カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

狂気と嫌悪が生み出す世界 キンスキー、わが最愛の敵

2014-04-15 | 映画

キンスキー、わが最愛の敵/ヴェルナー・ヘルツォーク監督

 素晴らしい才能のある俳優さんであることは間違いあるまい。何よりその存在感というのはずば抜けている。ちょっとした動きにも迫力と説得力がある。観るものを魅了する力が備わっていることに、監督自ら惚れ込んでいるともいえるだろう。しかし、それは俳優としてである。人間としては単なる狂人。普通の変人ではない。異常人格者でもありそうだし、虚栄心強く不信感の消えない変わり者かもしれない。そうして実際に暴れるし暴力を振るうし拳銃を撃ち放つ。迷惑千万だし、場合によっては実際に怪我人も出る始末。映画の世界ということと、辺境での撮影状況ということもあってか警察沙汰にはなっていないらしいのが不思議なことだが、軌道を逸しすぎる行動は、常人ではとても付き合いきれるものではないだろう。
 そのような狂気とともに撮影をすることで、奇跡の映像も手に入れることができる。監督としての生き方の中に、このキンスキーという爆弾と麻薬の混ざったような人間との付き合いがある。ともにやはりどこか狂っている。憎しみ合い助け合っている。一心同体ではないが、危ういバランスながらも、お互いがお互いを必要とし合っている。映像やインタビューは監督サイドの語りだからある程度の偏りはあるだろうけれど、激しい憎悪がありながら、それもかなりうんざりしながら、しかし監督はキンスキーの魅力から逃れることが出来なかったのではなかろうか。
 今ある名声の多くは、この狂人とともに築きあげてきたものだ。被害者のような立場にありながら、しかしそのことも重々承知している。結果的に決別したような後ろめたさも含めて、キンスキーを語ることで自分の監督の姿勢も語ることになっている。奇跡のような映像美は、このような狂気を内包していたからこそ輝かしいものだったのかもしれない。
 僕には芸術というものは分からないが、人間の中のある種のぎりぎりの中で搾り出されるようにして生まれる芸術性のようなものがあるらしいことは、なんとなく理解できる。そうしてそのような、いわばメイキング映像を見てみると、表の映画として完成しているものを支えていたのは、実はこのような嫌悪に満ちたすさまじい世界だったというスクープである。とても尋常な空気ではなく、とてもその場に居たくない無いような嫌な空気。何者もうんざりさせられるような憎悪の連鎖と、やりきれない不条理。そういうものと大自然に抗し難い人間の営みの小ささ、容赦の無い残酷な現実である。普通なら逃げ出してしまって当然の中から、本当に異常ではちきれるような緊張感の中から、結果的には人の心を打つ映像が作り出されていたのである。映画撮影がそのような現場ばかりとは限らないのだろうけれど、これもひとつの演出で、そうしてひとつの真実なのかもしれない。それは彼らの情熱の姿だろうし、何かモノを作り出そうという人間ドラマの真実の姿なのであろう。そうしてまた、狂気を見て感動するのも人間という生き物なのである。まったく奇妙なのはお互い様ではなかろうか。
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