カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

七日目で死ぬ人にはつらい  八日目の蝉

2014-10-15 | 映画

八日目の蝉/成島出監督

 よその赤ん坊を誘拐して四年もの間逃亡する女と、その女との母親としてのきずなを感じながら実の母との違和感が消えないまま成長した娘の物語。単純に言えばそういう話だが、この実に残酷に取り返しのつかない設定に、なんだか身悶えるような息苦しさを感じながら観ることになった。逃亡の女もかわいそうなところはあるが、しかしこの罪はちょっと重すぎるのではないか。誰もしあわせになれないどころか、その傷がいえることなどおそらく無い。しかし実際には事情を知らなかった娘には深く愛されていただろうことも確かで、そのことがさらに物事の罪の深さを感じさせられる。せめて数か月の逃避行で失敗していたら、どんなにか気分は違っただろうとさえ思わされた。
 そう、事実上逃避行は失敗したのである。それもちょっとした油断であっけなく。最初は戸惑いもありながらなんとか逃げおおせていたという感じだったが、まさに実の親子的な絆が芽生えた後には、逃げる目的が生きる目的化さえしてしまう。二人で生きる強い意志のようなものが、ある種の復讐を超えて親子として醸成されてしまうのである。一瞬だが観ている者が、これはこのような親子として生きていくことに肯定的な気分になったのではなかったか。そうしてあっけなく逃避行は失敗。当たり前のように子供は実の夫婦のもとへ返され、犯人としての女は罪の償いのために刑務所へと行くことになる。この辺りは当たり前すぎる事実の残酷さに、複雑に目を覆いたくなる気分になる。もとに帰った子供も、本当に慕われることが許されない母親も、同時に地獄のような苦しい日常を送ることになる。正常でいられないもともとの母親は、何か精神も病んでしまっているかのように見受けられる。子供を失った年月の苦しみと、そうして自分の子供から本当には愛されていないことに耐えられなくなっているのだ。そういうことを見るにつけ、返す返す誘拐女の罪深さを呪うわけだが、しかしそうであるからこそ、連れ去られた娘にとっては、かけがえのなくなった真実の母親としての価値が上がっていくことも事実なのだ。なんという悪魔的な恐ろしさだろう。普通に誘拐して身代金を奪うような犯人の方が、数倍罪は軽いのではあるまいか。
 そうしてこの話はそれだけで終わらないのだが、なんだかもう勘弁してほしいという感じにもなる。男である僕にはとても耐えられない。いや、女だったら耐えられるのか。これは男に対する復讐劇なのだろうか。ある意味でそうだし、一見罪の軽そうに見える陰になる男たちは、皆無邪気に残酷である。だからこそ捨てられてしまうともいえるのだが、そのつらさを本当に味わうことすら許されていない。これを女の恐ろしさだと感じる僕のような男こそ、本来は断罪されるべき立場なのかもしれない。しかし、とてもその重さに耐えられるものではない。僕は普通に七日目で死んでしまう蝉なのであろう。
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