カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

引き込まれて面白さが減価しない名作   別離

2013-06-28 | 映画

別離/アスガー・ファルハディ監督

 イラン映画(シャレでは無い)。一言で言うと、じゃあ誰が一体いちばん悪いのか? というお話。しかしながら誰もが悪く、誰も悪くないという気もする。いや、悪いところはたくさんあるにはあるが、それが決定的に、運命的に悪くなったように見えるということかもしれない。
 物語の中で終始落ち着かず、短気で暴言ばかり吐いている家政婦の夫にして見ても、同情の余地はかなりある。もちろん、物語をこじらせる張本人でもあるが、彼が暴れることにより真実に近づいたかもしれない側面はある。もちろんそれを阻んでいる元凶と考えることも出来るのだが…。このあたりのスジのからませ方が絶妙で、サスペンスとして見ても、人間ドラマとして見ても、社会批評として見ても、すべてにおいて観賞に耐える作品に仕上がっている。まさに「残る」作品として確定的だろう。
 折り合いのつかない感情と、そのためにつかれる嘘というのも大きなテーマになっている。さまざまな人がそれぞれに嘘を抱えているが、その嘘をめぐって、さらに背景にある嘘の理由が人間を縛っていることも分かる。時には宗教のような社会背景もあるし、貧富の格差もあるし、本人の思惑や、法律的な罪の問題もある。そしてその中で両親を離婚させたくない娘の思いもある訳だ。
 人間は誰も正直に生きられる訳ではない。ある意味で正直というのは馬鹿と同義であったり、迷惑で邪悪なものでもありうる。美徳という考え方は、単なる偏見なのかもしれない。しかしながら誰もが嘘つきなら、この世はやはり住みにくいだろう。本当の事と嘘が混ざることで、人間はかろうじて人間社会を生き抜く事が出来るのだろう。
 嘘だろうと本当だろうと、大切なのは折り合いをつけるということかもしれない。そのためには、やはり相手に歩み寄る必要がありそうだ。その境界は損得だったり、時間だったり、考え方や思想だったりするかもしれない。イランの社会においての特殊性もあるが、しかしこれは人間に普遍的なもののようにも感じられる。誰が決定的に悪いのかは僕には分からない。しかし、どのように話し合うのかというのは、この物語の人たちには決定的に足りないという印象は持った。もちろんそれはある程度は仕方のない事なのかもしれないが、お互いがどうしたいという平行線は続くばかりで、ほとんど誰も折り合いをつけようとしていない。その果てには地平線があるばかりという感じで、ただ悲しくむなしいのである。結局不幸は連鎖するように増幅し、誰も幸福にはなれない。まるで悲劇を呼び込んでいるような悪循環が続いていくのである。
 このような映画が面白いというのは、人間の罪のせいなのだろうか。自分ならどうしただろうと自問が続き、そして嫌悪の感情も治まらない。そうしてしかし、謎解きのカタルシスも結末の将来も考えさせられる。まったく贅沢な2時間を満喫できる「面白い」映画なのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする