カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

悟りというのは終わってから分かるものかも   紀ノ川

2012-12-19 | 映画

紀ノ川/中村登監督

 長かったなあというのが素直な感想。まあ、退屈しながら観たという感じ。文藝ものだからそれでいいのだろう。良い意味で風格のある映画で、観たことがあるだけで自慢にはなるかもしれない。
 人の一生を重厚に描いているのだけれど、観終わってみると、やはり儚いという気もする。ある意味では献身的な女性の一生ということかもしれないけれど、同時に自分の思い通りの一生でもある。最終的に自由になってみると、人は思うように動かない。何のために頑張ってきたのか、ということであるが、紀ノ川の治水というのは形として残っている。それだけでも十分そうな気もするが、個人としてはそういう割り切りのつかないものなのかもしれない。
 裕福な一族の物語でもあるが、時代に翻弄されて、最終的には衰退するということも言える。家というものがどんどん大きくなっていっても、人々は平均してしあわせになっていくようには見えない。誰かが割を食うということなんだけれど、しかしその様な犠牲を払ってでも、自分の中の歯車が少しでも狂えば、やはり全体としては上手く回って行かない。そのために翻弄したはずなのに、巨大な家に頼る人間が出てくるだけで、脆弱にもろさを露呈するということなのかもしれない。人それぞれの役割は、何となく演技をするように、持ち場持ち場でやっていくより無いのかもしれない。それはこのように資産のある無しの問題ではなく、どの家庭でも言えることなのかもしれない。
 夫が政治家だからという訳ではないが、この主人公の女性のふるまいは、極めて政治的だという気がする。家の繁栄のために、あくまで表に出ない形でいろいろと物事をサポートしていく訳だが、結果的にこの女の思うように男たちを動かしているということだからである。原作を読んでないから本当のところは分からないが、恐らく自分の恋を差し置いて、この家の政治に一生を捧げているということなのではないか。それは犠牲かもしれないが、その上運命的なものかもしれないが、しかしその様な一生を女として送る事が、役割として政治的に大切であったということではないか。封建社会の物語でありながら、極めて近代的な政治世界という気がするのは、うがった見方なのだろうか。
 しかしながらその様な政治的な考えを持ってふるまってきた自分の一生を振り返ってみると、極めて思うように世の中が回って行った訳ではないように思う。もちろん上手く行ったこともたくさんあるし、その様な才能を持った人間でもあったように思われる。そういうたぐいまれな才能を持った人間であっても、やはり目に見えない時代の力に抗うことはできない。奔放な娘も、どこか自分に似たところがあるように見える孫娘も、同じように女の一生を背負っていくのだろう。それは業のようなことかもしれないし、単なる偶然かもしれない。政治的な一生というのは、やはり人間的に無理を重ねる一生ということのような気がする。それに気付いたところで、ちょうど一生の長さが終わる。長くて儚い理由は、そこのところにありそうである。
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