カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

僕の「である」の嘘っぽさ

2023-08-02 | ことば

 「日本語からの哲学」を読んでいて思い出したのだが、僕はずいぶん前から「である」体で文章を書いているようだ。それはたぶん「である」体が大人びた文体のような気がしていて、背伸びして書き始めたからではないかと思う。それというのも小学生の4年生くらいの時に、作文を書いて提出したら、先生から「この文章は、何を写したの?」と聞かれたことがあるからだ。しばらく意味が分からなかったが、自分で書いたものではないとみなされたのだと思う。どうして先生がそう考えたかしばらくたつまで分からなかったくらい幼かったのだけれど、その当時の僕は、どういう訳か読めない漢字は飛ばして新聞ばかり読んでいた。あたまの中は新聞の文章のような文体になっていて、しきりにそういう文体で文章を書いていた。「です・ます」体で最初は作文を書いていたと思うが、今になって思うと、それは先生に向けた文章だからそうであったのと(先生に対する敬意と、手紙文のような対話でもあったのかもしれない)、最初は話し言葉として、そういう風に書くのだと習ったからであろう。しかしすでに自分の世界は新聞世界だから、文章は「である」体に変換された時期だったと思われる。
 同じような思い出として、僕の書いているノートを盗み見した友人が、僕の書いている文章をやはり、どこから模写したの? と聞いてきたことがあったのである。たぶん詩を書いていたと思うのだが「僕は他の誰でもない僕である(大意)」というようなものだったような気がする。いや、僕が書いた詩だ、と答えると、嘘をつくな、と言われた。
 しかし僕は大人になり、lineなどの文章はほとんど「です・ます」調である。それは妻に対してもそうだし、いつの間にか仕事関係者も年下の人が増えたが、そのような人への文章や言葉遣いが「です・ます」なのである。もちろん話し言葉のほとんどがそうであるように、「である」体での表現が難しいというのはある。そうしてやはり対話ということの多くは「です・ます」が、日本語としてふさわしいものとして選択されるのであろう。ということになると、子供のころに背伸びして書いた「である」体であったのに、大人になると別段子供っぽくもないと思われる「です・ます」なのである。まあ、やはりブログの文章は「である」なのであるから、これは背伸びしたままなのかもしれないけれど……。
コメント
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