カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

狂気と嫌悪が生み出す世界 キンスキー、わが最愛の敵

2014-04-15 | 映画

キンスキー、わが最愛の敵/ヴェルナー・ヘルツォーク監督

 素晴らしい才能のある俳優さんであることは間違いあるまい。何よりその存在感というのはずば抜けている。ちょっとした動きにも迫力と説得力がある。観るものを魅了する力が備わっていることに、監督自ら惚れ込んでいるともいえるだろう。しかし、それは俳優としてである。人間としては単なる狂人。普通の変人ではない。異常人格者でもありそうだし、虚栄心強く不信感の消えない変わり者かもしれない。そうして実際に暴れるし暴力を振るうし拳銃を撃ち放つ。迷惑千万だし、場合によっては実際に怪我人も出る始末。映画の世界ということと、辺境での撮影状況ということもあってか警察沙汰にはなっていないらしいのが不思議なことだが、軌道を逸しすぎる行動は、常人ではとても付き合いきれるものではないだろう。
 そのような狂気とともに撮影をすることで、奇跡の映像も手に入れることができる。監督としての生き方の中に、このキンスキーという爆弾と麻薬の混ざったような人間との付き合いがある。ともにやはりどこか狂っている。憎しみ合い助け合っている。一心同体ではないが、危ういバランスながらも、お互いがお互いを必要とし合っている。映像やインタビューは監督サイドの語りだからある程度の偏りはあるだろうけれど、激しい憎悪がありながら、それもかなりうんざりしながら、しかし監督はキンスキーの魅力から逃れることが出来なかったのではなかろうか。
 今ある名声の多くは、この狂人とともに築きあげてきたものだ。被害者のような立場にありながら、しかしそのことも重々承知している。結果的に決別したような後ろめたさも含めて、キンスキーを語ることで自分の監督の姿勢も語ることになっている。奇跡のような映像美は、このような狂気を内包していたからこそ輝かしいものだったのかもしれない。
 僕には芸術というものは分からないが、人間の中のある種のぎりぎりの中で搾り出されるようにして生まれる芸術性のようなものがあるらしいことは、なんとなく理解できる。そうしてそのような、いわばメイキング映像を見てみると、表の映画として完成しているものを支えていたのは、実はこのような嫌悪に満ちたすさまじい世界だったというスクープである。とても尋常な空気ではなく、とてもその場に居たくない無いような嫌な空気。何者もうんざりさせられるような憎悪の連鎖と、やりきれない不条理。そういうものと大自然に抗し難い人間の営みの小ささ、容赦の無い残酷な現実である。普通なら逃げ出してしまって当然の中から、本当に異常ではちきれるような緊張感の中から、結果的には人の心を打つ映像が作り出されていたのである。映画撮影がそのような現場ばかりとは限らないのだろうけれど、これもひとつの演出で、そうしてひとつの真実なのかもしれない。それは彼らの情熱の姿だろうし、何かモノを作り出そうという人間ドラマの真実の姿なのであろう。そうしてまた、狂気を見て感動するのも人間という生き物なのである。まったく奇妙なのはお互い様ではなかろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

希望の名前

2014-04-14 | ことば

 キラキラ・ネームをつける親の気持ちなんて分からないと思ってたんだが、別にキラキラでなくても、親は子供に自分の価値観や希望を託すものだという話を聞いて、なるほどと思う。そりゃあ、そうですね。もちろんキラキラ親にしてみたら、おかしいとは思ってなくて、それがいいと思っているわけで、そういう気付いてない態度がさらに痛いと思っていたんだが、しかし、それは彼らの希望の言葉だったりもするのかもしれない。
 一見普通に見えるような名前だって、平和を願って和夫にしたかもしれないし、強い男になるよう勝男したかもしれない。それ自体がそれなりにその時代に聞きなれているだけの事で、それこそ時代が変わって本人が生きている時代によっては、逆におかしな感じにならないとも限らない。いいと思っている価値観が、その人本人に備わっていないと、重荷になってつらくなるかもしれない。子供のいじめの中でも、その響きをもじってやられるものも多いという。たとえば公男という人なら、「キミョー」君などとはやし立てるわけだ。僕もマサアキだから「マスアキ」などと卑猥そうな響きでからかわれたことがあるので、なんとなく分からないではない。まともそうなものであっても、そうそう安心のできるものではあるまい。もちろんいじめ防止の対策まで考えて命名するようなのは考えすぎという気もするし…。
 キラキラのどこに希望の光があるのかは分からないのだけれど、そのように考える心理の中に、やはりその響きのかっこよさとか、面白さだとか、上手く漢字を当てられた自分の頭脳に対する喜びがあるのかもしれない。それはコンプレックスの表れだとしても、そのことの満足感が上回るのであれば、それなりに意味深いのかもしれない。さらにはその親の抑圧された何かの要因が、自分の子供に及ばないように願う気持ちが無いとも限らない。多くの場合は逆効果になるだろうにしても、そこにはある種の純粋さが含まれているかもしれないのだ。
 はっきり言ってキラキラを不快に思う自分というものにも、実はそのことに対する何か強引な価値観の表れかもしれない。おかしなことに気付かない親を馬鹿だと感じるのは、そのような馬鹿な親になりたくない自分の心の弱さかもしれない。また、そのようなことで不幸になってしまうのではないかというよその子に対する哀れみは、自分の子供に不憫な思いをさせたくないという恐怖かもしれない。キラキラの親の問題点は、そのまま自分の価値観の問題なのかもしれないのだった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

事実でもこだわれば害になる

2014-04-13 | 掲示板

 僕は自覚してないが、議論好きな訳ではない。しかし人様からはそういう指摘は時々受けることがある。要は自分の意見を曲げないところがあるためで、さらにこのブログを読んでいる人も気付いているだろうけれど、屁理屈をこねるところがある。そうしてやはり男の血が騒ぐらしく、何とか言い負かすというか、つまり、勝ちたくなるというのがあるようだ。僕は精神的にはレトリックが大嫌いで、細部や事実というものを信奉しているわけだが、これが伝わらないと思うときに、ついつい頑張ってしまうというのがある。そんなものは実際には、本当に大切なことだとは理屈の上では思っていないくせに、でも頑張ってしまう。それで日々反省の酒を飲んでいるという訳だ。
 以前村上春樹のエッセイを読んでいて、事実というのは便宜的に理解していても、生活上何の問題も無いのだから、正確である必要なんて必ずしも無いのではないか、というようなことが書いてあった。具体的にはガリレオさんたちには申し訳ないのだが、地球が太陽の周りを回っているのは事実だけれど、しかし太陽が地球の周りを回っていると信じて生きていても、特に生活に支障をきたすことも無い。決定的に間違っている人なのに、大局的生き方の上では、具体的に誰の迷惑にもならないのではないかということらしい。世界というのは古代の人々が信じていたように、巨大な象が地面を支えているのだと思っていたとしても、その当時も問題は無かったのだし、今もそれは変わらず問題がない。もちろん科学者や天文学者のような人々がそれではかなり困るわけだが、市井の人間がそのような影響力があるわけではないので、実害は生まれ得ないわけだ。
 考えてみるとその事実は、非常に悲しいことを無視するならば、それでいい訳だ。他人からは馬鹿にされるだろうけど、それすらたいした問題じゃない。実際に居酒屋でがやがや議論されていることの多くは、あんがいほとんど間違ったことだらけのようなんだけど、それで社会が崩壊するということは無い。もちろん少しは害があるような気もしないではないが、そういうことにこだわりすぎて人間関係を壊してしまうほうが、実害としては大きいといえるかもしれない。
 しかしそうであっても、やはり間違いは嫌だなとは思うわけだ。実害が無いからといっても嫌だ。しかし僕も間違う。そのことは肝に銘じなくてはと思う。そうして、違った意見であっても、それはある意味で自分の正しさを時には補填してくれる。そうして正しいことであっても、いわゆる時代的に通じない場合も多々ある。機が熟すまでどうにもならないことも多いし、事実で世の中の政治が決定されるわけではない。結局はその正しさというものは、何のしあわせの担保にはなりえないということだ。議論に勝つことは重要ではなく、ぶつかりをそのまま楽しんでしまえばそれでいいということなんだろう。
 ということで、結局は自分を改めない理由が出来てしまった。どうしてこうなっちゃうんだろうね、まったく。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

口笛の音が耳に残って… きっと、うまくいく

2014-04-12 | 映画

きっと、うまくいく/ラージクマール・ヒラニ監督

 今まではインド映画ということわりを入れると、いわばその分を差し引いて、というか、そのことをなにぶんご了解の程、という意味合いが必要だったように思う。もちろん今も必要なところは無いのではないが、ことこの映画に関して言えば、必ずしもそのような配慮は必要無くなっているのではないか。さらに最初に170分あるというのは、多少は知っていてもいいかもしれないが、この長さが苦痛だという人も、たぶん少ないだろう。長ったらしく飽きさせる芸術作品などではない。痛快娯楽作といっていいテンポが、これでもか、というくらい延々と続く。いわゆる何でもありということは出来るけれど、基本的には友情物語にミステリが絡んで社会批判までしてしまって、ちょっとだけミュージカルなのである。やっぱり活字にしてしまうと「なんじゃらホイ」になってしまうのだが、はっきりいってしまうと、僕個人が今年見た映画のベストであると太鼓判を押したい。面白いだけでなく映画として素晴らしい。それは紛れも無い事実で、おそらくこれを観た人の多くはそれに同意するだろう。僕のつれあいも思わず「面白かった~」とつぶやいたくらいで、普段面白くない映画ばかりつき合わせている事に申し訳なさを感じるとともに、一気に汚名返上したような作品だったのである。
 インドのことは良く知らないまま感想を言ってしまうと、やはり社会的に、まだまだ家父長制度というか、そのような階層的な社会が存在しているだろうことが、まず背景にあるようである。そういうことに一番反発するのは他でもない若者で、さらに国中のエリートが集まる優秀な工科大学でのお話となるとなおさらそういう色が出しやすいということかもしれない。しかしそのような大学内であってもさらに激しい競争があり、その社会の中で体育会系的な封建社会もある。そういう環境を打破できるのは、さらに強烈な個性で、主人公の周辺の人々は、この強烈な個性に引き回されながらも、社会的な閉塞感のようなものをどんどん払拭させていくことになる。とんち合戦も素晴らしいのだが、基本的には自分たちで難題を解決して切り開いていく姿に爽快感を覚え、そうして友情の素晴らしさに共感するということになる。
 それにしても、劇中に存在する強大な権力悪の象徴が大学の学長なのだが、その学長そのものが若い頃のからの大天才だったということもあるので、むしろ強大な個性の世代交代劇ということも出来る。そうなのだけれど、この最大の抵抗勢力に抗するだけの物語ではなくて、むしろ積極的にその敵を困らせることで、命に関わるくらい大変な窮地にも自ら陥る失敗を繰り返している。これくらいのことになってしまうと、禍根を残すということでは済まされないような大事になりそうなのだが、いや、事実かなりの事の大きさになってしまうのだけれど、しかし、それでも何とかそれなりの解決に導かれていくように感じられる。そのあたりがおおらかというか、やはり凄いというか、インド以外のほかの国で、このようなことにはならないであろうということがいえるわけで、なるほどインドという大国の懐の深さということなのかもしれない。
 それにしても、映画の始まりのつかみのミステリが、いつの間にか忘れてしまっても、最後にはしっかりと活かされてハッピーエンドになるわけだが、ずいぶん長い映画を観た後になっても、やはりもっと見たいようなしあわせな気分になるのだった。自由に生きるってことの素晴らしさと、やはり友情はいいなあという暖かい気分に浸ることがこれほどにしあわせなことだとは、やはり映画を観て感じていただきたいと思うのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関心の方向違い

2014-04-11 | net & 社会

 率直に言って、何で記者会見なんかしたんだろうね、小保方さん。朝のニュースだとか新聞トップのどアップ顔写真だとか、ものすごい露出だ。結局記者会見の放送の様子は知らないけど、どんどん情報が勝手に入ってくる。国民の最大の関心がこれか、という情けなさもあるけど、このマスコミの力の入りようは尋常じゃないですね。みんな彼女が好きなんだね。佐村河内が懐かしいぜ。
 そうとはいえ、こうしてやっぱり僕だって取り上げているわけで、同じ穴の狢だというのはそうだろう。僕は十分下賎な人間なんで、それでいい。でもまあこの騒動に辟易してるのは僕だけじゃないだろうな、とは思うわけだ。つまるところSTAP細胞が有るのか無いのかという最大の関心は分からんままだし、そのことを聞き出せない会見をやっている記者たちの力量の低さが露呈したイラつきのほうが大きいかもしれない。収穫といえば200回以上成功したと言ってることで、じゃあ、また成功させればいいだけじゃん、というだけじゃ駄目なんだろうか? まったくよくわからん連中だ。ちょっとしたコツというのが捏造なのかどうかを判断すればいいのだから、また誰か立ち会ってやればどうなのか。
 まあ、そういうことなんだけど、テレビの喧騒をよそに、ネット上はあんがい落ち着いた論評もあるので助かる。僕にはよく分からなかったのだが、過去の論文がどうだとか言うような周辺的な追求というのは、あくまで周辺的な追及に過ぎないわけで、それはそれで根本的な問題であったとしても、STAP細胞が有るのか無いかの方が、それを全部ひっくるめて覆すくらい重要であるはずだ。不良だから言っている事が信用できないというのは、科学的態度からは程遠い。過去は過去、現在は現在である。未来も同じなんて錯覚に過ぎないことだ。
 どうもこの会見もそうなのだが、結局は理研と小保方との労務の関係のために僕らはつきあわされているだけのことなんじゃないか。それは彼らの問題であって、一国民の僕らには何の関係も無いではないか。
 そういうゴシップだから面白いんじゃないか、という意見なら僕にも理解できる。そうだったんだ、とそっぽを向けばいい。でも、科学の成果なら話は別だ。早くそっちに戻ってくれよ。
 もっとも、もうそっちに戻りそうに無いのがまた残念だ。小保方さんは出来るだけ会見などはせずに、少なくとも3ヶ月とか半年とか、まとまった時間静かにしていたらいいんじゃないだろうか。結局は騒いでいるのは別の興味だというのがはっきりするだけのことで、まったくどうでもいいことだ。そういう問題に国民の知る権利なんてものでさえ関係が無い。説教をしたい人はお手紙でも書いたらどうだろう。もっとも、絶対に返事は来ないだろうけど…。


追伸: STAP細胞の培養には一回に一週間くらいかかるらしい。一年は52週しかないから、200回以上成功するには…。まあ、数え方が違うとか、毎日培養してるとも言えはするかもしれないけど、やっぱりこりゃ、駄目そうだな。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成人は何歳が適当か

2014-04-10 | 境界線

 成人は20歳か18歳か問題議論というのが、また活発化している。また、というのは、まだやってんの? 気分もある。相変わらず物事を決められない日本というのが根本にあって、議論があっても素直には決まらなかったりする。率直に言って諸外国ではこの議論が持ち上がった後、一気に成人年齢は18歳に様変わりした。いろいろ事情はあるけど、ほぼ9割は既にそうなった。だから日本は変えるべきとは(理由としては)まったく思わないが、できれば決着を見たいものだ。
 しかし先に言うと、今回はちょっと最初から筋が悪い。憲法改正に伴う国民投票の年齢を引き下げる思惑が先にある所為だ。憲法は決まりだから変えられるほうが断然いいけど(なぜなら僕らが作るものだという基本がないがしろにされているから)、手続きを変えるために望んでいない方面を変えていくという手段が姑息に見えるからだろう。もともと18歳引き下げ議論は過去に学生からも盛んに議論されたが、大人が拒否して現在に至ったわけだが、今になって大人が子供に媚びているわけだ。まったく大人って勝手だよ、という図式がみっともない。
 だが、まあ現在の与党勢力からすると、もう決着は見えているということなんだろうけど。だから、さらに情けなかったりするのかもしれない。議論に意味なし。
 しかしながら僕は、年齢引き下げにはこれらの理由以外に賛成だ。何故かと言うと、根本的にダブルスタンダードとか、嘘が嫌いな性格だからだと思う。
 年齢引き下げにはいろいろ法律が絡むので、役場としてはめんどくさくてやりたくないという理由が、まず気に食わない。そんな理由じゃないと思っている人は甘い! 実は本当はそういうところがありそうなのが真相っぽいのが日本じゃないか。
 そうして現実を見ると、事実上18で成人であることのほうが自然だと感じることだ。大学生になったり就職したりという年齢であるのが何より大きい。酒タバコは早すぎるという感覚は少し分からないではないが、事実としては黙認しているはずだ。結局は社会的に嘘をついてその二年余り目をつぶっている。そういう本音と建前の区別期間ということだとまさに日本社会の縮図だが、厳密に言うと嘘だということに違いは無い。嘘が無いと成り立たないのが嫌なのかもしれない。
 さらに、特にこれは大人である自分らを鑑みて思うのだが、大学生は子供だとみなしている大人がなんとなく嫌なのかもしれない。大学生の入学式には親同伴が当たり前になっているし、さらに卒業式までそのようなことになっている現状が、なんとなく嫌なのかもしれない。行きたい人は行ってもいいと思うけど、その数が多いのが気になるところなのかもしれない。そのことに、あまり大きな声で文句も言えない子供としての大学生というのも変な感じだし、それで社会人になって大人になるというは、やはりちょっと違うのではあるまいか。
 時代によって成人年齢が違うのは、文化的にはありうる話だ。しかし現在はまったくの政治問題。しかしその先は法が支配している社会であるといえる。僕は法律を守らない日本の情の社会を改めるべきだと思っている。その上で18でなければならない大人の責任をお互いに考えるべきなのだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英語の勉強と日本語の広がり   和製英語辞典

2014-04-09 | 読書

和製英語辞典/亀田尚巳他著(丸善出版)

 とにかくぱらぱら面白くて時間がつぶせる。さすがに知ってる和製英語もあるが、基本的にあちらで通じない単語が並んでいる所為で、こんなものまで駄目なのかと驚く。文化として流入して浸透したものが多いから、野球の用語なんかも結構多い。そういうものは誤解も受けるだろうし、不幸なことになりかねないとも思われる。そもそも日本人の多くは英語だと信じて使うという悲劇が繰り返されているに違いない。
 そういう単語の楽しさもあるのだが、やはり言葉の使い方や考え方というのもいろいろと分かる。それはともあれ、日本語の考え方でもあるわけで、英語話者の外国人には不思議だったり笑えるものだろうけど、日本人である僕は、なるほどと鏡の中の自分を見るようだ。恥をかくというより、そのまま比較文化論的なことになっていく。言語というのは思想と当たり前に関連する。そういうことがあぶりだされるだけでも貴重な体験である。
 コインロッカーとかカレーライスなどが通じないのは悲しいことだけれど、理由を読んでみると仕方の無いことだと改めて気付く。根本的に違う表現であるということもあるが、単純だからこそ、あまりにも根本的過ぎるからこそ間違ってしまうということがある。しかしそれは、日本人が無知だから(それもちょっとあるけど)間違ってしまうのではなく、和製英語はあくまで日本語なのである。この辞書は大変に有用なものだけれど、著者たちの視点は、そういう意味では誤りを犯している。何故日本人は英語を理解しないのか、という表現がいたるところにあるのがその証拠で、英語を理解してないから間違うこともそれはあるのだけれど、英語らしい表現を使って、日本人に分かるようにした単語が和製英語なのであるから、最初から英語話者に分からないほうが正しいという気さえする。日本語なんだから翻訳が必要だ。結果的にはそれが英語の勉強にもなるわけだが…。
 たとえばカップヌードルは、英語でもおそらく通じる。通じるがおそらく誤解の上である。何故かと言うと、一本の麺だと捉えられてしまい、もう少し量が多いほうがいいな、と思われるだろうからである。英語としてはそのSが無いという意味は大変に大きいが、その意味は日本語的にはあまりに小さいのである。店が閉まったらCLOSEという札を掛けている店は多いがDが抜けていることに疑問を持つ人は少ない。それでも日本人には意味が分かるし、英語話者には気持ち悪さが伝わるわけだ。
 文中にもあるが、日本人は何故多くの時間を英語学習に費やしながら、何故このようなあまりにも初歩的で根本的な理解が出来ていないのか、著者らは不思議に感じているようだ。しかしながら、それはある意味で不思議な疑問に思われて仕方ない面もあるのだけれど、根本的に誤った視点といわざるを得ない。逆に言うと日本語の初歩的な文法こそ説明の難しいものは無くて、どうして前置詞のようなAがつかなくても成り立つのかとか、主語なしでも文章が書けたり、いわゆる「てにをは」のような格助詞の使い方こそ、説明が長ったらしくなってしまう。さらに無意識に使っているが、間違っているというのは瞬時に分かってしまう。
 要するに、日本語と英語という言語の隔たりがあまりに大きいのである。そうでありながら日本語の中には、英語らしき由来の言葉が大量に流入しているのである。米国に敗戦したという国であることも大きいかもしれないが、日本国内ではほとんど英語が必要でないにもかかわらず、英語単語は入ってくる。そういう文化圏だからこそ生まれた新しい文化なのである。さらに言うと和製英語という視点で部分を切り取るからそう思われているのだろうが、当然漢字文化だって日本語である。日本の中の漢字こそ、中国人からすると驚くべき変化と思われているに違いないのである。おんなじ文字を使いながら通じないことがあまりにも多いなんて、それは別の言語である証拠である。今や英語であってもそのような変貌を遂げているわけで、英語らしきものの日本語への同化と見るほうが正しいのではあるまいか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

作った人より馴染んだ人

2014-04-08 | 音楽

 佐村河内問題では他人の作った曲を自分で作ったというから問題なわけだが、最初から他人の曲なんだけど自分で演奏しましたとか、歌いましたというのであれば勝手が違う。著作権だとか使用料のようなものもあるようだけど、ごちゃごちゃいわんと歌ってしまうというのが業界的にありそうだ。さらに著作物の著作権とは違って、曲というのは何年までその権利があるのかもあやふやだ。クラッシック曲でバッハの子孫が著作権料で食っているという話は聞かない。比較的新しい概念の上に、現代でも取る人ととらない人というのが居るんではないか。まあ、そこのあたりは専門外だが、たとえば自分がシンガーソングライターで、最初は自分が歌って泣かず飛ばずで、他人が歌ったら大ヒット、というのもそれなりに複雑な気分になりそうな気もする。金が入ればそれなりに癒されようけれど、そんなことに頓着しない人ならなおさら報われないというのはありそうだ。さらに明らかにカバーなりリメイクなりのほうがいいというのがあって、そういうのはプライドが高ければさらに具合の悪いことになりはしないだろうか。実際にカバー曲のほうが明らかに有名で原曲が知られても居ないようなものは結構あるようで(もちろん聴く側の無知もあるが)、カバー曲のほうがその人の代名詞的なことになっていることも多いような気がする。もちろん曲というのは歌っているキャラクター(シンガー)だけのものではないのかもしれないが、そうなってくると、誰が作ったか問題というのは限りなくどうでもいいような気がしないではない。曲そのものには人格が無いわけだが、そのほうがしあわせな曲だって、感情的にはありそうなものである。もちろん、根本的にはパクリとは違うということはあるが、その境界線にある曲というのは相当数存在することはあるだろうし、誰でも人には影響を受けざるを得ないものである以上、これからも境界線にある曲というのは無くなりはしないだろう。結局はその曲の周辺にいる人が、どのように感じてその曲に向き合っているかということを、さらにその外側に居る人がどのようにピックアップして感情移入するのかということにもなるのかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大きな舞台のミステリーショー   大誘拐

2014-04-07 | 読書

大誘拐/天藤真著(創元推理文庫)

 古典的なミステリの名作だが、謎解きを楽しむというよりは、その破天荒なストーリーをユーモア小説として楽しんだという感じだった。人を食った展開もそうだけれど、スケールがでかくなり過ぎて、御伽噺という感じがぬぐえない。しかしまあ古典だから、時代背景もあったのかもしれない。今となってはこのようなカリスマが現れても、そのまま動くような人間模様が描けるものなのだろうか。そういうことはあるにせよ、名作の名にふさわしい作品ではあって、気楽に楽しみながら感心して読むということになるのだろう。
 犯罪を犯すことは悪いには違いないが、特に誘拐というものほど卑劣な行為はなさそうに思う。たとえ危害を加えないということであったとしても、さらわれた本人や家族の心情を思うと、とても尋常におられない窮地に陥らせてしまうことに変わりは無かろう。さらに犯人側としても誘拐した人質と接触するだけでなく、身代金の受け渡しなどで再度家族や警察と接触しなければならないわけで、非常にリスクの高い犯罪ということが言える。ゲリラのような武力組織であるとか、一種の無法地帯のような特殊な背景があったとしても、そう簡単に成功するものとは考えにくい。結果的に人質の命が失われるという結末が多くなってしまう悲惨さが付きまとうのである。
 それでも一定数の誘拐事件が発生してしまうのは、誘拐される相手が無防備ならばそれなりに安易そうに見えることと、さらにターゲットとされる側の経済状況などが、比較的に公の場合が多い所為ではなかろうか。お金を持っているらしい人に普通に頼んでもお金を分けてはくれないが、人質と交換条件なら出してくれそうである。わがままで強引な理屈には違いないが、一応筋として誰もが理解しやすい考え方ともいえるかもしれない。
 成功しないのにチャレンジさせてしまうのは、さらに成功したような事例も過去にあるということもいけないのかもしれない。誘拐事件は大きなニュースになるから記憶にも残る。ほとんど失敗しているのに、過去の解決に至らなかったミステリの記憶が、犯人たちの判断を狂わせてしまうのではなかろうか。さらに銀行強盗や金庫破りのように、いわば特殊技術を要する必要がなさそうで、数人の共犯者が居れば計画を実行できそうなことも、引き金を引く要素になるかもしれない。さすがに近年はその数が減っているように見えるけれど、表に出ない駆け引きの材料として人質をとってお金を巻き上げるというようなことは、あんがい犯罪としては相当存在するのではなかろうか。ある意味で振り込み詐欺のようなものだって、人質を具体的にはとらずにお金を騙し取る手口である。誘拐の亜流というか、派生犯罪という捕らえ方も出来るのではなかろうか。
 さてそうではあるが、ことこのお話としては、まったくそういう要素は皆無という感じなのである。健全なる誘拐事件。そういう変なアイディアのさえる痛快作ということなのだろう。大きな舞台を見ながら皆が騙されることに快感を覚える。一種のマジックショー的なミステリ作品なのではないだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謝罪は頭を下げないように

2014-04-06 | culture

 今や謝罪会見は見慣れたものになったが、それでも僕は生活上ほとんど見ることは無い。ところが時々集中的に見ることがあるんだが、それはほかでもなく、民放を誰かが見ているときなのだ。普段は民放を見る機会がないというのと、さらにそういう放送局でニュースが流れるタイミングが重ならなければならないということかもしれない。
 基本的におざなりに、おそらく会社の役員がそろって横並びになり頭を下げているのであるが、変わらないのはその頭頂部に向けて、やはりカメラのフラッシュがたかれていることである。謝っている人たちは気の毒だと思うが(いじめにあっているのと同じだから)、いまだに性懲りもなく、やはりこれがニュースバリューだと信じている連中がたくさんたかっているということは変わらない訳だ。まったく変な国だとつくづく感じる。
 はっきり言って、もう謝るのは止めたらどうだろう。いや、謝罪は必要な場合があるのは分からないではないが、いくら日本で商売しているとはいっても、海外の会社がこのような記者会見で頭を下げるということは無いわけだ。日本法人のようなものがあれば、そこの日本人が頭を下げるわけだけど、そういう村的な日本人だけが卑屈に頭を下げて、それで面白がってフラッシュをたいて喜んでいるのを見ていて喜んでいる人がいるというのが何よりいやらしい。どこまで卑しい国民性なのかということなんである。普通に見苦しいというのもあるけれど、なんとなく責任が軽いということも言えるし、ヤクザのような嫌な空気を共有しているという感じもする。そういう立場になれば僕だってやるだろうことも悲しいし、さらにはっきり言ってこれで何の意味のないことも悲しい。心証に違いがあるんだとまことしやかに言う人も居るけど、そんなことが関係あるということの方が、実際上は問題だ。まったく日本的なこの習慣は、村社会と甘えの精神の表面化であるという感じがする。
 それにしても、僕がなんでこうまでこのような謝罪風景に嫌悪感を覚えるのかというのも少し疑問だ。日本人としての恥ずかしさを覚えるというのが一番にあると思うが、やはりこれが記者会見のような公的な会見であることが大きいのかもしれない。個人的な問題でのやり取りで頭を下げるというような習慣があるのは仕方のないことだとは思うが、社会問題としてまったくの無関係ではないにせよ、直接的には関係の薄い問題であるものであっても、全体的に謝罪させられている風景を見なくてはならないことに、大変に不条理を覚えるということなのかもしれない。さらに要求する心情もいやらしいが、これに断れない過失を背負った人間のつらさに付け込まれていることを理解できることが、何より苦しい気持ちにさせられるのかもしれない。本当に相手の事を互いに考えるのであれば、謝罪より具体的な善後策の提示の方がはるかに建設的で大切なことなのではなかろうか。謝罪会見をするようなまともな組織であるのならば、謝ったから済むというようなことは無いとは思うが、そこのところはあいまいに残らないような追跡の取材も必要だろうし、また逆にこのような謝罪さえしないような組織の方が逃げて何もないだろうことを思うと、まったくの不条理を超えて不公平の極みである。いっそのことショーとしての謝罪会見には頭を下げるなどの行為は写さない配慮が大切なのではあるまいか。それが出来るようになれば、社会的な自立度も自然と向上できるような気もする。
 まあ、結局は単に不快ということに過ぎないのだが、そう思わない人が多いというような日本社会が、何より嫌悪の対象なのかもしれない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

腹は減るけど最近は少し写真が減ったのであった

2014-04-05 | 
 引越し騒ぎが嵐のような状態だったので、いろいろ思うように行かないことが多かった。



 食べ物UP禁止令がつれあいから出ており、撮影も上手くいってなかった。




 そういう家庭の事情を乗り越えて、何とか写真に収めるのも一苦労である。



 友人にいただいたものなら撮影はOKだったが。
 そのいただいたミナ。





 その上に、実はダイエット中は継続していた。僕は個人的には忘れかけてたが、思い出すと、継続中だった。









 でもこうやって食うものは食わねばならない。食うことは生きている営みだからだ。

 さらに嬉しいことに頂き物もあった。





 お祝い事だってある。





 日々の給食や日々の夕食。













多少時系列はばらばらだけど、まったくいろいろ食うもんだね。









このときは休肝日だな。




引越し騒動の簡易昼食。






晩御飯。










で、そば正さんでも飲み会あったね。










カップめんも買い置きあったりする。





家でもしっかり。






以前にFBで黒ビールは遅い時間で、黄金色は早い時間と書いたんだが、実はガセネタで、単に安かったから黒だったりするときもあるということらしい。ここでささやかに訂正いたします。




職場での賞味期限切れ卵入りラーメン。





牡蠣入りスパゲティ。




つぼ鯛もご馳走だね。





確か博多ラーメンと書いてあった。







臨時オヤジ会もあった。






で、いただいた讃岐うどん。



 とまあ、最近とはいえ、もう少し前の話になってしまった。

 最近はスマホになったのでカメラを持ち歩かなくなったのだけど、スマホだとUPの仕方がなんとなくブログでは面倒になってしまった。まだまだ試行錯誤は続くようです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鯨の味は忘れてはいけんです

2014-04-04 | culture

 最近のニュースで、ショッキングでありながらなんとなく盛り上がりに欠けるような空気があったのは、国際司法裁判所で日本の調査捕鯨の禁止の判決が出たことだろう。控訴もできないらしいし、完全敗訴で実際に南海洋で調査捕鯨は中止されることになろう。日常的とまでは行かないまでも、世界文化遺産にある日本食が毀損されたことは間違いあるまい。まったくそういう矛盾に無頓着で傲慢な西洋文化にはあきれる思いだが、文化に上下があるようなことに抵抗が無い人たちに、何を言っても理解されないだろう。
 とまあ、息巻きたいところなんだが、実際はやはり冷めている。それというのも、日本政府としてもそもそも調査捕鯨は止めたかったというのが真相のようだ。国際司法裁判所では、たとえ訴えがあったとしても、受けなければ裁判は成立しないということで、さらに反捕鯨国ばかりが裁く側だったことから、日本が受ける時点で負けを想定していたふしがある。韓国との領土問題の舞台にさえならない場所に、あえて臨んで負けを認め、そうしてその通りにすることで、将来そういう問題でも有利にことを進めるという算段さえあるという話もある。日本がそこまでしたたかだったことはあんまり無いから驚きの理屈だけれど、負け惜しみとしては良くできた話である。
 というのも、そもそも調査捕鯨という方便に、無理があったことは間違いなかろう。そういうことにして表面上は収めて下さいよ、という了解の通じない社会なのに、日本的な甘えでそういう方向に動いてしまった失敗があったのだろう。自国の食文化に他国の干渉を許さないという態度をとっている他の北欧などの捕鯨国は堂々と商業捕鯨は続けているわけだし(ただし、南海洋までは出向かないようだけど)、完全に失敗した理論武装で勝負を続けられないということなんだろう。しかし国内的には止めるとはいえないし、止めさせられるという方向でお互いを収めてしまおうという卑屈さも感じる。まったく国内向けには、いろいろ卑屈な策を弄するということが平気な国なんだということだろう。
 相手のことを考えるというのは大切なことだとは思うけれど、対話というのはやはり、自分の正当性をある程度はストレートに主張できるようになる必要が、さらに確認されたようにも思われる。そういうことをいうとタカ派の主張のように勘ぐる人もいるようだが、いくら苦手だからといって、やはり対面対話を避ける策ばかりは、じわじわ後退して負けるという結果にしかなっていないのではないか。鯨はしつこく食い続ける努力は失ってはならないし(というか文化なので止める止めないの問題ではない)、この敗北の味は、やはり忘れてしまってはどうにもならないのではなかろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定着しないけど、それでも見られる文化

2014-04-03 | culture

 さすがに当日だと楽しんでいる人に悪いと思って控えていたが、なんとなく4月馬鹿というのは上手く定着していないようにも感じる。子供の頃にはそれなりに目をぎらつかせて張り切っている友人が居たが(まったく逆効果)、まあ、短いジョークの類で、なかなか続くものではない。誰かさんが呼んでたよ、というたわいないものが多かったし、そんなに笑えないめんどくささが残ったかもしれない。
 大人になっても、エイプリル・フールを楽しむというか、却って難しく感じたりする。基本的に仕事は信用第一だ。くだけた場で上手いジョークとしての担ぎ方というのは、なかなか考え付かないものらしい。一度キャンペーンで今日限定契約には豪華電化商品をつけるといわれたことがあったが、それでもいらないものだったのでむげに断って、却って白けたことがあった。分からない人間が悪いというのもあるが、やはり難しい。
 社会運動系の良いこと嘘というのがあって、動物愛護のリボンをつけようとか、そういう連鎖を促すちょっといいことをやろうという啓蒙を含んだようなのもあるようだ。それちょっといいね、というのがいいので、ネタとしては嘘でも、ほんとになったらいいのにね、という共感を呼ぶものらしい。そらぞらし過ぎない程度というのもあるけど、上手いこと考えると面白くなるかもしれない。
 時期もあるけど、4月から転勤しましたとか、どこか(リゾート地など)旅行に行ってます系もネットなんかでは多い。きれいな風景の写真が添付してあったりして、この人はこういうところに行きたいのだな、というセンスも分かったりして、いいかもしれない。これも、いいね!系なんだが、一緒にノッて展開しているのに、エイプリル・フールですね、とネタばらしする人が必ず居て、ちょっと残念。会話のテンポとは違うので、そういう掛け合いというのが難しいのかもしれない。
 メディアだと歴史的に火星人の襲来だとか、面白い嘘の風習の紹介だとか、また事件の捏造まがいのものなどいろいろあったようだ。どれもやはり海外のものが中心で、日本だと特にニュースのようなものでは、まだ無理という感じだ。それで当然ともいえるわけだが、やはり基本的な文化の違いだろう。銀行強盗や名画などの盗難など、いろんなことが過去の4月1日に起きたらしくて、もう、ちょっと構えている人には飽きられているのではなかろうか。
 西洋人が冗談が好きで、日本人がそうではない、という話は聞く。そのように見えるという印象だろうが、おそらく冗談の内容で、人を担ぐ系のものが日本では少ないだけではなかろうか。ほら話とかとんちものというのは物語としてはあるけれど、担いで冷やかして笑うというのは、いまひとつ定着しない感じがする。なんとなくどぎつい、ということなのだろうか。あちらの国ではおとり捜査というものもあるようだし、人を引っ掛けたほうが賢いという、勝負をかけるような感覚があるように思う。日本では悪い奴しか基本的に使ってはいけないという感じがするのではないか。
 また、パイ投げのようなものでも時々思うけど、ああいう具合に人を笑うというのも、いまひとつ入り込めない場合があるように思う。日本にだって羽根突きで負けたほうが墨を顔に塗るようなのがあるけれど、負けたんだから仕方が無いという感じのほうが大切である。あちらのパイは、巻き込まれたほうも大人の態度で笑って済ませる度量が無いと成り立たない感じであって、有名人だからというだけで狙われたりしている。してやったりということかもしれないが、そんなに面白いとは思えない。
 楽しければいいじゃん、ということに過ぎないけど、それでも騙すのは難しい。ちなみに僕は毎回つれあいに騙されているわけだが、そんなの嘘だろ、と思っても真剣な表情のままだったり困惑顔だったりするとへらへら笑ってもいられない。不安な時間が長いとその場から逃げ出したくなる始末だ。要するに根気が足りないのである。すぐにネタ晴らししてくれるから、開放感で助かったと思うので、一種のいじめである。もう過ぎてしまったので、かなり安心である。平常どおりが一番平和でいいのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんとなく損しているような不条理感   レ・ミゼラブル

2014-04-02 | 映画

レ・ミゼラブル/トム・フーパー監督

 これを観ながら思い出したが、子供の頃に「ああ、無情!」を観ていて、結構イライラした事があった。何で大して悪いことをしてないのに付け狙われて苦労して嫌な思いをして、さらに不幸に陥らなければならないのだろう。しかし何故かこの話は繰り返しいろんなバージョンで観る機会があって、全部をもれなく観たわけではないが、その都度決まってイライラした。そうして時を経てこのようにまた性懲りも無くこの物語を観てしまって、変わらずイライラしながら観終わったわけだ。まったく成長の無い人間とは自分のことである。もっとも、みなもと太郎の漫画だけは何故か妙に感心したのだが、それはこの物語にちょっとした意外性を含めて語られていた所為であろう。
 さてしかしそれなりの評判を聞いて観る気にはなったわけだが、ミュージカルである。僕はタモリと同じで以前はミュージカルを見ているとなんとなく白けてしまうことがあったのだが、その後僕自身は大人になり、今となってはなんと!イライラしながら観ていたはずなのに、歌が始まるとなんとなく落ち着いたのだった。何たる不覚!何たる変化! とまあ、そんなに驚くべきことではないはずなのだが、作り物としてのジャンバルジャン物語が、ミュージカルだと却って活きている感じなのかもしれない。どの道作り物じみて、妙に左翼がかったお話である臭さというものが、何故だかミュージカルだと和らぐ思いがするのかもしれない。
 ところでこのような不条理に僕の正義の心が揺さぶられてイライラするらしいというのは分かるのだけど、さらにイライラするのは、正当なほうが主張する精神論や感情論の不条理ということもあるのだ。たとえばシングルマザーが子を持ちながら働くつらさは理解しているが、不当解雇されてしまえば、その不当な部分では争わず、子供が居るのに!という感情論でことを運ぼうとすることに頭の悪さを感じるのだ。まっとうに戦えばチャンスがあるものを、むざむざ敵のどうでもいい部分に訴えて負けるのである。騙されていたり、相手の勘違いがあるのなら、そこのところをもう少し正確に突かなければ上手く物事は運ばない。結局物事は妙な複雑な絡みを持たざるを得なくなり、逆恨みなど別のベクトルでの感情論が更なる悲劇の連鎖を生んでしまうのである。どこかでそれを断ち切る事実に頼るべきなのだが、ジャンバルジャンは精神論で敵を許してしまう。まったくどうしようもない馬鹿である。そのことでまた人の命は粗末に失われてしまうのだった。
 それでもこの物語が人の心を打つとしたら、やはり精神的な浪花節が、人々の感情を揺さぶるからかもしれない。僕にはこれが子供の頃から一貫して分からない。たとえ浪花節が海外のものであろうとも、日本人と共通の人間の心が分からないということなのであろう。まったく妙な確認のために繰り返しイライラさせられるわけで、損な人生を送っているような気分なのであった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グラサンといえば…

2014-04-01 | 雑記

 サングラスといえばまず思い出すのはマッカーサーだ。実体験で無い僕がそうだから、多くの先輩方は、もちろんそうだろう。新たな日本の神様だと思った人も多かったらしいが、結局は失言によりその感情からは失墜したという感じはする。朝鮮戦争でも原爆を落としたがったことは有名で、名目は米兵を守るということだったかもしれないが、もっと違った思想を持っていそうだったことは想像に難くない。幸か不幸か日本の歴史には大きな意味のある人物だったことは間違いあるまい。
 そういうこともあってか、外国人とサングラスは、割合受け入れが素直である。白人は日光に弱いという話も聞いたことがあるが、そういう考えも認めてもいいが、基本はファッションだろう。目を隠すという意味のサングラスもあるのですべて変な印象を持っているわけではないけれど、日本人とサングラスは、何かちょっと強い印象を残しすぎるような感じがある。
 ヤクザな人がグラサンをしている、という場合も一時は多かった。カッコつけているということはあるが、基本的には自信が無いということもありそうだ。ガンをつける、という商売柄もあるから、目がかわいかったら支障があるのかもしれない。
 普通はだから、日本人のサングラスは、なんだか嫌な感じは付きまとうようだ。あんまり嫌な感じが無いような人といったら、多くの場合芸能の世界の人かもしれない。
 その代表格は他ならぬタモリだろう。最初は深夜のキワモノ芸人という感じだったけど、表舞台でも好印象を持って現在に至っているように思われる。僕としては下品なほうが好印象だけど、芸の割には悪い人そうでないところが業界を越えて愛されているということもあるだろう。もう働かなくなっても何の問題も無いと思うけど、こういう世界はそう思わない人も居るかもしれない。
 さらに歌手なら浜田省吾とか陽水ということになるか。両方ともオクテなのでしている感じはする。表に出なくてはならないけど苦手だとサングラス、ということはあるかもしれない。矛盾を抱えるのが人間だから、却って素直な反応と言えそうだ。浜田省吾はコンサートの会場のホールなどでグラサンをはずして客の流れを眺めていても気付かれないという話があって、そうであれば覆面レスラーと同じ装着物としてやっているのかもしれないけど。
 夏の海でグラサン姿のお兄さんが結構居るけど、あれは結構スケベ心が透けて見える気がするのは僕だけだろうか。
 しかしながら、やはりそんなに印象の良くない代名詞なのは、金正日の存在も大きいかもしれない。アジア的なかっこ悪さと色眼鏡の連携があって、すこぶる嫌な印象が決定づけられてしまったようにも思う。ああいうセンスというのは嫌悪の対象ではないだろうか。
 さらに最近のことを言うと、佐村河内というのが追い討ちをかけている。もうなんといっても怪しすぎる。スタイルを変えても別人にしか見えなくて、やはりそのままグラサンし続けて欲しいとさえ思う。悪い人間ならそれらしくグラサン人生を送るべきではないのだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする