悪の法則/リドリー・スコット監督
いろいろあって興行的にはコケたが、なんだか気になって、というか順番が来て借りてみた。最初からだらだら会話が続いて事件が起こらない。なんだか嫌な予感だけがするが、さらにセックスのことには妙にしつこいし、はっきり言ってそんなに感心しない。だからなんなんだよ、という感じもするし、しかしこれが仕掛けらしいこともうすうすわかっているので仕方なく目が離せない。
そうやってやっと後半戦になって、妙な殺し方があって、話が急激に動く。冷酷に残酷に血が流れる。まるでそれが日常みたい。戦争とは違うが、明らかに人間の命の価値が、ガクンと下がる感じだ。しかしそれは獣が狩りのために狩られているということとは少し違う。人間のシステムの中で機械的に処理されているという感じなのだ。もちろん殺されるのは生身の人間で、そうならないようにしているはずなのだ。しかし、そのシステムの中で逃れられず殺されなくてはならなくなっている。だから順を追って淡々と、しかし静かに証拠もシステマティックに消されながら、物事は当たり前のように処理されていく。ドラム缶に詰められて運ばれる意味のよくわからない死体のように、笑えない冗談とされているが、それはシステムにかかわる人たちにとっての警告なのだろう。
実は観終わって、ネットで謎解きのブログをいくつか見た。ちょっとわかりづらかったことの確認と、やはり見ていて自信がなかったからだろう。結果、なるほどというのは多かったし、さらに怖いという意味もよくわかった。度重なる警告を無視して、それでも過信した人間が陥ってしまった世界の不条理を描いているというわけだ。それはちょっとした運というか、しかしおとしいれられていることは間違いがなくても、警告を受けながらそれを真に受けなかったものが受ける仕打ちに違いないのだ。その仕打ちは必要以上に厳しいものだが、不条理というものはそういうものなのだ。すでに選択は過去のことであり、時間は戻らない。どんどん悪くなった世界は、どこまでも落ちていく。逃げられるのは、終わりがあるということだ。結果的に人間の終わりとはなんだろう。つまり、そういうことだ。
狩るものと狩られるものがいる。それは自然の摂理だが、狩るものが選択するのは、警告を無視したものだという法則性があるのかもしれない。狙っていい人間をどのように選択するのかは、狩るものの視界に入るもの、ということかもしれない。次の獲物を前にして腹ごしらえをする姿におののいて終えられれば、それはこの映画を好きだった証拠になるのかもしれない。