カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

失われた本能について   マダガスカル2

2014-04-20 | 映画

マダガスカル2/エリック・ダーネル、トム・マクグラス監督

 2なんだが、1は知らない。テレビのものを録画しておいたようだ。いつものことでファンタジーなんだからつべこべ言ってはならないが、結構なご都合主義を感じるのは、やはり現代批評じみたものを感じるからかもしれない。人間の欲求として動物を実際に見てみたいというのがあって、生きている動物は動物園で見られるわけだ。監禁というか軟禁というか、自由を奪っていることに変わりはないし、保護しているという見方だって利己的な立場だから言えることだ。しかしそこのところをやかましく考えなければ、動物園は素晴らしい娯楽施設である。そういうことをどうしても考えさせられるわけで、動物園の動物たちが野生の王国に舞い戻ったならば、あっさり死んでしまうだろうということは分かっていながら、都会的なたくましさで何とかなるような幻想を抱いてしまうのは仕方なかろう。だからファンタジーで楽しければいいので、いまさら遅いがつべこべ言ってはならないのである。
 もちろん人間世界に分かるように言語を操らなければならないわけだが、動物たちが人間のような言語によるコミュニケーションをとっている可能性は低い。いや、いわゆる考えであるとか議論などはしないまでも、警告や感情を表して共感があるだろうことは想像できるものの、実際はどうなのかは聞いても分からないわけだ。ましてや種の違う動物同士が意思をつながらせることはほぼ絶望的だろう。しかしファンタジーならそれが可能だ。いろんな環境を乗り越えて、それらしい背景と思想を持っているように見える。それ自体が絵だけでない動物の個性やデフォルメになっていて、それらの考え方が、必ずしも西洋的な視点だけで理解不能に陥らないほどに、われわれと共通するものであることが確認できる。そういうところは面白かったのだが、そういう典型的な人間がある種の動物に持っている偏見ともいえるわけで、あんがい人間とは自由でないという疑いは残る。自由なデフォルメで擬人化しておきながら、結局発想は本当に自由ではないわけだ。
 しかしながらその動物たちの集団的な個性というのはいったいなんだろう。習性があるのは確かなことだが、種としての個性というのは、やはり人間のように多様ではないのかもしれない。人間は人間という種で生き残る目的を既に失っているように見えるが、他の動物たちは、種として生き残りを全体主義的に持っているようにも感じられる。そういうことを、動物の個性的なキャラクターに演じてもらうことで、さらに考えさせられるわけだ。つくづく本能の壊れた生物という特殊な立ち居地が、生物としては不思議なのかもしれないと思うのだった。
コメント
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