羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

「夕鶴」そして『原初生命体としての人間』

2006年11月30日 07時40分57秒 | Weblog
 晩秋、霜月も今日が晦日。
 
 今朝、朝日新聞の一面にある木下順二さんが亡くなった記事に目が止まった。
 しばらく動くことができなかった。
 木下さんは、野口三千三先生と同い年の大正三年(1914)生まれだ。
 すでに10月30日に亡くなっておられた。享年92歳。
 戦後、演出家の岡倉士朗・女優の山本安英・劇作家の木下順二の三氏は、野口三千三先生が新劇団にかかわっていくなかで、深く影響を受けた方々だった。
 この方々との出会いがなかったら、野口体操が豊かな言葉の世界を持つことは難しかった。「からだ・うごき・ことば」これらが一体となって、日本の文化だと称される「野口体操」が生まれたその源流には、三氏との出会いがあってこそ。
 
 新聞を読みながら、からだのなかから何か落ちていくものを感じていた。
 無理に言葉にしてみれば「第一幕がおりた」とでもいう感慨だった。
 僭越ながら、野口三千三先生の戦後が、ようやく終わったのかもしれない、と私は思う。
 30面:文化欄には、演劇評論家の扇田昭彦氏が「評伝」として追悼文を載せておられる。39面:社会面にも関連記事がある。

 野口三千三先生の処女作『原初生命体としての人間』は、この三氏への共感と抵抗と、もっと言えば野口三千三ひとりがそれまで異なる文化圏に生きてきたことへの忸怩たる思い、忸怩たる思いをバネに、忸怩たる思いを超えて「野武士」として独り生き抜こうというエネルギーを潜めた書だと、私は読んでいる。
 そうした読みをしてみると、出会いこそが、新しい文化を生む原動力となることをつくづくと思う。
『意識は、障碍(しょうがい)によって生まれる』という野口先生の言葉だが、「意識」を「ことば」に置き換えてみると、その真意が汲み取れるはず。
 
 時は流れる。
 人はいつか冥界に旅立つ。
 ご冥福をお祈りいたします。
 合掌
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ケーチューって知ってる?

2006年11月29日 20時21分05秒 | Weblog
 もうお分かりですよね。
「携帯電話中毒」を「ケーチュー」と名付けたのは、椙山女子学園大学人間関係学部教授(言語学)加藤主税さん。
 本日、11月29日日付け:日経新聞夕刊「おじさんは怒ってるぞ」の記事にあった言葉である。
 ニコチンやアルコール中毒と同じだと看做す。 
 記事を読みすすむと、二十歳未満で、自由に使えるお金に占める携帯電話料金の割合は、四割に達するそうだ。
 一日五十通以上のメールを受信する人が二十代未満で約六割もいるという。そして、返事はすぐ出さなくてはいけないらしい。

 以前、携帯を持たない暮らしをしていたころは、電車のなかで、話をしたり携帯電話画面を一心不乱に見ている人を見かけると、「なんてこった」と内心穏やかでなかった。
 ところが私自身、電車から写真や動画をブログに送ってみたり、撮った写真や動画を選別する作業を行ったりしてしまう。
 なぜ、人の脳は中症状を起こすのだろう。
 
 自分に振り返ってみると、まず日記は、続かなかった。せいぜい一週間つけられればよい方だ。ところがブログは、毎日書き続けた。去年の八月八日からだから、一年四ヶ月に迫っている。読んでくれる人がいることが、大きい。
 
 それ以前に、手書きだと文章がつづれなくなったのは、いつのころからだったかと思い起こしてみる。
 1988年を境に、手書きからワープロに変わった。しばらくは手書き原稿を書いてから、それを打ち出していた。あいまいな記憶だが、3年もするうちには、ローマ字打ちにすっかり慣れて、ワープロなしでは立ち行かなくなった。

 最近では手書きもしたいと意識的にやってみるのだが、ほとんど無駄な努力である。
 こうしてキーボードに向かうことは、ピアノを弾く延長線上のことだった。楽譜が画面に変わった。与えられた曲ではなく、自分が作曲をするのと同様な感覚で、文章を打ち出している。
 キーボードを押す指は、ピアノの鍵盤を打つのとあまり隔たりはないようだ。
 華麗な指さばきといかないが、かなりのスピードで打っていく。浮かぶ言葉のテンポと打つ速度は一致している。むしろ打つ速度に言葉が浮かぶ速度が一致したという方が正確かもしれない。

 さて、「親指ピアノ」という民族楽器があるのをご存知の方は思い出していただきたい。
 反響版のついた箱に、金属の細い板が長さがまちまちの状態で一部分が止められていて、それを親指で弾くとメロディーを奏でることができる。西洋の十二音平均率の「ドレミ」でもいいわけ。しかし民俗音楽の音階に並べられば、その民族のメロディーになってくる。
 携帯電話のメール打ちは、まったく「親指ピアノ」と同様の技法なのだ。

 私自身、最初は戸惑ったが、今ではすっかり慣れてしまった。
 パソコンより楽な点もある。
 たとえば「の」と押せば最初に「野口」と出る。「た」と打てば「体操」と最初に出る。二回ずつの作業で「野口体操」と打てるのだ。確かにパソコンも短縮設定をしておけば「の」で「野口体操」というのも可能だが。いつもそうするわけにはいかない。

 1988年当時のワープロが懐かしい。熟語変換がままならず、「野口体操」と打つだけでも「の」「くち」「からだ」「みさお」と入力したのだから。十年一昔というだけあって、二昔前のお話である。その年に生まれた子が、大学生なのだ。

 最後にもう一度新聞記事から。
 モバイル社会研究所企画担当・荻原徹太郎さんは、次のように語る。
「携帯電話への依存が強い人を調査すると、多くが人生に孤独感や退屈さを感じていた。ただ以外に生活には満足している」と。
 なんかわかるような気がする。

 *******

 私が子供のころ、市外電話は交換台を通していたように思う。昭和20年代後半から30年代初めだっただろうか。えっ、そんなことはない?
 でもねぇ~、そう簡単に通じなかった。新宿の我が家から、祖父母が住む調布局京王多摩川に電話をかけるときのおぼろげな記憶なのだけれど。
 すでに半世紀以上を生きた自分に、オ・ド・ロ・キ! を携帯から受けたというお話。
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恩師を偲ぶ

2006年11月28日 19時38分21秒 | Weblog
 今週に入って、「喪中につき……」という葉書きが、何通も郵送されている。
 今のところいただくお知らせは、皆さん80歳以上高齢の方々である。
 そのなかで、野口三千三先生の小学校時代の教え子の方が亡くなられた。
 奥様からのお知らせだった。
 享年83歳。天寿を全うされたということだった。
 最初の教え子さんなので、野口先生と年齢差はあまりない。
 実は、野口先生が亡くなられたあと、お手紙を頂戴し、その折に、一度だけ電話でお話をしたことがあった。
「年も近かったので、先生というより、兄貴って感じでした」と言う言葉が今でも耳に残っている。
 それからお年賀状のやり取りがずっと続いていた。

 野口体操公式ホームページ「のnet通信」を下までスクロールし、№5、「恩師を偲ぶ」一三会事務局 1998年7月 の手紙を改めて読ませていただいた。
 伊倉貞男氏から寄せられたお手紙である。胸に迫るものがある。
 この手紙を読むと若き日の先生の姿が目に浮かぶ。
「野口体操の原点は、すでにあった」
 そう思える。
 こうしてお手紙が残されたこと、貴重なことだと感謝し、ご冥福をお祈りいたします。
 合掌。

 ぜひ、伊倉さんからの手紙をお読みいただきたい。

「野口三千三授業記録の会」がやっておかなければならないことのひとつが、鮮明になったような気がしている。
 あの方にも、この方にも、お話を伺っておかなければ! と、指を折っている。

 野口先生が亡くなって、来年の三月で満9年である。
 ここまでブログを書きすすんで、ふと、手を休め天井を見上げた。

 溜め息。。。。。。。。。。鼻呼吸。。。。。。。。ふーーっ!

 
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新宿住友ビルに猫がいた

2006年11月27日 07時48分44秒 | Weblog
この猫、文明狂年生まれだそうだ。
いやはや、昨日のブログの写真もそうだが、今まで気がつかなかったもの、忘れていたものを、写真を載せるようになってから、気づくことが多くなった。

老舗の高層ビルをバックに、堂々と立っている猫にはじめて気づいた。
いったいいつから、ここにおわすのか?
かれこれ30年通っていて、恋の願いがかなう社があることは気づいていたが、ごめん! 猫殿には気づかなんだ。

さて、今日は、これから東海道線で、茅ヶ崎までお出かけ。このところ毎週のように、東海道線や湘南新宿ラインが遅延。人身事故のあおりだ。
授業も、11月最後になった。ようやく峠を越えて、12月にはテストということにあいなります。
怒涛のような9月末から11月が過ぎると、ちょっとばかり気持ちが楽になる。

話が飛んでしまった。
話したかったことは、写真を撮ることで、何気なく見過ごしていた身近なところにあるものに気づくようになったこと。

自分でも認める。写真や動画+ブログ文章書きは好きだ。
あくまでも皆さんの支持が得られるとか得られないとか、視(聴)率が高くなるとかならないとかは、別にしてのお話ですが!!!!?????
そんなことを言うのだから。多少は気にしているのかな。
846という数字を見たときには、正直、嬉しかった。
もっとユーモアのある文章も書きたいなぁ、なんて思ったりして。
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ねじめ正一氏 ご尊父縁りの品一つ~雑談

2006年11月26日 18時43分40秒 | Weblog
今日の写真は、詩人で作家のねじめ正一さんのお父上から、譲っていただいた南部鉄の蝋燭立てである。鴨居にかけることも、台に乗せることもできる。
40数年はたっている代物である。

味のある魅力的な方だった。ご母堂は、乾物屋を一手に引き受けて、商店のおかみさんとして鏡のような方だった。このことは、ねじめさんも本に書かれている。
肝っ玉のふとい、あたりの柔らかい、気がよく回り、心遣いの行き届いた、上げたら切がない。しっかり支えられて、お父上は、好きな趣味にいきられた。

子供ながらにご夫婦の絶妙な取り合わせに、神様の采配として拍手を贈りたいとおもっていた。小学校のころの思い出である。

さて、いくつか雑談。
このブログのトラックバックを止めたのは、迷惑なものがドドドッと入るようになったからだ。携帯で写真や動画を送ると、その後、すぐに入ってきた。しばらく、止めさせていただくことにした。

今日になって気がついたこと。
携帯のカメラには、高画質撮影切り替えがついていた。昨日、佐治さんが、高画質で取っておられた。そこで、調べてみた。なんとついているではありませんか。そりゃそうですよね。この競争の激しいときに、ない筈がない。
次回、土曜日にテスト撮りをしてみたいとおもっている。

ところで、野口体操動画シリーズをやってみて、感じたことがある。
パソコンも固定電話も簡易なカメラも使う人はますます減っていくだろうということ。だって、携帯にはいい機能がついて、便利だし、コンパクトなのが、嬉しい。

57歳にして携帯とブログにはまってしまった。乗せられてしまった!
なにせ、野口体操を伝えるのに、この携帯+ブログは、なかなかのツールだと実感している。

「携帯ウェブ2・0」の幕は切って落とされた。
これからどんな進化をとげていくのだろう?
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野口体操・逆立しゃがみ姿勢から(テスト動画)

2006年11月25日 19時39分40秒 | Weblog
新しい動画ブログに、載せる映像のテスト動画は、しゃがんでいるところから逆立ちするのを撮影。
野口体操の逆立ちは、け上げたり・力で無理矢理立つことはしない。
これほど低い位置にいても、逆立ちが楽にできるのは、手をつく位置とひねられたものが解けることが大きな要素だといえる。
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素晴らしき ラジオ体操

2006年11月24日 16時11分58秒 | Weblog
 昨日のブログに書いた本をあらためてご紹介。
 書名は『素晴らしき ラジオ体操』高橋秀実著 小学館文庫 
 552 Yたー12

 この本は、1998年出版で、2002年に文庫化されているようだ。
 とにかく笑っちゃう。
 そして哀しき日本人の性に、思わず腕組みするというわけ。
  
 あの音楽を聞くと自然にからだが反応する日本人が多い。
 著者もその一人であることを認めている。
 「ラジオ体操」、たかだか78年(昭和3年)ほどの歴史の中で、日本人のからだに染みこんでいく経緯と歴史、そして現在までが、大真面目に書かれている。調査も綿密になされている本なのだ。
 その大真面目さが、まさに、ラジオ体操であり、可笑しみの源である。
 
 とにかくアメリカの生命保険会社が始めたラジオ体操をもとに、日本の簡易保険局が動き、周辺には「ヨイサ」なる不可思議な国民運動があり、さらにその元として禊が存在し、と摩訶不思議な戦前のラジオ体操の歴史が語られていく。

 敗戦後、占領軍GHQとの駆け引きは、戦後民主主義の仮面をかぶせて上首尾にいった。ここに、戦後のラジオ体操が復活するのである。

 ●号令なしで、自発的に
 ●やっていると愉快になり 
 ●思わずアメリカ気分になってしまう

 コンセプトだそうな。

 戦前の胡散臭さが消えて、なんとなく「科学的体操」に思い込まされ、夏休みには眠い目をこすりながら体操会場に足を運び、だらしなく体操してもハンをもらうころには、眠気も醒めて結構「いい気持ち」になる体験を、戦後生まれの日本人もしている。
 
 さて、この著書の中から、特筆したい興味深い記述をご紹介しよう。
「今迄行われてきた体操が、唯力一杯元気を出してやると云った形式をとってゐて、然も其の体操たるや、実に殺風景なものであった。中略。私は今度考案する体操の形に、少しハイカラな所を取り入れ、唯元気一杯やるのではなく、逆に力を抜かしてその結果力が這入る様な体操を考案しやうと思ったのである」
(『ラヂオ体操を語る』簡易保険局、昭和10年)
 
 当時、硬直した家元制度のような体操界にあって、こう語るのは大谷武一(当時・文部省所轄体育研究所技師)だった。
 インターネットで大谷武一氏の経歴を調べると、体育の父と称されている。
 野口三千三先生が、戦争末期「官立・東京体育専門学校」に、高等師範出身でないにもかかわらず、助教授として迎えられた時の「東京体育専門学校」の校長であったのだ。
 前述の言葉に、「フムフム」「ニヤニヤ」。
 ぜひ、ご一読をいただきたい。
 
 末筆ながら、本を贈ってくださった近藤早利さんにお礼を申し上げます。
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爽やかな朝~水を打った飛石

2006年11月23日 07時47分09秒 | Weblog
「撫明亭日乗」という名のブログあり。
私の野口体操教室に通っておられる弁護士さんのブログである。
いろいろお世話にもなっている。
今朝は、そのブログをまねて書いてみようと思い立つ。

オフ日の一日 ー11月22日水曜日ー

4時半過ぎ、起床。パソコンを立ち上げ30~40通の迷惑メールを削除しつつ、大切なものを救い出す。因みに、一日の迷惑メール数は100通を越える。
5時過ぎ、朝刊を読んだ後、朝食の準備。
6時、朝食。味噌汁にご飯+アルファ。テレ朝「やじうま」を見ながら。
6時半過ぎから、念入りに掃除。約2時間ほど。最後に、盆栽に水遣り、玄関先にも水を打つ。23日の来客に備えて、床の間に掛け軸をかける。
8時過ぎに軽く体操の後、メールに返事を書く。手紙書き。
10時過ぎ、銀行・郵便局まわり。年賀はがきを買う。
11時過ぎ、昼食。おにぎり+先日「四十九日法要」無事終了の報告にいらした親戚からもらった季節外れの大きな梨と柿を食す。

12時過ぎ、年賀はがき印刷を注文に行く。来年の干支が「いのしし」で、図柄に迷う。あまりにもケバケバシい色合いに辟易。その中から選ぶしかない。お上さんの実母・94歳が、食欲がないので入院させたという話から、老後問題を語り合う。
一度帰宅して、買い物に。
1時半過ぎ、常備菜を2・3種つくる。里芋が旬。料理の後、写真だけ送ってあったブログに文章を添える。
3時過ぎ、同人からの戴き物の銀座ウエストの「ダーク・フルーツ・ケーキ」でお茶。アルコールが効いていて、ポーっとなる。母が、朝日新聞にスーパーのタイムサービスが載っていると言い出して、ドキッとした。一瞬の気の迷いだったらしいが、斑ボケの始まりかと! 内心驚く私。
4時過ぎ、「イワヒバ」をもって花屋へ、冬ごもりに入ったのかどうかを見てもらう。若い女性店主は、明日、調べて電話をくれるという。「水遣り」をどうするのかが問題だった。先日、神保町「古本まつり」で手に入れた「イワヒバ」の本を持参する。彼女も非常に迷う。小一時間話し込む。
6時、夕食。
7時、野口三千三の思想と価値観をテーマにしたある女性研究者の学術小論文を読む。月曜日に東海道線内で、さっと目を通してあったが、さらに読み込む。なんとこういうのを校閲というらしい。
戦時中の「東京体育専門学校」の問題にぶち当たる。このことは、改めて調べる必要性を感じたが、戦時中のことはタブーが多そうだ。
その関連で、「撫明亭」のご亭主から戴いてあった『素晴らしき ラジオ体操』高橋秀実著小学館文庫552も、もう一度読み返す。
その後、インターネットでコートのバーゲンを調べる。先日読んだ日経新聞記事に、今年は11月が暖かく、コートの売れ行きが鈍いので、はやめにバーゲンセールがあるだろうという予測があったことを思い出したから。案の定、あった! 

9時過ぎ、軽く体操のあと、ゆっくりお風呂に入って、10時過ぎ、就寝。



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野口体操・鰐腕立おまけ動画

2006年11月22日 13時43分55秒 | Weblog
「海猿」を毎週テレビで見ながら、印象に残ったいいシーンがたくさんあった。
彼らの肉体訓練は、人命救助のためと、救助する自分の命を守るためでもあった。
この「海猿」では、訓練のシーンが効果的に使われていた。

「海猿」もそうだったのだが、世間一般にも「鍛える」といえば、「腕立て伏せ」や「懸垂」だと相場は決まっている。
ところがそれを超えて、すごい動きが野口体操には存在する。
それは、「鰐腕立て」である。
動画を見ていただくとお分かりのように、鰐のような腕の構え、つまり左右の肘が肩からまっすぐに横に張り出し位置を保ちつつまっすぐに伸びているかどうかをまず確認する。指先は外側に向く、右手右は、左手は左に向ける。

そしてその次の条件が難儀なのだ。
地面(床)からほんのわずかからだ全体を浮かせる。この状態を「鰐腕立て」という。
次に、その状態を保ったまま、できるだけ低く前進する。これを「鰐腕立てバウンド」と名付けた。

この映像は、映す人も床に伏せている。
地を這う動きは、かなりの筋力を必要とする。

ご注意申し上げる。
不用意に真似なさらないで!
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記録を残すということ

2006年11月21日 14時23分32秒 | Weblog
 
 今日は、朝日カルチャーセンター火曜日のレッスンだった。
 思いがけず、大演説をしてしまった。
 何の話かというと、野口三千三先生の記録を残すことの意味について。
 かなり熱く語った。
 
 実は野口三千三先生が亡くなる10年前に、「野口三千三授業記録の会」を立ち上げて、ビデオを中心とした記録を残してきた。
 没後は、そうした記録を埋もれさせないためにも、社会的にある程度認知されなければ、残した意味がないと考えて、活動を続けてきた。

 たまたま今期、ドイツから一時帰国されていたピアニストの女性が、このクラスに参加され、今日が最後の参加可能な日ということも手伝って、野口体操の本質的な意味を時間をかけてお伝えした。彼女は、その点をよく理解されておられたようだ。

 ところで、「世界広しといえども、野口体操のような世界は見当たらない」と、指摘されたのは鴻上尚史氏だった。イギリスでの体験や、ヨーロッパの状況をみても、野口体操のようなものは少ないという。

 ドイツから一時帰国のこの方も、ドイツで研究している「音楽家にとっての身体」に、野口体操と共感できるところが多々あることを話されておられた。
 単にオリエンタルなもの・エキゾチックなもの・東洋的な神秘ではなく、本質的な興味が、野口体操に向けられるだろうというご指摘も受けた。

 とリアわけ『DVDブック アーカイブス野口体操ー野口三千三+養老孟司』は、ドイツに持っていっても、十分に通用する内容だというニュアンスの表情をなさっておられた。

 正直言って、昨日のブログ「おくのほそ道」に書いた多神教の世界観を持つ野口体操が、ヨーロッパの国々にどのような理解が可能なのだろうかと、ふと、思ってしまった。それだけに興味は尽きない。

 これからの課題をいただいた今日のレッスンだったが、全体を通して、聞いてくださる方々の真剣なまなざしを見出して、次第に熱を帯びる自分を感じていた。
 これからだ! という気持ちが強くなってきた。簡単に結論付けるのは、まだまだ危険であるが、これなら若い方々を引き入れてもいいのかしら、と少し思ったりもする。実際は難しいことを承知しているのだが。
 いずれにしても「身体」や「身体論」を取り巻く状況が、世界的に流動化しているのを、最近、頓に感じるようなった。それは私にもたらされる情報によるところが大きい。

 さて、今日の写真は、大学のチャペルの窓。
 濃い茶色い太く大きな木の梁がいくつもむき出しになっていて、白い漆喰の壁が梁と梁の間にある古いチャペルは、東京の建築物として残しいきたいものの一つである。
(ものを残すのも大変だが、形として残らず瞬時に消えるからだの動きや、野口先生がなさったような授業、体操を残すことも、いずれも大変なことだ)
 
 チャペルに座して、何かよい方法はないものか、と考えをめぐらせることがある。
 ところが、窓から差し込む太陽の光に、意識が遠のく。
 あくせくしてもはじまらない……と、一息入れる。

 実は、この界隈、江戸川乱歩の蔵のある家があり、自由学園の「明日館」もあり、そのほかにも由緒ある古い建物がいくつも残っている。東京の雑踏にあって、捨てがたい情趣を醸し出してくれている。
 空襲で焼けなかったことが幸いなのだ。一度、破壊されれば、二度とつくることはできない。否、形は再現できたとしても、建物にまつわる「時間」は戻らないのだ。
 
 文化とは、生半なことではない、と、身にしみる昨今である。
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おくのほそ道

2006年11月20日 07時23分38秒 | Weblog
 
 蚕飼(こが)ひする人は古代(こだい)の姿かな 曾良

 いま、蚕の世話をしている人たちの素朴な姿は、古代の習俗もこんなふうであったろうかと、昔を偲ばせることである。
 
 この現代語訳は、『松尾芭蕉 おくのほそ道』DVD全文、全発句 字幕スーパー入り 朗読・幸田弘子 発売元・株式会社ジェー・ピー
 その解説書・堀切実氏による。

 実は、昨日の朝日カルチャー日曜講座のレッスンで、思い出せなかった句がこれである。
 野口三千三先生の生まれ育った群馬県の村は、養蚕農家が集まったところだった。大正3年生まれとはいえ、その村で行われていた「養蚕」は、中国で絹織物が生まれて日本に絹製品と作り方が伝わってから、おそらく変わりない伝統が残っているはず。
 このことは、養蚕技術だけの伝統ではなく、江戸期にまでつながる古代からの習俗・風習が村の暮らしにはあったはずだ、というような話をした。 
 そのときに脳裏を一瞬掠めたのが、この曾良の句だった。

 芭蕉は寛永二十一年(1644)に生まれ、元禄七年(1694)没。寛永の将軍は家光。元禄の将軍は綱吉。
 この時代に、すでに「養蚕」は、古代の風俗として句に詠まれているところに面白さを感じた。「なるほど」と思うのである。
 野口三千三先生が、「甲骨文字」にのめりこまれた一因が、養蚕農家の集落に生まれ育った、幼き日々の体験が、大きくかかわっているのだと思えるのだった。

 一神教の世界観や価値観ではなく、日本に脈々と流れている「アニミズム」多神教的な宇宙観が、先生の体内で血や肉となっていてもおかしくはない。
 白川静氏への共感は、筋金入りのものだったに違いない。
『原初生命体としての人間』も、その視点から読み込んでみることも大切な「読み」であることを話した昨日のレッスンだった。

 今日の写真は、「江東区芭蕉記念館」の庭の石組み。
 
 月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり

 元禄二年陰暦三月、深川の草庵を弟子曾良をともなって発った芭蕉「おくのほそ道発端」である。
 
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真白き富士の峰~落葉樹への思い

2006年11月19日 08時55分53秒 | Weblog
 11月16日のブログに載せた写真に写っていた塔から、カメラを左に移動したところ。向かい側の建物の三階から写したもの。
 そのとき、真正面に雪をかぶった富士山が見えた。
 そこでシャッターを押したものの、写ったものをみると、青い空の中に富士は消えてしまった。空も富士も、すべてが真っ白な世界に。
 でも、よーく見るとなんとなく白い山形の幻を見ることができる。 それが富士。
 建物の前には何種類かの落葉樹が植わっていて、それぞれ異なった紅葉の色を見せてくれる。

 谷間に建てられている大学の校舎群は、晩秋がことに美しい。
 映画の舞台にしたらいいといつもおもっているのだが。たとえば「情熱と冷静の間」ちょっと逆だったかな「冷静と情熱の間」だったかしら?
 とにかく若者の恋を描く舞台としてはいいロケーションが何箇所もある。

 映画にも演劇にも、虚構ゆえに描き出せる真実があって、そこが好きなのね。
「科学的事実を積み上げても、真実は描き出せない」
 虚実皮膜とは、昔からよく言ったものだ。
 
「私だったらどんなシナリオを書こうかな」
 こうした思いを抱く楽しみも、たとえ一行も書けないにしても、人生を豊かに彩ってしてくれるような気がしてならない。

 はらはらと散る落葉に、思いを寄せるのは、象徴詩の詩人たちばかりではないのよね、……私だって……。
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パケット料金見直し

2006年11月18日 07時21分03秒 | Weblog
 動画を主としたブログを立ち上げるのにあたって、10月3日からいろいろな角度からテストしていたことは、このブログに書いた覚えがある。
 昨日は、パケット料金見直しで、近くのドコモショップに出かけた。
 慣れないことで、内心、ドキドキしていた。

「えー、一ヶ月、あの~、10月いっぱい、こんな使い方なんですが」
 ドコモからきた「事前案内書兼領収書」を持って、「請求内訳等詳細」を係りの女性に見せた。
「かっこいいですね。本を出版されて、ブログ上に動画や写真をおくられるなんて」
 その一言で、おばさんはご機嫌になる。単純なことこの上ない。
「では、プランを立て直して見ましょう」
 カチャ カチャ カチャ ……。
 なんとあっという間に答えがでる。

 動画や写真をブログ上に電送することで、どのくらい料金がかかるのかを、10月一ヶ月間、試してみた。これもこれから新しいブログを継続するにあって、資料のひとつだった。

 今までつけていて使わないオプションサービスを廃止したり、料金プランを変更したり、新しいパケットパックを設定して割引サービスを受けることにしたり、……、それでもたった10分もかからない。

 もっとはやく行けばよかった。
 ほっとして店を出た。
 これで安心して新しいブログ作成を楽しみことができそうだ。
 12月1日から、この料金プログラムに変更される。

 今日の写真は、「偲ぶ石の時計」と「猫の焼き物一輪挿し」。
 因みに、「偲ぶ石」は、「デンドライト」と呼ばれる。「デンドロ」というのは「樹状」という意味の接頭語で、樹木の枝が成長するようなフォルムを持つということ。この石は砂岩の小さな間隙に二酸化マンガン等々を含む熱水が浸潤して水分が蒸発した後に、二酸化マンガンが「樹状」に残ったもの。化石と間違われることがある。
 
 第二回目の「東京国際ミネラルフェア」で見つけた時計で、お気に入りの一品。
 野口三千三先生は、とりわけ「デンドライト」がお好きだった。で、私もいつのまにかデンドライトには目が利くようになっていた。  
 時計を手に入れて、会場の隅で先生に包みをほどき、ご覧にいれた。
 二人でその店に飛んでいったが、時すでに遅し。残っていた時計は売れてしまっていた。こうしたものはものは数に限りがある。
 そのとき野口先生が、ものすごく悔しがられた表情を今でもはっきり思い出す。
 
 それから17年、毎日、時を刻んでくれている。
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街にはクリスマスツリーが

2006年11月17日 12時22分33秒 | Weblog
 今朝は9時30分から、丸ビル・21世紀クラブでミーティング。
 7階ガラス越しに撮影した写真一枚。場所は丸ビル一階のホールである。
 
 今日は、コンサートがあるらしく、ピアノの調律をしているときに到着した。
 こうして演奏会前に行われるピアノの調律の音や、オーケストラのチューニングの音を聞くと、いまだにゾクッと感じるものがある。
 それは、演奏会の緊張感から来るのだろうか。
 これからはじまる音楽への期待だろうか。
 その音を聞いただけで胸騒ぎが起こって、それがまた快感なのである。
 そうした音を聞くと、音楽を受け入れる準備ができる。いつの頃、からだに刷り込まれた記憶なのだろう。はっきりした時期はわからない。
 
 しばし、ツリーのそばに立ったまま調律の音を聞き、飾られている赤い玉を見ていた。
 
 思えば子供のころのクリスマスは、ひどいものだった。昼間は、ケーキ屋の店先にクリスマスケーキが積みあがって、ジングルベルの音楽がガンガン鳴って、売らんかなの商売で騒然となる。
夜は、酔っ払いがこれまたジングルベルを大声で歌いながら、街を練り歩く。
 日本がエコノミックアニマルと呼ばれるようになる幕開けの時期だった。

 それに比べれば、現代のクリスマスの様相は変わった。
 クリスマスツリーのセンスがよくなっただけでも、街を散策する楽しみになっている。
 そのうちに池袋の大学にも飾られるだろう。
 正門を入ってすぐの前庭、大木となった対の木にイルミネーションがともされる。
 クリスマスに向かって、夕暮れから夜にキャンパスには、いい雰囲気がそこはかとなく漂ってくる。右手にあるチャペルでは、例年、クリスマスミサが行われる。

 以前、こんなことがあった。
 BSで世界のクリスマスミサが次々放送された。
 その放送を長時間録画してお届けしたことがある。
 エルサレム・バチカンはもとより、世界各国のミサが中継されるようになったときだった。なぜか野口先生は、クリスマスのミサが気に入られた。同じ形式の儀式でも、お国柄がはっきりと出るのも興味をそそられるひとつの理由のようだった。
 そういえばイギリスのダイアナ妃が亡くなったとき、葬儀の模様が中継された。その中継をご覧になって「僕もキリスト教でおくりだしてもらいたい」とおっしゃったことがあった。
 音楽があり歌があり詩の朗読がある。人々の祈りと音楽に見送られて教会堂を去っていく棺は、逆光に映し出されて美しかった記憶がある。その情景を思い浮かべると、野口先生の言葉も素直にうなずける。

 ミーティング前のひと時、ツリーを前に世界三大テノールが歌うクリスマスキャロルの歌声を思い出した。
 こんな気分を味わうのは久しぶりのことだ。 
 
 実は、この写真、乗り込んだ電車のなかで、早々にブログへ伝送している自分に苦笑!
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修道院~写譜の話

2006年11月16日 07時06分22秒 | Weblog
 ずっと書きたいと思っていたことがある。
  
 それは、去る11月7日日経新聞朝刊文化欄で読んだ記事のこと。
『音楽の流れが見える、手書きパート譜の美学「写譜速く正しく美しく」柳田達郎 写譜職人』

 私が学生だったころは、よく写譜をしたものだ。コピーがなかった時代である。だんだんにコピー機なるものが一般化して、図書館で借りた楽譜をコピーすることができるようになった。それでも今のコピー機とは雲泥の差があって、時間も料金もかかった。紙も分厚くて、きれいでない。読みにくい。

 思いおこせば、当時(昭和30年代後半から40年代)、音楽を学ぶものには、写譜ペンは必需品だった。
 で、今日の話だが、コンピューター入力の楽譜よりも、写譜職人の手になる楽譜は、コンピューター入力の楽譜よりも読みやすいという話。
 筆者の柳田さんは、バリトン歌手時代に、番組収録や楽曲録音で、現場でできたばかりの曲や有名曲の編曲版を演奏する際に、パート譜の手書きを使いながら、一見きれいなのに妙に演奏しにくい楽譜もあれば、見ただけで音楽が頭の中で流れ始めるような楽譜もあることに気づいた。
 それがきっかけとなって、1989年、とうとう写譜を請け負う会社に入門し、名人芸を身につけていくのである。基本は先輩の技を見て盗む世界だった。

 実際には、写譜ペンと三角定規だけで描くのだそうだ。しかし、いちばん大切なことは、音楽への造詣の深さもさることながら、作曲家と演奏家をつなげるアクティブな魂の揺れを描き出すことだと、この記事を読んだ。
 作曲家がぎりぎりに書き上げたスコア(総譜)を、パートに分けて写譜する仕事が、柳田さんの生計を成り立たせている。
「一つの音符一筆書き」だという。そして、二分音符と四分音符では、大きさを変えるとか、スコア全体を見渡して、音楽の流れを読み、パート譜の完成図を頭に描く作業が、全体の仕事の7割を占めるという。

 この記事には、具体的で細かいコツも書かれていたが、どれも「納得!」なのである。
 最近ではコンピューターに仕事を奪われて、写譜職人が減っているという。
 ヨーロッパには「カリグラフィー」という、美しく文字を描く芸術があるが、ここまでくると写譜も同様に一つの芸術の範疇に入れたくなる。しかし、どこまでも実用なのである。
 柳田さんは言う。
「写譜にはかけがいのない価値と独自の美学がある。これからも、いい演奏が生まれる喜びを糧に、日々の仕事に励みたい」
 こうした記事を読むと、胸が熱くなるのよね。

 ところで、今日の写真は、中世の修道院を模したレンガと瓦屋根の建物群からなる大学の風景から、塔のある空間を切り取ってみた。
 この建物群は谷間に咲く百合の花を思わせる。
 そこには、大量のコンピューターがそろっている教室があって、学生が日々機械と格闘しているのだ。なんといってもここには「情報学部」があるのだから。
 
 現代社会では、コンピューターは必修だ。しかし、日本から世界から消える「手仕事」、職人技を教える学校が、もっとあってもいいと思うこの頃である。
 実際のところ、それがなんになる? といわれるとグーの音もでないのだが。
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