カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

開放される喜びのある娯楽作   女のいない男たち

2014-04-23 | 読書

女のいない男たち/村上春樹著(文芸春秋)

 とりあえず読んだ。以前から言われていることだが、村上春樹はちょっと文学的な感じのするポルノだから読まれるのだ、というのを思い出す程度にはポルノ色の強い作品群である。もちろん恋愛を語ることにおいて性を排除するのは適当ではない。そういう側面から目を背けられることで、おおかたのリアルさの大半が失われかねない。しかしながら心の喪失を性的な面から見るということになると、やはりその印象が強すぎるために、感情の機微がかえって損なわれることもある。厄介で難しい問題がそこには横たわっていて、そうしてそういう心の傷というものから目を背けたくなるような厄介な問題について、あえてこの作品群は語ろうとしているように見える。
 性と感情は、当たり前だが、それはまるでスパゲティのように絡み合っている。どれが性的な欲求で、どれが精神的な純愛かなんて考えても仕方が無い。性が無いから崇高だとか、性があるから汚らわしいということも、本来的には無い話だ。しかしそうとはいっても、純粋に愛が無い性行為というのはあるように思える。具体的に男性というのは、とりあえず射精してしまえば、性欲に限っていえばだが、一時的に消失してしまう(ように感じられる)。女性のことは残念ながら分からないが、愛があった性欲だって、なんとなく少し勢いが失われる(あくまでそのような感じがする)。もちろん満足感でさらに強い愛の確認が出来るということは事実だが、しかし、すべての性交が、実際にはその感情のすべてではない。男においては、なんだかそういうことに、少なからぬ罪悪感のようなものや、消失感のようなものや、はたまた人間性においても、なにやら欠陥のようなものを抱えているような気分がある。そういう生き物だというのは簡単だが、感情的にはすとんと納得できるものではない。さらに上手く言い難いが、年齢的にはこれがやはり変化する。性的な能力はかなり減退するわけだが、性欲が落ちるのかというのは、なんだか少し形を変えて、具体的な射精以外の欲求を含めて、単純に落ちていくものではないように思える。そして相変わらず女性のことは分からないわけだ。
 自分の中のそういう欠陥めいたものは謎のまま、しかし女性の性欲(のようなもの)の前に、たじろいだり逃げ出したりしてしまう。たぶん、そんなようなことを上手く処理できない男達がいて、そういう戸惑いはワインのそこにたまるオリのような感じで、いわゆるまぜっかえさないと上手く認識できなくなってしまう。時にはそれでよい結果になり、しかしそれがかえってもっと厄介なことになってしまう。
 よく出来た物語が多くて、時には笑えるし、やはりなんとも上手いものだと感心もする。しかし同時に、やはりよく考えてみるとありえない不思議な話が多く、それは何かのメタファーだとは分かるものの、本当にそんなものかな、という疑いももつ。それは作家との年齢の差の所為かもしれないし、単純に経験値の違いなのかもしれない。そうそう、性的な問題というのは、やはり個人的な体験が強すぎて、簡単に比較できない。そこが何より厄介だし、共感の難しいところなのかもしれない。
 村上作品だから、当然多くの人がこれを同じように読むわけだ。で、これのことに何かを語るということになる。そういう状態が既にホラー的なのだが、やっぱり結構怖い話が多かった。そういう怖くて落ち着かない話を読み終わって、とりあえずホッとしている感じが強いかもしれない。少なくとも僕は、この小説世界のような感じにとらわれて、長く生きていくのはつらい。それは誰だってそうなのだろうけれど、その開放感を味わうだけでも、娯楽としていい話なのではなかろうか。
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