カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

抱いているのは期待感

2014-04-25 | 時事

 韓国の旅客船沈没は、まったくの大惨事となっているようだ。多くの行方不明者(行方は船内だとは思うが)が残されているが、どうにも絶望感が漂っている。事故の規模もさることながら、その後の事故の経過が分かるにつれ、船会社や船員のヘの批判が大きくなっている。ひいては韓国社会そのものへの絶望感のような空気まで漂う雰囲気が感じられる。犠牲者の多くが若い人だったこともあるだろうし、韓国社会の大人たちが、韓国社会そのものに持っていたジレンマに、改めて対峙させられているという構図なのだろう。
 事故としては大変に痛ましい限りだし、単なる対岸の火事ではない出来事である。しかしながらちょっと気になるのは、なんとなく、この状況に溜飲を下げているような日本人が多いような感じかもしれない。そしてその感覚は、かすかに共感がつたわるもので、そこのところが自分自身でも、何かちょっと変な感じなのである。もっと追い込んで深く反省してもらいたいような、期待のようなものが複雑な心境を生み出している。
 もちろんそれは、韓国と日本の不幸な関係状態が続いているのが原因である。個人的に韓国人に対して何の恨みの感情も無いけれど、しかし韓国政府をはじめ、韓国人社会には、日本人の多くが辟易させられているといえるだろう。日本にも反省すべき点は、それは確かにあるだろう。しかし韓国に対してそんなことを示すのは、もうはっきりいってうんざりで、する気が失せているという感じかもしれない。こちらが反省しても、まったく意味が無いような感覚かもしれない。お互い様が通じない隣国へのまなざしは、日本人のジレンマになってしまっている。
 そこに来てこの事故が起こった。反省をしない見本のような国が、初めて反省しているような姿を見せている。痛ましい事件を悲しむよりも、何か以前からのぬぐいきれない感情のほうが癒されているということなのだろうか。しかしながらその感情そのものは、多少は致し方ないとは思うものの、やはり、どこか健全とはいえないものを含んでいると思う。どうしてもそう感じてしまう器量の狭いものが、同時に嫌なのである。
 もちろん、この事故が、ひょっとすると韓国社会を変えるきっかけになるかもしれない。それは日本にとっても望ましいことであって欲しいのである。今の状態が不健全なのは誰の目にも明らかで、しかし日本が譲歩する余地はなさそうに見える(少なくともこちらからは)。そういう中で変わるべきものは、韓国社会しかないからである。問題は本当にそういう力を今の韓国社会が持っているのか、ということかもしれない。基本的に親戚のような社会でありながら、しかしやはり決定的に日本とは違う国である。その期待が失望に変わらないように、まだまだ見守る必要があるのだろう。
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