音楽と記憶が結びついているらしいことは当然だと思うが、音楽を聴いていて、何の出来事だったかまでは思い出せないまでも、感情だけがよみがえるということがある。何故だか悲しくなったり、嬉しくなったり、曲の所為で、先にそういう気分だけが不意によみがえって、なんとなく戸惑うという感覚が時々おこる。
スナックで他人の歌っているカラオケは、たいていあんまり興味が持てないものなんだが、聖子ちゃんの古いものが流れていると、時々切なくなったりする。まあ、そういう若い頃になんかあったのかもしれないです。
逆にムカッと来ることがあるのだけれど、好きな人もいるだろうから特に名を秘すことにするが、音楽が特に嫌いというのではなくて、やはりなんか思い出が含まれているんだろう。特に思い出さなくていいけど…。
先日何かの会で、子供たちがギター程度の軽い演奏でいろいろ歌っている場面に接した。歌声がかわいいからそれだけでメロメロになってしまうわけだが、何曲目かで、不意に涙があふれてくるのだった。悲しいというか、急に胸が締め付けられるような、そんな感じ。ちょっと、あれっと思うのだが、なんでだったっけ? という感じだ。
曲は「われは海の子」。知らないわけではないが、僕は歌わない。たぶん詩も全部知っているわけではない。童謡というのだっけ、唱歌というのだっけ。そういうことなんだろうけれど、僕の時代では、特に習った覚えもない。ただ忘れているだけかもしれないけれど…。
で、しばらくして思い出した。父の思い出らしい。
父はひどい音痴で、人前で歌を歌ったりはしない。何しろ音痴だけでなく、伴奏にリズムさえ合わない。よくまあこれだけ崩せるものだというくらい見事なものだった。君が代斉唱などは、皆が調子が狂うので、止めるように言われていたらしい。
そうなのだが、酒を飲むとどうしても断りきれなくなって、歌うことがあるらしかった。知った人はそんなことはしないが、知らない人がしつこく歌をせがむ。命知らずということなんだが、そういう社交というのは分からないではない。で、「われは海の子」。
聞く人は皆唖然としてしまうが、この曲がたいそう長い。人々の笑い声は消え、手拍子さえ消える。カラオケなのに伴奏の音も消える。合ってないだけでなく、終わらないのだ。父も知っている曲だから歌うわけで(子供のころに覚えたのだろうか?)、まじめだから歌いだしたら最後まで歌う。これを聞いている息子としても大変に苦しい思いをするのだが、場が完全にしらけきって、荒涼たる風景になって、しかし歌が終わると皆がほっとして、開放感からやっとまばらに拍手が鳴る。
そういう嫌な思い出なのだが、どうしてなんだろうね。歌というのは、不思議なものである。
追伸:文中の「われは海の子」は別の歌らしい。もちろんそれは僕も知っていたが、おんなじタイトルだと思っていた。実際は「琵琶湖周航の歌」を父は歌っていたようだ。やたらに長いので、それで文中のようなことになっていたらしい。すいませんでした。
琵琶湖周航の歌を古くから知っていたというより、考えてみると、父には別に琵琶湖に思い入れがあったようにも思う。それは今の仕事をするときと関係があるような気がする。まあ、長くなるのでやめるけれど、おそらくその時に改めてこの曲を覚えなおしたのではなかろうかと思われる。今更確かめようがないが、そのような推理は当たっている気がしている。