カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

性格という厄介なものの考え方   性格のパワー

2014-10-07 | 読書

性格のパワー/村上宣寛著(日経PB社)

 内容を要約すると、性格というものを診断しようとする人々による歴史。要するに昔から皆性格に関しては関心が高かったのだろうということ。で、それらのものは疑似科学と親和性が高いということ。代表的なのは血液型性格診断など。さらに心理学においても、古典的な基礎とされるもの(たとえばフロイトのような精神分析など)は完全に現代では否定されているということ。信じているのは素人だけらしい。現在はビッグファイブと言われる因子(外向性、協調性、良識性、情緒安定性、知的好奇心)に要約して研究が進められ、統計や実験が行われていること。要するにこの因子による統計的な差を見出すことにある程度は成功しているらしいこと。性格は遺伝的な要素が半分以上を占めている可能性があって、要するに教育による変化はあまり考えられないということ。だから幼児教育や親の教育方針などはほとんど意味が無いこと。自尊心のような後から伸ばせそうな要素であっても、備わっている場合と後からでは意味が違いそうなこと。要するに良い特性と思われるものが無理に後で備わるのは、悪影響もありそうなこと。幸福も外的要因ではそんなに差が出ないこと。金持ちであったり貧乏であっても、そもそもの性格で感じ方が違うようだということ。しかしパートナーが居て仕事や社会活動などにある程度関われるようになると、それなりに改善される余地はあること。結局三つ子の魂百までというのは、あんがいそうかもしれないね、というお話なのかもしれない。
 考えようによっては身もふたも無いということも感じられるわけだが、しかし性格によって社会的に成功したり、また働く上で性格というものがある程度の影響力を持つことも、それなりの研究によって明らかにされてきている。そういうことであれば、たとえば採用試験などでは、ビッグファイブによる性格診断を参考に出来る可能性がある。会社のためにいいかどうかわかないが、協調性のある性格の人などは、職業上の成功にはマイナスの要因であるらしい。面白いのはそれぞれの人には多かれ少なかれビッグファイブの因子が複数見られるわけだが、なぜか政治家には二つの因子しか抽出されないらしい。比較的単純な人しか、国際的に政治家にはならないという。まあ、統計だから例外も居るのでしょうが…。
 性格は変えられない(もしくは変えにくい)が自分の特性である。上手く付き合うより無いのだが、やはりこれは、統計を取って何かに利用しようという人がいるらしいことにも問題がありそうな気もする。もちろんいじめ問題など性格と関係がありそうなところもある。いじめる傾向のある人はいじめを止める人間でもあるらしい。いじめられる人をどうこうするより、いじめに加担する傾向の人間を逆にいじめ防止に利用できる可能性もありそうだ。そういう研究が進むということであればそれなりに有用だが、しかし性格が分かるからといって万能であるということでもない(当然だ)。少なくともそのような研究がそれなりにまじめになされているにもかかわらず、多くの人には間違った知識ばかりが横行することの害悪の方が大きいと言えるかもしれない。
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