カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

佐賀でどこに行こう(その5)

2014-10-06 | 掲示板

 佐賀に行ったから佐賀のことをあれこれ書き出したわけだが、素直に佐賀の残念さを嘆いたりしてみると、この嘆きは特に佐賀だけのものではないことに気づかされる。佐賀はある程度日本の地方都市においての残念さのさきがけのようなところがあるんじゃないか。そんなことを思ったりする。もっとも最初から残念であればそれなりに何の感慨も覚えないものなのだろうけれど、佐賀の残念さというのはジワリとなぜか郷愁を誘うような感じもある。場合によっては明日もわが身。そうなりたくない恐ろしさもあるけれど、本当に個人で逃れられるものなのだろうか。
 邪馬台国がどこにあるのかはつまるところよくわからんといわれているが、たぶん畿内説というのが一番有力なのだろう。昔の本だからいい加減で、あんまり正確なことはよくわからないから混乱するようだけれど、九州説は多少強引すぎるというのが今では主流のようだ。そうなのだがその邪馬台国への道への日本の玄関口がどこだったかというのはほぼ佐賀で間違いなさそうで、今の唐津あたりであったようである。長崎の松浦の方まで含む玄関口であるのは、まさに大陸に近いという環境にあったためだろう。その頃の唐津や佐賀というのは大変に栄えていたらしいことも遺跡などの発掘から見て取れるという。佐賀の語源に「栄える」という意味もあるらしく、まさにそのような栄華にはえる過去があるのであろう。
 江戸時代においても小藩でありながら需要な位置にあり、幕末にも活躍した者が多かった。いけないのは明治以降のことなのだ。豊かな土地柄で農業で栄えていた場所が、さらに長崎を通じて大砲などを作ることに長けていながら、後発の地域に工業化の流れに負けてしまう。石炭などが取れなくなったなどのこともあるが、時代に翻弄されながら着実に衰退を遂げていく。そうして日本を代表する人口流出県になってしまったようだ。いかに過去の繁栄があろうとも、現在力を落としたものに対する外の目は厳しい。長崎県だけでなくとも、佐賀をなんとなく下に見るような視線を投げかけるのは、ある程度共通の認識になってしまったのではなかろうか。そのように感じるような人間の方が器量が狭いということは言えるのだけれど、人間というのはそのような残酷な生き物なのである。相対的に下がいるから自分の位置が少なからず上にあるように錯覚する。そういう精神性の貧しさが、佐賀の地位を下位にとどめておきたい思惑を生んでしまうのであろう。
 逆にとらえるならば、佐賀のようなところが本当に良いということが理解されるような気運が高まると、本来的な地方の復活のようなことも起こるのではあるまいか。もちろん政治的に分配をひねるのもどうかとは思うけれど、佐賀の復興は地方のカギを握っている問題なのかもしれない。
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