カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

政治家の資質に望むこと

2014-10-03 | HORROR

 ちょっと付け加えるならば、政治は基本的に害になることであるというのを、政治家は自覚的であるべきだと思う。政治的に何かをやる、何かを決める、何かを変えるというのは、社会に影響力を持つ。ある意味自然な状態を捻じ曲げる行為も含まれている。
 自然な状態が不自然だという判断もあろうが、事実として力学的に現状がそうなっているものを、政治的には変えうる力があるわけだ。政治でなくても変えられることは多いが、政治で変えられるものは、多くの場合税金や制度を使って現実を変えることが出来る。影響のないことをやっても意味がないので、基本的には話し合いを経て、誰かの思惑を通す作業をやらなくてはならない。個人の思いだけということでなく、現実をどう捉えているのかという判断力が問われている。だから間違っていることであっても、安易にその判断力の無さのために、その間違いに気づかずに、実行してしまう場合があるわけだ。
 もちろん人間の能力なんてものは知れているので、間違うことが含まれて当然だ。要するにいくら自分の信念であっても、間違ったことを堂々とやらかしてしまう自覚が必要なのだ。
 基本的には間違いに気づいた場合修正すべきなのだが、多くの場合政治家はぶれないとかなんとか過去のことを言われるのはつらいので、これを怠る人がほとんどだ。本当の正義というのは、ぶれにぶれてもそのことに正直になるべきだと僕は思う。間違ったことを信念にしている自分には、修正主義でやるべきなのだ。
 政治家に限らず大衆だって人間だ。共産主義なら多数決で物事を決めてよいけれど、民主的な政治体制をとっている国にとっては、少数意見でもくみ取れる道が残されている。政治力というのはそういうことで、多くの人の誤りを正す方法が残されていると考えるべきなのだ。それが政治的な可能性とも言っていいだろう。
 より根拠のある事実を知っている人間が、そのことに正直に向き合って結論を導き出せるならば、それはもっとも政治家に必要とされるべき基本要素だろう。残念ながらそのような人が政治家になっているとは到底思えないから、絶望の風景が広がっているだけのことである。
 望ましい政治家像というのは、単に根拠に基づく理解力の高い人であるに過ぎない。それは誰にでもできることのはずなのだが、そういう人だから現状を正確に読んで、政治家を志さないのかもしれない。
 つまり政治に明確な活路をみいだせないということだ。それが正しい判断であるとしたら、望ましい政治家は生まれえないということになってしまうのかもしれない。
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