カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

12月になると、どうしても思い出す人

2012-12-16 | 音楽

 ブライアン・エプスタインがいなかったらビートルズはどうなっていたか。歴史に「もし」は無いし、確かめようは無いのだが、エプスタインのドラマがあることは、ビートルズの興味において一定の深みを感じさせられることは確かである。それも32歳という若さでこの世を去ったという刹那的なことも含めて。
 ただ、僕は多かれ少なかれ、ビートルズは彼がいなくても世に出ていたのではないかという気もしている。エプスタインがビートルズの存在を知ったのは、彼の職業であるレコードショップでビートルズがバックで演奏していたレコードの売れ行きが良かったことからだとされているが、既にある程度やはり注目されていたということもあっただろうと思われる。そういう注目のバンドに懸けてみようという決断は素晴らしかったと思うものの、やはり素材が良かったということの証明であったとも思われるのだ。
 もちろん、そのプロデュースの仕方も良かったし、献身的なマネジメントも良かったことは間違いないが、多かれ少なかれ彼らの地が露出していく訳だし、戦略的なものが当たるような背景を読む力があったとは言っても、むしろこの個性的な4人をまとめる技量の方が優れていたという見方の方が正解かもしれない。
 死後そのショックもあるだろうけれど、結局ビートルズは崩壊の道を歩んでいくように見える。もちろん、ブライアンの刹那的な死への道も含めて、その様な圧力は抗しがたいものがあったのかもしれないが。
 それでもやはり、エプスタインは面白い人間かもしれない。ビートルズの音楽そのものではないにせよ、やはりそのつながりを成立させている大切な要素であったことは間違い無いのであろう。つまり、ビートルズの魅力そのものに、やはり欠かせない人物のようだ。さらにジョン・レノンが暴走し、再生の道を歩むまでに、彼の影響が無かったとはいえそうに無い。いわゆるプラトニックな関係ということだけでなく、精神的な支柱になっていたということなのだろう。
 世間的にはそのようなゴシップこそ、エプスタインに注がれる興味ということなのかもしれないが、時代も変わって現代になってみると、やはり彼の早すぎる死というものの中に、内面的に果たせない思いというものがあったようにも感じる。
 その後のジョン・レノンは、自分の生き方そのものを作品化させてくように見えるが、そのプロディースを委ねて行くのがオノ・ヨーコだったのかもしれない。ちょっと関係なさそうに見えるようでいて、やはりジョンの中にあるだろうわだかまりのようなものを、そうやって埋めていく必要があったようにも思われるのである。そして、その様な彼の葛藤そのものの中に、やはりエプスタインとの関係はあったのではないだろうか。
 そうなってくると、エプスタイン無しのビートルズは、やはり考えにくいものだったのかもしれない。そしてそれが事実として残っている現実においても。彼のマネジメントそのものがビートルズという作品だったというより、彼がビートルズを発見するその必然こそが、ビートルズ物語には欠かせない宿命的な事実ということになるのであろう。
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大人になるまで、政治家と話をしたことがありますか?

2012-12-15 | culture

 若者の投票率が低いのが嘆かわしい事だというのは、その通りである。そのことで日本の政策は若者を虐げているという図式というか、事実としてそうなっていることも間違いがない。実際に損をしているのに、それでも若者は投票には行かない。それでは単に若いというのは馬鹿と同義である。しかし、馬鹿だからそうなっても仕方がないということで済むのだろうか。馬鹿な国民の一部を虐げても良いという考えには、何か納得できかねるものを感じる。弱者を守る役割は、誰が果たさなければならないのだろうか。
 馬鹿であることを甘んじているのは、本人に馬鹿である自覚が無いからではないか。またその様に虐げられている事実に対して、実感が無いというのもあるだろう。馬鹿だというのは煽りだけれど、その様な事でも行動を起こせないのは、馬鹿を通り越している。そして馬鹿にさせられているのには、たぶん理由があるはずである。
 もともとシステムとして若者の意見を取り込むことに、選挙という制度は向いていないのではなかろうか。もしくはそもそも欠陥があるためではないのだろうか。それは民主主義という制度そのものが持っている欠陥なのだろうか。
 ところが若者であって投票率の高い国があるらしい。北欧は比較的そのようだし、オーストラリアみたいな国でも相当高そうである。左っぽいとか右っぽいというようなイデオロギーの問題でもなさそうだ。
 もう少し掘り下げて学問的に考える方法はあるだろうけれど、子供と関係のある環境ということでは、思い当たるフシがある。それは他ならぬ学校である。学校で選挙を教えないということは無いが、選挙に向かない人を育てる教育を、知らず知らず施している可能性は無いだろうか。民主的な意見を取り込んで、反映させるような取り組みというのは、少なからずやっているはずである。それは僕にも覚えがあるが、しかしその様な学校のシステムを経験した後に、大人になって選挙に行くようになるのかということに、やはり関連が薄いという気がする。社会というシステムと子供の置かれている関連というものが分断されており、大人社会に慣れないことには、そもそもその新しい環境のルールが飲みこめないということもありそうである。
 投票権はしかるべき年齢になって持てるようになる権利である。しかししかるべき年齢になってその様な判断を行使しないことには、たぶん他に理由がある。厳格に言うとまだ大人では無いということもあるし、選挙につながる接点をまだ持っていないとも考えられる。自分がまだ関係を持てないのなら、選挙へのハードルは高いのかもしれない。
 実際に政治家との距離が遠いということも考えられる。自分がわざわざ出向いて行って、政策を聞きにいくという行動を起こすような人は、よっぽど奇特な人なのかもしれない。では誘ってくれる人が居ないのかというと、誘ってくれるような人を信用できないというのもあるのかもしれない。
 日本の封建的な部分の基礎になっている儒教的な習慣、というものも背景にはあるかもしれない。しかしこれは、ある意味で既にかなり崩壊もしているようにも言われる。それに儒教的なシステムに任せていれば、若者のことも含めて年長者は考えていたはずなのだから、若者に不利な状況を作っているということになると、既に儒教的でさえないとも言える。年長者だけのシステムに若者が入っていないというだけのことなのかもしれない。
 しかしながら若者が参加していない状況でこのような結果になっているということを更に考えてみると、政治家自身が若者を抜きにして戦うことを前提にしているということも言えるかもしれない。彼らの職業を決める要素に若者を入れないことに、有利性があると考えているのかもしれないし、もしくは諦めているということだろう。参加するようになると、若者向けのオプションを準備せざるを得なくなるが、高齢施策を約束することと矛盾もあるので出来ない、ということもあるのかもしれない。
 そうであるならば、若者を取り込むことにはリスクもあるが、伸びしろもあると考えることもできる。もともと投票意識の低い層を取り込めると、今までと違った力を得ることもできるだろう。政治家自身が若返ると、そう考える人も増えるかもしれない。
 既に病理的な感じもするので、即効性のある方法は難しいかもしれないが、若者に何らかのかかわりを持たせることに成功すれば、政治家自身が政策を練り直す可能性は十分にあるだろうとは思われる。教育と切り離してある現状も含め、やり方はいくつかありそうだ。たとえ投票率が目に見えてあがらないということになっても、選挙期間中に限らず政治家と若者に接点を作ることに成功すると、対話の上で政策が変化する可能性がある。
 政治家だけが悪いのではなく、その様なシステムにするアイディアさえあれば、改善の余地はあるはずなのだ。基本的には、呼んでも来ないのであるから、行ってみるしか無かろう。もちろんそれでも逃げられる、ということなのかもしれないのだけれど…。
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ほんとうに寝られないのだろうか

2012-12-14 | HORROR

 風邪をひいて寝ている分には、具合が悪いのだから仕方がない。具合が悪くて寝ていたいという欲求の時にちゃんと寝ていられるのは、それなりにしあわせである。
 ところがそれが日中である場合、少しばかり不安にかられるのである。今じっくり寝てしまうと、夜に眠たくなくなるのではないかと考えてしまうためらしい。日中具合悪くて寝ていたら、しっかり治ってしまった。しかし夜通し眠れなくなり、睡眠不足で目をはらして仕事に行くと、風邪が治って無いのではないかと心配された。などという話はよく聞くものだ。風邪が治るんならそれでもいいじゃないかという考えもあるかもしれないが、問題はそういうことではなく、眠れないという状態の退屈さが怖いのである。
 夜中に寝られないなら夜ふかしをすればいいというのは道理だけれど、夜中に一人だけ起きていると、かえって家人に心配を掛けてしまう恐れもある。自分だけ眠れないのであれば自分だけ困ればいいのだけど、人を巻き込むというはさらに気が引けることである。
 具合が悪くて寝ていると、うっかり十分熟睡ということはよく起こる。もちろんそれで治るならやはりもうけものだが、しかし風邪の状態は悪いままで、苦しいのだが眠たくないということがあるのである。苦しい時間が長くなる訳で、つらい拷問にあっているようなものである。さらに眠れないという精神的圧力は、思いのほかつらいものである。
 酒でも飲んだらいいのかもしれないが、そういう状態で飲んでも大抵旨い訳でもない。特に僕のように体の弱い人間は、本当に体調が悪い時は、アルコールとの相性は大変に悪いような気がする。そういう時に好きな酒まで嫌いになるような事になるのは困る。僕は基本的に好き嫌いはそんなに無い人間であるが、たこ焼きだけは何となく苦手だ。それはたぶん子供の頃に、風邪で具合が悪いのにたこ焼きを食べた所為ではないかと思い当たる。本当に具合の悪い記憶とたこ焼きが結びついてしまって、食べてみると不味い訳ではないのだけど、だからと言って食べたい訳ではない。気持ちも悪くないのに、敬遠してしまうのである。
 寝つきは悪い方では無い。しかし眠れない夜という設定はとてもつらい感じがする。そんなに経験したことが無いくせに、眠れないのが怖い。いつまでも眠れないという退屈な時間は、たとえ5分であっても耐えがたい苦痛なのだ。
 せっかく眠れないのだから、この機会に自分の抱えている問題点の改善の見通しについて考えてみるのも良いと思うことがあったが、そんな時にそんなことをあれこれ考えるのは、あんがい精神衛生上も良くないような気がする。いわゆる悩んでいることを悩んでしまうような悪循環があって、問題点はちゃんと紙に書いて眺めて検討するというような戦いの準備をすべきという気がする。しかし起き上がってしまっては負けであるので、布団の中で何か他のことを考える必要がある。そうではあるが、ちょっと問題点のことを考えてしまったせいもあって、何となく落ち着かなく長い夜の格闘を続けなければならなくなる羽目に陥ってしまうのだ。
 ということで昨夜はなんだか寝つかれなかったよ、などと話してみると、つれあいは怪訝な顔して、イビキかいて寝てたよ、などという。いや、寝られなかったんだよ、と言っても「ふーん」と構ってくれない。なんだか僕が嘘つきみたいであるが、そう言われてみるとぜんぜん寝てなかった訳でもない訳だし、寝られなかったという夢でも見ていたのかという気分にならない訳でもない。
 しかしながら、やっぱり寝足りないという気分があって日中にちゃんと眠たくなる訳で、本当に寝られないということではないのかな、と思ったりする。寝られないという気分というのは、そうでない時間に考えてもどうしようもないのかもしれない。
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この映画世界の耽美さに酔え   ドラゴンタトゥーの女

2012-12-13 | 映画

ドラゴンタトゥーの女/デビット・フィンチャー監督

 改めて確認させられたのは、僕自身がデビット・フィンチャーのことをものすごく好きなんだということだった。お話が面白いというがこの映画の最大の魅力としても、しかしその展開の仕方、映像の美しさ、カットや細部の小物に至るまで、本当に素晴らしい出来栄えの映画ではないだろうか。自分で撮るなんてとても無理だけれど、一部でいいから真似して撮ってみたいと思わせられる。
 原作にあるのかは知らないけれど、場面場面で出てくる家具であるとかバッグであるとか、そういうものでさえスタイリッシュに見えるところが凄いと思う。表現にしても、冷蔵庫の上においてあるビンが滑り落ちそうになるのを受け止めてまた同じように冷蔵庫の上に置くなど、いつの間にかその部屋での生活に慣れて行っている事が自然と分かる仕掛けなんかがあって、本当にさすがだなあと思う。多くの情報が詰め込まれているのに、ざっくり説明を省いて刻んでいるソリッドな感じも心地いい。気を抜くと置いて行かれるのだけれど、かまわずどんどん進んでいく。時間的には最近の映画では長いものだけれど、まったくだれることも無く身を委ねることができる。映画を観たという満足感に浸れるだけでなく、観終わった後も、リアルな風景さえ変えてしまうほどの印象を残す力を持っている。
 個人的には残酷な表現というのは苦手である。フィンチャーに暴力はつきものだが、その猟奇的な残酷描写においても見事な表現になっている。非常に恐ろしいという感情を揺さぶられるし、後味の悪い気持ちの悪さも残る。そうではあるが、ちゃんとカタルシスはあって、残酷の処理が上手い事も分かるはずだ。激しいものを受け入れられるように、同じく残酷な表現を使って納得させられるのである。人間の感情の中の残酷な欲求を、上手く満たす方法を知っているとしか言いようがない。
 主人公の一人であるリスベット役のルーニー・マーラーという女優が本当に素晴らしい。この役の造形は、ハンニバル・レクターの女性版というような感じで、歴史に残ったのではないだろうか。実際のこの女優さんはリスベットのような感じではなさそうなので、この役のイメージだけで生きていく訳ではないのだろうけど、事実上二役を見事に演じきっていて、このキャスティングだけでもこの映画の価値は高いと思う。
 表現のきつさもあって万人に解放されることが難しいかもしれないが、このような映画は、間違いなく名作として後世に残ることになるだろう。続編があるらしいが、この一本だけでも完成度は高い。もちろん、これを見せられたら、続きには期待が高まらざるを得ないが…。
 実は借りている間、この映画を二度観た。一度目は気持ちよく酔っ払いながら。二度目は個人的な事情があって、気分的に落ち込んでいる時に。映画を観ている間は、この世界に没頭出来るので、気分的に本当に楽になった。決して気分が楽しくなるような映画では無いのだけれど、少なくとも僕のような人間を少しばかり救ってくれる作品だったとも言える。この映画が同じように好きな人たちが大勢いることと思うが、それらの人たちと僕とは確実につながっていくような気がする。その様な気分を共有してもらうためにも、フィンチャー・マジックを、是非楽しんでもらいたいものである。
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そう言えばもう終わるのか

2012-12-12 | 時事

 そろそろ今年を振り返る人が増えてきたようで、その様な総括めいた言動を耳にしたり目にしたりするようになった。だいたいにおいて世に疎いのでそれらに特に口をはさむことができない事が多いのだけれど、改めて今年に何があったのかというのを聞いてみると、本当に知らんことだらけである。
 ところでNHKの大河ドラマの「平清盛」の視聴率が記録的に低かったという話があって、それはたぶんそうなのだろうから事実ということにおいては何ら意見は無いのだが、高い低いがそもそも何が問題なのかというと、要するにドラマにケチをつけているということのようにも思うのだが、はたしてそんなに清盛はつまらないドラマだったのかということを考えると、それなりに考えるところがあるのであった。それというのも珍しく僕は、熱心とまでは行かないまでも、けっこう続けてこのドラマを観ている一人だからというだけの話なんであるが…。
 そもそも論で言うと、大河ドラマは熱心に観たという覚えは最初から無い。それというのも、後で考えてのことだが、戦国時代とか幕末とか忠臣蔵がそんなに好きではないというのがまずあるような気がする。大河ドラマはこの分野のどれかが当たるといわれているそうで、なるほどと思う。最初から僕の趣向とは外れていたのだ。
 それでは平安時代が好きなのかというとそんな事はまるでない。もともと清盛もそんなに知らないし、ましてや平家というのは滅びたことは知っているが、それは優雅に暮らしていたので武士である源氏に滅ぼされたのだとばかり思っていたからだ。それに一言文句を言わせてもらうと、何かと名前に「盛」ばかり入れて、面倒だし個性が無いのがどうかとは思う。
 まずはそれがぜんぜん違うらしいぞというのがたいそう驚きで、さらに松山ケンイチという俳優はなかなか良くて、すぐに興味を持ったという感じだった。その前の「龍馬伝」はなんだかみんな怒鳴ってうるさかったのだけど(後で間に「江」があるのを忘れていたことを知る)、そういう点でもとても見やすい。さらに敵役の松田勇作の息子演じる後白河も憎らしくていいのである。もっとコテンパンに力でねじ伏せて欲しいという欲求をたぎらせてくれる展開も、あくまで政治的にねちっこく行く人間関係も、複雑と言えばそうかもしれないけど、まあ当たり前と言えばその様な感じで、なかなか上手い演出なんではあるまいか。平家が自由奔放にふるまって栄華を極めているのかというと、なんだかこんなもんがそうなのか、というような公家の嫌らしい世界観があって、ちっとも好きになれはしないが、清盛には頑張ってほしいと毎回思ってしまうのだった。繰り返すが、難しい役どころを松山は結構熱を込めて頑張っているのではないか。若いのにえらい俳優さんである。
 最近の傾向か知らないけど、画面も何となく美しいし、展開もよく練られていて飽きさせない。比喩なども上手く使っているし、訳の分からない時代考証の微妙なところのごまかしも、なかなかしのぎ方が上手いのではなかろうか。もちろん専門家には微妙過ぎるきらいはあるかもしれないが、近年の大河は、思い切って時代考証を改竄してしまう荒業が多かったから、よく知らない時代だからこそあんまり気にせずに観ることができたということもあったのかもしれない。まだ終わって無いが、最後まで頑張っていただきたいところだ。
 ということで、平清盛が近年に稀に見る傑作だとまでは持ちあげる訳ではないまでも、なんだか突っ込みどころの多かった篤姫とか龍馬とか続いた後なので、少しばかり点数が甘くてもよいという気はしている。観てなかった人は、それなりにもったいない一年を送ったということに過ぎないのではなかろうか。もうすぐ終わるのが久しぶりに残念に思える大河ドラマなのであった。
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アナウンスは注意して聞くように

2012-12-11 | HORROR

 タクシー無線なんかで「大きな荷物の忘れもの」という言葉が出たら、犯罪者を乗せているという意味だというのは有名な話だが、実際に客の忘れもののアナウンスを聞いたことはあっても、幸いというか「大きな」方のアナウンスは聞いたことが無い。自分が犯罪者になったら通報されたという意味なので覚えておくと有用だが、これだけ有名であると運転手は危険ということになるから、既にこの隠語のようなものは、変換する必要がありそうである。もしくは既にそうなっているかもしれない。
 デパートで「雨に歌えば」の曲が流れたら、外が雨になったという意味になるらしく、傘とかその様な商品を並べる合図なのだという。これはいまだにそうらしく、僕は実際に聞いたことがある。それで特に得をしたということも無いが、外は雨らしいよ、と予言めいた事を言うことくらいは出来る。
 ネットで話題になってたんだが、動物園で動物が逃げてしまった時も、このような暗号的な隠語があるらしい。その施設によっても違うようなので特定の言葉としては断定できないが、業務連絡で訳の分からない事を言っていると要注意ということになるかもしれない。ライオンやクマなどだったら、さすがにすぐに避難させるとは思うのだが、実際はどうなんだろう。ああいうところでの案内のアナウンスは、注意して聞く必要がありそうである。
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シュールだけど何となく本当そうな   ウホッホ探検隊

2012-12-10 | 映画

ウホッホ探検隊/根岸吉太郎監督

 夫婦の離婚劇という題材で、何故か不思議と味のあるコメディに仕上がっているという変な作品。変ではあるが非凡なホームドラマで、興行的にはコケてしまったが、本当に面白いという魅力のある佳作である。
 何となく現実感が希薄そうに見えて、しかし子供たちの葛藤や、何の非も無く夫に裏切られた妻の葛藤も見事に描いている。ある意味で家庭を崩壊させながら罪の意識の薄い浮気夫も、軽薄では無く素直なまま演じられていて、この中では一番シュールながら、なかなか興味深い存在だった。そうして最後まで何故か悪人なのではない。
 単身赴任の寂しさから愛人が出来てしまった事に、何故か男は最初から大きな罪悪感をもっている様子がない。その説明も兼ねてという意味なのか、赴任先に妻を呼び、つきあっている女性と会わせて話し合いを試みようとする(実際にそうなる)。これは絶対あり得ない話ではないのかもしれないが、そんなことをされても、誰もが困るだけなのではなかろうか。話し合えば理解しあえるという考えを持っている様子もあって、さらにそういう態度に困惑させられる。演じているのが田中邦衛で、息子からもカッコよく優しい父親として慕われているようである。そのキャラクターは何となくやはり違和感があって、考えていることがぜんぜんわからない訳ではないが、しかし一人の人間として、どこか何かを超越しているような感じもあるようなのだった。自分が選択してこのような状態になったのではなく、単に自然の流れとして抗うことなくこうなったのだ、ということなのだろう。
 もちろんこれで困るのは妻の方である。怒りもあるが、自分の生活を見直してみたりして、また息子たちの反応も気になるところだ。仕事の上でも、仕事とは別の男女のもつれの渦中に図らずも巻き込まれたりしてしまう。
 結局悩んだ末に離婚を選択するのだが、決断すると役場はあっさり受理しておしまい。むしろ男たちにはモテ出すし、息子たちは彼らなりに協力的なのである。
 こういう話というのは、ある程度の泥仕合が相場のようだけど、そうなりそうな感じになりながらも、かろうじて免れている。映画の印象も、そのために明るめのトーンを維持できて、なおかつシュールなのだろう。題名も変だし、理由は早くに明かされるが、そんなんで納得できる感じでもない。そうではあるのだけど、会話は面白いし、巻き込まれる状況も、何故だか楽しい。考えれば考えるほど型破りな形でありながら、不思議なリアルがあるものである。むしろこのような離婚劇があって、人々のつながりが確認されていく事がよく分かるのである。もちろんこのお話をどのように捉えるのかというのは、観る者にとって違いがあっていいという選択も可能になっている。僕としては明るい将来を暗示しているように思えたが、単にそれは僕の希望ということかもしれないのだった。
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気の合う仲間である必要はない

2012-12-09 | 雑記

 映画の中の台詞で読書の話になって「どんな本が好き」という質問に、その女の人は漫画を数冊答えていた。前ふりで本はけっこう読む方だと答えていて、さらに違和感を覚えた。質問した方も、僕もその本が好きだと言っていて、共感の話として挙げたということも言えるのかもしれないが、そこまで考えるなら「漫画なら」と断るべきなのではなかったか。
 しかしながら漫画本が本ではないということは厳密には言えない。絵本だって本だし、写真集だって本だろう。さらに分野を分ける必要のある場合があって、どんな本を読むのかという質問に対する答え方はあんがい難しい。さらに何が好きかといわれても、相手の読書の感覚にもよる場合がある。
 何を読むという質問に、暗黙で小説という場合が多いかもしれないと考えるのだが、しかし小説を読んでいるというのは、極めてマイナーな趣味人だけだろうという気もする。実際に本を読んでいる人口の中でも、さらに少数派であるだろう。
 僕も実際に小説はめったに読まないという感覚があるが、一般の人の話を聞いていて、さらに読まないという人が多いことに驚くこともある。本を読んでいる人なんて世の中にどれくらいいるものだろうと、なんとなく不安になってしまう。もちろん読まなくても何の問題もないのだけど、本を読むような人種というのはますます特殊化している傾向にあるのではないだろうか。繰り返すがそれで何も問題は無いが…。
 本を読むのは悪癖の一種だが、これも多くは理解されない。本をあまり読まない人に限って、本を読むことがいいことだと思っているフシがある。本好きの多くは自分の悪癖を認めるだろうが、その多くという言葉に当てはまらない少数がそう思っているに過ぎないということなのだろう。
 そういう後ろめたさの中に好きな本があるという告白だという感覚が、やはり理解されづらくなっているという感じだ。安易に好きな本が言えないという理由は、実はそこにあるはずなのである。
 気恥ずかしい告白なのだから、受け流してほしい。だけどそれでも共感があると嬉しいな、といういきさつがあって、打ち解けるくらいがちょうどいい気がする。
 もちろん、漫画本にも大切なものはある。そういう感覚を否定しないためにも、とりあえず少し分類する必要があるな、という話に過ぎないわけだが…。
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トンネル内では追突にご注意を

2012-12-08 | 時事
 笹子トンネルの事故を見ていると、本当に命を分けるものというのは運かもしれないと感じる。間一髪で命が助かった人がいる一方で、何が何だか分からず亡くなった人もいるのだろう。トンネルを通行中に天板が落ちてくるなんて予想できる人など居るわけがない。あっと思う一瞬にどうにかなりようのあるものでは無さそうである。
 今だけ気をつけてもしょうがないこととはいえ、トンネルを通行するだけで何となく嫌な気分になる。構造的に大丈夫だろうかとか、あれこれ目視する。何となく怪しそうなところは金槌でチェックしたい気分になるが、運転中なので後続の車に迷惑だろう。また、本当に落ちたりしても、処置に困るだけかもしれない。
 しかしながら一瞬とはいえ、改めてトンネルを子細に眺めてみると、だいたいにおいて怪しい雰囲気のあるものである。第一暗くてよく分からないところが多い。湿気の関係があるのか、また補修した跡だろうが、クラックのようなものが見受けられるようだ。電燈も全部が点灯している訳でもないし、どのような法則性で点けられているのかも不明だ。長いトンネルには飛行機のジェットエンジンのような排気のファンなどがあるが、あれなど相当な重量だろうなあ。また、元気よく回っているものがある一方で、ぜんぜん回転してないように見えるものがある。壊れている訳でもないだろうが、誰が指示してそうなっているのだろう。
 あんまり上ばかり見て運転していると、追突事故でも起こしてしまいそうだが、そんなふうに注意してみたところで、やはり天井が落ちてきたらどうしようもないに違いない。
 今は一斉に全国的にさまざまな場所でチェックしているに違いないが、それで事故防止になれば、それは意義深いわけであるが、正月前に通行を停めて工事をしなければならないという事態になると、帰省ラッシュに影響のあるところも出てくるのだろう。また、年度内予算を越えてしまうところなどが出ると、その影響で何かが削られるということもありうる話だ。それが何かというのは具体的に知りようがないが、それが第二の保険を削るような事になるということになりはしないだろうか。
 このような事には当然お金がかかっている訳で、もう少し強制的に保守点検などを強化すべきという意見を受けて、さらに税金が使われることにもなるかもしれない。新規の道路計画にも影響があるだろうし、当然通行料金をどうするかということにも発展していくかもしれない。
 事故を受けて刑事摘発のための調査も行われているようだけど、そういう状況を受けて、情報の開示を渋るケースも出てくるかもしれない。要は危険だという認識を持っていたのか、放置したのか、というのが争われるだろうから、そうではなかったという改竄や隠蔽が起こりやすくなっている可能性がある。厳罰主義が悪いとは言えないが、覚えのある事業者にとっては、かえって安全基準の不透明さを助長させることにもなりかねないだろう。
 点検をすることで安全度が増すというのが一般的な見方だろうが、やり方によっては、さらに危険度が増す可能性もあるということだ。この事故の影響がどちら側に働くかは、残念ながら予見できない。個人で防止すべきは、追突事故への注意くらいのものなのかもしれない。
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遠慮のない金額の程度の話

2012-12-07 | 境界線

 先日10年ぶりくらいにS田さんと飲む機会があった。それはそれで楽しかったのだが、銅座から出てタクシー乗り場に来たところで、「向かいから乗りましょう」と言われて、横断歩道を渡ってから逆方向の車を拾った。運転手さんには、Uターンせずに回ってやってくださいと断わりを入れていた。
 理由としては、ここで待っているタクシーというのは、2時間くらいは客待ちをしている車であるという。僕らは駅前までなので、いい客とはいえない。S田さんらしい気遣いということで彼には感心するわけだが、しかし普通はそんなことを知らない人がほとんどだろう。また、女の人など、特に夜間なら近い距離でも車に乗りたい人は多いのではないだろうか。
 タクシーに乗って料金を払うのは、そのメーター通りで何の問題のあるわけではない。実際それがルールなのだから。しかしながら近い距離で、面倒だから乗るという場合には、やはりなんとなく遠慮のあるのは確かである。ワンメーターだけど1,000円置いていく、というのは割合多くの人がやっていることかもしれない。でも、なんとなくそういう行為が、ちょっと鼻につく場合もありそうで、なかなか難しい。
 僕は以前は煙草を吸ってたので、お釣りの小銭が多くなりそうなときは、煙草代の200円だけおつりをくれ(その程度あれば自販機で買えるくらいになるという意味)、などと言っていたこともあるようである。4・5百円おつりをもらうのは多すぎるし、ちょうどいいくらいというか、まあ、しゃれのような感じもある。
 今は特になんか理由が思い当たらなくて、そのまま小銭を受け取るのだが、なんかいい手が無いものかと思うことはある。行き先が1000円を越えるようだと、あんまり気を遣わなくて済むような感じもあってホッとする。800円を越えるまでくらいが悩みどころで、その前だとキザっぽい感じがするのかもしれない。
 でもまあ遠まわりをするのは、時には不思議でもあるし、不気味がられもする可能性もある。ちょうどいい距離で拾えるというのが理想的だが、その距離まで歩くというのは、もはや合理的ではあるまい。
 チップの文化の無い国に住んでいると、このやり取りの間合い加減に苦労している人も多いのではなかろうか。
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あなたは誰に投票しますか? を言えますか?

2012-12-06 | culture

 選挙期間なんだから選挙の話題というのは当然多くなるのだが、自分の支持政党であるとか支持している人物の話になると、なんというか声が小さくなったり、随分個別の話になったりする傾向があるような気がする。また逆にその様にはっきり言う人が出てくると、かえってその場の空気と言うようなものが緊迫するということがある。その人のオーラが強くなり過ぎるというか、風が乱れる感じ。
 政党によってはその人が活動家で分かりやすい場合があって、そういう場合は皆で適当に同調してその場をやりくりする。分かりやすいので励ましの言葉なども自然に出る。これは本当に応援しているという意思表示で無いことは明らかだ。
 そういう人がトイレなどで席を立つと、とたんに皆で目くばせする。今日は政治の話は止めようということのようだ。または席を替えてそちらでやろうということかもしれない。
 考えてみると、自分が誰に投票するつもりだということを具体的に言う人の方が、圧倒的に少数派であるようだ。もしくは自分のしがらみを表明した上で、今回は自分はこうなっておりますという解説は聞かされることはあっても、自分の心情としてこの人の支持であるということを言う人は本当に少ない。もちろん居ない訳ではないが、それは既に書いたとおりだ。
 政治の話と野球の話は、飲んだ時はタブーだということもいわれる。いわゆる喧嘩防止である。何故喧嘩になるのかというと、贔屓以外の人や球団を腐す人が出てくると、とたんに面白くなくなるからだろう。褒める分にはいいが、非難されるのは許せないということだろう。まあ、これは当たり前だ。
 しかしながら選挙で投票するにおいては、何も支持していないけれど投票はしようと考えている人にとって、参考にしたい情報はそれなりにあるはずである。知っている人がどうであるのか、どういう考えを持っているのかは、それなりに知りたいところなのではあるまいか。そうではあっても全体的な解説ばかりで、いわゆる予想屋ばかりの話で終始するということが多くて、本当に腹の探り合いというのが一般的という感じがする。それで良いと言えばそうだけれど、やはり結局誰が誰に投票したのかは、つまるところよく分からない。
 ほとんどの人は、誰が誰に入れたのか知らない関係を望んでいるのかもしれない。僕は時として、つれあいが誰に入れたのかさえ知らないかもしれない。家族であってもそうであるし、ましてや普段からよく飲むような間柄の人々であっても、実際に誰に投票したのかはミステリーだ。いや、知らないのは僕だけなのですか? まさかね。
 まあ、僕らも年を取ったので、投票に行かないという人は、都市住民以外は聞かない。みんな投票に行くが、みんなの行動はテレビで無いと知ることができない。まさかその楽しみのためだけに投票している訳ではないだろうが、考えてみると面白い国だと改めて思ったのであった。
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日本人世界と対極にあるもの   黒いいたずら

2012-12-05 | 読書

黒いいたずら/イーヴリン・ウォー著(白水社)

 これは僕の個人的な問題かもしれないが、ちょっとこれと似たような小説というのを知らない。何かの興味で買った本には違いないが、それも思いつかない。小説らしいということで放置してあったわけだが、読みだして妙な感じの文字の羅列に、何となく戸惑いながら付き合っていった感じだ。しかしながら読み止めなかったのは、確かに面白かったからであって、独特のユーモアのセンスには感心できないものもあるのだけれど、やはりしてやられっぱなしということなのであろう。舞台はアフリカのものなのだけど、よく知らないまでも極めて英国風の、それも気どっているが鼻もちならないわけでもない、不思議な皮肉だらけの物語なのだった。
 国が混乱している状況で、内乱が起こったりして、どちらに転ぶか分からない緊迫感があって、そうしてたくさんの人々がその犠牲になり、あるいは残酷な状況におかれることになったりするのだけれど、それを冷やかし半分に笑うということでは無くて、でも思わず笑わずにいられないということになってしまう。誰かに感情移入してしまうと簡単に裏切られるので注意も必要で、しかしそんなに愛すべき人間というのも、実は登場する訳ではない。皆悪人というか、それぞれ困った癖のようなものを持っており、愛や友情が無いわけでは無かろうが、それが素直に表現されることはない。結果的に誰も幸福そうではないのだけれど、しかしある意味でしたたかに、または運がよく、その狂乱の中で活躍していくのである。
 このような小説は、確かに日本では大変に生まれにくいものだということも確実で、話の語られ方が日本語に向かないということではないだろうが、日本人が理解できる範囲を最初からかなり逸脱しすぎており、実は僕もその様に置いてけぼりにあいながら、かろうじてついて行ったクチなのかもしれない。段々と真実めいたことはどうでもよくなっていくというか、少し投げやりになりそうになるのだけれど、この混沌が妙に心地よい世界にもなっていくのが不思議と言えば不思議だ。
 もう少し真面目に商売をすべきだとか、信用できる約束をした方がいいだとか、苦言を言っても始まらない世界が世の中にはあるらしくて、その中で生きていくたくましさというのは、このように黒っぽいユーモアの中にあるということなのだろう。日本人の生き方の対極にある、このまったく渇いて湿っぽさのかけらもない世界を旅するには、それなりの柔軟さが必要かもしれない。もっとも読みだせば自然とそういう力は身についてくるものだろうから、心配などはする必要は無いのであろう。
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残念だが、たいした争いで無いことの利点の方が大きい

2012-12-04 | 時事

 衆議院選が始まるということで、巷間では盛り上がっているようにも見えて、しかし多くの人の戸惑いの声も聞かれるという図式が出来ている感じもする。政党が乱立している事を指して言っていると思うが、現実的にはどうなのだろうか。
 実際に悩んでしまうというが、自分の選挙区のことを考えると、特に選択肢が多い訳ではなさそうだ。そのうちの誰が良くて誰が悪いというのは確かに悩みどころだけれど、候補者の顔を見る限り、知らない人たちじゃないし、既にどうするか決まっている人の方が多数なのではあるまいか。
 そうすると、やはり考えどころというのは、比例ということになるのだろうか。しかし中身を見てみると、そんなに複雑なものなのだろうか。第三極勢力というけれど、もともとの第三極と言えるところは、実際には多い訳ではない。いろいろくっついたりしているので、中身が分からないという意見はあるだろうけど、もとのところがそういう感じで、なおかつ投票後も独立しているだろうところ、という考え方をすると、それが第三極と考えていいのではないか(共産党は永遠の第三極になっちゃうけど)。いや、そこのところも含めて分からんじゃないかというが、政策的に融和性が無いのなら、それはおのずと明確そうではないか。
 先の衆議院選で圧倒的な多数派だった民主党という政党が、分断してたくさんの政党ができた。しかしながらそういう民主党であっても、もとは自民党が分断してくっついていたということも言えて、やはりその塊自体が複雑怪奇だったということは言えるだろう。いわば塊として大きければそれでよかった訳で、日本も二大政党制を育てるのだ、という話は今となっては誰もしなくなった。つまり今回はこの塊の再編であるということである訳で、事実上民主党も自民党も、かなり融和性のある政策ということになっているようだ。
 そのうち融和性の出せないところが、やはり飛び出して行ったということに、大雑把だがなっているようにも見える。
 公明党は連立を組んでいた関係で、自民党とは選挙協力も含め選挙後もくっつき可能ということは見えている。たとえ自民党が単独過半数になったとしても、融和性の面では、さらに連立を保つのではあるまいか。
予想では大勝ちし過ぎるというものもあるが、そうなると今度は分裂の危機が近い将来においては出てくるだけかもしれない。どのみち大きな塊になろうとも、たいしたことはできないほどの意見の相違の塊であることに何ら変わりがないからだ。既得権益の集団の利益を守れるほど、現実はおおらかな時代なのではない。
 結局不具合があっても、できない理由を内包しながら協力した方がいいという考えかたもできるのではあるまいか。大きな流れというものには大差がないという確認だけをしておいて、現実的な路線を積み上げられる事を重視すべきなのではないか。選挙の争点になっていない部分を語ることができるような仕組みを考えていく事が重要で、だから現在の争点になっているような事は、特段参考にもなりはしない。何故なら喫緊の課題として重要で無いことばかりが、アジェンダにあがっているとしか思えないからだ。
 繰り返すが、党としては支持団体の配慮があって口にできない政策を掲げている者同士が協力する方が、現実的な様相を呈しているように思える。投票する人はそれなりに分散した方が、現実的な選択をしやすくなっているのではなかろうか。理屈としては勝った者しか政策を実現できないが、負けたものの意見を通しやすい体制は、どこかの特定の大きな塊を作れない事につきそうだ。世論が偏らない程度に投票行動がばらつくことが、結局は連立を組みやすい現実的なものになるのではないだろうか。
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「いいね!」の困難

2012-12-03 | net & 社会

 すっかりFacebook生活になっているんだけど、慣れてきたとはいえ、やはりいまだに戸惑うことがあるのも確かだ。拾いだせば細かいところはいろいろあるけど、その最大のものというのが他ならぬ「いいね!」ボタンなんである。Facebookの最大の特徴とも言えるし、利点であるとも言えるこの機能なんだけど、そういうことをいろいろ論じるつもりはさらさら無くて、単に、「いいね!」ボタンを素直に押せない文章がたくさんあるということなのだ。
 まずこの「いいね!」ボタンは、さまざまあがってくる近況について軽い共感を表明するという感じでいいと思うのだが、そう考えると、共感しにくければ「いいね!」を押さなければいいだけの問題ということで、話は済んでしまう。共感を呼ぶような話題を提供する側の責任ということで、近況を書く人が書く内容(アップする内容)を考えるべきというのが前提にはあるのだろう。はっきり共感しにくいものを挙げる人は、だから友達の数に比例することなく、「いいね!」ボタンのカウントは当然少なくなる。いつかはそのことに気付いてくれて、書いている内容の方向性を変えて欲しいものだというような人がいて、ちょっと残念、というのがまずは背景にあるように思う。
 さらに近況を読んでしまった身としては、読んだよ(見たよ)、というあいさつ代わりにポチッと押したくなるのが心情なんである。しかしながらその内容が挨拶をかわすのに向かない、という場合がある。ひとことコメントを添えるべき方が適当だという感じもある。しかし、その内容にそこまで深入りもしたくない。迷った上に、やはりスルーしておくか。ということになる場合がある。
 具体的に言うと、ちょっと不幸な状況というか。例えば「熱があってつらい」という書き込みだと、「いいね!」はちょっとどうか、と思う訳だ。「お大事に」とコメントすべきなんだろうけど、だからと言って会話の発展を期待している訳ではない。別に書き方講座では無いけど、「熱あったけど薬飲んだ」という展開だと、少しは「いいね!」が押しやすくなる。さらに「薬飲んで、仕事もフィニッシュだ(または、もう寝よう)」という展開なら、さらに素直にポチッと行ける感じがする。要するに当たり前だが、「いいぞ」という応援に近いニュアンスになるようだ。あくまで「いいね!」ニュアンスに合致しないと、この間合いが上手くいかないのである。
 また、政治的な発言やら賛否の分かれる議論も「いいね!」が押しづらい。特定の宗教だとか思想というのはご本人の信念だろうから強く主張したい気持ちも分からないではないが、それに賛同することが自分の信念の主張につながるほどではない場合とか、または単にそんなに強く賛同していないという程度も抵抗を感じるようだ。思想系の威勢のいいものとか、発言自体の言葉遣いが汚いものもNGだろう。これはしかし「いいね問題」以前の問題という気もするが、知り合いで特に友達解除の必要まで無いような場合、この意見が目障りでも無視している感情を伝えられないのが残念でもある。
 という訳で「いいね!」ひとつもなかなか難しいものである。しかしながら単にブログなどの無言の来訪者よりは、明らかに嬉しいのも確かだ。一種のご褒美効果があるらしい。ということで、少しでも有効に押したいという感情が生まれるのかもしれない。意見までするものではないが意思が伝わるという意味では、やはりなかなかの機能なのであろう。
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ちょうどのタイミングといえばそんな感じだ

2012-12-02 | 雑記

 休みのたびに具合が悪くなっているわけではないが、休みの日に具合が悪くなる確率は割合高いような気がする。体調に精神論を持ってこられるとめんどくさいことはあるけれど、少し気が抜けるというかホッとするということも、少なからず関係するのだろうか。もしくはもともと厳しかったものが、やっと休みで自由になるというだけのことかもしれない。
 家でじっとしていると杏月ちゃんが落ち着かない。仕方ないから散歩くらいの義務は果たさねばならない。そういうわけで散歩して少し汗をかいた後にやっと、それなりにじっとしていた。具合が悪いので動きたくないから、とりあえず本を手に取ってみる。しかし本を読むにも活字を上手く追えない。また、頭に何か残らないという感じかも。
 少し寝ようと思って布団にくるまってみたが、そうして少し実際に記憶をなくていたようだが、上手く寝られないというか、寝ていても落ち着かない感じに具合が悪い。体の向きをいろいろ変えてみるが、どれがベストかよく分からない。普段は仰向けに寝ているようだが、なぜかうつぶせのまましばらく動かないでおく。しかしそうしていると楽なようでいて、やはりある程度に時間が経過すると、ちょっと落ち着かなくなる感じがする。養老さんはうつぶせに寝るらしいのだけど、これは習慣の問題なんだろう。
 うつぶせに寝る人は枕が特に必要ないという話を聞いたことがあるけれど、それって本当の話なんだろうか? そうすると寝付きに枕問題というのが根本から解決できるわけで、ちょっと得かもしれないな。
 やはり夢は見ていて、芝生の緑が妙にきれいだった。しかしながら季節は今頃だったみたいで、夢ってやっぱりいい加減なんだな、と思いながら見ていた。なぜか通っていた小学校の中庭から校舎をぐるっと回って校庭に出る道を歩いてみたりして、そうしてグラウンドにあったサッカーボールを蹴ると、見事にゴールに入ったのだった。ああこれは昨夜見たスポーツニュースの影響かもしれない、と考えていたら眼が覚めた。ちょっとだけ具合は良くなっていると信じて行動を起こすことにしよう。
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