埼玉北部も紅葉が盛りを迎えつつあります。
桜はほぼ終わり、銀杏が真っ黄色、県の木・欅もそろそろです。
さて、仰々しいタイトルですが、
個人的な疑問が一昨日少し解決したので報告です。
その疑問とは
愛読している鉄ピク・アーカイブスセレクションの内
#5「国鉄ダイヤ改正1950」に載っているタイトルの列車の写真です。
1953(昭和28)年6月17日、綾瀬-北千住間で
荒川鉄橋に向かう同列車を後ろから撮ったもので(いわゆるケツ打ち)
先頭の牽引機は今しも鉄橋にかかろうとしています。
解説ではC6239(平)+C5777(尾)となっています。
普通に考えると本務機がC57、前補機がC62という関係になり
なんでC62の方が補機なんだろうとは思ったものの
白帯・青帯の連なる客車に眼を奪われ
運用の都合なんだろうと思っていました。
その後、
同じく鉄ピク2008年11月号「一等寝台車」特集のグラビアに
再び同列車の写真が載っていました。
撮影者も撮影年月日・撮影場所も先の写真とは全く異なっていますが
牽引機はやはり前・C6248(平)、次位C5728(尾)となっています。
こちらは1954(昭和29)年5月5日、藤代-取手間での撮影。
当時、C57が常磐線の主力機であったとは思いますが
既にC62が平に配属されているのに同線最優等列車に何故C57の方が
本務機なのか。
ひょっとして平より先は未だC62が入線出来ず平以南で補機に就いているのか、
等と想像していました。
そもそもこの1201~1202レは
前身がヤンキーリミテッドという名の駐留軍専用列車で
1952(昭和27)年の講和条約締結後、限定的に日本人も乗車可能となったそうで
後に急行「十和田」となりました。
運転区間は東京-青森ですが、洞爺丸事件が発生するまでは
マイネフ38と荷物車1両は航送されて札幌まで直通していたそうです。
最近になってバックナンバーで鉄ピク・スハ43系特集2冊を入手しました。
そのうちのⅠの方(2002年6月号)に
「車掌と共に-急行1201レ特殊列車-」という
1954年3月号の再掲記事が載っていました。
筆者は東大法学部学生・小泉豊氏で現在の消息をご存じの方は
編集部までご一報下さいというコメントが付いています。
記事の方は
客車の所属、東シナから同列車に乗り込み青森まで同乗するものです。
東京駅をEF56の牽引で上野に向かい上野で問題のC62+C57に交替。
続く解説で冒頭の疑問が解けました。
「・・・C57は暖房関係を主とし、絶えず6㎏/平方㎝内外の蒸気を送ることになる。この列車の暖房パイプは以前から9㎏/平方㎝内外の圧力に耐える特殊なものが使用されている。車内には前記の列車検査員が主として暖房調整を行い万全を期するわけである。」
小生はこの記事から、本務機はあくまでC62で
次位のC57は客車への暖房蒸気供給用(つまり自走式暖房車)なのだと考えています。
この頃の列車暖房は総て蒸気で電気機関車も旅客用は蒸気発生装置(SG)を積んでいました。
蒸気の場合、先頭の機関車から編成をひき通した蒸気管で蒸気を送るため
編成後部では蒸気圧が低下し充分に暖まらないことがあるそうです。
北海道の極寒地では冬期平坦区間でも後部に暖房蒸気供給のために補機を付け
編成の前後から供給して暖房を強化した、という話も何かの本で読んだことがあります。
また、蒸機は運転用の蒸気の一部を暖房用に回すため
勾配区間など運転用蒸気が必要な際は暖房用を絞るので
車掌から苦情が来るという機関士さんの思い出話もあった記憶があります。
同乗取材は「1月初旬のある土曜日」となっているので
C57を暖房用に付けるのもわかりますが
先の写真は5月と6月、普通に考えるともう暖房は必要なさそうに思えます。
これについては
東北地方はこの季節でもまだ肌寒く米軍はTシャツ一枚で過ごすのを好む、
あるいは米軍は車内で大量にお湯を使うため洗面用水を蒸気で過熱した、
のではないか、と少し疑問が残ってしましました。
何はともあれ
この1201・1202レは上下とも東京駅において約30分で
同じく特殊列車1001・1002レ(後の急行「西海」、前身は確かデキシーリミテッド)に
接続し、北海道に航送されたマイネフ38とマニMB(軍マニ、運用番号は米専51)は
1201・1202レ「洞爺」に継送。
占領軍でなければできない壮大かつ贅沢な運用です。
11両の内にイネ2両、ロネ3両(1両は仙台回転)、特ロ1両、そしてシが1両。
う~む、Nで編成してみたいですね。とはいえ
瀬戸さえまだ始めたばかりで全然進んでいませんが・・・