カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ある意味で素直な偏見   イントルーダー・怒りの翼

2014-10-16 | 映画

イントルーダー・怒りの翼/ジョン・ミリアス監督

 変な映画を見たなあ、という感想は年に何度もあるが、比較的まともそうに見えながらやっぱり変だというのはなかなか味わいがある。でもまあそういうのを半分は期待していたこともあるのがジョン・ミリアス。大作も撮るし人気もあるが、反共思想のあまりバランスを欠いた映画を撮ってしまう。しかしそうであるから面白いことが起こるわけで、変にリベラルな感覚でお涙ちょうだい反戦映画を観るよりかなり健康的な気分にもなれる。いや、やっぱり変な展開で自己中心的で、人の命は何なのだろうということをかえって考えさせられるというか、まあ、少なくとも僕はそんな気分になったです。
 興味を持ったのは外でもなく村上春樹で、彼のエッセイでこれを見たことが少しだけ書いてある。ウィキペディアによると村上はこの映画を3回見たらしい。もっともこれに少しだけでているロザンナ・アークエット目当てであるとされる。そうなんだけど、ジョン・ミリアス作品については複数言及されているということもあって、村上は少なくともジョン・ミリアス作品を気にしてみていたということは間違いなさそうに思える。たとえばヘリコプターが校庭に降りてきても不用意に近づいてはならない(若き勇者たち)、という教訓を得たというエッセイもあるくらいだ。僕もそのような教訓をちゃんと覚えているが、果たして人生に生かされているのかは不明だ。
 僕はこの監督の思想がそうさせているというより、彼の考え方の素直さというか、きわめてアメリカ人的な感性というか、そういうものが面白いんじゃないかと思える。ベトナム戦争なんだからベトナム人は敵なのだけれど、だからこそ敵がどんな死に方をしようと、戦争において悪いのはベトナムなのだ。だからこそ兵隊は素直に戦闘に参加できるのだろうし、そういう戦争において同僚がなくなるのは激しく悲しい。自分らの反省はみじんもなくて、やはり敵のベトナム人を虐殺するのに躊躇がない。仲間の死が意味のないものだったように思えると激しく落ち込み、しかし自分が無謀に国の和平をぶち壊すような行動をとっても、理解できない状況を恨み、さらに無謀に軌道を逸した行動を繰り返し、仲間を失い、都合よく仲間に助けてもらえる。やっぱり米軍最高だぜ、というお話になってしまう。人間のそういう心を見ていくと、本当に戦争って罪深いなと思うわけで、おそらく監督の思惑とは違う意味で、僕らはある種の感慨を抱かざるを得ないわけだ。
 村上が興味を持って観たのは、たぶんそういう人間心理を素直に描こうとするジョン・ミリアスを面白いと思うからではなかろうか。人は多かれ少なかれ偏見を持って生きている。しかしながら他人の目があるから、本当に自分はそういう思想を持っていても、素直にそれを表面に表わすのを躊躇するのではあるまいか。ましてや映画という作品にそのような思想を投影して、簡単に許されるものなのだろうか。結果的にそういうことが許されて商業映画として製作されて日の目を見るような社会がある。そういうことを含めてみても、やはりこの映画というのは面白いという気がする。馬鹿だけどまじめに面白いというのはそういうことで、そんな変な人間を観察するような人間がメタ視点的にいるという重層構造も面白いわけだ。興味を持つ人が満足できるかは別にして、妙な気分を堪能することができたのであった。
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七日目で死ぬ人にはつらい  八日目の蝉

2014-10-15 | 映画

八日目の蝉/成島出監督

 よその赤ん坊を誘拐して四年もの間逃亡する女と、その女との母親としてのきずなを感じながら実の母との違和感が消えないまま成長した娘の物語。単純に言えばそういう話だが、この実に残酷に取り返しのつかない設定に、なんだか身悶えるような息苦しさを感じながら観ることになった。逃亡の女もかわいそうなところはあるが、しかしこの罪はちょっと重すぎるのではないか。誰もしあわせになれないどころか、その傷がいえることなどおそらく無い。しかし実際には事情を知らなかった娘には深く愛されていただろうことも確かで、そのことがさらに物事の罪の深さを感じさせられる。せめて数か月の逃避行で失敗していたら、どんなにか気分は違っただろうとさえ思わされた。
 そう、事実上逃避行は失敗したのである。それもちょっとした油断であっけなく。最初は戸惑いもありながらなんとか逃げおおせていたという感じだったが、まさに実の親子的な絆が芽生えた後には、逃げる目的が生きる目的化さえしてしまう。二人で生きる強い意志のようなものが、ある種の復讐を超えて親子として醸成されてしまうのである。一瞬だが観ている者が、これはこのような親子として生きていくことに肯定的な気分になったのではなかったか。そうしてあっけなく逃避行は失敗。当たり前のように子供は実の夫婦のもとへ返され、犯人としての女は罪の償いのために刑務所へと行くことになる。この辺りは当たり前すぎる事実の残酷さに、複雑に目を覆いたくなる気分になる。もとに帰った子供も、本当に慕われることが許されない母親も、同時に地獄のような苦しい日常を送ることになる。正常でいられないもともとの母親は、何か精神も病んでしまっているかのように見受けられる。子供を失った年月の苦しみと、そうして自分の子供から本当には愛されていないことに耐えられなくなっているのだ。そういうことを見るにつけ、返す返す誘拐女の罪深さを呪うわけだが、しかしそうであるからこそ、連れ去られた娘にとっては、かけがえのなくなった真実の母親としての価値が上がっていくことも事実なのだ。なんという悪魔的な恐ろしさだろう。普通に誘拐して身代金を奪うような犯人の方が、数倍罪は軽いのではあるまいか。
 そうしてこの話はそれだけで終わらないのだが、なんだかもう勘弁してほしいという感じにもなる。男である僕にはとても耐えられない。いや、女だったら耐えられるのか。これは男に対する復讐劇なのだろうか。ある意味でそうだし、一見罪の軽そうに見える陰になる男たちは、皆無邪気に残酷である。だからこそ捨てられてしまうともいえるのだが、そのつらさを本当に味わうことすら許されていない。これを女の恐ろしさだと感じる僕のような男こそ、本来は断罪されるべき立場なのかもしれない。しかし、とてもその重さに耐えられるものではない。僕は普通に七日目で死んでしまう蝉なのであろう。
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パラドクスを存分に楽しむ  ルーパー

2014-10-14 | 映画

ルーパー/ライアン・ジョンソン監督

 いわゆるタイムマシンもので、タイムパラドクスを存分に利用した作品になっている。僕は子供のころからそういうことになじみがあるんで、おおっと最初から興奮気味に見てしまった。画調もいい感じだし脚本もいい感じ。素直に引き込まれるように見ているだけでいいので、実にまっとうな娯楽作。仕掛けも良いだけでなくアクションもソツなく、それなりに金のかけ方もいい感じの未来社会である。ちょっと無理があるのはブルース・ウィリスが強すぎるということくらいだけど、まあ、彼はダイ・ハードなんで、仕方がない。結果的にきれいに掃除してくれるということもあるので、後味としての未来像にも期待できる。これくらい出来過ぎの作品でもいいというのは、やはり少しテーマとして頭の痛い問題を抱えているということもあるだろう。題名通りにループする現在と過去の関係だけじゃ、人は生きてはいけないのだ。
 タイムパラドクスだけの問題ではなく、親子の愛情問題や、自分自身ということ、愛する人を守るということ、そして将来を切り開くということ、などについても重層的に考えさせられることになっていく。映画の文法というのがあるので、子殺しについてはちょっとだけ先のことを読む手掛かりになってしまうというのはあるけれど、基本的には伏線が効いているように、うまい展開が繰り広げられていく。不確定要素の馬鹿なチンピラの活躍が予想の範囲を超えるあたりも面白い。主人公周辺のことだけでなく、このような偶然的な要素が未来を変えうるきっかけになりうるというのも面白い視点ではなかろうか。
 タイムマシンができた未来で、悪の組織だけがそういうことを利用するというという考え方も変なものだと思う。この映画ではないが、タイムマシンが開発されると、おそらくそのやり方は一部で独占されるだろうことは間違いなさそうに思える。パラドクスが実際にどうなるかは誰もわかりえないことだが、もしも本当に実現するとするならば、タイムトラベルの数だけ、パラレルな未来が枝分かれすることが確実である。誰かが生きていて、同じ誰かが同時に死んでいる世界は成り立たない。いや、そうなるとしたら、決定的に損なわれたり失われたりするということで、未来像は間違いなく大きく変わってしまう。たとえそれが歴史的な人物でなかったとしても、その影響力が多岐にわたることは容易に想像できる。要するに未来においてタイムマシンが開発される流れに今の僕らは生きていないことは確実で、タイムマシンが開発される世界に生きている人類がいるとしたら、また僕らとは違った次元の世界で生きているということになるのではないか。なんだかめんどくさいのだけれど、そういうこととは別のパラドクスの結果があるとしたら可能な世界になるのだろうけれど、やはりタイムマシンは、人間に適応できる技術ではなく、空想上の可能性に過ぎないのではなかろうか。
 つまるところ映画的にはしかし、この考え方なくして面白さは伝えられない。人間の空想上の者が映像としては成り立つしあわせに、じっくり心を奪われるべきなのであろう。
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読めなくても推理でわかりそうな言葉

2014-10-13 | ことば

 いきなりですが問題です。
「私語く」はなんと読むでしょう?
 まあ、これは状況を当て字にしている感じかもしれない。私語といえばプライベートな時になら問題はない。もちろん場所にもよる。授業参観とか講演会なんかのときに、会場の中でこれをする人がいて迷惑することはあるが、おそらくこの言葉のようには話していない場合が多いからではないか。声量があるとすでに意味が違ってくる。そういう人が私語をやると、この言葉の読みは分からないということになってしまいそうだ。私語だからある程度遠慮が必要で、さらにかわす言葉も最小限に徹すると、それはあたかもなかったかのように、会場の片隅に消えるようなものなのかもしれない。もっとも誰もそういうことをしてない時であるならば、音量は関係なくとがめられるべきものだろう。目礼など音のしない合図を心がけることも大切なマナーかもしれない。
 一般的には「囁く」の文字を用いることが多いようだが、答えは「ささやく」である。囁くの場合だと、多くの耳で聞かなければならないくらいの声量感は確かにある。人には聞かれえないくらいというのはあるし、もしくはそのささやきが、実は多くの耳にさらされている場合もあるかもしれない。本当の軟派者は、対象の女性のみに聞こえる声量の調節ができるといわれる。まあ、そんなもんですかね。
 できれば私語は私語くようにやって欲しい。ひょっとすると、そういう願いが今では感じられるような言葉なのではなかろうか。
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狩猟的だが、ルールがある   悪の法則

2014-10-12 | 映画

悪の法則/リドリー・スコット監督

 いろいろあって興行的にはコケたが、なんだか気になって、というか順番が来て借りてみた。最初からだらだら会話が続いて事件が起こらない。なんだか嫌な予感だけがするが、さらにセックスのことには妙にしつこいし、はっきり言ってそんなに感心しない。だからなんなんだよ、という感じもするし、しかしこれが仕掛けらしいこともうすうすわかっているので仕方なく目が離せない。
 そうやってやっと後半戦になって、妙な殺し方があって、話が急激に動く。冷酷に残酷に血が流れる。まるでそれが日常みたい。戦争とは違うが、明らかに人間の命の価値が、ガクンと下がる感じだ。しかしそれは獣が狩りのために狩られているということとは少し違う。人間のシステムの中で機械的に処理されているという感じなのだ。もちろん殺されるのは生身の人間で、そうならないようにしているはずなのだ。しかし、そのシステムの中で逃れられず殺されなくてはならなくなっている。だから順を追って淡々と、しかし静かに証拠もシステマティックに消されながら、物事は当たり前のように処理されていく。ドラム缶に詰められて運ばれる意味のよくわからない死体のように、笑えない冗談とされているが、それはシステムにかかわる人たちにとっての警告なのだろう。
 実は観終わって、ネットで謎解きのブログをいくつか見た。ちょっとわかりづらかったことの確認と、やはり見ていて自信がなかったからだろう。結果、なるほどというのは多かったし、さらに怖いという意味もよくわかった。度重なる警告を無視して、それでも過信した人間が陥ってしまった世界の不条理を描いているというわけだ。それはちょっとした運というか、しかしおとしいれられていることは間違いがなくても、警告を受けながらそれを真に受けなかったものが受ける仕打ちに違いないのだ。その仕打ちは必要以上に厳しいものだが、不条理というものはそういうものなのだ。すでに選択は過去のことであり、時間は戻らない。どんどん悪くなった世界は、どこまでも落ちていく。逃げられるのは、終わりがあるということだ。結果的に人間の終わりとはなんだろう。つまり、そういうことだ。
 狩るものと狩られるものがいる。それは自然の摂理だが、狩るものが選択するのは、警告を無視したものだという法則性があるのかもしれない。狙っていい人間をどのように選択するのかは、狩るものの視界に入るもの、ということかもしれない。次の獲物を前にして腹ごしらえをする姿におののいて終えられれば、それはこの映画を好きだった証拠になるのかもしれない。
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犬はどれくらい賢いか(その1)

2014-10-11 | 散歩

 犬は賢い動物といわれる。しかしながら人を犬に例える場合は、たいていは馬鹿にしている。要するに人間の多くは、犬は人間ほど賢くはないが、という前提を置き、さらに一般的な動物と比較して、犬は賢いと考えているだろうことが見て取れる。それはそうかな、とも思うが、本当にそうなのだろうか。
 僕は幼少のころから犬とともに暮らしてきたので、犬との関係はそれなりに長い。付き合いながらいろいろと思うところはあった。犬が賢いと思うこともあるが、馬鹿だと思うことも当然ある。人間と比較してどうだという考えを持ったことは少ないが、人間だったらどれくらいの知能があるものかというのは、まったく考えないではなかった。いろいろ考えるが、人間であれば3歳くらいから10歳くらいの幅が、犬によっては認められるものがあるようにも思ったことがある。確かに賢いのだが、やはり違う種である。人間のように、という前提で賢さを図ることは、人間の能力という劣った物差しで測りえないものが多すぎるように思う。さらに人間の賢さとはなんだという問題もあり、人間が賢いのであれば、人間の中にも順列があるはずなのだ。そういう一番賢い人から一番賢くない人のどの位置に犬を置いたらいいのか問題というのを考えると、そんなに簡単にものが言えなくなる。倫理問題を無視していいのならばそれは可能かもしれないが、要するに品がなくなり、たいしたことを言わなくても、危険めいた話になりかねない。
 しかしながら犬は確かに賢いのである。それは犬が持つ能力に、人間が驚かされる程度によるということだ。犬は自分の賢さを誇示していないが、しかし時にはその自覚がある犬もひょっとするといるかもしれない。それは人間にわかりえないだけの話で、犬社会には当然のことかもしれない。わかりえないことを語ることは困難なので、人間のわかりえる誤解をもとに話を進めるということにもなってしまうが、犬はいったいどのように賢いのだろうか。また、人間の賢さというものに犬がかかわっているという説もあって、それだけ歴史的に補完し合う仲だからこそ、犬という賢さの源泉は、人間の興味あるところであるということになるのかもしれない。
 ということを考えながら杏月ちゃんに翻弄される毎日。少なくとも彼女は自分がかわいく賢いと思われている自覚は持っているに違いないのである。
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人間マイケルもエンタティメント   This is it.

2014-10-10 | 映画

This is it./ケニー・オルテガ監督

 あんがい感動するという噂を聞いて観た。なるほど。映画として作りこんでいるというより、リハーサル風景をありのままに映していることが貴重なようだ。飾らないマイケルが、それでも真摯にかっこいいということか。
 僕はマイケル・ジャクソンの奇行にはそんなに興味はない。むしろ何か精神的に病気なのではないかという疑いの方が強い。このようなドキュメンタリー映画を見ても、やはりちょっと病的なものがあるような気がする。リハーサルに真剣なのはいいのだが、まるでマイケル信者を従える教祖様のようだ。それくらいのカリスマだったということを語りたいのは分かるが、自然体ですでに無理をしているような感じがあるのだ。それは必ずしも病的な表出ではないのかもしれないが、裏の社会でも気の抜けない、またはそういうすべを知らないマイケルという人間を見て、結果を知っている者としては、多少痛ましい気分になるのかもしれない。
 さらに、環境破壊を嘆き、人間としての生き方を説くような、なんとなく陳腐な思想めいたものを抱いていたことも見て取れる。ショービジネスの世界だから、そういうイメージを伝播させることは普通なのかもしれないが、マイケル自身はそのことに酔っているというか、実にまじめに信じているような様子だった。近代的な舞台で電気処理を用いた楽器を使い、映像に資金を投じて環境破壊を語ることの矛盾に、まったく無頓着だということだ。普通の大人ならその自分の行為に気づき、多少の後ろめたさもありながら、矛盾と葛藤しながら戦うものだ。それが現実と向き合う人間的な闘争というものだと思うが、そういうものが無垢にも抜け落ちた人間が、マイケルという人なのかもしれない。だから素晴らしいのだという人もいるかもしれないが、その深みの無さが、自らを苦しめている元凶であるかもしれないではないか。
 まあ、そういうことはいいと言えばお気楽でいいのかもしれない。そういう彼が作り出す音楽は素晴らしいものだし、さらに多くの共感を呼び、そうして感動すら呼ぶことになる。マイケルを支えるスタッフや裏方の人間も、本当に素直にマイケルの姿に酔いしれている。エンタティメントの一流の人間が集まる吸引力を持ち、そうして集まった人間を、さらに打ちのめすくらいのパフォーマンスの力を持っている。リハーサル風景が淡々と映し出されているだけの映像でありながら、そのような空気がビシビシ伝わってくるのは圧巻といっていい。だからこそマイケルはこの世界に君臨できたし、そうしてその圧力に耐える一生だったということも言えるのだろう。ある意味では人間にはつらい世界。それを成し遂げられる人間の姿というのが、この映像のドキュメンタリー性の価値だろう。
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拾い物にかける心構え   崖っぷちの男

2014-10-09 | 映画

崖っぷちの男/アスガー・レス監督

 期待してなかったけど面白かったという話を聞いて観ることにした。そういうことだから、僕の中にほのかに期待があったことは間違いない。要するに期待しないことを忘れていた。そうすると少し瑕疵のある作品という感じである。まあ、よくできてるし、期待しなければもっと楽しかっただろうけど…。
 いろいろと計算尽くしで仕掛けがたくさんあって、そういう具合に実は進んでいたんだということに観客が騙されて楽しい物語になっている。そうなんだけど、肝心なところは結構偶然任せというか、運が良くて何とかなったような感じがあって、たぶん僕がノレなかったのはそういうことだと思う。だから実はそのまま身を任せてジェットコースターに乗るような気分だと、十分楽しいアクション作品だ。もっとも高所恐怖症には少しつらいかもしれないけれど。
 入り組んだトリックには協力者が必要で、その協力者とのタッグの組み方や、またその協力者の協力者が強力で、そういうものを次から次へと展開に任せて驚いてみているという仕組みになっている。確かに結構計算されている部分もあって、なるほどそう来たか、という驚きは随所にある。アイディア勝負の世界にあって、なかなかよく考えたアイディアの連続である。ちょっと強引な設定にしなければならなかったということはあったにせよ、それなりに要所要所では一応つじつまは合っているようだし、人間関係トリックもなかなかの見どころである。悪役も憎らしく悪いし、カタルシスも素晴らしい。娯楽に徹して水戸黄門的にマンネリでもない。要するにスリルがあって、驚きがあって、爽快感があって、家族愛まである。欲張りすぎなんだけど、娯楽なんだからそれでいいじゃんと潔さもある。ほめるべきはそういうことで、多少の祖語には目をつぶるべき小さいことに違いない。忘れないでいてもらいたいのは、あくまで期待をしないこと。そうしたらまず裏切られる驚きが増えるということなのだった。
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万次郎的奇跡の起こし方   ジョン万次郎・海を渡ったサムライ魂

2014-10-08 | 読書

ジョン万次郎・海を渡ったサムライ魂/マーギー・プロイス著(集英社)

 読む前には、漁をしていて難破して米国に渡って言葉が堪能になり、幕末日本とアメリカの通訳をした人だと思っていた。そのジョン万次郎の伝記的小説である。脚色も文章も面白く、さらに偏見も少なくなかなか素晴らしい作品ではなかろうか。
 実は手に取ったのは外でもなく、捕鯨問題の描かれ方を見たかったから。小説の中身に関して言えば、感覚的によくわかっている作家だと改めて思った。米国人でもこれくらい理解できている人がいて、そうしてこの本が賞を受けたということが何より喜ばしい。現実には偏見に満ちているのは残念だが、しかし理解できる素地があることがわかるのは収穫である。
 さて、それでも話の流れとして、やはりジョン万次郎はたぐいまれな幸運の持ち主ではなかったかということだ。難破して九死に一生を得るのだから、そういうことに巻き込まれたこと自体は大変な災難に違いないが、しかしやはり生き延びて人生をも全うする。サバイバルもすさまじいが、そのような体力を持っているという素地がある。さらになんといってもこの日本人集団を救った米国捕鯨船の船長が人格者だったことが最大の幸運だろう。後に別の船で航海することも描かれているが、船というのはある意味で超封建的で治外法権。人種に偏見のあるのが当然の時代背景にありながら、そういうバランス感覚に優れた人格者が船長の船に拾われたことが、万次郎の一生を決定づけたといっても過言ではなかろう。船の上でも米国内でも、様々な差別と闘っただろうことは想像に難くないが、それでもそういう万次郎を守った船長の存在があって、万次郎自身も強く成長することができたのだろう。
 さらにこれは、当時の人間としては破格のサクセス・ストーリーとも言っていいものだ。当時の日本人としては、ということなのだが、今の常識とはまったく別の階級世界にあって、漁師の子供が武士になる、サムライになれたという夢のようなお話なのだ。現実には刀の扱いには難儀したようだけれど(本当の武士ではなかったかもしれない)、万次郎が漠然と無知によって夢に描き得た将来に夢を、困難を乗り越えてつかんだ物語ともいえる。常識破りの運と努力と才能で、まさに万次郎だから成し遂げられた奇跡の記録だろう。


追伸:ついでに井伏鱒二の万次郎も読んでみた。おそらくこの作者にも読まれていたことは間違いなさそうだが、ドラマチックさにおいてかなり脚色が違うようだ。恋愛や馬レースのエピソードなど、確かに創作なのだろうけれど、そのような脚色が、現代人にも異国に流された人間の苦難を見事に理解させることになっていると思われる。どちらも小説なのだが、やはり作者の視点がどこにあるのかというのは、後世の人間に違った影響を与えうるものだろう。もちろん、どちらも面白い読み物で、読み比べは楽しかった。
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性格という厄介なものの考え方   性格のパワー

2014-10-07 | 読書

性格のパワー/村上宣寛著(日経PB社)

 内容を要約すると、性格というものを診断しようとする人々による歴史。要するに昔から皆性格に関しては関心が高かったのだろうということ。で、それらのものは疑似科学と親和性が高いということ。代表的なのは血液型性格診断など。さらに心理学においても、古典的な基礎とされるもの(たとえばフロイトのような精神分析など)は完全に現代では否定されているということ。信じているのは素人だけらしい。現在はビッグファイブと言われる因子(外向性、協調性、良識性、情緒安定性、知的好奇心)に要約して研究が進められ、統計や実験が行われていること。要するにこの因子による統計的な差を見出すことにある程度は成功しているらしいこと。性格は遺伝的な要素が半分以上を占めている可能性があって、要するに教育による変化はあまり考えられないということ。だから幼児教育や親の教育方針などはほとんど意味が無いこと。自尊心のような後から伸ばせそうな要素であっても、備わっている場合と後からでは意味が違いそうなこと。要するに良い特性と思われるものが無理に後で備わるのは、悪影響もありそうなこと。幸福も外的要因ではそんなに差が出ないこと。金持ちであったり貧乏であっても、そもそもの性格で感じ方が違うようだということ。しかしパートナーが居て仕事や社会活動などにある程度関われるようになると、それなりに改善される余地はあること。結局三つ子の魂百までというのは、あんがいそうかもしれないね、というお話なのかもしれない。
 考えようによっては身もふたも無いということも感じられるわけだが、しかし性格によって社会的に成功したり、また働く上で性格というものがある程度の影響力を持つことも、それなりの研究によって明らかにされてきている。そういうことであれば、たとえば採用試験などでは、ビッグファイブによる性格診断を参考に出来る可能性がある。会社のためにいいかどうかわかないが、協調性のある性格の人などは、職業上の成功にはマイナスの要因であるらしい。面白いのはそれぞれの人には多かれ少なかれビッグファイブの因子が複数見られるわけだが、なぜか政治家には二つの因子しか抽出されないらしい。比較的単純な人しか、国際的に政治家にはならないという。まあ、統計だから例外も居るのでしょうが…。
 性格は変えられない(もしくは変えにくい)が自分の特性である。上手く付き合うより無いのだが、やはりこれは、統計を取って何かに利用しようという人がいるらしいことにも問題がありそうな気もする。もちろんいじめ問題など性格と関係がありそうなところもある。いじめる傾向のある人はいじめを止める人間でもあるらしい。いじめられる人をどうこうするより、いじめに加担する傾向の人間を逆にいじめ防止に利用できる可能性もありそうだ。そういう研究が進むということであればそれなりに有用だが、しかし性格が分かるからといって万能であるということでもない(当然だ)。少なくともそのような研究がそれなりにまじめになされているにもかかわらず、多くの人には間違った知識ばかりが横行することの害悪の方が大きいと言えるかもしれない。
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佐賀でどこに行こう(その5)

2014-10-06 | 掲示板

 佐賀に行ったから佐賀のことをあれこれ書き出したわけだが、素直に佐賀の残念さを嘆いたりしてみると、この嘆きは特に佐賀だけのものではないことに気づかされる。佐賀はある程度日本の地方都市においての残念さのさきがけのようなところがあるんじゃないか。そんなことを思ったりする。もっとも最初から残念であればそれなりに何の感慨も覚えないものなのだろうけれど、佐賀の残念さというのはジワリとなぜか郷愁を誘うような感じもある。場合によっては明日もわが身。そうなりたくない恐ろしさもあるけれど、本当に個人で逃れられるものなのだろうか。
 邪馬台国がどこにあるのかはつまるところよくわからんといわれているが、たぶん畿内説というのが一番有力なのだろう。昔の本だからいい加減で、あんまり正確なことはよくわからないから混乱するようだけれど、九州説は多少強引すぎるというのが今では主流のようだ。そうなのだがその邪馬台国への道への日本の玄関口がどこだったかというのはほぼ佐賀で間違いなさそうで、今の唐津あたりであったようである。長崎の松浦の方まで含む玄関口であるのは、まさに大陸に近いという環境にあったためだろう。その頃の唐津や佐賀というのは大変に栄えていたらしいことも遺跡などの発掘から見て取れるという。佐賀の語源に「栄える」という意味もあるらしく、まさにそのような栄華にはえる過去があるのであろう。
 江戸時代においても小藩でありながら需要な位置にあり、幕末にも活躍した者が多かった。いけないのは明治以降のことなのだ。豊かな土地柄で農業で栄えていた場所が、さらに長崎を通じて大砲などを作ることに長けていながら、後発の地域に工業化の流れに負けてしまう。石炭などが取れなくなったなどのこともあるが、時代に翻弄されながら着実に衰退を遂げていく。そうして日本を代表する人口流出県になってしまったようだ。いかに過去の繁栄があろうとも、現在力を落としたものに対する外の目は厳しい。長崎県だけでなくとも、佐賀をなんとなく下に見るような視線を投げかけるのは、ある程度共通の認識になってしまったのではなかろうか。そのように感じるような人間の方が器量が狭いということは言えるのだけれど、人間というのはそのような残酷な生き物なのである。相対的に下がいるから自分の位置が少なからず上にあるように錯覚する。そういう精神性の貧しさが、佐賀の地位を下位にとどめておきたい思惑を生んでしまうのであろう。
 逆にとらえるならば、佐賀のようなところが本当に良いということが理解されるような気運が高まると、本来的な地方の復活のようなことも起こるのではあるまいか。もちろん政治的に分配をひねるのもどうかとは思うけれど、佐賀の復興は地方のカギを握っている問題なのかもしれない。
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アンと花子とさらに僕

2014-10-05 | 感涙記

 朝の連ドラも終わっているので少し間抜けな話題かもしれない。それに本当に僕は熱心に注目して見ていたわけでもない。というか、ほとんど見てない。花子と村岡との恋愛のところだけマンガみたいに面白がってみたくらいで、正直言ってたいしてスジを知っているわけでもない。
 そうではあるが、村岡花子に興味が無いわけではない。本当はそんなに前から知っていたわけではなかったが、ちょっと変わった翻訳家だという話は聞き及んでいたような記憶がある。おそらく誰かのエッセイに紹介されていたのだろう。そうしてやはりこのドラマが始まってから、関連するお話を、また時々目にするようになった。当然だけれど、原作になっているお話と、ドラマの花子はかなり違う人物になっているとは聞いていた。そういうものなのだから、それはそれでいいだろう。もとにするというのは、もとにした創作だということに過ぎない。しかしやはり、実際はどんな人かな、という興味の方があるにはあって、それはほかならぬ「赤毛のアン」の所為だろう。
 僕はなぜか独身時代に、赤毛のアンのアニメに見はまって、毎日のように泣いていた。こんなにも泣ける物語があるとは本当に知らなかった。そうして実はあとから村岡訳の赤毛のアンは手に取ったのである。しかしなんというか、ちょっとだけ読んでもピンとこなかった。それで後に知ったが、このアニメの底本となった訳は神山妙子という人のものと知る。それでというか、村岡花子という人は、あえて赤毛のアンについて、妙な飛ばし訳をしているということも知ったのである。いろいろ事情はあろうけれど、日本の子供に読んでもらうためには、その方が良いという考え方があったためらしい。
 村岡花子の生涯の、おそらくかなりの影響力があったらしいのは、父の存在であるように感じられる。かなり変わった人のようだが、それもやはりキリスト教の影響があるものと思われる。外に子はたくさんいたが、長女である花子に特に目をかけて、教育を受けさせる。東京に移り住み家族は貧困に苦しみ続けるが、それでも何とか花子にだけは最後まで期待を寄せていたようだ。花子としてもその期待に応えたいという思いもあったろうし、西洋教育とキリスト教の影響も、やはり強く受けただろう。そうして世の中は戦争に突入し、様々な思惑がありながらも翻訳を続ける強さがあったことも間違い無いようだ。
 村岡花子という人は、キリスト教的な強さを持った面(信じる物を曲げない)も持ちながら、しかし同時に当時の理想との乖離のある日本の女性像や子供についても、ある程度の理解のある人だったようだ。だからこそ、その当時の人間にちょうど合うように、翻訳を試みたのではなかろうか。それは正確な翻訳というものでは必ずしも無いのだが、しかしだからこそ、その当時の人々の心も捉えることが出来た。さらに結局は、日本においてもこの物語が長く受け継がれるものになったのではなかろうか。
 赤毛のアンは、確かに子供の物語である。それも純粋に子供の持っているすさまじい能力が、何気なく発揮されている物語だ。大人ではその能力がすっかり失われてしまうわけだが、しかし、だからこそマリラやマシューは、アンに影響を受けてしあわせな気分になれるのだ。それを読む多くの人は子供なのかもしれないが、しかしやはりマリラやマシューのごとく、大人になって読んだ人の方が、その影響力を強く受けるのではないか。それを翻訳の力で、やはり日本の子供に最も伝えやすくするにはどうするか。村岡花子の考えと訳は、そのようにして生まれたものなのではあるまいか。
 結局僕は、村岡花子のよき理解者ではないが、村岡花子が開拓した後の社会で、長く生きながらえたアンの姿に感動させられているわけだ。不思議な縁だけれど、もう少しさらに年を取ったとき、また影響を受ける可能性もあるように思える。それが大人の失う力であるからだ。アンに出会えた人間は、影響を受けざるを得ない。そのことを、やはり知っていた人物だったことは間違い無いのである。
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佐賀でどこに行こう!(その4)

2014-10-04 | 掲示板

 僕は佐賀に意識的でなかった過去があるが、それは単にそんなに興味を持っていなかった所為もあるのだろうと思う。いくら近い所に住んでいるとはいえ、日常にいつも佐賀があるわけではないし、逆に近いということから、あえて観光に行く対象でもないというのがある。僕らが佐賀に行く用事というのはそんなにないし、あったとしてもわざわざ泊りがけなどで行くことも、きわめて少ない。
 ところがあるとき、岸本葉子さんのエッセイだったか何かを読んでいると、佐賀に行って観光や食事を大いに楽しんで、また行きたいという旨が書いてあった。岸本さんは佐賀の観光大使か何かされていたのか失念したが、とにかく佐賀に何らかのご縁があって訪れ、そうしてそういうことを差し引いたとしても、そんなに佐賀を楽しんでおられたというのが、なんというか、少なからぬ衝撃だったのだ。佐賀ってそんなに楽しめるところだったのか。かなり失礼な衝撃だとは思うが、長崎県人というものは、少なからずそんなものだろう。そうなのだが、ひょっとすると僕は、佐賀のなんたるかを知らないがために、佐賀を楽しむことができないのではないか。そういう疑念のようなものが、ちらりと頭をよぎったのだ。佐賀にもいいところはある、は理解できるが、佐賀が面白い、と公言するような人を、僕はあまりに知らなすぎた。そのためにこれくらいのことで、衝撃を受けるということになったのだった。
 さらに考えてみると、佐賀が公的な場所で有名そうに扱われていたのは、ビッグ錠という漫画家の作品名は忘れた(いろいろあるが、なんとなく似ている)が、そこで佐賀の嬉野だったかそういうところが舞台になって、料理勝負が繰り広げられるのを読んだことがある。単にそれだけのことなんだが、「おお、近くが載ってる」というだけで興味深かった。そのせいだったかはさらに不明なのだが、そういう漫画の題材になった店があるという話を誰からか聞いたことがあって、佐賀に関心があって全国区で紹介されるようなことがあるんだな、と思ったことがあったようだ。
 佐賀にわざわざ出向いてまで何か食事をするような人がいるなんてことがさらに意外で、そうしてその影響で、かの地にあこがれのようなことを抱いている人がいるとも考えにくいのだが、しかしそういう可能性がないということ言えない。そういう事実に気づかない自分に、さらに意外性を感じる。
 また、時々だが出張中などで鳥栖で乗り換えるようなことがたまに無いではないのだが(今は新幹線になり、新鳥栖になるともうこの話はないのだが)、鳥栖の駅の構内にあるうどん屋(中央軒というらしい)で、冬の寒い日にうどんを食べたことがあった。停車時間が長かったのか乗り換えだったかは失念したが、これが寒い日だったせいもあるんだろうが、大変に旨かった。そういう話を誰かにすると、いや、そこは芸能人などがわざわざ立ち寄るような有名店なのだよ、を聞かされて驚いた。そんな風にはとても思えなかったのだが、妙に納得できる気がしたのだ。旅情というのもあるかもしれないが、そのように何気なくある店が、それなりに愛されるような土壌というか環境というか、そうして全国的にも有名であるということが、うらやましいようなそんなような気がするのだった。佐賀のまちのひそかな底力が透けて見えるような、そういう話なのではなかろうか。
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政治家の資質に望むこと

2014-10-03 | HORROR

 ちょっと付け加えるならば、政治は基本的に害になることであるというのを、政治家は自覚的であるべきだと思う。政治的に何かをやる、何かを決める、何かを変えるというのは、社会に影響力を持つ。ある意味自然な状態を捻じ曲げる行為も含まれている。
 自然な状態が不自然だという判断もあろうが、事実として力学的に現状がそうなっているものを、政治的には変えうる力があるわけだ。政治でなくても変えられることは多いが、政治で変えられるものは、多くの場合税金や制度を使って現実を変えることが出来る。影響のないことをやっても意味がないので、基本的には話し合いを経て、誰かの思惑を通す作業をやらなくてはならない。個人の思いだけということでなく、現実をどう捉えているのかという判断力が問われている。だから間違っていることであっても、安易にその判断力の無さのために、その間違いに気づかずに、実行してしまう場合があるわけだ。
 もちろん人間の能力なんてものは知れているので、間違うことが含まれて当然だ。要するにいくら自分の信念であっても、間違ったことを堂々とやらかしてしまう自覚が必要なのだ。
 基本的には間違いに気づいた場合修正すべきなのだが、多くの場合政治家はぶれないとかなんとか過去のことを言われるのはつらいので、これを怠る人がほとんどだ。本当の正義というのは、ぶれにぶれてもそのことに正直になるべきだと僕は思う。間違ったことを信念にしている自分には、修正主義でやるべきなのだ。
 政治家に限らず大衆だって人間だ。共産主義なら多数決で物事を決めてよいけれど、民主的な政治体制をとっている国にとっては、少数意見でもくみ取れる道が残されている。政治力というのはそういうことで、多くの人の誤りを正す方法が残されていると考えるべきなのだ。それが政治的な可能性とも言っていいだろう。
 より根拠のある事実を知っている人間が、そのことに正直に向き合って結論を導き出せるならば、それはもっとも政治家に必要とされるべき基本要素だろう。残念ながらそのような人が政治家になっているとは到底思えないから、絶望の風景が広がっているだけのことである。
 望ましい政治家像というのは、単に根拠に基づく理解力の高い人であるに過ぎない。それは誰にでもできることのはずなのだが、そういう人だから現状を正確に読んで、政治家を志さないのかもしれない。
 つまり政治に明確な活路をみいだせないということだ。それが正しい判断であるとしたら、望ましい政治家は生まれえないということになってしまうのかもしれない。
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僕が政治家に望むこと

2014-10-02 | 雑記

 選挙の時に少しだけ思うのだが、政治家に何かして欲しいことは個人的にはあんまりない(でも業界人としては陳情に行くが)。むしろ政治家には、ヒトのして欲しいことを素直に聞いて欲しくないとは思う。ヒトのために何かするようなことではなく、自分が政治家を志すような熱意のあることを、自分なりに好きなようにやればいいと思う。
 それでは票が集まるかどうかという問題があるのだろうけれど、住民や市民や国民のために何かやるような人は、とても信用できない。
 政治家になりたいから政治家を志すようなことではなくて、何かやりたいことがあるから政治家になるような人に政治家になって欲しい。
 利権がどうだとかいうようなことは、一部の政治家じゃない人にとっては大切なことかもしれないが、本来的に政治家には大切なことではないと思う。ある程度の力なしに何もできないので、危険かもしれないが、利権くらいあったっていい。悪いことに使うのはよくないというのは当然だからあえて言わないだけのことで、やりたいことにその利権は使ったらいいのだ。それで批判されても堂々と批判する人を含めて説得に努めるべきだ。なぜならそれはやりたいことのためなのだろうから。
 それで世の中が悪くなるというのは、あるいは立場のせいかもしれなくて、だからその立場の人には堂々と謝罪してそれでも信念を通していけるような人がいいと思う。誰にでもよい政治などというのは明らかな幻想だから、誰かのためによくないことをやれる勇気のある人間でなければならないはずなのだ。
 要するに誰かのためになるようなことを単純に信じている人でなく、誰かのためにならないことであっても、ちゃんとやれるような人こそが政治家としてふさわしいわけだ。たとえそれが僕の信念とは違う人であろうとも、それこそがまともな政治家といわざるを得ない。
 ヒトのいうことを聞けないような政治家こそ、本当に誕生して欲しいその人なのである。
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