ついこの前ですが
毎朝乗っている高崎線の211系にシングルアームパンタが付いているのに気がつきました。
早速ネットで調べてみると
もうだいぶ前から装備が進んでいるそうで、
元・中央快速の201系廃車発生品の流用だそうです。
もう5年以上昔の事ですが
首都圏が大雪に見舞われ帰宅時間の交通機関が大混乱したことがありました。
すし詰めの乗客を乗せたまま多くの電車が駅間に立ち往生したんですが
原因の多くがパンタに付着した雪の重みで離線したことによるそうです。
こういう意味では高崎線への転用は良いことですね。
高崎線の211系とは20年来の付き合いですが
高崎・宇都宮線と東海道線の直通運転が開始される3~4年後までは活躍するでしょうね(小生の定年と同時期・・・)
さて、
今週は一日休みだったので家のことに追われてNは手つかず。で、
久しぶりに昔の写真を。
牟岐線、二軒屋-地蔵橋間にある園瀬川鉄橋を渡るキハ20+キハ11です。
撮影は1968(昭和43)年だと言うことははっきりしていますが月日は不明です。
草木の感じからして今頃の時期かと思い取り上げたんですが
考えてみると春先かもしれません。
当時は蒸機ばかり撮っていたのに稀に使った貴重なカラーフィルムで
よくぞ気動車を撮っていたものだと今頃感心しています。
たぶん時間を持て余していたんではないでしょうか。
しかも急行でもなく希少なキハユニ15でもない普通列車を撮ったところをみると
キハ11が少なくなってきていたんでしょうか。
小生の持っている資料では
キハ11が初めて徳島に来たのは1957(昭和32)年の3両。この頃はキハ17が12両も居て主役だったようです。
小生が写真を撮り始めた頃は既にキハ17の姿はなく、この写真を撮った1968年には先に記事にした通りキハ45の配属が始まり主役は36両も配置されていたキハ20でした。
キハ11は7両配置ですが、5年後の1973(昭和48)年の資料ではキハ45が3倍以上の19両になったのと引き替えにキハ11はゼロになっています。
キハ11等のキハ17系は1955(昭和30)年の登場ですから、この当時まだ20年経っていません。キハ20初期型とは1年くらいしか違わないんですが
たぶん接客設備があまりにも貧弱だったことが理由ではないかと思います。
写真で隣に写っているキハ20と比べると車体の大きさの違いがまず目に付きます。
エンジンは同じDMH17系で出力もほぼ同じですがキハ11はナハ10に始まった車体軽量化技術が応用される前だったので軽量化のために小断面車体になりました。
それだけならまだしも、車内の座席は通路側さえ肘掛けがなくシートはビニールレザー張り、窓枠は木製だったと記憶しています。
台車もDT19という、軽量化のためコイルバネを厚いゴムで代用したゴツゴツとした乗り心地の物でした。
こんなわけで四国では17系は早々に荷物車の種車になっていきましたが
10年以上経って福岡に転勤してみると未だ筑肥線で走っていたのには驚きました。写真撮っておけば良かったんですが、ちょうど鉄を止めていた時期で惜しいことをしました。
最後に同じ場所で撮ったC11を。たぶん同じ日だと思います。
増炭板の形状から137号機と特定出来ます。回送列車ですが、オハフ61の窓で木製の日除け鎧戸が降りている所があります。今考えてみるとほんとに良くできた、且つ手のかかった装備だったと思います。眩しい、しかし今のようなビニールの日除けでは風が入って来ない。冷房の無かった時代この鎧戸は必需品だったのでしょう、ローカル専用の鋼体化客車にさえ装備されていましたから。