忘年会シーズンに限らずだが、飲み会で人が集まりだすと「ヤアヤア」と最初は挨拶を交わす。田舎というのは集まる時間にルーズなので、始まりがはっきりしない。集合時間というか開催時間というか、アナウンスのあった時間帯に近づくと自分の席らしいところに何となくおさまるのだけど、そういうときちょっとばかり沈黙のような静かになるような時がある。いよいよ開催だという時を待って黙ってしまう訳だが、今は圧倒的に皆、携帯というかスマホをいじっていてうつむいているような事が多くなった。いよいよ開催ということを発信しているのかもしれないし、始まる前に思い出した用件をメールしているのかもしれない。
そうして宴会が始まると挨拶中に何かもぞもぞしている人はさすがに少し減る。ところが乾杯になると、とたんに席を立つ人が数人出る。メールを諦めて電話にする人が多いと推察するが、本当にトイレの人もいるのかもしれない。
いくつか塊が出来て話がはずむというのはあるが、この塊から少し外れる人が出てくる。熱心に何かパクついている場合も無いではないが、そうなると途端に手元をまたいじりだす人が出てくる。時間を持て余すのがつらいというのもあるかもしれないが、やはり何か寂しいというのがあるのかもしれない。
いつもつながっている安心感というのもあるが、同時にこの不安定な気分というのは手元の動きで感じられるようになっている。その行為が不快であるとか咎めると言うことでは無くて、空き時間の一人で過ごす時間や空間を埋めなくてはならないような、そういう焦燥感を覚えるということだ。事実手持無沙汰という時は、歩いていても携帯の画面をつい見てしまう自分がいる。
実は僕自身は何となくそれを制限するようになっていて、当然返答がタイムリーでなくなっているのだが、思い切ってそうなってしまうと、かえって不安は安らいでいるようにも感じる。
しかしながら時にふと周りも見回すと、僕一人が独り言のように話をしていて、まわりがいつの間にかうつむいてしまっている時がある。いちばん近くの人が気付いて顔を上げながら手元を動かす曲芸をしている。その様な器用さが、近年の嗜みのようなものになっているのだろうか。
単に自分自身の不器用さの告白なのかもしれない。出来ないからやらないだけであるからだ。しかし年配ばかりの飲み会になると、かえってホッとしている自分がいる。もう手元は見ない人ばかりだぞ。
いや、今度は終電の時間を確認しなくては。迎えの確認のメールもしなきゃな。
単純に忙しいだけの話なのかもしれない。