カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

恋愛人生反面教師   馬鹿まるだし

2012-12-17 | 映画

馬鹿まるだし/山田洋二監督

 まんま「無法松の一生」のハナ肇版である。山田洋二監督が無法松を好きな理由はよく知らないが、自分が作る喜劇の原型にしているらしいことはほぼ間違いあるまい。後の寅次郎の原型自体が無法松の亜流なのではあるまいか。純粋過ぎて、行き過ぎて、馬鹿なのである。だから実際に周りが迷惑を被ることをやらかしてしまっても、愛を持って許すことができる。その許しの中に、込み上げてくる笑いがある。笑っているが悲しい。口では自分のことを汚く感じているらしいが、その言葉とは裏腹に、きれいすぎて可愛そうなのだ。
 馬鹿なのはハナ肇だけなのではない。まちに暮らす人々は、多かれ少なかれ馬鹿なのである。みんな馬鹿なら落語の世界だが、落語でなくても人々の暮らしというのは、馬鹿な事が混ざっている。みんな馬鹿でみんないい、という訳だ。
 そういう時代だったという見方もできるが、しかしたぶん今でも馬鹿はたくさんいるには違いない。そうなんだけど、今は馬鹿で笑えなくなっているのではないか。馬鹿を見ると怒りだす人もいそうである。それはまともな反応だが、しかしそれで面白くなるはずはない。馬鹿を笑うのは品が無いのだけれど、しかし笑い飛ばすのは品とは関係なかろう。それはたぶん情の世界で、だから本当は不変のはずという気がする。
 無法松が好きかと言えば、近くに居れば困るかもしれないが、やはり好きなのかもしれないとは思う。知り合いなら、おせっかいくらい焼きたくなるかもしれない。しかしそうすればするほど、彼はそのおせっかいの使い道を間違うに違いない。それならやはりいらぬお世話であるけれど、しかし彼が自力で自分の思いを遂げることも不可能だろう。
 そう考えると、なかなか残酷な人物設定であるということができる。水戸黄門なら一件落着でハッピーだが、不幸にならなければ落ち着くことができない。このような人の自分の幸福は、相手あってのものだから、結論として幸福から自ら逃げなければならなくなってしまう。それを見た僕らはその可笑しな悲しさに泣いてしまうのだ。
 単純なようで複雑な心理である。というか純粋なようで、どこか捻じれてしまっている。しかしそういう屈折ほど、人は理解できるものであって、共感が生まれる。自分はああはなりたくない。人生教訓にできる人間はしあわせになれるかもしれない。
 しあわせの反面教師。根本には、自信のようなものという気もする。他人に振り回されたくなければ、自分で立つより方法はなかろう。自由人は、そのリスクを自分に負えなければしあわせになれない。どうせ周りに迷惑を掛けるのである。最愛の人にその荷を分担して背負ってもらっても、バチは当たらないだろう。そうなってくると、はじめて夫婦という単位が出来てくるという寸法なのであろう。
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