カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

誰も彼女の幸福を知らない   わたしの叔父さん

2023-08-16 | 映画

わたしの叔父さん/フラレ・ピーダセン監督

 酪農家で働く若い娘は叔父さんと一緒に暮らしている。実は高校生の時に父は自殺し(母は既に他界)、叔父さんに引き取られ、大学進学前に叔父さんが倒れ、そのまま手伝いながら暮らしている、という事のようだ。獣医を目指していたこともあり、その心得が少しある為に、まちの獣医が世話をして、再度勉強する道を示してくれている。また、教会の合唱団で歌う青年にも関心を寄せられていて、食事にも誘われるようになる。叔父さんのことは気にかかるが、それらの自分の為になりそうなことが順にうまく運びそうな予感があって、少しずつ生活も変わりそうな感じになるのだったが……。
 科白も少なく、このクリスという女性はおじさんの世話を焼く以外、きわめて寡黙で、挨拶はおろか、ろくにお礼さえ言わない。しかしなんとなく感情は分かるような演出にはなっていて、異常な愛情を持ちながらも心動かされてはいる女性の機微が、それなりに伝わってくる。そうして彼女は何もかも、おそらく観客の期待を裏切る選択をし続ける。おそらく彼女自身に対しても、嘘をつきながら……。
 まさか日本の封建時代の話では無いのだから、こんな展開はどうなのだろう? という感じの物語である。それにやっぱり現代だから、実際のところ、選択は自由である。叔父さんも基本的には、なにも縛るつもりもない。しかし、逆に依存を深めるのは娘の方で、いわゆる破滅に向かって走り続けるのである。
 なんだかもう不憫なのだが、北欧にもこんな偏狭な思想があるんだな、と改めて思うのだった。いや、意外だから物語になるのだろうけれど……。
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女の子を口説くためではなかったかもしれない   現代思想入門

2023-08-15 | 読書

現代思想入門/千葉雅也著(講談社現代新書)

 題名の通り現代思想と言われるものを、実にざっくりと、何が書かれていて、何が語られていたのかというのを紹介、というか解説した本である。語り口調で、実に分かりやすく解説しているだけ無く、付録もあって、実際にどう読むのかということも分かるようになっている。入門だからだいたい分かるところまで導いてくれるだけでなく、中級上級には、おそらくこの先の読み方がどうなるかも預言してある。
 現代思想というのは、僕の学生時代のころくらいまで流行っていたフランス発の新しい哲学と言われていたもので、主に気取った友人とか、女の子を口説く上でかっこつけるために話をする題材として使われていた思想である。そもそも訳が分からないので何を言ってもよくて、それらしく脱構築してしまえばそれでよかった。いや実際にはそれでよかったわけでは無いが、どのみち誰も本当のところは理解できないのだから、お前は分かっていないとマウントを取るためにくらいには、役に立ったのである。
 そうなのだが、この本を読んで実際は何だったのかを知ることになると、まあ、なんというか、そんなに争わなくても気楽にやればいいじゃないかという話だったのか、ということになる。いったい僕らは何をやっていたんだか……。二項対立を避け、ざっくりまとめて理解できないことを認め、視点によって誤解であることを理解する。その上でとりあえず何かをやってみてもいいし、わかり得ないことをかかえて生きていてもいいのである。
 とにかくこの本が売れたらしいことは知っていて、しかし僕は著者の別の著書は読んだことがあり、実は後回しにしていた。しかし新書でもあるし、改めて読んでみて、やはり面白いかもな、とは考えた。自分なりに理解しつつあるものもあったけれど、ほとんど僕は読み間違えていたことも知ったし、ほとんど忘れていたことも知った。このような思想が生まれた後に、もうなんだか新しいものは見当たらなくなっていて、結局これらは本当のことであるとかどうかなんてこともどうでもよい感じなっていた時期があって、僕は科学の本ばかり読むようになった。そうして遠回りしてこれを手に取って、改めて良かったと思ったのは、やはり現代が何となく生きにくいような感じになった訳が、ざっくり分かったからかもしれない。今の世の中というのは、残念ながらポスト構造主義的な予言の中にあって、個人がこのことを知らないままでは息苦しいということだったのだ。自分を守るには思想が必要なのである。そうしてその考え方を支えるのは、現代思想が役に立つかもしれないのである。そういう意味で結構実用的なのであるから、悩んでいる人は読むべし、なのであった。
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必要な人には売ってもいいのではないか   ベイビー・ブローカー

2023-08-14 | 映画

ベイビー・ブローカー/是枝裕和監督

 いわゆる赤ちゃんポストに捨てられる(預けられる)赤ん坊を横流しして、売買に及ぶ輩がいた。捨てた母親がすぐに(翌日)戻ってきて自分の赤ん坊が居ないことからこの悪事がバレるのだが、しかし里親へ出されるのを見届けるために、ブローカーとともに旅に出るのだった。
 基本的に経済問題で、生活に困窮するので子供が育てられない。赤ん坊を捨てる理由はそうであるし、赤ん坊を売買するのもやはり借金苦だったりする。倫理的には引っかかるし、犯罪だから警察もこれを追っている。追っている警察の人間にも問題がありそうだけれど……。
 ブローカーの連中の個々にも、それぞれ事情がある。一人は自ら捨て子だった過去がある。一人は借金苦だが、別れた妻に娘がついていて、元に戻れないかとも考えているようだ。さらに孤児院から勝手にこの仲間に加わる少年もいる。捨てた母親にも、捨てる事情と共に、さらに問題を抱えていたのだった。
 韓国ドラマで見たことある女優さんや俳優さんも出ていて、最初は気づかなかったが、役柄でかなりイメージが変わっていた。皆演技が上手くて、韓国人というのは日本の俳優さんより鍛えられているのだろうか。こういう設定もあってか、途中涙が出て困った。結末には納得いかないものがあるにせよ、追っている刑事にも問題があったりして、人は心の傷を引きずりながら、なんとか生活しているということは言えるだろう。それを癒すためには、ひとはどうしなければならないのかも。
 是枝監督の作品には、壊れた家族がよく出てくる。監督の体験からくる思いが、このような作風になっているらしいことも漏れ伝わって知ってはいる。そういうつらい思いを共有できるのは、やはり実感としてそのつらさをわかる人達によるものであるのかもしれない。分からない人には、おそらくわかり得ない話なのかもしれない。しかしそうであっても伝えたい気持ちがあって、そうして作品を作っていくということにつながっているのではあるまいか。それはある意味で自分を救うことだし、ひょっとすると他の人も救えることかもしれないと、監督は考えているのではないか。
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卵料理を食べましょう

2023-08-13 | 

 卵の値段が上がっている。日本で卵と言えばほぼ鶏卵のことだが、卵の値段は物価の優等生と言われづけてきた。理由は60年間くらいほとんど値段が変わらなかったからだ。インフレがあって他のものの値段は相対的に上がり続けているので、むしろ卵一個にかかる様々な経費が、何らかの作用で抑えられ続けているということである。それは生産現場における合理化がすすめられ続けてきた結果だし、おそらくそれほど合理的に大規模化したところでないと、日本での卵の生産は事実上できないということでもありそうである。実情は知らないが、何万羽と飼育している生産工場化している鶏卵場が、日本の食を支え続けてきた歴史があるのだろう。
 ところがここにきて、卵の値段が上がったままなかなか下がらない現状がある。原因とされるのは単純化して主に二つ。一つは鳥インフルエンザによる鶏卵場の殺処分がふえたからである。日本の鶏卵の約1割の鶏が殺処分されてしまったという。その分卵は希少になるので値段も上がって当然である。さらにこれが原因で廃業する業者も少なからずいるのだという。それではこれから飼育し直すにも時間と労力がかかる訳で、価格が戻る(下がる)には容易でないということは明らかだ。
 もう一つは、鶏が食べる飼料の高騰がある。鶏が食べている穀物のほとんどが輸入に頼っている。日本で飼料を作るには、コストの面で問題があり太刀打ちできない。しかしその為に国産は壊滅的で、すでに飼料を作る農家はほとんどないのが現状だ。そういう中で国際価格が上がると、選択肢が無いのでそのまま高騰した飼料を使う以外にない訳だ。価格を上げない限り生産が不可能になっているということだろう。価格高騰の原因の一つに、ウクライナ問題がある。ウクライナの穀物はおもにヨーロッパ向けだと思われるが、それにこれまで頼っていた国々が、日本の必要とする穀物にも選択を広げているために、国際価格が上がっているのだろうと思われる。日本が第一の顧客で無くなれば、今後は売ってもくれなくなるかもしれない。
 以上のような原因を打開するには、大規模化の生産を見直す必要がある。大規模化した養鶏場に一羽でも鳥インフルエンザが見つかると、すべて殺処分されることの見直しが必要かもしれない。さらに鳥インフルエンザが蔓延する原因も究明が必要だが、一つの仮説として、鳥インフルエンザが弱毒化して、これまで飛来する渡り鳥が感染していてもほとんど途中で死んでしまっていたので確率的に蔓延に至らなかった可能性もあるらしく、むしろ弱毒化したインフルエンザだから、多くの鳥が感染したまま日本に至っているともいわれている。そうであるならば、考え方を変える必要もありそうである。
 また、国内生産に対しても何らかの取り組みが必要とも思われる。後押しするのは助成金かもしれないが、安定供給のために助成金を出しているのは、おそらく海外も同じである。安易に輸入にだけ頼る政策では、このような危機に対応はできないということだろう。
 いずれにしても、今の状況を鑑みると、もう卵の値段は下がりそうにないことが分かる。ある程度は揺れ動くことはあろうと思うが、一定の水準で高いままになるだろう。むしろ卵を買い支えることで、安定供給を守ることにもなるかもしれない。消費者が卵から離れることは、今後のさらなる高騰を招く引き金になるかもしれない。
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格差問題のわかりやすさを体験せよ   ハンガー 飽くなき食への道

2023-08-12 | 映画

ハンガー 飽くなき食への道/シッテシリー・モンコンシリー監督

 タイ映画。金持ちや著名人向けの高級料理を提供する、ハンガーという料理人集団がある。通りに面したタイの半屋台のような食堂で腕を振るう女料理人のオエイは、その鍋捌きの腕を見込まれスカウトされるが、ハンガーのシェフの要求が高く、必死でそれに応えようとする。なんとか少しは認められるが、このハンガーという集団で料理を作ることで、何か彼女の中で食に対する向き合い方そのものが変化していくのだった。
 料理というのはお金を出せばそれなりに高級なものを食べることが出来るし、人間の欲求として、そのようなものを食べられるという事についても、究極の欲望の行きつくところがあるようだ。これは人間の歴史そのものと言ってもいいのだが、本当に旨い、というのはあんがい難しくて、庶民的な食べ物であっても、本当に旨いというのは実際のところあるわけである。高級なものが一番であるというよりも、そういう機会に恵まれる人とそうでない人がいるに過ぎない問題かもしれなくて、その中にあってそもそも選択の上で人生の成り立ちがある、という事なのかもしれないのである。お金を出せる人の欲求にこたえることのできる料理人というのは、だからその欲求を満たすことのできるタレントである必要があるわけだ。それは実力は備えていなければ話にはならないのかもしれないけれど、結局はそれに乗れるかどうか、こたえ続けることが出来るかどうか、そういうしのぎの世界に身を投じる覚悟があるのかどうか、という事が問われている。自分が望んでそうしているというのが初めにはあるわけだが、取り込まれてしまうと、その中で自分が失われてしまうという世界になりかねないのである。
 恐ろしい構図なのだが、そういうものをエンタティメントとしてどう表現するか。それには、それなりの格差の明確なタイ社会のほうが分かりやすいのかもしれない。ある程度のデフォルメはあるとして、日本だとあんまりリアルは感じられなくなっている。アメリカにはあると思うが、そんなものを観ても、もうそんなに面白くもない。そういう中にあって、タイ映画でこういうものがつくられるのは、それなりの必然性があるという事なのではあるまいか。そうして、実際に面白いのである。あなどれないのは、社会環境だ。しかし日本社会にもちゃんとこういう構図はあるので、忘れないように!
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純粋でクレイジーで尊い人

2023-08-11 | ドキュメンタリ

 長坂真護という人の取り組みを紹介したドキュメンタリを見た。アフリカのガーナのスラム街であるアグボグブロシーという街は、いわゆる先進国からあらゆるゴミが捨てられる場所になっている。古くなった電化製品やパソコンなどの通信機器や、衣服やプラスチックごみなどが大量に集められ、その廃品の中で利用可能なものを取りだしたわずかな金を目当てに、人々が集まって来る。配線などのコード類は、表面のゴムを焼いて中身だけ取り出すわけだが、そのために有毒ガスを吸いながら作業をし、一日数百円を稼がなければならない労働者たちがいる。そのような惨状を目の当たりにした長坂は、もともと路上アートを描いて糊口をしのいでいた身だったが、廃品をアートに変えた作品を生み出すようになり、そうしてその金をもとに、アグボグブロシーの惨状を変えるべく資金を投じて廃品リサイクル工場を現地に立ち上げるなどの活動を行っている。長坂自身が語っているように、この取り組みに賛同して作品を購入してくれる人がいるために、長坂の作品は長坂が普通に描いた絵の10倍以上の値段で売れるのである。この取り組みを辞めたら、自分は大いなるペテン師だとつぶやきながらも必死になって現地へ飛び、そうして日本で創作活動を繰り広げているのである。
 作品で数億円は稼いでいるとはいえ、日本でもアトリエやスタッフを抱えているし、ガーナの現地にも、まだビジネスとしては赤字続きの工場を構えて、どんどん労働者を増やしていこうとしている。リサイクル事業には問題も多く、黒字化のめどは立っていない。しかしいまだに苦しい立場で働かざるを得ない現地の労働者たちと知り合いになると、次々にその人たちを採用してしまうのである。
 まさにその行動そのものがアートでもあり、慈善事業であり、破滅的な生き方なのである。まったくなんという人がいたものだろうか。
 長坂は専門学校に入るために上京後、ホストをやったり、その金で会社を立ち上げた後に倒産させたり、仕方なく路上でアートを売って暮らしていた人である。自身の作品は高額で売れるようになったが、そのようなわけで拾ってきた家具などを使って質素に暮らしている。自身が過去を振り返って語る内容でも、若い頃には何の信念も無く何をやりたいかもわからず、死にたいような気持をかかえていたらしい。しかし何かのきっかけでガーナの現状を知り、現地に行ってさらに衝撃を受け、生き方をがらりと変えて、この世界を変えるという信念だけで、こういう事をやっているのだという。
 まったく普通ではない訳だが、破滅的な生き方であるかもしれないが、まさしく情熱だけで生きているような芸術家である。そうしてそうでなければ芸術が成り立ちもしないのである。現地の人間が言っていたが、ふつうの人間は、このゴミ溜めの現状を写真に撮って、ちょっとおこづかいをくれるなどして帰っていくだけだが、長坂はガスマスクを配り歩いて、日本に帰ったとしても友人としてまたやって来るのである。徐々に信用を得て、事業まで始めてしまったのである。
 なんだか呆れてしまったが、ここまでくると、この異常な危うい純粋さというものを、やはり信じてしまうのである。上手く行くかなんてことよりも先に、なんとかしたいという思いが行動を支えているのであろう。それは作品が売れ続ける限り、おそらくやめないのではなかろうか。
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血が気持ち悪いです   渇き

2023-08-10 | 映画

渇き/パク・チャヌク監督

 人の生死の無常さに悩む神父が絶望を覚え、致死率の高い伝染病の治験に臨むことにする。事実上の自殺だったはずなのだが、奇跡的に生き残る(生き返る)と、神父はバンパイヤになってしまっていた。病症が進むとできものができたりして大変だが、血を飲むとみるみる復活する。そんな神父が、家畜のように虐待を受けながら献身的に家族に奉仕する若い女に恋することになるのだった。
 ちょっとなんだか分からないかもしれないが、この血がドバドバする感じは、いかにも韓国映画である。同じ東アジアでも肉食は違うなあ、という感じである。とにかく気持ちが悪い。古典的な西洋映画だと女性の首をガブリと噛んで生き血をすする訳だが、この神父さんは、点滴から血を抜き取ったり、尖ったもので刺して噴き出る血を飲んだりする。いちいち殺して回ると死体があふれることになるので、取った血は冷蔵庫に保管して飲んだりもする。そういうところは合理的だが、しかし恋した若い女といろいろ致すことになってから、派手に人生が狂いだすのだった。
 いつの間にかバンパイヤとゾンビはごっちゃになる傾向にあって、この映画もバンパイヤとして超人化するとほとんど不死身(傷ついても復活する)になって、人間はとても太刀打ちできない。バンパイヤ同士で争うと、それなりに強い方が勝つようだが、しかしこれを止めることは、なかなかに難しそうだ。女の家族は非常に問題があって、次々に妙なことになっていくのも見どころだが、とにかく破滅的なことになっていって、どうなるのかどうかもどうでもよくなるような感じになっていく。まあ、派手と言えばそうなのかもしれないが、こういうのが好きな人にはたまらないのかもしれない。実際それなりに評価された映画のようで、そのために僕も観たのだろうけど、勉強のためには一つの教養として観ておいてもいいのかもしれない。気持ち悪いですけど。
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日本人に最も嫌われたからこそ

2023-08-09 | ドキュメンタリ

 今井紀明という人の取り組みを紹介したドキュメンタリを見た。
 今井さんは高校生の時にイラクに行って人質になって、日本政府の計らいで解放されたのは良かったが、社会的に激しいバッシングを受けた時の人だった。その当時「自己責任」という言葉が盛んに使われ、心を壊しかけたが、なんとか大学は卒業し、今度は不登校やいじめの当事者を支援するためのNPO法人を立ち上げて、現在も活動を続けているのであった。
 イラクの人質事件というのは、当然いまだに大きな問題として、本人も、家族も含めての周りの人々にも影響の残っているものである。時間的な問題で一定の距離を置いて考えられるようになった現在でも、僕らだって容易に思い起こせる出来事だった。今井さんがいまだにNPO法人で、いわゆる社会問題に取り組み続けていることともおそらく関係があって、だからこそこのようなドキュメンタリが作られているのだろう。
 そのような興味の跡先に、しかし大人になった今井さんという人の、一定の純粋さとしたたかさのようなものが垣間見えて、あれだけの圧力を受けた後に心の傷を抱えながらも社会運動を辞めようとしない現在があるというのは、なるほど凄いことかもしれないと素直に感じるのだった。イラクの問題はマスコミのバッシングを後押しにして、多くの人が若い今井さんの身勝手さを罵った。せっかく助かった日本人の命だったが、社会の圧力は精神的に今井一家全体を押しつぶそうとして、いわば自殺をさせようとしていたようにも見えた。僕もいくばくかの反感を感じたのは確かだが、そこまではしかし行き過ぎだという印象は持っていた。少なくとも若い人の人生は、若いまま終わりになるだろうと漠然と感じていたように思う。ところが時を経て印象的な目がそのままの今井さんをみていると、人間はそれなりに強く生きることもできるんだな、と改めて感じた次第だ。特に日本人でそのような人がいるなんてことは、ちょっとどころかかなり意外な驚きだった。こういう人なら、社会からはみ出してしまう困難をかかえている若者を救えるかもしれない。そんな風にも思えるのだ。
 実際のところ、いまだに日本社会は生きにくいままだろう。それは日本に限らずのはずだが、しかしやはり日本は特に厳しいだろうと思う。そんなことはみじんも感じない日本の一般大衆がいる限り、その困難はつづくだろう。それでも死ぬことなんて無いのだということを体現する人がいる。そういう意味で、いつまでも日本人であり続けて欲しい人だと思った。
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混乱と幻想の映像世界   8 1/2

2023-08-08 | 映画

8 1/2/フェデリコ・フェリーニ監督

 映画監督のグイドは、新作映画の構想がまとまらず、温泉地に保養に来る。そこでは映画のプロデューサーをはじめ映画関係者がたくさんいて、さらにグイドの苦悩を深まらせる。現実と幻想が錯綜する中で、女たちも呼び、グイドの頭の中の世界がどんどん映像化され現実が分からなくなっていくのだった。
 映画の中の映画ともいわれる名作映画なのだが、そういうものにいい映画であるものは少ないことの代表のような、変な映画である。バカバカしい妄想の数々が、主人公の頭を飛び出て映像化される。皆狂っているのだが、そういう狂い具合を、なんともなしに眺めて、他人の頭の中というのは、実に馬鹿げた苦しみで満たされているものだ、と感心するよりない。しかし現実の出来事も進行していて、そちらの方も一緒になって壊れていくような恐怖感も伴う。いや、本当は現実が危うくなっていくので、精神世界がそれに伴って崩壊していくのかもしれない。実際のところはどうなのかよく分からないが、高いところから落ちていくことがあったり、パーティの狂乱があったり、過去の少年時代があったり、何か太った女のエロがあったり、人間関係のいざこざがある。自分の中の何かなのだが、それが喚起されるものと、自分が生み出さなくてはならない大きなプレッシャーというものに対する逃避が、重なり合っているということになるのだろう。お気の毒である。もちろん見ている方も、それに付き合わされて気の毒なのだが……。
 要するに面白くもなんともない時間つぶしなのだが、どこか印象に残るところもあるし、クリエイターという人々の苦悩が、そのまま表されていることも示唆されていて、そういう作家の多くは、この映像に激しく共感を寄せるものなのだろう。それにしても、こういう映画をもてはやした時代と、それなりに商業映画として世に出たおおらかさがあって、確かにもうこのような映画は世に出る機会は、これからは無いのかもしれないとは思う。さすが巨匠の居た時代なのであった。
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思い出せない人

2023-08-07 | つぶやき

 地元の祭りが終わって、ホッと一息。疲れましたが、皆さんありがとうございました。
 ということなのだが、大変な人出になって、実にいろいろな人とも挨拶を交わすことになったのだが、懐かしい人もあったりいつもの人もあったりする中で、まあ、お顔は知ってはいるのだが、いったい誰だったかな、というのがそれなりにあるのである。その時はやーやー、なんとか、と言っているのだが、はて、しかしどなただったかどうしても思いだせない。もちろん後で思い出すのが大半ではあるにせよ(それも思い出してみると、あー、なんだ、という感じであるが)、いつまで考えても思い出せない人がいる。数日たって、あの人だったかな、とも思うのだが、違うかもしれないという感じだと、やはり違うのだろう。お祭りで忙しいのであれこれしながら、どうだったかずっと考えているのだけど、思い出せないものは仕方がない。それにしてもいったい思い出せないのはどうしたものか。こういう場合、他の人はどうしておられるのだろうか。
 思い出せない一つの理由として、近年はマスク問題がある。マスクをしたままで挨拶を交わした人で、そうしてそれきりだと、顔半分の印象なので、なんとなく半分の記憶というのがある。女の人など髪型が変わったりすると、ほとんど別人というのもある。そうしてマスクを外していると印象も変わる、というのがある。誰か判明しても、なんとなく違うな、という人だっている。マスクのままの方がいい人もいるし、やはり外して全体的にいい、というのもある。まあ、善し悪しだけでは無いが、これは困ったことだ。
 もう一つは、会った時の格好と著しく違う様子、だという人もいる。仕事着と普段着の雰囲気のようなものが、ずいぶん違う人もいる。あとで思い出せて、あーッと自分でも驚くのは、そういうパターンの人が多い。
 また、一緒に居た人がどういう人だったかということも、ちょっと関係ある。そちらの人と主に話をしていて、片方の人とは名刺交換くらいであった場合は、顔の印象は確かに覚えていても、なかなか名前まで思い出せない。絶対無理、という人の多くは、そういう場合ではないか。しかしあの時の一緒の人だな、くらいまで思い出せるのであれば御の字で、その一緒の人さえ定かでない人もいる。これはこれでどうしたものか。
 さらに問題なのは、話をしていると思い出せるだろうと思いながらあれこれ話をしたにもかかわらず、結局さっぱりという人がいるのである。相手の方はそれなりに僕のことを知っている様子であって、話が進んだりする。しかし肝心の相手のことが手探りで、共通の話題の人などをたぐろうとするが、それも表面的でおぼつかない。うーんそれなりに会話が弾んでいるが、これは困ったことだ。そうしてやっと解放されて、話の内容を反芻したりして、再度思い起こしてみるが、これがもうやはりわからない。いったいあの方は、この祭りに一人で何をしにいらしておられたのだろう。そもそも、地元の人だったのだろうか。
 どうしても確かめたいが、しかしまた会うのが正直言って怖いのであった。
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名作だが、茫然としてしまう   めまい

2023-08-06 | 映画

めまい/アルフレッド・ヒッチコック監督

 高所恐怖症の刑事は、屋根の上を逃走する犯人を追っているときに足を滑らせ宙ぶらりんになる。それを助けに来た同僚が、逆に屋根から滑り落ちて死んでしまう。そういう事故もあってのことだろう、彼の高所恐怖症は強まり、警察官は辞めてしまう。
 そこに大学時代の友人から、妻の不可解な行動の監視をして欲しいと頼まれる。過去のある女性にとりつかれて夢遊病のようになり、自殺を図りかねないのだという。半信半疑だったが、実際その友人の妻は美しく、一度海に身投げして助けたりなどするうちに、すっかり恋に落ちてしまう。彼女が精神を病んでいる原因らしい歴史のルーツを探るうち、結局彼女は古い寺院の登楼から身投げして死んでしまう。男は高所恐怖のために、頂上まで登って止めることができなかったのだ。
 男は裁判では無罪になるが、重度の精神病に苦しまされることになる。罪の呵責を含んだ鬱病に陥ったようだ。長い治療の末、街へ戻って来るが、来る日も来る日も思い出の場所を放浪してまわった。そうしてついに、死んだはずのその奥さんに、ものすごくよく似た女性を探し出して尾行するのだった……。
 オカルトでなくミステリ・サスペンスである。途中であえて謎解きがある。そこからの心理戦が続いて、いったいお話はどうなるのか? というものである。そもそもの原作は、最後まで謎解きは残してあったそうだが、ヒッチコックは心理劇という物語に書き換えたという。興行的には芳しくなかったようだが、その後名作として名高い作品となっていく。当時より後の評価の方が高いのである。ヒッチコックは「サイコ」でもそうだし、後に多くの映画監督への影響力の強かった人なのだが、それは観ている僕らだって同じように感じるはずである。当時の時代の中で、少し斬新すぎるのだろう。
 元々起用されるはずだった女優は妊娠のため出られず、代わりに出たキム・ノヴァクの代表作でもある。基本的に彼女の妖艶な魅力無しに、この映画の設定は成り立たないだろう。監督は不満だったようだが、この点は素晴らしい誤算だったと多くのファンんが認めるところだろう。
 しかしながら観終わった後には、茫然というのが当てはまる映画で、主人公はバカだな、というのが率直な感想だ。そういう事だから、名作なのだが……。
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暗い将来の世の中にあって

2023-08-05 | つぶやき

 なぜ僕に聞かれるのか分からないが、世の中信じられない犯罪が増えて、これから先どうなると思うか? と言われることがある。それも結構な頻度で。何か一部の関係で、そういう言動が流行っているのだろうか。
 なぜそんな風に犯罪を捉え、将来の不安を感じているのだろうか。もちろんバラ色の未来が待っているとは簡単には言えないかもしれないが、そのような犯罪が増えていって、社会がどうにかなるような印象があるのだろうか。どんどん人が信用できなくなり、不安定な社会がさらに混迷を深めようとしているのだろうか。そもそもそんなことを、誰かが言っているのだろうか。僕には分かりようが無いが、ある程度頻繁にそういう問いを投げかけられるということは、それなりに一般性のある言動なのかもしれない。
 考えられることは、やはりニュースは珍しい事や、ショッキングな内容を先んじて報じる、という性質があることだ。日本においてもそうだし、おそらく世界共通だろう。米国ではいまだに銃の乱射事件などが定期的に発生するが、そのたびにかえって銃の購入が増えるのだという。そういうのは確かに問題が多いように感じるけれど、既に銃を持っている人がいる以上、防衛するには自分も銃を、ということなのだろう。
 日本は一般的には銃を持っている社会では無いが、猟銃などの事件が無かったわけではないし、ボウガンのような武器を使用する場合なんかもあったかもしれない。サバイバル・ナイフも買えないわけではないし、包丁の種類も豊富だ。そういえば、最近も切りつけ事件も起こったような記憶がある。殺人事件は年間1000件弱は起こっているというから、ほとんど毎日、なんらかの事件があるのかもしれない。まあ実際にはそれくらいあっても、あんがい報道されてさえいないようだけど。
 実のところ凶悪な犯罪事件は減り続けていて、今ほど安全な社会はこれまでなかったわけだが、そのような状況を正確に伝えるような、報道の在り方はむつかしいものだろう。日本のように人口が多く国土が広い国であれば、どこかで何かは起こっているわけだし、犯罪のニュースには事欠かないことだろう。実際には増えていないと知っているとしても、でもやっぱり変な人は多いかもな、くらいの印象はぬぐえないものかもしれない。それにひょっとすると、こういう傾向が変化して、将来は犯罪が増加する可能性がゼロなわけでもない。ちょっと考えにくいだけのことだけど……。
 社会的な貧困や、個人の孤立状態が、社会不安を招いているともいわれる。日本はもっとも豊かな貧困をかかえている国だともいわれていて、相対的な貧困と言われるものが、無い訳でもない。そういう負の連鎖から抜けられない貧困世帯があるともいわれ、そうした不幸な環境というものから、犯罪に手を染めるような人が出ないともいえない。もちろんそういう環境下だけから犯罪が生まれている訳では無いが、一つの要因として問題化できるものであるかもしれない。そういう事とどう向き合うか、ということは、考えるべき問題提起であるかもしれない。
 さてそうではあるのだが、やっぱりなあ、というのが正直な印象だ。僕一人の努力では簡単に変えられないし、そういう質問を投げかける人を説得する役割が僕にあるとも思えない。誤解したままでいいとも思えないが、人というのはそういう性質を持つ生き物なのかもしれない。そういう人ばかりではないのも確かそうだから、分かっている人でなんとかするよりないのだろうか。
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そんなに悪女でもなかった   悪女について

2023-08-04 | ドラマ

悪女について/

 原作の有吉佐和子の小説は読んだことがある。はっきり言って名作である。ドラマを先に観た人でも読んでみるべきではないか。きっと楽しめるので。
 何度かテレビドラマ化されているようで、原作を知っているので、まあ、そうかもな、とは思う。それくらい面白い題材だと思うし、もちろん主人公の公子を誰が演じるのか、という事で映像化が面白いともいえそうだからである。じつは今回見たのは田中みな実演じる公子だったのだが、確かにそうかもな、ということなのである。公子という存在がこの物語のキモなので、演じるひとの印象で公子像というのは当然左右される。実際の演技がどうだというのはあるのだが、キャストの段階でこのドラマのたくらみはだいたいわかるというものだ。
 原作の小説の設定だと、少し前の時代の物語ということもあって、そういう時代の持つ不孝というのがあったのだが、今回のドラマの設定は現代になっていて、そういうあたりはだいぶ違うかもしれない。さらに公子自体をだれが語るかということで、公子の実像がずいぶん変わるというトリックがあるのだが、映像なので、そのあたりはずいぶんストレートに作り替えられている。別段不満ではないけれど、仕方のないことなのかもしれない。また、公子についてずいぶん好意的でもあって、公子の持つ深い闇というか、心の中の不幸というか、そういうあたりはちょっと希薄だったかも、と感じた。それがあっての悪女なので、結構重要という気もしたのだが……。
 女が成功して生きていく困難としたたかさが公子の魅力であるけれど、公子の基本は、それを乗り越えるための努力でもある。そういう意味でサクセス・ストーリーであるはずで、怪しさはあっても、そんなに簡単に人に文句が言える筋合いではない気もする。著名人というものは、おそらくそういうものが含まれていて、しかし他人は注目するあまり揶揄してしまう。だから時代性が変わると、公子像も変わらざるを得ないのかもしれない。そうしておそらくこの物語は、また作り変えられる可能性があるのかもしれない。
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超人たちの戦い   シン・仮面ライダー

2023-08-03 | 映画

シン・仮面ライダー/庵野秀明監督

 勝手に改造されて仮面ライダーになった本郷は、苦悩しながらも悪の軍団ショッカーと戦うことになる。本郷は驚異的な殺人兵器となった自分自身の力の強さに戸惑っているわけだが、自分を改造した博士の娘ルリ子に恋心を持ってしまうためにやる気になって戦っている感じだ。しかしながら敵もそれなりに強く、その上に次々に現れて戦いを挑んでくる。そうしていつの間にか仮面ライダー二号が味方に付いてきて、さらに強大な力を持つイチローと対峙することになるのだった。
 まあ、もうちょっとお話は複雑だが、以前にあった仮面ライダーシリーズとは少しばかり趣が違う。しかしそうでありながら仮面ライダー的な新しい面白さを引き出している。今はやりの自己犠牲も描かれていて、このようなシン・シリーズとそういう面では共通するものがあるのかもしれない。違うとすれば政治ドラマの希薄さだが、どちらかというとアクションを基調に撮っているという感じもあり、僕らの世代からするとかなり良い出来栄えではなかろうか。いつの間にか引き込まれてしまい、観終わっても面白かったなあという余韻に浸れてしまった。こういうのは、あんまり理屈でどうこうということでは無いのだろう。
 テンポよくお話は進んで、最小限の説明しかないのだが、おそらく前提として仮面ライダーを知っているということをもって、その新しさと世界観のみをあらわしているものと思われる。これが日本だけの問題なのかということもあるが(一応イチローのたくらみは全人類が対象ではあった)、バイクだし海外に行くには困難があるだろう。あまり都会には出没しないようで、一般の人々はあまり現れない。そういう意味ではウルトラマンなどとはずいぶん違うな、という感じだろうか。観ていてあまり気付かなかったが、詳しく見ると様々なオタク的なこだわりがあったらしく、そういう面でも楽しめるのかもしれない。ほとんど仮面をかぶっている人が多く、意外な俳優も出ていたらしい。だいたいでいいのだが、そういう二次的な楽しみ方もできるということなのかもしれない。
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僕の「である」の嘘っぽさ

2023-08-02 | ことば

 「日本語からの哲学」を読んでいて思い出したのだが、僕はずいぶん前から「である」体で文章を書いているようだ。それはたぶん「である」体が大人びた文体のような気がしていて、背伸びして書き始めたからではないかと思う。それというのも小学生の4年生くらいの時に、作文を書いて提出したら、先生から「この文章は、何を写したの?」と聞かれたことがあるからだ。しばらく意味が分からなかったが、自分で書いたものではないとみなされたのだと思う。どうして先生がそう考えたかしばらくたつまで分からなかったくらい幼かったのだけれど、その当時の僕は、どういう訳か読めない漢字は飛ばして新聞ばかり読んでいた。あたまの中は新聞の文章のような文体になっていて、しきりにそういう文体で文章を書いていた。「です・ます」体で最初は作文を書いていたと思うが、今になって思うと、それは先生に向けた文章だからそうであったのと(先生に対する敬意と、手紙文のような対話でもあったのかもしれない)、最初は話し言葉として、そういう風に書くのだと習ったからであろう。しかしすでに自分の世界は新聞世界だから、文章は「である」体に変換された時期だったと思われる。
 同じような思い出として、僕の書いているノートを盗み見した友人が、僕の書いている文章をやはり、どこから模写したの? と聞いてきたことがあったのである。たぶん詩を書いていたと思うのだが「僕は他の誰でもない僕である(大意)」というようなものだったような気がする。いや、僕が書いた詩だ、と答えると、嘘をつくな、と言われた。
 しかし僕は大人になり、lineなどの文章はほとんど「です・ます」調である。それは妻に対してもそうだし、いつの間にか仕事関係者も年下の人が増えたが、そのような人への文章や言葉遣いが「です・ます」なのである。もちろん話し言葉のほとんどがそうであるように、「である」体での表現が難しいというのはある。そうしてやはり対話ということの多くは「です・ます」が、日本語としてふさわしいものとして選択されるのであろう。ということになると、子供のころに背伸びして書いた「である」体であったのに、大人になると別段子供っぽくもないと思われる「です・ます」なのである。まあ、やはりブログの文章は「である」なのであるから、これは背伸びしたままなのかもしれないけれど……。
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