風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

体を意識

2009-02-28 | 風屋日記
宮沢賢治さんの「雨ニモマケズ」は
賢治さんが「サウイフモノ」になりたかったのであり、
決して「サウイフモノ」だったわけではない。
私自身についてもそういうことがある。
「こんなことしたい」「こうなりたい」というのは
今そうじゃないから「want to do」「want to be」なのだ。
常に意識できるほど意志が強い人間じゃないので
忘れることもある・・・どころではなく(^^;
時々意識する程度だけど。

姿勢を良くしたい。
胸を張るとか、背筋を伸ばすとか、状態を意識しようとすると
逆にしゃちほこばって肩が凝ってくる。
私が意識しているのは肩を開くことと顎を引くこと。
腕を降ろす時に体側の背中側に腕をもってくる。
左右の肩甲骨をくっつける感覚。
そうすると肩が開き、結果的に背筋が伸びる。
この姿勢をキープすると肩凝り、背中凝りが楽になってくるし、
長距離を歩くのが不思議と苦にならない。
顎を引けば自然にその姿勢のキープに役立つばかりではなく、
目を開くことに繋がり、しゃきっとした表情になれる。
顎を引くといっても無理にではなく自然にで良い。
二重あごにならない程度に(笑)

歩く時には両足の親指で地面を蹴る意識を持とうと思う。
歳のせい(?)で足の筋力が弱ってきていて
無意識だとつい足の裏の外側に重心がかかりがちとなる。
そうするとふくらはぎや膝の裏が凝ってくるし、
何より歩く時にがに股になってしまう。
足の親指で地面を蹴ろうと意識することによって
膝の内側~内股~股関節の動きに自然に意識が集まり、
すんなり足が前に出てくる。
腰が前に出てくるから、これまた歩くのが苦にならない。
おまけに、恐らく内股~臀部の筋肉が締まるせいか、
下半身から上半身に伝わる形で姿勢が良くなる。
そういう姿勢をキープして歩くのはとても気持ちがいい。

何度も言うが、普段意識することをつい忘れがちで
そんな風にできていないからこそ「意識したい」のだ。
(ワタシに会ったことがある方々・・・
 「見た目と書いてることちがうじゃん」と思わないように ^^;)
でもね、週末の総合体育館でのトレーニングを始めて1ヶ月半。
筋肉が目覚めてきたせいか、
自然にそういう姿勢を保てるようになってきつつあるかな。
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チャーシューたまご飯

2009-02-27 | 風屋日記
ラッキー本店にて。
これがランチメニューのひとつ。
すげぇ(^_^;
目玉焼きが2つって、
これから何するの?って感じだよね(笑)
ちなみにこれを完食したのは女性。
これでゴハンは少なめだそうだ(*_*)
ホントは、運ばれてきた時の
彼女の顔を撮りたかった(笑)
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受験の思い出

2009-02-26 | 風屋日記
昨日と今日は国立の二次前期試験。
うちの会社でもお子さんが受験という人間が朝からソワソワ。
3年前や昨年の自分を見ているようだった(笑)
受験は自分自身にとっても強烈な体験であり
今でも忘れられない思い出がたくさんある。
とても濃い時間を過ごした数ヶ月間だったのは間違いない。

その年から始まった共通一次試験はマークシートって方式が珍しく、
勉強よりも○の中を塗りつぶす練習にみんなで血道を上げた(笑)
まぁワタシ以外は勉強もちゃんとしてたんだろうけど。
ということで、今長男が在席している当時の私の第一志望は諦め、
先生の薦めで私立受験を2校増やし、国立の二次試験の方は
「こーなったらお前(めー)の得意な国語で勝負かれるしかねーべ」
という薦めに従って前年まで二期校だった隣県の国立。
大学というより東京に行きたかった私のモチベーションは
当然のことながら下がりまくりで浪人の意志が更に固くなった(^^;

さて、今のオリンピック青少年センターにあった受験生村に
同級生Sと2人と泊まっての私立受験となった。
ある日試験日でもないのに姿が見えなかったSを夕方見つけ、
浅草にストリップ見に行ってきたと聞いた私はひっくり返った(^^;
いかに受験の緊張感など全くないプチ旅行でもさすがにねぇ。
もちろん受けた私立は、Sもだけど、自分の志望先は全滅。
先生の薦めであとから追加した2校については発表も見に行かず
合否を確認しないまま国立二次を受験しに隣県の町へ旅立った。

当時の受験は親がついてくるなんてことは100%あり得ず
しかも受験生の宿は旅館の相部屋だったりしていた。
私の部屋は一緒に行った同級生3人と仙台○高のヤツがひとりの4人。
そこは受験生同士なのですぐに仲良くなる。
下見を済ませた試験前夜、当然のことのように酒盛りが始まる(笑)
私と一緒に行ったのは東京でも一緒だった例のS(笑)と
経済的事情によりそこ1校だけ親に受験を許してもらったという
たいへん真面目な性格の陸上部のO。
酒盛りをはじめたのは私とSと仙台のヤツだったのだが、
Oは緊張のあまり真っ青な顔をし、8時には布団に入ってしまった。
迷惑はかけてない。我々はOに気を使いささやかに飲んでただけ(笑)
10時頃、突然Oがガバッと起き上がり「大変だっ!眠れない!!」と。
優しい我々は「よし飲め。そうすれば大丈夫、寝られるさ」と
彼を万全の体調で試験に向かえるよう「気を使」い、
宴は日付が変わるまで続いたのだった。

翌朝、私とSと仙台人の試験は午後から。
時間の余裕を見て、9時半には3人ともすっきりと目を覚ました。
ふと横を見ると、9時からの試験だった筈のOが寝ている。
「おい、9時過ぎてんぞ」・・・あとのことはご想像にお任せする。
とにかく我々3人はガックリと肩を落とすOに慰めの言葉をかけ
我々自身の試験を受けに出かけたのだった(笑)
その晩、優しい我々は落ち込んだ彼を慰めようと
夜の町へと繰り出したのだが、
その時に起きた「スッポン事件」については
あまりにオソロシくてとてもここには書けない(笑)
いずれにせよ、更にズタズタになったOは足取りも重く帰っていった。

その後の彼ら・・・
仙台人はそれっきり連絡を取ることもなかった。
Sは1浪後私立に入り、大学院にまで進んで、
なんと高校教員となって、今では県○委の指導主事!!
可哀想なOは大学には進まずJRへ就職し
若くして駅長なども務めた後、今では偉いさんになっているらしい。
めでたし、めでたし(笑)
私は発表を見に行かなかった私立2校に合格し、
ともかく現役で大学に入れたのだが、その後の人生はご存知の通り(^^;

ところで数年前、当時教室でOの隣だったヤツにこの思い出を語ったら
「ヤツの成績ならよく知ってる。試験を受けても同じ結果だべ」と
淡々と語ってくれた(^^;
Oの人生を変えたのが我々でなくて本当によかった(笑)
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発表!!

2009-02-25 | 風屋日記
先日の記事のプレゼントについて
厳正なる抽選の結果・・・


















♪ひばりさんが当選と決まりました!!
おめでとうございます!!
送付までもうしばらく、楽しみにお待ち下さいませ。

tamaki先生すみません(^^;
また何かしらこの埋め合わせを考えますね。
そのうちまたラッキーででもご一緒させて下さい。
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Favorite Styles

2009-02-24 | 風屋日記
歌いたい・・・と時々口にすると
知人達から「ギター持ってひとりでもできるじゃん」
と言われることがよくあるけど、違うんだよなー。
2年前までやっていたバンドで経験した
演奏アンサンブルやコーラスの楽しさを知ると
自己満足のピン演奏なんてつまらない。
そんなことするぐらいなら合唱の方がまだ楽しい。
ただし、学ランに腰手拭、裸足で出られた高校時代と違い、
いま合唱をしようとするとボウタイにタキシードやジャケット。
それが嫌で大人になってから合唱の世界には足を踏み入れていない。

前振りが長くなったけど(笑)
実は私はネクタイやスーツなどの堅苦しい格好が苦手。
普段はそれでも仕事と割り切って1日12時間はそんなスタイルだが、
だからこそそれ以外の時間はそんな服装は勘弁願いたい。
冬場はラグジャーがお気に入り。
寒いときは襟を立て、暑ければ襟元を空ければいい。
タートルネックのTシャツにフラノやビエラのシャツも着るが、
一番多いスタイルが半袖Tシャツにフリース1枚。
上にダウンジャケットを羽織れば寒くない。
下はジーンズやコーデュロイパンツにスニーカー。
防寒のためでもあるけど、割に帽子も好きなんだ。

私が最も好きな服装は夏のいでたち。
Tシャツやポロシャツにショートパンツ履いてビーチサンダル。
これが一番自分らしいし、年中着ていたいほどピッタリくる。
それで東京に遊びに行ったこともあるくらい。
財布や携帯などはポシェットみたいのに入れて肩にかければOK。
服装だけでなく、できれば気軽な手ぶらがいい。
キャップをハンチングに変えればよそ行きに見えたりする(笑)

実は家の中では1年中Tシャツとトランクスで過ごしている。
要はだらしないんだけど(^^;
でも若い頃オシャレな柄の男性用トランクスを
ショートパンツ代わりに履いて町を闊歩していたらしい
基本的にボーイッシュで気取らない母ちゃんは何も言わない(笑)
さすがにだらしなく見えるときはショートパンツぐらい穿くし、
ちと冷える時にはフリースとスエットパンツぐらい身につけるけど、
でも基本的にできるだけ衣服を身に着けたくはないというのがホンネ。
東南アジア好きも、もしかしたらこの辺から来ているのかも。

さて歌だが、堅苦しい格好することなく、
ポロシャツや穴開きジーンズで歌えるコーラスはないものか。
理想はかつて見た映画ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブに出ていた
よれたシャツ姿ながらオシャレなジジイ達のような
陽気なセッション姿なんだけど。
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ウィキッド

2009-02-23 | 風屋日記
人と違う肌の色で生まれたエルファバが受けた差別。
善人である自分を演出するために
彼女と仲良くしようとする最初の頃のグリンダの姿。
まるで人種差別の国アメリカの縮図だ。
差別されても、笑われても、
健気に自分の考えを通そうとするエルファバには
さすがにファンタジーの香りを残すが、
それでもこのモチーフをミュージカルにできる
アメリカという国はやはり自由の国だ。

ところで、
自分の正しいと信ずる道を歩もうとしたために
オズの国の魔法使いに悪魔女ウィキッドと名付けられ、
人々から嫌われ、恐れられたエルファバだが、
本当のウィキッド(悪い奴)は誰なのか。
この物語には真の悪人は出てこない。
オズの魔法使いは姑息で臆病ってだけだし、
オズの国の広報官であるエルファバ、グリンダの元恩師は
単に思慮が足りない魔法使いの盲信者だ。
本当の意味でのウィキッド、
本当に怖いのは・・・

自分で考えることをせず、
ただ周囲の言葉に振り回され、流されながら
だんだん語気を強めていく名もない民衆達が怖い。
「自民党をぶっ壊す」という威勢のいい言葉に騙され
郵政民営化をはじめとする規制緩和の功罪を考えることなく
一斉に自民党を押し上げるマジョリティ。
軍縮会議で日本が不利な条件を飲まされたと思い込み、
国際連盟脱退を喝采をもって支持した当時の日本国民。
ゲルマン民族の優秀性を持ち上げられ純血主義に酔わされて
何の疑いもなくユダヤ人達を殺戮したかつてのドイツ人達。
妄信的なタリバン戦士達、カルト信者達etc・・・

自分たちの都合でネイティブアメリカンを駆逐するため
暴力を振るった西武の男達よろしく
「テロとの戦い」を声高に叫んだ人間を大統領に選んだ
アメリカ国民達はこのミュージカルをどう見たのだろう。
そう思いながら見れば
「ウィキッド」はアメリカの歴史・・・
いや、人間の歴史そのものではないか。
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晩メシ

2009-02-22 | 風屋日記
昭和の香り漂う軽食喫茶で。
懐かしい味のオムライス(^-^)

谷中銀座は玉手箱みたい。
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看板

2009-02-22 | 風屋日記
懐かしいねぇ。
いいねぇ。
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谷中銀座

2009-02-22 | 風屋日記
手作りおかきなど並ぶ店頭で
お袋へのお土産を選ぶ母ちゃん(一番手前)
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夕焼けだんだん

2009-02-22 | 風屋日記
階段の上から夕焼けを望む。
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カレッタ汐留・四季劇場

2009-02-21 | 風屋日記
とりあえず来れてよかった(^-^)
今夜は最終で帰って、明日出社だけど(^_^;
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壁と卵

2009-02-20 | 風屋日記
 「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、
 「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、
  私は卵の側に立つ」
 「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、
  また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」
エルサレム賞を受賞した作家村上春樹さんの受賞スピーチの一部だ。
村上さんが同賞を受賞し、スピーチしたことについて
酔流亭さんはじめ様々な意見があることについて承知している。
曰く「イスラエルによるガザ攻撃に抗議するため辞退すべきだった」
「受賞してからイスラエルを戒めるスピーチというのはいかがか」
「自分だけ表彰を受け、何を言っても他人事じゃないか」
「『壁が正しく、卵が悪くても』とは何事だ」云々・・・

私の意見を言おう。
熟慮した結果だと言う村上さんの行動は正しかったと思う。
ガザ攻撃について考える論点は2つあると思うのだが
巷の意見はその2つをごっちゃにしてしまっていると思うのだ。

まず第一に暴力の問題。
これに関してはイスラエルは責められて当然。
というより国際社会全体が猛然と糾弾すべきことだと思う。
もちろんハマスのロケット弾攻撃も同じだ。
”いかなる理由があろうと” 私も暴力を許すことができない。

もうひとつは「正義はどこにあるか」という問題。
わかりにくければ「どっちの主張が正しいのか」ということだ。
これは誰にも答えることはできない。
かつてのヨーロッパ各国の植民地政策もそうだが、
それより昔、それこそ有史前からの様々な感情が行き交い、
それぞれの信仰が絡み合って今の中東を形作っている。
そんな中で遠く離れた机上で「どっちの言い分が正しいか」なんて
討論し合うのはナンセンスだ。

村上さんの行動は後者の考え方を基本とし、
まずはイスラエルにわたったのだと私は思う。
この賞がパレスチナの賞だったとしても行っただろう。
スピーチにあった「○○が正しく、○○が悪くても」というのは
どっちに壁が入っても、卵が入っても同じ意味だ。
(ってか、もし悪いのが卵だったらその後の言葉が続かないけどね。
 そうなるとまるで日本語じゃない ^^;)
彼が言いたかったのはその文章の前段ではなくて
「卵の側に立つ」という講談であることはどう読んでも明らかだ。
彼は暴力のみを糾弾しているし、
それはとてもニュートラルで正しい姿勢だと思う。
そしてその主張は
イスラエルから遠く離れた地からのメッセージではなく
彼の地の国民の中に入ってのメッセージでなくてはならない。
敢えてイスラエルの人々の囲まれながら村上さんは主張したのだ。

願わくは彼の国のジャーナリズムが
「ムラカミ特有の何だかわからない表現」などと言わず
メッセージの本質を国内に伝えて欲しいと思う。
「壁」はイスラエルとパレスチナの間にだけ存在するものじゃない。
かつては彼の国の人々も「壁」に囲まれていた筈だ。


※ところで、ちょいと仕事で突発的なことがありドタバタしてます。
 明日の東京行きもキャンセルになる可能性も多分にあります(^^;
 (四季のチケットはキャンセルできない方法で買ったので
  母ちゃん一人で行くことにして、1枚ムダにするかも T_T)
 もちろん日曜も引き続きなので、
 久しぶりに風屋日記を数日お休みすることになるかも知れません。
 悪しからず、ご了承下さい。
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カフェ・パウリスタ

2009-02-19 | 風屋日記
創業1910年。
ブラジル移民のコーヒー豆を本国で売るべく
遠く明治の時代から続いている珈琲店。
祖国におけるのコーヒーの普及が
会社設立、開店の主目的だったとのこと。
洒落た文化を日本に持ち込んだことでも知られ、
大正中頃には自動演奏のピアノもあったとか。
当時のキャッチフレーズは
「鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱き」
長い歴史の間には
名だたる文学者、演劇人、画家など
たくさんの文化人たちが常連だったらしい。

東京への日帰り出張、
仕事の後、この店で一服。
銀座にて。
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プレゼント

2009-02-18 | 風屋日記
風屋日記初のプレゼントコーナー(笑)
60年代・70年代を代表する美術家横○忠則さんの
イラストレーションをモチーフとしたカレンダーを
限定1名様にプレゼント。

横尾1

横尾2

横尾3

すでに2月も後半に入っているのにカレンダーってのも
時期的にいかがなものかとは思うが、
実はこのイラストレーションが大好きで、
高校の頃は本になった作品集なども買ったりしていた私の
「こりやすげぇ」という言葉から仕事関係でいただいたもの。
しかし何しろ我が家に飾るにはデカ過ぎる(タテ・ヨコ80cmほど)
カレンダーとして最も重要な日玉も小さくて
本来の目的にはそれほど貢献しないと思う。

とはいえ、何しろサブカルチャー系の大家の作品であり、
「額に入った絵画を飾るのは恥ずかしい」という向きにも
一応カレンダーという隠れ蓑でインテリアにもなる(笑)
また印刷物としてはUV印刷など最先端の技術を駆使しているし
イラストの下絵に作家が色指定し、
印刷所指示のため使う色のカラーチップを貼ったり(1枚目の写真)、
そんなプロセスがそのまま作品になっていて面白い。
「へー、色塗ったイラストをそのまま入稿するわけじゃないのか」
と、新たな発見ができた。
そんなカレンダーだけに捨てたり、
埃だらけにして仕舞っておくには惜しく、
欲しい方にもらっていただこうと思いついたのだ。



ということで、
サブカルチャー、イラストレーション、グラフィックデザイン、
そしてもちろんこの作家が好きな方には垂涎のカレンダー。
60年代~70年代にノスタルジーを感じる方々にも
最適の作品、いかがでしょうか?
欲しい方はコメントか
あるいはメールでお知らせ下さいませ。
アドレスは風屋日記のgoo IDのあとにアットマークをつけ、
その後に「メール.グー.エヌイー.ジェーピー」です。
欲しい方が複数いらっしゃる場合は
私が割り箸でクジを作り、厳正に抽選させていただきます(^_^)
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これまでの時間 残された時間

2009-02-17 | 風屋日記
私は1960年(昭和35年)生まれ。現在満48歳だ。
記憶に残る風景や周囲の人達を覚えているのは
せいぜい1965年(昭和40年)頃からってとこだろうか。

で、ふと気になって
1965年に、今の私の年齢である48歳だった人が
何年生まれかちょっと調べてみた。
・・・1917年(大正6年)!!
大正ヒト桁生まれの人が、
私の5歳当時今の私と同じ年齢だったんだねぇ。
世界恐慌時は12~15歳でリアルに体験してるだろうし、
終戦時には28歳だから、当然その方の人生にとって
戦争は様々な形で暗い影を落としていることだろう。
1965年当時は定年が55歳のところも多かったから
48歳といえば仕事の上ではもう大ベテラン。
5歳の私から見れば大人ってのは20~30代であり、
50歳近い人は落ち着いて、一家言を持つ初老の人だろう。
ちなみにうちの親父よりも更に6歳も年上にあたる。

それでは1917年生まれの人が記憶している
だいたい1922年(大正11年)頃に48歳の人は?
・・・1874年(明治7年)生まれだな(^^;
明治維新の残滓がまだ残り、
文明開化が急流となって日本に流れ込んでる時代。
48歳に至る間に日清、日露の2つの戦争を記憶している筈。
(親父方の祖父がもしかしたらこの年代かな?)
急激な欧化、富国強兵の風潮、大正デモクラシー、
時代に翻弄されながら自分をしっかりと持ち、
自らの目と力だけを頼りに生き抜いた世代だ。
1965年頃の48歳よりも更に人生の大ベテランとして
どっしりとその存在感を周囲に示していたのだろう。

今日のエントリーで何を言いたいのかというと、
まずひとつには
いかな軽佻浮薄な現代社会に生きているといえども
48歳のワタシはあまりに惑いすぎてないか。
ヘラヘラと軽口を叩き、浮ついて生きてはいないか。
流行ものを手に入れひとり悦に入ったりして
人生の意味や理念を忘れてはいないか・・・ということ。

そしてもうひとつは
これまでを振り返った時に自分が感じるよりも、
はるかに長い時間を生きてきたのだなということ。
物心ついてから20歳までをとても長く感じていたが、
いつの間にか20歳以降の方が長くなってしまった。
実家で過ごしたのは18歳まで。
それからの方がその倍近い時間を過ごしている。
結婚したのが26歳、それからすでに22年余。
まもなく独身時代と同じだけ母ちゃんと過ごしたことになる。

いつの間にか自分の人生はすでに折り返した。
1日1日をじっくりと大切に生きなくては。
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