カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

橋の上では杖をつかない

2012-12-22 | culture

 いつかやってみたいな、とひそかに思っているのは、お遍路さん。
 理由は万歩計のカウントをたくさん稼げるだろうから。まとまって歩く毎日というのを堂々とやってみたい。でもまあ、ひと月以上歩くというから、よっぽど物好きで無いと無理かもしれない(失礼!)。
 ところでお遍路のとき多くの人は、長い距離を歩くということと、弘法大師と共に歩くという意味もあって杖をついている訳だが、「橋の上では杖をついてはならない」というルールがあるのだという。理由としては、弘法大使が橋の下で休んだことがあるという逸話から、橋の下で休まれているかもしれない弘法様の邪魔をしてはならない、ということなのだという。
 このようなルールは面白いなとは思うものの、これを日本人独自の気遣いの話にしてしまうといささか面白くない気になる。宗教的な修行として出て来た発想だろうから、本来的な意味での気遣いとは少し違うのではあるまいか。
 それというのも、やはりこれはルールを厳格化するための権威主義を用いているのがまず気になる。その様な配慮を忘れないことは大切だとは思うが、あんがい昔は実際的な問題もあったかもしれないではないか。
 それというのもやはりお遍路は長い距離を歩く。場合によっては橋の下に寝泊まりするとか、ちょっと日差しを避けて休むという実際的な人もいたのではあるまいか。さらに昔の橋と言えばやはり木造のものが多かったかもしれず、それなりに音がしてうるさい。休んでられないから、杖をついて歩いた人が怒られるということがあったのではないか。同じお遍路をしている人の気苦労は知れているから、それは静かにした方が良かろうと考える人があってもおかしくない。
 または、やはり橋の下で休んでいるのは、お遍路の人だけとも限らなかった可能性も無いだろうか。今は適当な言葉が無いからめんどくさいけど、そこに住んでいる人が居た可能性もあろう。彼らにしてみると、お遍路は迷惑だ。うるさくてゆっくり休めもしない。または逆恨みして反撃してくる危険があったのではないか。
 そうすると事情が少し違って、お遍路をやっている人の身を守るという実際的な話にもなるのではないか。
 さすがに現代になるとその様な人はめったに居るまいから、実際的なお話では無くなってしまったが、代わりに気遣うという修行としてはもっともらしい事になったのではないだろうか。感心する人もあるだろうし、僕みたいに単純に面白いと思ってこのように想像をめぐらす人もあるだろう。
 基本的には面白い話で、気遣いの話では面白くない感じがする。そこのあたりはいろいろあるだろうけど、変な話というのは訳が分からない方がもっといいと思ったりする。特に合理的で無い方が、現代人にはウケないまでも、修行には良いのではなかろうか。
 今のところ予定は無いが、橋の上では杖をつかないというのは、あんがい歩いている時に独特のアクセントになるのかもしれないな、とは思う。修行の思いを忘れない配慮ということであれば、やはりなかなかのアイディアなのかもしれないのだった。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする