カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

今夜の仕掛け、頑張ってください

2012-12-24 | 感涙記

 お袋がクリスチャンなので、我が家ではクリスマスはそれなりに重要な行事だったような気がする。西洋映画のものとは違うまでも、クリスマスの特別な空気は、これまでの日常生活とはまるで違ったものであったように思う。なんだか分からないけどものすごく期待するものがあって、そうして確かにしあわせなのだけど、しかしそれは寝てしまうと終わってしまうようで恐ろしいという感じもした。
 サンタクロースについては、居るとか居ないとかではあまり悩まなかったようにも思う。姉や兄とも年齢が離れているから、随分長い間信じていたのだけれど、しかしよく考えてみると、幼稚園の時にネタばらしをして教えてくれる親切なのか迷惑なのか分からないおせっかい者が居て、だからそれは実際には知っていたはずなのだ。だから知らなかったというのは実は演技をしていたようなもので、騙されていることが快感であったのかもしれないとも思う。みんなして演技をしていて、その役割としてあたかも騙されている役を演じている。騙している方も騙されている方も、そのことの秘密に酔っているというような、耽美な約束を守っているということなのではなかったか。
 実は小学生の3年だか4年だかそのような年になって、サンタは親であると発言する奴がいて、言い争ったかどうかして、結局僕はそいつを殴ってしまった。そのことは少しばかり話題になって、殴ったことについて先生から咎められることも無かったと記憶している。僕自身も悪いことをしたとはさらさら感じていなかった。今となっては遅ればせすぎるが、正直者で正しかった彼は僕に殴られ損だった訳だ。申し訳ない。
 つまり必死で何かを信じているふりをしている事が心地よかった訳で、そうしてその気持ちには偽りはなかったのである。サンタクロースは親だというのは現実的には本当かもしれないが、しかしそれとは別にサンタクロースが本当に居る世界であっても現実として存在するということも信じられたのだ。それは今になってみると何となく理解できるが、人間の性質として、サンタクロースという存在を作り出す癖があるだけでなく、信じることができるということの方が、はるかに価値が高いということなのだろう。
 もちろんその様な嘘が、上手く馴染めない年頃であったり、理解できない人というのも現代人には多いのではないかとは思う。しかしサンタクロースはやはり、居なくなるということは無いのではないか。たとえ正体が親だとしても、それで現れなくなるような存在なのでは無いのではないか。
 サンタが居なくなったとして、プレゼントの習慣のみを残すということの方が、逆に欺瞞が隠れているのではないかとさえ思う。ある意味でその様な正直な態度こそ、サンタクロースに対する不正直な態度であることの告白なのではないか。それは宗教的な馴染の感覚なのかもしれないが、形の無い「愛」というようなものを理解する上では、やはり演技としてサンタクロースの存在を残しておくべきなのではあるまいか。
 もちろん、年頃の僕の息子たちも、早くからサンタの存在を信じなくなっている事とは思う。しかしながらはっきりしているのは、恐らく彼等は自分の子供に対しても、サンタクロースを演じることになるはずなのである。それがいつかは分からないけど、本当は彼らだって、サンタクロースが居ることを本能的に知っているからに違いないからである。
コメント
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