カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

謝罪は頭を下げないように

2014-04-06 | culture

 今や謝罪会見は見慣れたものになったが、それでも僕は生活上ほとんど見ることは無い。ところが時々集中的に見ることがあるんだが、それはほかでもなく、民放を誰かが見ているときなのだ。普段は民放を見る機会がないというのと、さらにそういう放送局でニュースが流れるタイミングが重ならなければならないということかもしれない。
 基本的におざなりに、おそらく会社の役員がそろって横並びになり頭を下げているのであるが、変わらないのはその頭頂部に向けて、やはりカメラのフラッシュがたかれていることである。謝っている人たちは気の毒だと思うが(いじめにあっているのと同じだから)、いまだに性懲りもなく、やはりこれがニュースバリューだと信じている連中がたくさんたかっているということは変わらない訳だ。まったく変な国だとつくづく感じる。
 はっきり言って、もう謝るのは止めたらどうだろう。いや、謝罪は必要な場合があるのは分からないではないが、いくら日本で商売しているとはいっても、海外の会社がこのような記者会見で頭を下げるということは無いわけだ。日本法人のようなものがあれば、そこの日本人が頭を下げるわけだけど、そういう村的な日本人だけが卑屈に頭を下げて、それで面白がってフラッシュをたいて喜んでいるのを見ていて喜んでいる人がいるというのが何よりいやらしい。どこまで卑しい国民性なのかということなんである。普通に見苦しいというのもあるけれど、なんとなく責任が軽いということも言えるし、ヤクザのような嫌な空気を共有しているという感じもする。そういう立場になれば僕だってやるだろうことも悲しいし、さらにはっきり言ってこれで何の意味のないことも悲しい。心証に違いがあるんだとまことしやかに言う人も居るけど、そんなことが関係あるということの方が、実際上は問題だ。まったく日本的なこの習慣は、村社会と甘えの精神の表面化であるという感じがする。
 それにしても、僕がなんでこうまでこのような謝罪風景に嫌悪感を覚えるのかというのも少し疑問だ。日本人としての恥ずかしさを覚えるというのが一番にあると思うが、やはりこれが記者会見のような公的な会見であることが大きいのかもしれない。個人的な問題でのやり取りで頭を下げるというような習慣があるのは仕方のないことだとは思うが、社会問題としてまったくの無関係ではないにせよ、直接的には関係の薄い問題であるものであっても、全体的に謝罪させられている風景を見なくてはならないことに、大変に不条理を覚えるということなのかもしれない。さらに要求する心情もいやらしいが、これに断れない過失を背負った人間のつらさに付け込まれていることを理解できることが、何より苦しい気持ちにさせられるのかもしれない。本当に相手の事を互いに考えるのであれば、謝罪より具体的な善後策の提示の方がはるかに建設的で大切なことなのではなかろうか。謝罪会見をするようなまともな組織であるのならば、謝ったから済むというようなことは無いとは思うが、そこのところはあいまいに残らないような追跡の取材も必要だろうし、また逆にこのような謝罪さえしないような組織の方が逃げて何もないだろうことを思うと、まったくの不条理を超えて不公平の極みである。いっそのことショーとしての謝罪会見には頭を下げるなどの行為は写さない配慮が大切なのではあるまいか。それが出来るようになれば、社会的な自立度も自然と向上できるような気もする。
 まあ、結局は単に不快ということに過ぎないのだが、そう思わない人が多いというような日本社会が、何より嫌悪の対象なのかもしれない。
コメント
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