カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

風評が楽しいのは、いじめっ子だと思っているからか

2023-08-27 | 時事

 10年にもわたって勝手に保留していたものにもかかわらず、やってもよかったという何でもないことを先送りし続けて、しかしそんなことをやっても他にもっと深刻なことがあって逃げられない状態になってしまって、そうであるにもかかわらず理解はされない一部のものがいる限り、結局は問題になる。というか、風評被害だとわかりきっているにもかかわらず、騒いで風評被害を広げているという事実がある。それに対しては莫大な金がかかるし、その負担は、結局は受益者が払うように先々ではなるという事にもなるし、その損害は、風評批判を起こした側は一切負担はしないのである。要するにそれはいじめであるだけのことで、被害が起こりえないことが分かっている事象に対して、被害を作り出す構図をあえて作り続けているだけのことなのである。それが風評批判というもので、いまだに議論が足りないから、もしくは十分ではないなどと言って逃げている訳で、じゃあこの10年は何だったのだろうか。
 そうであるから騒いでいいという構図に乗って、圧力をかける国はある。自分たちのやっている事よりもはるかに小さいことに対して、それは今は日本のほうが騒ぐだろうという事を見越したうえで、困るだろうという一点に絞って圧力をかけている。卑怯極まりない愚劣な行為だけれど、それを批判する側が同調するに違いないからやっている。いじめている外側だから何の問題もないことが分かっている。いじめられている側が、何らかのことをしない限り石を投げ続けても何も言われない。だから投げ続けているだけのことである。一言やめろ、というか、何やってんの? と反撃する人もいない。ちょっとはいるが声は小さいし、聞こえないふりさえしていれば、何にも悪くないので悪ふざけをし続けるだけである。その上に、悪ふざけをやめるために、かえってお金をもらえるかもしれない。結局そういう論理に近いものであろう。
 問題ではないものだから、せめて一面で報道をやめるだけでいいかもしれない。そもそも問題にする意味さえいじめのため以外にない。日本という国は、困る人にはいじめていいという事を卑劣に続けることを実践する、卑怯者国家である。そういう心根の貧しい人々の集団が日本国民のようである。そうでないというのなら、即刻やめるのが筋であるだけだ。しかし、そんなことは卑怯者にはできはしない。だから10年も先送りし、さらに伸ばしていじめのお祭りを続けようとする。これを愚かと言わずなんというのだろう。
 もちろん実際には何も起こらないのだが、小さい不関連な出来事が、それらしくあるようなことを子細に確認し続ける人々が群がって何かを見つけ出そうとするわけで、そういう期間が、またしばらく続く。貧しい人々が行きつく先というのは、つまりそういう先送りの行く末なのだろう。その船に乗っている自分のことを、呪うより外にやり場が無いのである。なんでこんな国に生まれてきたのだろう。親ガチャだって? その前に日本だろう。
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