羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

昨日のコメント「ヒキガエルと米」に……蛇足?

2008年05月31日 09時22分15秒 | Weblog
 Deoa ライヒさんから、昨日のブログにコメントをいただいた。
 野口庭に現れた蛙が、‘何蛙’なのかはわかりません。
 西巣鴨のそのあたりは、「下町の水辺もなく地面もみえない」と似たり寄ったりの地域です。
 ただ、近くには、小学校や中学校といった学校や東大の寮、路地には緑があり、樹木が植えられた都営住宅などがありました。
 いろいろな経路で、蛙のお出ましだったのかもしれません。
 最近、その周辺をたずね歩いたときには、さらに町の様相が変わっていました。

 さて、もうひとつの農業の問題は深刻ですね。
 対談のなかでも《昭和五十年の農業人口が1000万人で、現在が200万人》
《専業農家は30万戸で、あとの200万戸は兼業》という数字を、養老先生が挙げています。
 
 今回の対談でわかったのですが、養老先生が提唱されている「参勤交代」は、これほど農業人口が減っているのに、農水省の役人は減っていないということも問題にしていることでした。
‘パーキンソンの法則’、つまり、《イギリスの海軍省の軍艦の数は何分の一かに減っているのに、海軍省の役人の数は順調に増えている。役人の数は仕事の量に関係なしに年間0・何%の割で増える》というのがあるそうです。
 農水省はそのパーキンソンの法則になっている、という指摘です。

 そこで役所のシステムそのもののおかしさに気づくために、農水省の役人から‘参勤交代’を始めて農業体験してみるといい、ということをおっしゃるわけ。
 実際、都会ぐらしの人間がライヒさんがコメントされた‘石油を食べている’という実感を、どのくらい持てるのでしょうか。
 言われてみれば、なるほど! なのだけれど。
 
 そもそも自分の暮らしのなかで、一年間、交通だけでなく、食料品やその他生きるために必要なものやその流通に、どのくらいの石油代がかかっているのかは、「??????????」です。
 クエスチョンマークの向こうに、オイルマネーの象徴‘ドバイの風景’が蜃気楼のようにたち現れますね。

 話を一昨日、昨日へと戻すと、結局のところ、虫が生きられない状況をつくってしまったら人間も生きにくい都市化は、‘宇宙船のなかで生きているようなもの’。
 いなくなった虫からのメッセージを聞き取ろうということ。
 不在は‘存在の意味’を、逆照射して伝えているわけです。
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‘虫の知らせ’

2008年05月30日 09時07分54秒 | Weblog
 養老先生と石川さんの‘虫対談’によると、お二人とも自宅の庭に梅の木がおありなようで、養老庭は1月末に開花しハナアブがいたのが、今では何もないそうだ。一方、石川庭に梅は早咲きで、今年は1月5日に開花したとか。こちらも虫を一匹も見ないそうだ。さらに石川庭というか畑というか、そこではジガバチの姿を40年間見ていないらしい。
 昨日のブログ題名は、「中野は田舎だったといえば、それまでですけど、減り方が極端すぎます」と石川庭の様子を語っておられるところからいただいた。

 そこで思い出されるのは、野口三千三先生がお住まいだった西巣鴨の小さな庭には、毎年のこと蛙がやってきていた。
 ごく近いところにはオタマジャクシが生息できるようなことろはないそうだ。それでもやってきていた。庭に置かれた焼き物の蛙の傍に生きた蛙がいる風情は、それなりにオツなものだった。
 亡くなる数年前くらいまでのことだから1990年代初めまでだろう。
 それは都会の名残の蛙だったのか。今にして思うとジーンとくるものがある。

 この‘虫から見える世界’の対談には、「全世界の食料援助の三倍を日本人は食べ残している」とか「二酸化炭素が問題なら石油の販売量を落とすべきだ」とかこの島で維持できる人口は六、七〇〇〇万人がいいとこだ」とか、かなり過激な小見出しがついている。
 
 そして最後には、1901年にテキサスから急に石油が出て、1903年にフォード社が大衆車構想を打ち出し、自動車のエンジンを積んでライト兄弟が飛んだのも同じ年。
 つまり、20世紀はアメリカの世紀だと共に、石油の世紀だった。日本の戦争も石油がないからということで起こった。20世紀は石油に振り回された世紀だ、と、養老先生の言葉で締めくくられている。

 さて、先日、ガソリンの値段は170円という報道がなされているが、インタビューに答えている女性が「200円になりますよね!」と語っていたのが印象的だった。

 20世紀の石油文明終焉を‘虫の知らせ’で語りあった対談である。
 
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中野は田舎だった!?

2008年05月29日 09時54分49秒 | Weblog
 昭和二十四年に、新宿に生まれた私は、小学校3年生までその地で育った。
 新宿駅南口から西へ、初台方向へ歩いて2、3分、甲州街道を一本内側に入ったところに我が家があった。

 この家は終戦後に家の建坪の大きさ統制があったころ建てられたもので、その分庭が広く残されていた。
 夏の夜など縁側の戸は、開けたまま蚊帳を吊って寝ていたような気がする。その蚊帳に入るときは、蚊帳の裾をほんの少しだけ捲り上げて、団扇を仰ぎながら、蚊が入らないように、さっと忍び込まなければならなかった。
 蚊帳の中に敷かれた布団に横たわると、眠りにつくまでは母が添い寝して、団扇で風をおくってくれていた。時たま蚊がからだについたまま入ってしまうと、耳元に聞こえる蚊の飛ぶ音で、眼がさえてしまうことなどあったような気がする。
 しかし、蚊帳のなかでいつの間にか深い眠りに落ちていく気持ちよさは、今でも記憶の奥に畳み込まれているように思える。

 ある日、父の知り合いが、中央線の小金井に在住していて、連れて行かれた思い出がある。その日は父が運転する車ではなくて、電車に乗っていった。
 新宿駅から乗り込んで、西へ走る電車だ。いつもは東京駅方面に乗ることの方が多かった。なので、中野駅から先に行くということは、子どもながらに何だかすごく田舎に行くような気分になっていたことをはっきりと覚えているのだ。

 昭和二十年代最後の頃の記憶だと思う。
 当時、新宿までは、とりあえず東京だった。
 しかし、山手線の環状線から外側に出ることは、私の持っていた地図では、田舎なのだ。
 
 昨日のブログに書いた石川英輔さんは、昭和十五年(1940年)から中野の沼袋に住んでおられたという。
 実は、『原子力文化』5月号の対談ページには、昭和二十五年(1950年)二月撮影の中新井川(神田川の支流)の写真と、同じ場所を平成十八年(2006年)十一月に撮影したものの二枚が上下に掲載されている。
 
 この場所は中野区と練馬区の区境付近で、昭和二十五年当時は、今では信じがたいほど多くの昆虫がいたとキャプションがついている。
 細い川幅、左右に土手があり、小さな木の橋が架かっている。川の片側には雑木林の一部らしき樹木が写っている。冬なので落葉樹の樹形がはっきりと見ることが出来る。その向こうと、川をはさんでもう片側には、畑がどこまでも続いている風景が拡がっている。
 真冬の空っ風が吹き抜けて、相当な寒さを感じさせられる一枚の写真だ。

 平成十八年のものは、川の姿は消され、畦道は舗装されてその脇には家並みが続いている。川を挟んで双方にあった畦道は、なかった片方にも木が植えられ、十一月という季節では、落葉樹の葉は枝先にしっかりと残っている。
 そういった二枚の五十六年という時間の経過を経た定点観測の写真である。

 キャプションがつけられていなければ、同じ場所とは、到底わからない二枚の写真である。二枚目の写真は、まさに東京の変化を代表するもの、そのものを現している。
 この二枚を見た瞬間に、私が子供のころに抱いた新宿を西に出て、中野の田舎だ、という認識もあながち大間違いでなかったことを確認した。

 子供のころの新宿の家の庭には、相当な数の虫がいた。
 この地域が舗装道路になった後、それほど時間がかからずにトイレが水洗になった。それは幼稚園に上がって間近の頃だったから、昭和二十年代終わりごろだ。
 にもかかわらず、淀橋浄水場の周りにめぐらされている土手や、甲州街道を渡ったところにあった川(名前が定かではない)では、蛍狩りを楽しむことが出来たし、蛇さえも生息していた。
「今日は都心にお出かけ」という言葉も、聞いたような気がする。
 当時の我が家の都心は、丸の内、日比谷、東京駅周辺から有楽町、そして銀座を指していた。
 そのためか私の中では、未だに都心といえば、その地域だ。
 つまり、私の祖父母や両親たちの新宿は、四谷の大木戸から出た、甲州街道の宿駅なのである。
 ましてや中野は! ……。。。。。。。。……

      明日につづく
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毛虫・青虫・団子虫

2008年05月28日 19時01分14秒 | Weblog
 一昨年は、異常に毛虫が発生した。
 風に乗ってご近所中の木では、同じ種の毛虫がうじゃうじゃといて、時間とともに成長し大きくなり、それに反比例して葉っぱは原型を留めないほどに食べつくされていった。
 種類は異なっていたが、松の葉まで食べられてしまった。
 
 昨年も、かなり早い時期から秋口までの長い期間にわたって、毛虫や青虫の食欲は旺盛だった。
 我が家ではとりわけ、クチナシの葉を食い荒らされて、ほとんど丸坊主状態になってしまった。

 今年はどうなることかと様子を見ていたら、枯れることなく5月中旬にはしっかりと緑の葉が開きはじめていた。
 そこで、連日、朝な夕なに青虫がいるかどうかを目を凝らしているのだが、今のところまだ一匹も見かけない。
 食べるほどの葉に成長していないといえばいえるのだが、しかし毎年食べられる葉は、今くらいの若い葉っぱだ。

 ところで毎月送られてくる『原子力文化』5月号では、養老孟司先生と石川英輔さんが対談をしておられた。
 お題は「虫の眼から見た現代文明」。
 石川さんは中野区にお住まいで、庭で畑を耕し四季折々の野菜をつくっておられるという。
 そのような営みの中で感じることは「近年、虫が減ったこと」だそうだ。
「現代文明は虫が生きられないような状況をつくってしまった」と養老さんもおっしゃる。

 まだこれから梅雨になり、夏がくるのだから、青虫もこれからご登場になるのかもしれない。
 鉢植えの葉を食べられるのは困ったことだが、虫の一匹もいない初夏から夏は、困ったことの前兆なのかもしれない。
 人が住めない国土にしてはいけない、と、‘虫が発するメッセージ’をしっかり受け止めなければなるまいぞ!
 <国敗れて山河なし>では問題だ。
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これから後半戦

2008年05月27日 20時35分26秒 | Weblog
 今週で大学の授業もほぼ半分まで終わった。
 4月から始まって7月半ばまでの期間で、野口体操をまったく知らない学生たちに伝えるのに、5回~6回を終えると、まず一山超えたことになる。

 これから後半、6月いっぱいで、いくつかの問題を取り上げて、7月に入ると動きのおさらいやリポート指導で、ほとんど新しい問題は取り上げられない。
 それでも学生たちは「やっと野口体操の入り口に立ったところですね」と、感想を漏らしてくれる。

 今日は、気合を入れて‘姿勢’をテーマに、授業展開を試みた。
 ほとんど学生が姿勢が悪いと思い込んでいる。たかだか1コマの授業で、姿勢がよくなってくる。
 なぜ、猫背になってしまうか。
 では、どうしたらいい姿勢の感覚を育てることができるのか。
 若いということは、変化が著しく現れてくれる、ということなのだ。
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まずは早めの夏支度

2008年05月26日 19時35分21秒 | Weblog
 梅雨時には、すこし寒い日もあるが、今のうちに夏の支度を始めた。
 まずはそとまわりから。

 大正15年に建てられた蔵を残して、住まいの部分だけ新築し、そこでの生活をはじめて6月で満3年になる。
 二階の南側には2間の窓があるのだが、ここの簾を新しくかけかえた。
 木の柵を固定するために、鉄枠がはめてあって、それが邪魔をして四枚の簾の幅が上手くおさまらない。この簾は一年中、かっけぱなしにしておくので、簾と簾を結びつけ、さらに木枠や鉄枠にもくくりつけておく。正銅ワイヤーで留めていく作業が結構大変なのだ。こうしておくと台風が来ても取りはずす必要はない。
 さらに長さ調節をするために、簾の裾の巻き上げ作業もしなければならない。
 こうした作業だけでも一時間半はかかってしまった。
 ここ以外の場所は、楽々と吊るし換えができるので、最初に他をすませておいた。

 なんといっても窓の外側に簾を吊るし、内側にある障子を閉めると、夏の冷房も冬の暖房もよく効いてくれる。
 とりわけ夏の日差しを避けるには、簾がいちばんである。

 そのほか団扇を出して、それぞれの場所に備えつけた。
 今日の気温は高かったが、まだまだ五月のうちだ。
 時折、吹く風が心地よかった。
 本格的に暑くなる前にすませておくことが出来てよかった、と胸を撫で下ろしたのは、夕方も五時半を回っていた。

 午前中に、暖房器具もようやく納まる所に収まった。
 これで日本の夏を快適に過ごす段取りが、ほぼついたことになるのかな。
 忘れていることはないだろうか。
 まずは早めの夏支度に、一日が過ぎていった。
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本日は休日なり

2008年05月25日 19時17分48秒 | Weblog
 今日の新聞にも「後発薬」の記事が載っていた。
 黒柳徹子さんがテレビで腹話術を使って‘ジェネリック’と勇気を出して言いましょうと、宣伝している。
 トラックバックにも、アルバイト医師の方から、この件で投稿があった。
 問題は効き目や副作用といった点でもあるらしいことがわかってきた。

 繰り返しになるが、今回、私の場合は、風邪が長引いたとはいえ2週間と数日ですべての薬が切れて、それ以後一粒たりとも服用していない。
 それでも声が本当にいい状態にまで戻るには、まるまる5週間はかかった。
 ただし、多少無理して授業やレッスンで声を出していたこともある。
 しかし、よく振り返ってみると、2コマ続いている授業では、最初のコマではかすれがあっても、2コマ目には声が出てくるのだった。
 つまり、どこまでが無理なのか、使わなかったから出にくくなっていたのか、その判定は難しい。
 からだは使わなければ衰えるし、使いすぎれば過労になるし、丁度よく使うと機能が向上したり保持されたりすることは、誰でもが経験済みのことだと思う。
 いちばんむずかしいのは‘丁度よく使う感覚’を持つことのようだ。

 お蔭さまで、薬を止めてから、咳は出ないし鼻も詰まらないし、咽喉の痛みもすっかり取れている。
 今回はなかなかに手こずったけれど、ピタリと治った。
 4月19日から5月10日くらいまでは、一体なんだったのかと思うくらいだ。
「ここで、休養が必要ですよ」というからだからのメッセージだったのだと思っている。

 で、話を戻すと、ジェネリック医薬品だろうと、新薬だろうと、その時の状態にあわせてどちらを選ぶのか、素人が判断するのは難しい。
 
 さてさてそれにつれて思い出される年寄りの言葉ある。
「医者と寺の坊さんと弁護士さんとは日ごろから仲良くしておくほうがいい」
 なるほどね~、経験知は大したものだ。

 本日は休日なり。
 ちょっとお疲れ気味で、話が崩れた。
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半覚醒のなかの抵抗

2008年05月24日 09時26分26秒 | Weblog
  今朝方、一通り朝の片づけを終えて、二階の座敷に横たわった。
‘真の動き’を始めたのだが、いつの間にか手足を伸ばし顎を少し(15度くらい)あげて、息を吐き鼻から息を吸う呼吸法を始めた。
 
 畳の目にからだの重さが吸い込まれていく。
 ぽたり……ぽたり……、水が滴るように、落ちていく。

 そうなると呼吸を味わっているという意識は次第に失われていく。
 覚醒していた意識は、脳髄の奥深くに沈み込んでいくのだ。
 
 引き換えに潮騒の音が聞こえる。
 。。。。。<あぁ~、この音は、観音崎の音だ>。。。。。。

 あの入り江は遠浅だった。
 砂浜から近いところに岩場もあった。
 視界は比較的狭い。
 しかし、丁度潮目が変わるあたり。そのあたりは大型の船舶の航路になっているらしく、ゆったりと航行する船の姿が、真横から眺められて旅情をそそられる。
 
 その観音崎の燈台に、一度だけいったことがある。
 車を途中で乗り捨てて、徒歩で岬に向かう。
 その道々、雑草が生い茂るなかに‘豆の花’を見つけた。そのマメ科の花は、ちょっと触っただけでも、ほろほろ泣きながら散ってしまいそうな風情だった。
 
 軽い傾斜地を歩くからだの芯まで、太陽の光は届いていた。
 紫外線がどうの、UVカットをしなければならないなど、何も考えずに燦燦と降り注ぐ日差しを避けようともしなかった。

 静かだ。
 岩場に打ちつける波の音以外は、静かだ。
 いや、波の音だって五月蝿くはない。

 脳髄の奥から、昔、身体に刻まれた記憶が、じわあじわと表層に立ち現れた。
 私は、観音崎にいるのではなく、自宅の座敷にいるのだ、とわかっていても錯覚の海を漂う感覚を味わいながら朝の体操をする。軽く筋肉を伸ばす。
 部屋を通り抜ける風に、呼吸乗せてみる。

 いつの間にか、雲間から顔をのぞかせている太陽が、足先にまで届くのを捉える。
 ジワァ~ッと熱くなって、再び、意識は覚醒し始める。
 畳が一目ずつ私のからだの湿気と熱を吸い取ってくれるのも感じつつ……。

「今日は、土曜日だ。午後から、朝日カルチャーのレッスンが……」
 半覚醒状態のなかで、現実に引き戻されることに、少しだけ抵抗してみる快感!
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車中にて……

2008年05月23日 13時20分48秒 | Weblog
 先日、夕方のラッシュに程近い時間帯に、JR中央線に乗った。
 ターミナル駅で乗り込んだので、席が空いていて座ることが出来た。
 立っている人の数も、ほどほどで前の座席に座っている人がところどころ遮られるが、正面から一座席分右に寄った男性をはっきりと見ることが出来た。

 年齢は二十代半ばだろうか。いい形の鼻は顔の真ん中でしっかりと存在を示しいる。目は少々細めだったが、細すぎるというほどではない。口の形もまぁまぁよし。髪型は自然なウェーブがかかっていて、短くも長くもなくカットされていて顔立ちに合っていた。

 服装はといえば、真っ白なシャツのボタンを鳩尾から3、4センチ上くらいのところまで開けている。
 実は、最初に目に入ったのは、胸元だった。
 細い銀のネックレスを首元につけているが、余り目立たない。
 靴とカバンがグレー系で、おしゃれなデザインだった。二つが揃っているのではないが、この人の好みなんだろうなぁ~、と思えるステッチが両方に入っている。
 
 紙バサミから書類を出して読んでいる姿は、映画のワンシーンとして使えそうだ、なんて思っていると、誰かに見られている気配を感じたのか、こちらに視線を投げてきた。

 慌てた私は、彼の首当りからスーッと視線を上方にずらし、何気なく窓ガラスに目を移した。
 乗っていた電車は、最近といっても去年のことだが、新しくなった車両だった。
 窓は大きく広い。以前の車両とは違って、窓が開いているのを見たことがないので、開けられない窓かと心配していた。
 ところがガラスに赤い下向きの太めの矢印がついていて‘開く’という文字が目に入った。
「この窓は開けることが出来るのだ」
 はじめて気づいた。
 はじめて気づいたことはそれだけでない。
 更に目を左に移動すると、‘UVカットガラス’と書かれたダークグレーの文字を読み取ることが出来た。
「こんなところに、UVカットが必要なのかなぁ~。もしかしてこのガラスは、お高いんじゃないの」

 オバサン的発想をしている自分に気づいて、なんだか恥ずかしかった。
 恥ずかしいことでもないのに、そんな心の動きを前に座っている若い男性に読み取られたら、なんだか恥ずかしいと思える自分が重ねて恥ずかしかった。

 ただそれだけのことだけれど、新車両の電車に乗りつつ、思いもかけない心の模様を楽しんでしまった。
 高架上のホームに降り立つと、初夏を運ぶ風がふわりとからだを包んでくれた。
 やっぱりシャツのボタンはもうひとつ上までとめて欲しい、のだ。
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仔猫デビューなしの春

2008年05月22日 09時22分52秒 | Weblog
 5月の早朝は、カラスの鳴き声が響き渡る。時間は4時ちょっと過ぎ。 
 それからしばらくすると子スズメたちがチュンチュンと元気な鳴き声をあげる。
 すっかり日が昇ると、飼い猫は塀の上を首につけられた鈴を鳴らしながら、のそりのそりと歩いていく。
 野良猫も狭い道路を横切っている。
 近所で飼われている猫といっしょに、野良猫も朝ごはんにありつけることを知っているのだ。
 晴天に恵まれた今朝の情景。
  
 さて、今年の春は仔猫デビューがないようだ。
 昨年は二回ほど出産して、二匹ずつ仔猫を育てていた母猫は、一匹も連れ立っていない。もしかして、少し離れたところで育てていて、母猫だけが餌を食べにやってきているのだろうか。
 早春、お腹が大きかった姿を認めていたし、今ではすっかり細身になっているのだから、仔猫は生まれたはずなのだ。
 ただ、今年は長雨だった。台風も来ている。
「育たなかったのかしら」
 朝のゴミ出しの際に、猫好きなおばさんと猫談議に花を咲かせているのだが。

 なぜ、見かけないのか?
 人口調整ならぬ、仔猫調整なんてあるんだろうか。
 あるいは誰かが連れて行ったのか。
 そのほか悲しい現実を想像したりもする。
 生きものは難しい。増えすぎると困るのだが、仔猫が育たないのも寂しい。
 確かに野良猫の運命は厳しいのだ。

 今朝、家の前の道路の掃き掃をしていたら、煮干が1本落ちていた。
 見ると食べられた形跡はなかった。誰かが猫に与えた煮干に違いない。
 ほかにも我が家には鉢植え用に溜めている水を、猫たちが飲みに来ている気配はある。
 数年で猫の縄張りは変化していくのだろうか、とも思ったりする。
 毎年、猫可愛がりの子育てが繰り広げられていただけに、いったい野良猫社会に何が起こったのだろうと訝っている。
 で、その地域に暮らす半野良猫の数は増えていないのが、このあたりの実情であるようだ。
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懐かしい匂い

2008年05月21日 09時23分43秒 | Weblog
 昨日、午前中は大荒れの東京だったが、ことさらに影響を受けることもなく、無事に移動ができた。

 午後は、授業で大学の体育館へ移動。
 始まる前と終わってから、懐かしい匂いを嗅いだ。
 体育館は大きくて、なかには25メートルプールも完備している。
 プールの空間は、一階と二階が吹き抜けになっている。
 そして二階の廊下にある横幅いっぱいのガラス窓越しに、学生が泳いでいる姿が展望できる。

 体育館はどの階も天上が高いので、ゆったりとしてゆとりがあって気持ちがいいのだ。
 台風一過の午後は、初夏の前に、さらりとした五月のさわやかな風が吹き込んできた。
 プールを見下ろしながら、風にからだをさらしていると、懐かしい匂いを感じた。
「うぅーん」
 塩素が含まれた水の匂いが、時折、強めに吹き込む風に乗って、廊下にも漂ってくるのだった。
「何十年も、泳がないわぁ~」
 海の匂いも、プールの水の匂いも、嗅がないまま過ごしている日常に、ふっと忍び込んできた風がもたら鼻腔の心地好さに、しばしそこに立ち止まった。

 広々とした空間、体育館に入ってくるときに目にしたグランドでは、学生がサッカーに興じていた。
 学び、からだを思う存分動かし、友人と会話し、大学生活は人生の中の最後の楽園だ。
 
 青春はあとからしみじみ思うもの……だったかしら?
 プールを眺めながら、学生の声を聞きながら、開放感を味わった昨日の午後。
 授業での学生との交流も、スムーズに運んだ。
 
 授業を2コマ終えて、心地好い疲れをお土産に、京王線新宿行きの準特急電車に乗ったのは、6時をほんの少し過ぎた頃だった。
 明大前から、なんとたったの5分で、新宿駅には到着する。
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ジェネリック医薬品

2008年05月20日 07時59分32秒 | Weblog
 風邪症候群で、ほぼ二週間と数日間、処方された薬を呑んだ。
 5年ぶりに耳鼻咽喉科医院を受診したのだが、以前に比べて、またかかりつけの内科医院が出す処方箋の薬の代金に比べて、値段が安いことに気づかされた。

 そこで何気なくインターネットで薬剤名を検索してみた。
 それはジェネリック医薬品だった。
 この耳鼻咽喉科医院は、とにかく患者数が多い。
 朝、6時には診察券を出して順番取りをする人がいる。診療開始は9時からであるにもかかわらず! である。
 午前の診療が終わるのは、1時すぎというのが連日続く。
 午後は、12時20分から札だしが始まる。午後の診療は3時からだ。
 5時半に札止めなのだが、こちらも7時近くまでかかっているようだ。
 患者一人の診療時間は短い。が、一日に100人以上というのは、凄い数だと思う。
 耳鼻咽喉科というのは、健康保険の点数が低いので、大勢をこなさないと医院として成り立たない、と待合室で話しているおじ様もいる。

 話が飛んだ。
 ジェネリックに戻そう。
 テレビのCMでは、自分から「ジェネリックをお願いします」と言いましょうと宣伝している。
 新聞記事などでも、ジェネリック(後発医薬品・特許が切れたもの)が社会に浸透しにくいと書かれている。なんでもまだ製品の質にバラつきがあるとか言われているが、記事を読むと理由はそのひとつだけではなさそうだ。
 
 で、私が通った耳鼻咽喉科医院は診断も適切なら薬の処方も適切である。
 今回は、こちらから言わなくともジェネリック医薬品を処方していたのだった。
 念のため領収書の金額を合計してみたら、今回の‘風邪症候群’治療にかかった薬の代金はは抑えられた感じはするのだが……。
 実は、父が十数年間病気治療を行っていた最後の2年間は、私が医療費控除を受けていた。それまでやっていた父に、病院からもらう書類や領収書を集めて、添付する書類の書き方や控除額の計算等、教えられていた。
 そんな経験もあって、国民健康保険や後期高齢者医療制度等々のニュースも気にかかり、風邪をこじらせるとどのくらい医療費がかかるのかを計算してみたのだった。ジェネリック医薬品をつかっても、相当な額だった。
 
 それでこの医院に患者が減らないわけがありそうだということに気づいたのだ。
 兎に角、そんなつもりはなかったけれど、「たかが風邪」だなんて、努々(ゆめゆめ)ばかにしてはいけませんぞ! 身をもって得た教訓だった。
 
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第21回東京国際ミネラルフェア

2008年05月19日 15時56分22秒 | Weblog
「第21回東京国際ミネラルフェア」が開催されるお知らせをいただいた。
 日時:6月6日(金)から10日(火)午前10時~午後7時
    (最終日は午後5時まで)。
 会場:「スペースセブンイベント会場」(新宿西口)
    ハイアットリージェンシー東京・新宿第一生命ビル1階

 今年は特別企画として「始祖鳥のふる里 ゾルンホーフェンの化石」だそうだ。
 ドイツ南部に位置するゾルンホーフェンは、石版印刷に使われる薄くはがれやすい石灰岩層に、豊かな生態系が保存された化石産出として、世界に類をみない地方でもあると言われている。

 送られたニュースを読むと、「特別展会場」では、鉱物化石の蛍光現象が見られるようだ。化石がアラレ石に置き換わって、その石が紫外線に反応する。
 蛍光現象によって鉱物の同定するわけだが、そうした鉱物学をはなれても、美しい色の変容に一度惹きつけられると虜になってしまう。

 いわゆる赤・青・黄・紫などと、日常的な言葉では表しきれない色の世界が紫外線によって石の内側から醸しだされてくる。
 たとえばブルーアンバー(琥珀)をブラックライトで、少しだけ自然光を入れながら見ていると、日常と非日常の境を浮遊する感覚に浸される。
 今回は、化石群がどのような変容を見せてくれるのか今から楽しみだ。
 神秘とは決して遠くにあるのではなく、ほんのちょっとだけ日常をズラしたところで、目を耳を舌を鼻を皮膚感覚を研ぎ澄ませば、そこに‘在る’モノだということを知るだけでも経験の領域が深まり拡がっていくものなのだ。
 
 ところで21年目のフェアは、世代交代が進むことだろう。
 昨年、近山晶氏が亡くなったことだし、他にも次世代に譲った方もおられる。
 これも自然の為せる業とはいえ、寂しさは隠せない。
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朝日カルチャーセンターでのこと

2008年05月18日 09時01分47秒 | Weblog
 
 野口三千三先生の時代から、レッスンや授業や講演があるときには、その場所に早くて1時間前、遅くも30分前には到着するという習慣がついてしまった。

 とりわけ土曜日の朝日カルチャーのレッスンは、3時30分に始まるので、結構早めに自宅を出る。カルチャーにつくのは、およそ1時間前ということになる。
 毎週のことだが、担当の二階さんや副担当の緑川さんが、30分ほどお相手をしてくださる。
 時事問題、巷の噂、講座の内容、愚痴、流行もの情報、話の内容は多岐に渡っている。

 昨日のこと。
「ほら、見てください。載っていますよ」
 講師控え室のソファに座るやいなや、二階さんがこの冊子のページを開いて手渡してくださった。
 冊子は、『朝日カルチャーセンター』「東京2008年7月期の全講座案内」である。
 とても嬉しい!

 たとえば明治大学には三省堂が入っていて、授業の前に立ち寄ることができる。本を手に入れるのが楽でいい。毎週、書棚を見て欲しい本以外のものも手に入れて悦に入っている。
 同様に習い事をしているところで、本が手に入る便利さは捨てがたいものである。
 
 以前は、新刊本が出ると「新宿の紀伊国屋本店で買ってください」と、書店保護を訴えていた。しかし、今度ばかりは同じ朝日系列だからということもあるが、カルチャーセンターで手に入るということは楽でいい、と思ったのだ。

 因みにこの本は、読み易さのなかに潜めさせた主張は、かなりラディカルである。
「一筋縄ではいかない本ですね」という言葉をいただいている。
 はじめて現代に照準を合わせた本だけに、軽はずみにものが言えないということらしい、とこの頃になって気づいてきた。
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70年代末から80年代にかけて

2008年05月17日 07時48分32秒 | Weblog
 吉野裕子さんの思い出を書いていたら、1970年代末から1980年代にかけてのことを次々と思い出した。

 しばらく前にNHKの「知るを楽しむ」の再放送で、‘白川文字学’について松岡正剛さんが話されていたのを2回だけ聞くことが出来た。
 70年代80年代は、白川さんも吉野さんもこれほど認知される前だったが、当時、若者のサブカルチャー的な文化を『タオ』を中心に牽引していた工作舎は、野口先生を含めて3人にアプローチしていた。
 野口先生は病気と重なって工作舎とのご縁は結べなかった。
 その頃はまだ松岡さんも工作舎に深く関わっておられて、というか松岡さんの工作舎だったように記憶している。一度、たずねたことがあった。
 
 その時期に前後して、八王子の美術大学の大学祭で、松岡さんと野口先生の対談が企画された。
 学生が90名くらいいただろうか。かなり大きな部屋にびっしり詰め掛けていた。
 最初、2時間以上、野口先生が実技を伴った独演会(?)をなさって、松岡さんはひたすら聞き役というか視聴者として用意された場所に陣取っておられた。

 結局、野口先生は松岡さんと挨拶以上の言葉は交わさず「お先に失礼します」と言い残して、さっさと大学を後にしてしまわれた。
 その後は、松岡さんが一人残って夜まで、独演会をなさったと風の便りに聞くことが出来たが、なんだか申し訳ないような気分に私は陥っていた。

 身体運動を伴う‘野口体操の価値観’は、動くことなしに理解されることはないという、野口先生の独断が対談を成立しにくいものにしていたのだろうか。そのあたりは理解の外にある。

 当たり前だが、自分も含めて皆若かった。
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