政治家の失言というのは今に始まったことではないが、ネット上で話題になるのはたいてい揚げ足取りである。もとをちゃんとあげて検証して自分の意見を言うのはいいと思うが、あえて曲解するということが得意な人がいることは確かだ。これは厳密には情報操作だけれど、しかしこれをまた積極的に操作される行為(つまりシェアするとか)を繰り返す人々もいる。見ていて恥ずかしいけれど、これが主義のようなイデオロギーのようなことがもとになっているのだろう。
何か言いたいより相手を非難したいという気持ちは少しは分からんではない。何しろ一方的に相手は間違っているように見えるわけだし、はっきり言って気に食わない奴というのはいる。敵なんだし攻撃目標として罵倒できる機会を提供してもらっているように見えるというチャンスを逃すべきではないという心理もあるのかもしれない。そのような敵の脇の甘さに付け入るというのは常套手段なわけだが、繰り返すが、揚げ足取りなだけで、事実とは少し筋違いだったりすると、ちゃんと検証された後が恥ずかしいわけだ。ちゃんと悪いはずの人が失言してばつが悪い思いをするより、そんな風に曲解してしまう人の人格の方が疑われてしまう。少なくとも良識のある人なら、そのように理解するだろう。主義は立派かもしれないが、所詮その程度ではないか。
やっぱり自分の主義主張の方が正しいということなのであれば、素直にその論に徹するべきではなかろうか。その上で相手の論に問題がある旨を、ちゃんとつけばいいのだ。政治は社会実験的なところがあって、さらに経済問題となると、そのように実験したところで、間違っているのならそれは手遅れであるとか、取り返しのつかないことにもつながるだろう。だからこそ実行前にそれなりにしっかりと検討する必要があるわけだが、しかし、そのような複雑なものを、簡単に事前検証するなどというのは不可能かもしれない。さらに理解力という問題があって、いくら議論しても最初から聞く耳を持たない場合にはやはり意味はない。いつまでも平行線であるのならば、やはりある程度は無視するより仕方なかろう。どうしても振り向いて欲しいわけでもないし、困るような事態にならなければ、本気に付き合っていくことは困難だ。
そのような背景があって、やはり揚げ足取りは、振り向かせ戦法である可能性もある。主張はともかく、相手の不備が少しでもあれば、溜飲を下げられる。要はガス抜きである。相手はそれでも振り向いてはくれないだろうけれど、仲間内では少しくらいは盛り上がれる。だからサインはこちら側にいるものにさえ伝わればいいのだろう。問題は拡散されるので、不快感がしみてしまうというだけのことなのだろう。
しかしながら多かれ少なかれネットというのは反体制に有利なメディアだと思われるわけだが、その有利さをうまく生かせていない問題というのが目につきすぎる気もする。結局相手にされない程度にしか影響力が無いということもあるかもしれない。ネットの炎上は、社会問題化されるようなところまで、なかなか届く感じではない。広いが小さいという特徴が、そのままこの揚げ足の数の多さと局所さを際立たせているという印象がある。ひとはそういう光景に慣れてきて、なんだか汚いものが道に落ちているようなやり過ごし方で、その場を濁すようになっているのではあるまいか。