎ、肺ならびに周辺組織の不可逆的損傷を防いでいることが、明らかになっている。》

 マイヨールが潜った水深は、百メートルを超える。このとき横隔膜ごと腹部内臓が肺の方向に押し上げられるということは、”液体的な状態で吸い込まれる感覚”といいう表現が当たっているに違いない。
 生体の凄さを感ぜずにはいられない。

 野口体操の「上体のぶらさげ」とそのヴァリエーションの動きは、かなりのスピードで内部の臓器が方向を変えられている。余分な力を使わない野口流の「ヨガの逆立ち」の場合も、逆立ちしている時の横隔膜は、普通に立っている位置とは真逆で腹部内臓は横隔膜の上に乗ってくる状態にある。この姿勢でゆらゆらと揺れることができるのは、内臓が液体的な状態であるからだ。

 このあたりの感覚は、探ってみると非常に面白いことがつかめそうだ。
『視覚を捨てて、内臓感覚を大事にする』という野口の発想を確かめるのに、素潜りダイビングがヒントをくれた。
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ご町内の瀬戸物屋事情

2013年03月16日 09時19分14秒 | Weblog
 いよいよ春の植え替えの時期を迎える。
 来週から、ほぼ一週間をかける予定をたてた。松と槙柏は5年前に植え替えて、今年がその時期になった。全部をやる心づもりは、いまのところついていない。来年でも良さそうなものは先送りしたいと思っている。
 さて、事前に残っている土の様子を確かめて、いつもいく瀬戸物屋に「赤玉土」の小粒と中粒、それに「桐生砂」を頼みに行った。ここは代々続いていて、この町でも古い商店である。瀬戸物以外にも盆栽鉢や植木鉢も揃っていて、その関係で土等々もよい製品を取り揃えている。主人は、知識もたくさんあって、いろいろと教わることができるので大変ありがたい。

 帳場で支払いを済ませるタイミングで、おしゃべりが始まった。
「土をおろしてくれる問屋が、癌でだめになって、残っている分はまだあるんですが、今年で終わりかもしれません」
 その言葉がキッカケになって、瀬戸物屋事情を伺うことになった。
 店屋も問屋も窯元も高齢化で、廃業するところが軒並みだそうだ。
 たとえば、瀬戸は以前からあるトヨタに、波佐見はこれからできるキャノンに若者たちは就職するらしい。残った職人はほとんどが高齢者である、という。たまに親の後を継ぐ気になった息子がいても、職人たちが親御さんと同じ世代の高齢者で、窯元が世代交替をするのなら自分たちも辞める、と言い出すらしい。
 また、商店などは、従来の瀬戸物屋で若者たちは買い物をしなくなった。
「ラーメンどんぶり、カレー皿があれば、それだけで若者の一人暮らしはまかなえるんですよ。後はほとんど外食ですませるんで、百円ショップと雑貨店の食器で間にあうんですね。以前に比べて、技術革新をしたことで、瀬戸物が壊れにくくなったんです。中国製の安物はだめですが、日本製のものはとても丈夫になったんです。だから、店の売り上げはどんどん下がっていくわけね」
 
 その他、家庭の事情が組み込まれる。「介護」だ。
 高齢の親に家族のひとりが関わるようになると、もう店を開けることができないという。
 この町でたった一軒だけ残った瀬戸物屋も、跡継ぎはいない。
「うちでも息子が後を継ぐと言っても、こちらからお断りで……。私らの代で終わりですわ!」

 我が家はどうだろう。
 日常的に壊れるご飯茶碗とか湯のみなどは、時々、買いにいくことはある。しかし、殆どの食器はある物でまかなえる。昔はさまざまな慶弔のお返しに、皿や小鉢やカップまでもいただいた。その他、ねじめ正一さんのお父様がやっていた民芸店でそろえた「益子焼」がそのまま残っていてそれ以上必要がない状況だ。
 ただし、年をとってくると重い食器は、避けるようになる。
 いい例が、野口先生だ。70半ば過ぎになって、白地に花柄の可愛らしい食器に、一気に替えたことがあった。それは磁器以上の固さがあって、1メートルくらいの高さから落としても割れない丈夫さが備わっているものだった。
「ほら、見てて」
 得意げに落とす実験をしてくれたことがある。
「優れものでしょ」
 嗜好品としての日本茶だけは、すでに手に入らなくなっていた作家の手による万古焼き・常滑焼きの急須に、美濃焼き・九谷焼きの茶碗など、旧来の茶器を使い続けていらした。

 生活空間のデザインや色合い、料理の内容がかわると、当然のように食器も変わる。それだけではない。調理器も大きく変化した。我が家にもシリコン樹脂のボールや電子レンジに使用できるスチーマーココットなる調理器具がある。これなどは油を使わず調理ができるヘルシーさをうたっている。
 デパートの食器売り場でも見かけるが、そうした物の色は多彩。パプリカレッド・キャロットオレンジ・レタスグリーン・マロンブラウン・ミルキーピンク・フラワーピンク・パンプキンオレンジ・パプリカグリーン・トマトレッド、軽やかでカラフルなのだ。
 いただいたものがあるが、手ざわり感に馴染めなくて、使う気がなかなかおこらない。飾って見ているだけである。
「その感覚って、年かなぁ~!」
 てなわけで今日は瀬戸物屋から見える生活の変化と高齢化問題の深刻さ、日本の守るべき伝統とは何か、を改めて考える材料を忘備録として書いておきました。
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文化人類学……そして

2013年03月14日 09時25分05秒 | Weblog
 大阪万博の跡地に、国立民族学博物館(みんぱく)が出来て、野口先生といっしょに会員になった。
 季刊と月刊が発行されていたが、面白かったのは月刊の方だった。その理由は、フィールドワークの途中経過というか、季刊とは異なって研究途上にあってこれから整理される状態の研究を載せていたからだった。
 綺麗な論文になる前の、結論づけられない迷いや、試行錯誤が見えるものの方が、学問のダイナミズムが伝わって来るからだ。それだけではなく捨てられてしまうかもしれない情報が混ざりあって、生の現地感がある。

 もうひとつ哲学の前衛を紹介する冊子として、渋谷にある「たばこと塩の博物館」がオピニオン誌として委託発行していた『談』が面白かった。
 初期のころ、『やわらかさ』というテーマで、野口体操が取り上げられた。
 先生にお供して、記憶は正確ではないが市ヶ谷だったか、麹町企画を訪ねたことがある。
 この取材によって、『談』という冊子の存在を知った。
 その後、どのような経過によるのかは知らないが、アルシーブ社と名前を替えて、佐藤真さんが編集長をしておられる。
 たとえばベイトソンの研究、複雑形、非線形論理、多岐にわたって意欲的な内容に、難しいながらも知識欲を満されながら、文化人類学や現象学、身体哲学、そういった分野の世界を垣間みさせてもらえた。

 さて、これまでの30年~40年の時間は、あっという間に過ぎた。
 その間、NHK・教育テレビと言っていた時代、ビッグ対談という90分の番組があって、野口三千三先生は山口昌男さんと対談をされたことがあった。
 月に一回の番組で、前の月の放送の最後で「次回は誰と誰」と字幕に出る。実際にこの録画に関わっておどろいたことだが、その時点では録画は終わっていない。まったくの白紙状態。
 で、話を受けてから、ほぼ一ヶ月間、山口昌男さんが同じ局の『人間大学』という12回の教養番組にご出演になった時のビデオ記録とテキストを見直して、大事なところを野口先生に伝え、対談にむけて山口ワールド勉強のお手伝いが出来たことを懐かしく思い出す。
 
 教室での撮影が一日、後日場所を白金の庭園美術館に移して、対談の撮影が終日かけて行われた。
 黒塗りの局差し回しの車がご自宅から、撮影場所へ案内してくれた。
「電車で行きますから」
「いえ、先生、それだと途中で何かあったとき、連絡が出来ないので、申しわけありませんが、ハイヤーでいらしてください」
 当時は、携帯電話がなかった。ただし、その車には電話があった。
「乗って行かれる方によっては、電話が珍らしく、用もないのにあっちこっちかける方もいらっしゃるんですよ」
 運転手さんの話が新鮮だった。

 庭園美術館に着いて、「今日は、体操の神様と対談ですな~」と気さくにおっしゃる山口先生を交えて、事前の打ち合わせを行った後、中継車に連なっているNHKのバスのなかで昼食をすませた。
 カメラを回すこと半日近く。日が傾いてくるころ、そこまで!となった。
「ここから話がはじまるのに」
 二人の感想は一致していた。あとは、ディレクターの腕にお任せとあいなった。
 その週の放送ギリギリまで編集作業はかかっていたらしい。オンエア前日になって、無事に編集が終わったという電話をいただいた。
 素人にしてみると、まさに神業。一ヶ月弱の綱渡りの作業で、番組が作られていくことに驚いた。
 プロの仕事といいうのは、時間との闘いである。撮り直しはきかない。そのなかで限られた時間内に、間に合わせられなければプロとはいえない、というわけだ。

 野口先生にぴったり寄り添って、準備し、撮影にかかわり、撮影後は先生に代わってディレクターの方に手紙をしたため、放映後もなにかと連絡をとって事後整理のお手伝いをさせていただいた。
 よい勉強をさせてもらった思い出のエピソードである。

 先日、Twitterで山口昌男さんがお亡くなりになったことを知り、その後、新聞で追悼記事を読んだ。
 おおらかで懐の深い学者らしくない学者さんだった。新しい分野「文化人類学」の扉を叩き、とっぷり浸かって仕事をされた。
 学問のトリックスターとは、まさに山口さん自身であり、もしかすると彼の目には野口三千三もまたよい意味でのトリックスターとして映じていたのかもしれない、と思う。
 
 実に、昭和は遠くなりにけり。
 深い感慨を覚えつつ、ご冥福を祈ります。
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初心忘るべからず

2013年03月13日 09時27分19秒 | Weblog
 野口体操を始めた当初、といっても二年目頃だったが、当時は三笠書房版で『原初生命体としての人間』を読んだ。実技も殆どままならない状態で、書かれている内容を理解することはとても難しかった。それでも我慢をして文字だけを追って、最後のページまでたどり着いた。
 一週間に一度通っていた教室では、ほとんど動けなかったが、野口先生のすすめもあって「やすらぎの動き」や「真の動き」といった「座位のほぐし」を中心にして自宅で練習を始めていた。その時、甲骨文字関係の本や、それまであまり読むことをしなかった自然科学系、そして民俗学や文化人類学の著書を読みながらの自宅稽古だった。

 体操することが楽しかった。からだのあちこちに痛みを感じていたはずだが、まったく記憶がない。
 本を読むことも面白く、そのころから先生と直接話をさせてもらうようになっていた。
 あるとき「呼吸」について、教室で講義をおねがいした。
「芸大では、一クラス70名ほどで、多すぎるわけ。呼吸について話をしたり、実技を行ってもどこまで伝わっているのかわからない。いつも消化不良で終わる感じがして、いつの間にか呼吸をテーマに選ぶことはしなくなっていたんだよ」
 そこを何とか説得して、個人の教室だったこともあって、話と実技を展開していただけた。

 それから『原初生命体としての人間』のなかから、第三章『息と「生き」』を読んでみると、よくわかるではないか!といっても実技の質が伴っていなかったので、まだまだ頭でっかちの理解でしかなかった。
 
 一時間、二時間、多い日には半日、というようにたっぷり時間が取れる日は、自宅に籠って体操をする。本を読む。その繰り返しの日々が続いた。
 はじめて三年目には『野口体操 おもさに貞く』柏樹社刊ではモデルとして写っている。
 そのころからようやく本調子で、レッスンに通い、自宅練習にも熱が入った。反比例するように、周囲の人間に不安感を与えていった。
「体操不得意あなたが、それほど入れ込んで大丈夫なの?」
 
 それから三十八年目の春。
 改めて第三章を読み返している。「読んだつもり、解ったつもり、出来るつもり」がいちばんよろしくない。
 唖然としている。誰に? 自分自身に、である。
 今度は岩波現代文庫版を読んでいるが、133㌻~134㌻にかけて書かれている「息を詰める」ことの実感についての記述で、初めて読むような驚きを感じた。
 師範学校生だったころの野口先生は「体操部」とい「陸上部」の両方に所属していたという話を思い出した。
 ここでは重量挙が例として挙げられている。ご自身の経験によって得られた身体感覚を言葉に置き換えておられたのか。
 人間のからだを液体的にとらえる「体液主体説」が、どこか腑に落ちなかったのは、単に経験不足でしかなかった、と気づいた。
『胸腔内の気圧・腹腔内の液圧、とくに腹腔内の圧力の重要性を強調しなければならない。このような場合、胴体の筋肉の役割は、胴体の体腔内圧を高めるためにある。と考えるべきであろう』
 初めて「液圧」という文字に接した驚きだった。
 筋肉に頼らない“筋肉は動きのキッカケをつくり微調整するだけ”という言葉の意味がようやく繋がった。

 野口体操が東洋的と言われる所以に、「腹」のとらえ方がある。
 東洋といわれようが、アンチ西洋といわれようが、そんなことはどうでもいい。
 身体感覚として「呼吸」と「動き」、「腹芸」を今週のテーマとしよう、と思った。

《初心忘るべからず》
 自分に言い聞かせた。
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もう三月も中旬

2013年03月09日 09時23分05秒 | Weblog
 二月はたった数日すくないだけで、あっという間に月が通り過ぎたような気がする。
 
 確定申告の作成と提出(今年は複雑なことがあった)。
 法事(私としては遠方に出向く)。
 母の米寿の祝い(準備・設えと後片付けに十日間ほど費やす。当日、親類の者が持参した長襦袢に、半襟のつけかたを教えた母がしっかりし、翌日から大振りに飾った花の手入れも行う)。
 今年、家の建て替えから満八年を迎える(少しずつ手をいれなければならないところが出てきた)。
 2012年度の授業でつかった資料の整理(13年度の準備の準備も兼ねて行う)。
 こまごました所用(まだ十年は先のことだが、成年後見人のことも脳裏をよぎる)。
 先週いただいたプレゼントに感涙(野口体操の三十八年をふりかえる)。
 社団法人『日本健康倶楽部・健康日本』冊子記事の協力要請に、ちょっと面倒なやり取りをする(佐治さんに写真に関してお世話になった)。

 そうこうしているうちに、三月も中旬にさしかかってきた。

 本日は、朝日カルチャーのレッスン日。
 野口三千三先生にしか出来ないと思い込んでいた聖域に踏み込んだ先週に引き続き、「呼吸」を中心にした動きのブラッシュアップを予定している。いくつかの言葉を、『広辞苑』と大野晋『岩波古語辞典』で調べた。
 
 
 
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ビッグデータ

2013年03月04日 07時11分38秒 | Weblog
 3月3日、朝、新聞を読む。
 朝日新聞朝刊の一面、衝撃的な見出しが目に飛び込んできた。
『2200万人津波リスク大 人口の2割 標高5メートル未満で生活』
 名古屋大学の大調査とある。

 我が家は、標高5メートルにあると知ったのは、最近のことだった。
 3・11を経験するまで、東京湾から離れていることもあって、自宅の標高に関心を持ったことはなかった。
 意識とはそんなものだ。
 で、この図をみると、東京が343万人、次いで大阪が306万人、愛知が174万人、千葉が144万人。つまり太平洋岸の大都市が100万人を超えていることが一目瞭然だった。

 3月3日、夜、テレビを見る。
『NHKスペシャル “震災ビッグデータ” 3・11 あの日の全記録 人々はどう動いたか? 超渋滞はなぜ起きた? 防災の常識が変わる』
 いちばんの驚きは、地震直後、人々は高台に向かって逃げた。が、しばらくすると家族や友人や体の不自由な人を助けに、沿岸に向かって戻っている。そこで津波の被害にあった。そのことを個々人の動きをあらわす青く光る点と線の動きがはっきりと証明された。
 また、どの場所に多くの被災者が取り残されているのかも、データははっきり示している。そのデータを無念そうな表情で見る自衛隊員や消防活動を行う人々は、この状況があの時にわかれば、もっと多くの人を救えたかも知れない、と語る。
 注;ディレクターの言葉がありました。これもご参考に。

 東北大学、Twitter、Google日本法人、ホンダ(?)、等々からビッグデータが集められ、動きを表に重ねて行くことで、様々な人と車の動きが分単位で見られる。
 防災センターが中心になって、災害の状況を把握し、人と車の動き、取り残されている人々の数、とういったデータをバラバラな状態にせずに、一画面に集め解析することで新しい防災・減災の可能性が見えて来るといった内容だった。

 3月4日、朝、新聞を読む。
 日経新聞朝刊、【法務】『ネット個人情報 米欧対立 保護とビジネス 両立探る 取得、消費者の同意必須 拒否なければ、収集自由』
 インターネットやスマートフォンのアプリを通して蓄積される膨大な個人データの活用を巡り、プライバシーにどう配慮すべきか、ということについて欧米が駆け引きを繰り広げている、という内容だ。
「米国流の弱いプライバシー規制を欧州で適応させようとしている」と名指しは避けたものの、グーグルやフェースブックといった米国産の企業を批判しているらしい。

 ネット通販履歴、サイト閲覧履歴、位置情報、通話履歴、電話帳データ、SNS利用履歴、つぶやき、アプリ利用履歴、ポイント履歴、動画・写真履歴、それらが個人に関わるデータの区分けである。
 大まかにわけて、「個人が分かる情報」「プライバシー」「ライフフログ(個人行動記録)」の三つになる表が添付されている。
 犯罪捜査、災害救助の場合。ビジネスの場合。政治的な活用。さまざまなところで解釈に大きなズレが生じる。統一ルールが必要といわれても、国情によっても、国の習慣によっても、厳しさと緩さの境界線は、微妙に揺れる筈だ。
 翻って日本では、【欧州ではプライバシーの権利を法律で明示しているのに対して、日本での定義は明確ではない】と添えられている、とワンポイントにあった。
 大学では個人情報保護法が言われた当初でこそ、縛りがきつくなっった。しかし、次第に緩みはじめているような感じもしないでもない。それでも『プライバシー権は、他人から詮索されないという憲法の幸福追求権に基づくとされる』らしいが、最近では自分でコントロールできる権利という考えも有力になっているそうだ。

 自分の問題に引きつけてみると、個人の力はとっても無力。いつの間にか自分で発信している情報が流れていて、サイバー空間でどのような動きの乗っているのかは、まったく見当はつかない。情報垂れ流し状態で、毎日の暮らしを営んでいるとしか言いようがない。

 インターネットサイト、スマートフォンのアプリ、カーナビゲーション、Facebook、Twitter、Blog、YouTube、Ystreamといったツールを全く使わない日はない、という人の部類に私も入ってしまった。たかだか数年の間に、複雑に絡まって深化しつつ私の日常に入り込んでいる。
 これらは営利企業が作り上げたもので、無料提供されているものが殆どだ。それを使わせてもらっている以上は、内容をどのように利用活用されても文句はいえないのではないか。
 プライバシーを完全に保護したければ、使わないこと!しかない。
 しかし、一度、知った便利さを手放すことには相当な覚悟がいる。

 NHKスペシャル“震災ビッグデータ”でも、冒頭に各企業の名前を挙げてそこから集っている個人名もテロップで流していた。以前の公共放送NHKではありえない。社会的貢献度の高いツールとビジネスツールは同じ箱の中に入っているだけでなく、異なる業種のデータを一つにまとめ解析した時、あらたな「価値」が創出されることを証明した。

 個人データは中身によって、法律で守るべきものもあれば自由に取得しても差し支えないものもあって、具体的なルール整備には、「厳密な議論が必要になる」と総務省が言っているそうだ。
 非常に難しい。議論をしているうちに、現状はどんどん進化して、地球規模で利用されていく。
 ビジネスと個人の権利の両立、災害や防災といった社会に役立つ個人の情報、全てが重なりあって混じりあって、法整備など追いつかないだろう、ということは素人の私でも予想がつく。
 ここは「速さ」という時間との勝負となる。

「個人とは何か」
 これまでとは違った次元に、船出してしまった21世紀に生きている。
 自分自身もあらゆる局面で、異なった対応を以前に増して、次々、行っているような気がする。
 少なくとも、マスメディアの報道だけでなく、個人が発するバラバラな情報を無意識に吸収していて、それが蓄積されて新しい価値観をいつの間にか培っている。その結果、日常の幅が広がったように思える。ただし、この広がりは靴底をすり減らして得られていることではない、と肝に銘じておかなければ、非常に危ういことだけは確かだ。
 昨日から今朝にかけて得たバラバラな情報を、まず、私自身のなかで整理する以前の行動として、ブログを活用させてもらった。書くことで分からないこと、考えが及ばないこと、限界と可能性が見えてくるから。
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お知らせ!特集「江戸小玩具」

2013年03月01日 12時19分28秒 | Weblog
 江戸独楽作家・福島保さんが、3月4日(月)11時05分からのNHK『いっと6けん』に出演されます。
 さきほどこの番組の予告で、独楽をつくるシーンで横顔がちらっとみえていました。
 さっそくご本人に、確認の携帯電話をかけました。
「えぇ、僕です。アルジェリア事件の記者会見と国会中継で、二回、流れています。月曜日、そうなんですか?」
 どこかお出かけ中の気配が、周りの音から感じられます。
「三度目の正直ですね。楽しみにしてまーす」
 
 浅草の江戸小玩具店主の方といっしょに紹介されるとか。
 放送時間は11時20分頃でしょうか。
 野口三千三先生ゆかりの方のご出演です。
「先生がご存命なら、さぞお喜びで、しっかりご覧になるでしょうね!」
 言う間もなく、一応、電話をきった。
 
 番組の冒頭から見たいので、さっそっくカレンダーに書き込みをしました。
 皆様、ぜひ、ご覧ください。
 
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