人生はビギナーズ/マイク・ミルズ監督
母親が亡くなったあと、父親から実はゲイだったと告白される。父親は癌にもおかされており、闘病のさなかゲイとしての人生を再度謳歌するような姿勢を見せる。息子としてはそんな父親に戸惑いながらも、自らの恋愛のいざこざも混ざりながらさまざまな考えを整理していくというような物語。
当然男である僕も同じような境遇だったらというような事を考えるわけだが、さて、やはり事情が違うのでどうなんだろう、という感じはけっこうあった。第一米国と日本では社会状況がかなり違うようにも思う。息子としては戸惑って当然そうではある半面、社会的には受け入れざるを得ない土壌が既にあるようにも感じた。君の戸惑いは社会的には認められた事実を自分自身がどうするかだけのことなんだよ、というような物語の視点がまずあったように思う。そういうものはたぶんまだ日本には無くて、だからこれはちょっと比較しようがないのではないか。
しかし、そうではあってもやはり日本にもそういうことは起こりうることではあるだろう。そういう家庭にインタビューしたものがあればいいのかもしれないが、あるかもしれないが、なかなか簡単ではないというだけのことだろう。両親が長年連れ添っていたことが事実だったということは、ある程度は仮面性を通していた訳だ。同性愛は病気だという視点もあったことだろうし、そうするとそのような生活で病気が「治る」と考えていた節もある。しかし、治るようなものでは無いので、母親の死後にカミングアウトするより無かったかもしれない。
また、すぐに若い彼氏のような存在が生活に登場するが、しかしその彼氏は複数の人とつきあいがあるらしい。父親もそのことに葛藤がありそうではあるが、自分の年齢や残りの人生を勘案してのことだろうか、そういう彼氏自体を受け入れているのである。息子としては戸惑いや不憫さも同時に感じながら、しかし、自分とつきあいの進行している女性の女ごころさえつかむことも出来ないのである。
むつかしい問題のようでいて、しかしけっこう設定はこの息子に対する問題集だけという気もする。社会的にどうだという啓蒙は既に終わったことで、個人の問題だけのような感じに終始している。息子としては上手く立ち回りさえすれば良かったということになりそうで、そういうところには少し不満も感じた。そんなにいい子ばかりじゃないだろうに…。たぶん今はそういう段階としてのもっと手前にいるせいで、そういう印象を受けるのだろう。「遅れた」日本の住民としては。けれど、そういう葛藤があってこそゲイ問題という感じはやはりするのである。偏見は無くなった方がいいけれど、偏見が残っているので人々は苦悩する訳だ。個人の苦悩は社会的な背景があってこそだ。個人の問題だけの焦点だと、その苦悩がいわば軽い。
やっぱり進めは進んだだけ別の問題があるということなんだろう。これもたぶん偏見で、異質なものへの視点というのは、だからいつまでも解決が難しいものなのだろう。