カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

大きな舞台のミステリーショー   大誘拐

2014-04-07 | 読書

大誘拐/天藤真著(創元推理文庫)

 古典的なミステリの名作だが、謎解きを楽しむというよりは、その破天荒なストーリーをユーモア小説として楽しんだという感じだった。人を食った展開もそうだけれど、スケールがでかくなり過ぎて、御伽噺という感じがぬぐえない。しかしまあ古典だから、時代背景もあったのかもしれない。今となってはこのようなカリスマが現れても、そのまま動くような人間模様が描けるものなのだろうか。そういうことはあるにせよ、名作の名にふさわしい作品ではあって、気楽に楽しみながら感心して読むということになるのだろう。
 犯罪を犯すことは悪いには違いないが、特に誘拐というものほど卑劣な行為はなさそうに思う。たとえ危害を加えないということであったとしても、さらわれた本人や家族の心情を思うと、とても尋常におられない窮地に陥らせてしまうことに変わりは無かろう。さらに犯人側としても誘拐した人質と接触するだけでなく、身代金の受け渡しなどで再度家族や警察と接触しなければならないわけで、非常にリスクの高い犯罪ということが言える。ゲリラのような武力組織であるとか、一種の無法地帯のような特殊な背景があったとしても、そう簡単に成功するものとは考えにくい。結果的に人質の命が失われるという結末が多くなってしまう悲惨さが付きまとうのである。
 それでも一定数の誘拐事件が発生してしまうのは、誘拐される相手が無防備ならばそれなりに安易そうに見えることと、さらにターゲットとされる側の経済状況などが、比較的に公の場合が多い所為ではなかろうか。お金を持っているらしい人に普通に頼んでもお金を分けてはくれないが、人質と交換条件なら出してくれそうである。わがままで強引な理屈には違いないが、一応筋として誰もが理解しやすい考え方ともいえるかもしれない。
 成功しないのにチャレンジさせてしまうのは、さらに成功したような事例も過去にあるということもいけないのかもしれない。誘拐事件は大きなニュースになるから記憶にも残る。ほとんど失敗しているのに、過去の解決に至らなかったミステリの記憶が、犯人たちの判断を狂わせてしまうのではなかろうか。さらに銀行強盗や金庫破りのように、いわば特殊技術を要する必要がなさそうで、数人の共犯者が居れば計画を実行できそうなことも、引き金を引く要素になるかもしれない。さすがに近年はその数が減っているように見えるけれど、表に出ない駆け引きの材料として人質をとってお金を巻き上げるというようなことは、あんがい犯罪としては相当存在するのではなかろうか。ある意味で振り込み詐欺のようなものだって、人質を具体的にはとらずにお金を騙し取る手口である。誘拐の亜流というか、派生犯罪という捕らえ方も出来るのではなかろうか。
 さてそうではあるが、ことこのお話としては、まったくそういう要素は皆無という感じなのである。健全なる誘拐事件。そういう変なアイディアのさえる痛快作ということなのだろう。大きな舞台を見ながら皆が騙されることに快感を覚える。一種のマジックショー的なミステリ作品なのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする