カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

我々は文体で考える・記述する   日本語からの哲学

2023-08-01 | 読書

日本語からの哲学/平尾昌宏著(晶文社)

 副題「なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?」。著者は論文を書くにあたって、講演の内容を論文にするために「です・ます」体で書いたところ、査読において「である」体に書き改めたうえで掲載すると言われたことに端を発する副題の疑問を出発点に、何故そのような決まりがあるのかを考えたものである。まずは日本語の文法などの論文にそれなりの分量であたり、日本語として「です・ます」と「である」体の違いを徹底的に洗い出していく。一般的に「です・ます」は敬語の中の丁寧語という区分になっている。論文は客観的な事実を書くものであり、丁寧語は主に対話など相手を特定したうえでの話し言葉を含めた文体であることから、論文の文体としてふさわしくないと考えられているようだ。それは感覚的にはよく分かるような感じなのだが、しかし言葉を掘り下げていくと、一番主観的な日記文には「である」体を用いるなど、客観的文章という建前には当てはまらない場面が多々あることが浮かび上がる。さらに「です・ます」文であっても、客観的に厳しい文体を書くことは可能である上に、一般的な教科書や入門書など、実際に論文と言えるものであっても「です・ます」体で書かれてふさわしい文章というものはたくさんある。確かに一人称二人称三人称という相手を想定したものでの使い分けはあるようだが、ニュース文のような究極の客観文にふさわしいものは、不特定多数を想定しているものの「です・ます」体なのである。
 ということで、論文に「である」体がふさわしいとされるのは、突き詰めて考えてみると、単なる習慣的な思いこみに過ぎないことが暴かれる。さらに間を端折って結論を言えば、書いている主体を欠いてでも書ける文体であることから「である」体はむしろ、嘘をつきやすいものを含んでいる可能性さえあることが、見て取れるのである。科学的に信用のおける内容を記述する文体として、「である」体は実は日本語の書き方としては、そのような問題をはらむ文体であったとは、どういうことなのだろうか?
 というスリリングな内容になっていて面白いのだが、そういうのが哲学的な問題の提起と考え方であるようで、今の時代になって哲学は完全に科学から見放されて信用の置けない学問になっているのだが(僕の印象としても事実としてもおそらく)、そのような学問からの逆襲の書ともなっている。実際はどうでもいいようなことの記述がしつこく述べられるのだけれど、しかしそれはちゃんとした事実に基づいた考えの組み立てと重ね書きであり、なるほど哲学の成り立ちと、人間の思考の在り方のようなものが、実に活き活きと浮かび上がってくる。正直言って驚いてしまったが、哲学には日本語という身近なものの深い理解にも、ちゃんと役に立つのである。すごい。
 これを読んだ人の多くは、たぶんこういうものを書いてみたい、もしくは考えてみたいと思うのではなかろうか。それが学者ならもっとそう思うのではないか。と僕は感じたが、さてこれで書かれる論文が増えるのかどうか、学者の皆さん頑張って下さい。
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